大江町
トップさくらとおしろ山形県西村山郡大江町左沢城
左沢城
左沢城(小漆川城)現存大手門。
左沢城(小漆川城)現存大手門。
【所在地】 大江町左沢
【別称】 左沢陣屋、小漆川城
【築城年】 元和八年(1622)頃か
【築城者】 酒井直次
【城主変遷】 酒井氏(1代・1622-1632)…
【廃城年】 慶安四年(1651)
【現状】 市街地、神明神社
 元和八年(1622)出羽国南部の大部分を所領としていた山形藩主主最上氏が改易となると、その旧領は幾つかの藩に分割されることとなった。そこで田川郡庄内の鶴ヶ岡城には信濃国松代城より酒井忠勝が13万8千石を以て入封し、庄内藩が成立したが、同時に弟直次が左沢に1万2千石を以って入封し、左沢藩が立藩された。なお左沢藩は庄内藩支藩ではなく独立した藩として成立したとみられ、成立当初は幕府領と藩領が錯綜しており、寛永元年(1624)に整理されて73箇村に確定したという。

 直次は初め楯山城を居所と定めるも、戦国時代の山城は領国経営に不向きであったため、楯山城を廃して小漆川に新城を造営した。しかし直次は寛永七年(1630、もしくは翌年)に30代半ばという若さで嗣子のないまま死去、左沢藩は1代限りで無嗣改易となり、所領は収公された。
 そして寛永九年(1632)、庄内藩が肥後国熊本藩を改易となった加藤忠広の配流先となると、庄内藩主酒井忠勝は堪忍料として1代限りの出羽国丸岡1万石を分与、その代償として忠勝は幕府より弟直次の遺領1万2千石を与えられ、左沢は庄内藩領となった。

 その後正保四年(1647)、酒井忠勝三男忠恒が2万石を分与されて松山藩が成立すると、左沢には代官陣屋が置かれ、左沢城は慶安四年(1651)破却されたという。


 漆川(月布川)と小漆川に挟まれた段丘上に所在しており、本丸とその南西に二の丸、そしてその周囲を三の丸が取り囲む輪郭式の平山城であった。しかし現在は市街地となって遺構はほとんど消滅しており、唯一大手門と伝えられる門が藩主酒井直次の菩提寺巨海院山門として移築されている。


 訪問したのって何年前だろうか…?多分東北楽天が二軍本拠地として中山、天童の野球場を使っていた頃なので、おそらく2005年からの数年間だろうなあ。…あんまり覚えてねえ(^-^;
 ところで、一応左沢(小漆川)“城”でまとめてみましたが、正確なところは“陣屋”なんでしょうかね?1万2千石小藩ですし、酒井直次の官位も諸大夫ではありますが、支流ではあっても将軍家の功臣、徳川四天王酒井忠次の孫ですからねえ…。成立時期が江戸時代初期だし、大名家の“格式”がどれほど成立していたのかわからないですけど〜。
トップさくらとおしろ山形県西村山郡大江町荻袋城
荻袋城
荻袋城跡(志津橋より長泉寺を望む)。
荻袋城跡(志津橋より長泉寺を望む)。
【所在地】 大江町荻野
【別称】  
【築城年】 正平年間(貞和−応安年間・1346-70)
【築城者】 大江(左沢、荻袋)冬政
【城主変遷】 大江氏[左沢(荻袋)氏]…
【廃城年】  
【現状】 長泉寺
 築城年代は不明だが、南北朝時代に楯山城を築いた大江(左沢、荻袋)元時が、五百川方面よりの進入路である猿田越を抑える軍事的要衝として、次子冬政を封じて築いた出城であった。


 しかし正平二十三年(応安元・1368)、南朝方に与していた大江氏は北朝方の山形城主斯波氏らの侵攻を受け漆川合戦で惨敗を喫する。荻袋城に籠もった大江氏一族は大軍に囲まれ、城主左沢冬政のほか総大将の溝延城主溝延茂信(時信)、楯山城主左沢元時、柴橋城主柴橋直宇と子の小泉城主小泉時于ら63名が自刃した。


