船迫城跡遠望。 |
【所在地】 |
柴田町本船迫字館山
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【別称】 |
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【築城年】 |
平安時代か |
【築城者】 |
船迫氏か |
【城主変遷】 |
船迫氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
山林 |
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創建は古く、伝承では文治五年(1189)奥州合戦の際に源頼朝が2日間逗留、西木戸太郎藤原国衡の首級を検証した後、国府多賀城、磐井郡平泉へと下向したとされる。しかし正確な築城時期、築城者は不明であり、明応九年(1500)岩切城主留守氏15代郡宗の嫡男藤王丸の早世に伴う伊達景宗(伊達氏13代尚宗次男、14代伊達稙宗弟)の留守氏入嗣の際、これに従った柴田七騎の中に船迫氏(岩沢修理?)の名が見え、その居城であったものと考えられている。
前述の通り、戦国時代城主船迫氏は伊達氏に従属していたと見え、天文十二年(1543)に伊達稙宗より船迫大和守へ、また同十六年(1547)には伊達晴宗より同じく船迫大和守へ船迫所領の判書が遣わされている。これは天文の乱において晴宗方に与した結果であろう。また弘治二年(1556)には晴宗より船迫彦八郎へ判書が遣わされている。さらに天正四年(1576)、同十八年(1590)には船迫右衛門が伊達輝宗、政宗父子に従い相馬領へと出馬している。
なお『仙台領古城書立之覚』には、城主は船迫左衛門、城の名は不明とある。
旧奥州街道沿に所在し、南方へ突き出た丘陵突端部に築かれている。主郭部は東西40m、南北100mの規模を持ち、北及び南に空堀が見られ、周囲には数段の段築が見られるという。現在は水田となっているが、往時は城のすぐ南側が白石川の流路となっており、街道を押さえる要衝であった。
現在は開発によって変貌しており、写真の丘陵上も個人の敷地っぽかったので登りませんでした。「柴田町の文化財」に大正時代の写真が掲載されているんですが、本当に直ぐ南側が白石川の流れになっています。うーん…何とも想像出来ないので、次回訪問する機会があれば、可能ならば主郭部まで登ってみたいです。 |