 現在は長泉寺境内となっており、月布川、そして当時は猿田川を水堀とした要害であったことが想像される立地です。昭和初期に境内から多量の人骨が発掘されたことで城跡であったことが確認され、昭和十一年(1936)に大江氏一族の供養塔が建立されたそうです。
 しかし遺構はほとんど消失している様で、特に目立ったものは判りませんでした。
トップさくらとおしろ山形県西村山郡大江町護真寺館
護真寺館
護真寺館跡。
護真寺館跡。
【所在地】 大江町三郷丙
【別称】 伏熊館、中山忠義館
【築城年】 鎌倉時代
【築城者】 中山忠義
【城主変遷】 大江氏[中山氏]…
【廃城年】  
【現状】 護真寺
 鎌倉幕府御家人大江親広が承久三年(1221)承久の乱に敗れた後、父大江広元の目代として寒河江荘にあった祖父多田仁綱を頼って当地へ下向した。初め富沢館へ潜伏し、後に仁綱の居館吉川館に匿われたとされるが、その際に付き従った家臣中山忠義が警護のために構築した館であるという。

 三郷は最上川右岸にあり、左岸にあった富沢館とともに置賜方面への街道を押さえ、また東方の山辺への備えとなった要地であった。なおその後中山氏は、忠義7代孫の継信が至徳元年(1384)長崎城を築いて移り住んだとされている。


 護真寺背後の山が忠義の居館跡の様で、ほてほてと阿弥陀堂を越えて東屋付近まで上り、更にその奥まで行ってみました。しかしながら当時はまだ血中色素量が少なく、酸素が欠乏してふらふら〜、休憩を挟んで退散しました。因みに阿弥陀堂に安置されている木造阿弥陀如来座像は町指定文化財との事です。
トップさくらとおしろ山形県西村山郡大江町大城
大城
大城跡石碑(首を傾げながら見る仕様)。
大城跡石碑(首を傾げながら見る仕様)。
【所在地】 大江町月布
【別称】  
【築城年】 正応五年(1292)頃か
【築城者】 大江(寒河江)高廣
【城主変遷】 大江(寒河江)氏…
【廃城年】 天正十二年(1584)か
【現状】 月布橋付近
 寒河江城主寒河江高基弟、高廣(隆廣)が築城したとされるが年代は明確でない。当城の西方に所在する御館山城(貫見楯)築城と同時期かと「山形県中世城館遺跡調査報告書」にあるが、御館山城の築城は正応五年(1292)大江懐顯との記載もある。高基は天正年間(1573-92)中頃に活躍した寒河江氏最後の当主であるため、鎌倉時代に創建された御館山城が戦国時代に修築され、それと同時に大城が構築されたものであろうか。

 天正十二年(1584)最上義光が山形城内で白鳥長久を誘殺、直後にその居城谷地城を囲むと、寒河江氏は柴橋楯主柴橋頼綱を救援に差し向けるがあえなく落城する。義光は間髪入れず寒河江城へと押し寄せるが、頼綱は白鳥氏旧臣を率いて奮戦し、最上勢を中野城まで押し戻した。そこで義光は策を講じ、偽りの退却と伏兵を用いて頼綱を討ち取り、さらに寒河江氏に体勢を整える間を与えずに城下へ押し寄せた。寒河江高基は甥の松田彦次郎を頼り貫見楯へと落ち延びるが、貫見合戦でも利あらず、3名の忠臣と共に自刃して果てた。その際に大城主である弟の高廣も共に自刃したという。


 訪問した際には写真の通り残雪がかなりあり、なんとか雪の斜面をちょっと登って城跡碑を撮影しました。前述の「調査報告書」の略測図によるとこの奥に空堀跡がある様ですが、雪だらけで行かれたもんじゃなかったです。なおこの下は雪溶け水がじゃんじゃん流れ、車は泥だらけとなっておりました〜。
トップさくらとおしろ山形県西村山郡大江町楯山城
楯山城
あて山城三の丸跡石碑及び本丸遠望。
あて山城三の丸跡石碑及び本丸遠望。
【所在地】 大江町左沢
【別称】 左沢城
【築城年】 正平年間(貞和−応安年間・1346-70)
【築城者】 大江(左沢)元時
【城主変遷】 大江(寒河江)氏[左沢氏]−最上氏−酒井氏
【廃城年】 元和八年(1622)か
【現状】 国指定史跡、楯山公園(日本一公園)
 正平十一年(延文元・1356)、足利尊氏は出羽国の南朝勢力を制圧すべく、一族斯波兼頼を羽州探題に任じて山形へと入部させた。同十四年(同四・1359)南朝方の寒河江城主大江元政、その弟柴橋楯主柴橋懐広らが兼頼との合戦に敗れ討死すると、元政の跡を継いだ時茂は一族を領内各所に配して防御を固める戦略を採った。そして嫡男茂信(時信)が溝延城、その子政広が白岩城を築城、そして三男元時が築城したのがこの楯山城であった。

 元時は左沢氏を称し、兄の溝延茂信に従い正平二十三年(応安元・1368)漆川合戦に参戦するも斯波兼頼らの軍勢に大敗を喫し、最後に立て籠もった荻袋城で一族と共に自刃して果てた。しかし時茂の四男時氏は、病を得て居城吉川楯で臥せっていたため生き残り、北朝方に和を乞い降る様命じ死去した父に従い、文中二年(応安六・1373)嫡男元時を人質として北朝へと降った。

 大江時氏はその後寒河江氏を称し、寒河江城を本格的に整備、拡張し村山郡西部一帯に勢力を拡大した。左沢氏も元時の跡を継いだ氏政以降その一翼を担いつつ、次第に国人領主として主家寒河江氏に比肩するほどに成長する。その結果主家と対立することもあった様だが、文明十一年(1479)及び翌十二年(1480)に伊達氏の侵攻を受けた際は協力して伊達勢の総大将桑折播磨守を撃退し、また永正元年(1504)最上義定が寒河江領へ侵攻した際は、幼少であった寒河江孝廣を援けて左沢満政ら一族が撃退している。同十一年(1514)伊達稙宗が最上領へと侵攻、この長谷堂合戦の際には左沢(吉川)政周が最上方の有力部将として出陣し討死にした。なお天正二年(1574)最上義守と嫡男義光との間で内紛が起こり、義守の女婿である伊達輝宗がそれを援けるべく介入すると、左沢氏も同族である溝延、白岩氏らと共に義光方に与した寒河江城を攻め落としている。このことからも、左沢氏も代を重ねるに連れ、次第に独立性の強い国人領主となった様である。

 戦国時代末期になると、最上氏の家督を相続した最上義光が内紛で敵対した勢力を徹底的に討伐し勢力を拡大する。寒河江氏に対しては、義光嫡男義康を当主寒河江兼広の女婿とする密約があったとされるが、家臣団の反発を受けて一族の吉川元綱の長子高基を婿として迎え当主とした。しかしこの行動は、最上氏のみならず左沢氏、溝延氏らの反発を招いた。
 天正十二年(1584)寒河江氏と姻戚関係にあった白鳥長久が最上義光に山形城内で誘殺され、その居城谷地城が最上勢に囲まれると、寒河江高基は一族の柴橋楯主柴橋頼綱を救援に差し向けるも敢えなく落城する。義光が間髪入れずに寒河江城へと兵を差し向けると、体勢を整える間もなかった高基は甥の松田彦次郎を頼り貫見楯へと落ち、遂に自刃して果てた。

 なお左沢氏の系譜は、大江氏の嫡流であり宗家と称された吉川氏に入嗣した吉川政周が、前述の通り永正十一年(1514)の長谷堂合戦で討死して以降不明である。しかし寒河江氏滅亡後最上氏に仕えた者もいた様で、左沢金左衛門、左沢孫左衛門といった名前が見られる。
 また最上領となった後の楯山城には城代が置かれたとされるがその名前は伝わっておらず、慶長五年(1600)に長尾右衛門が2300石で封ぜられた記録が残るが、関ヶ原合戦に伴う出羽合戦との前後は不明である。

 元和八年(1622)山形藩主最上氏が改易となると、その旧領は幾つかの藩に分割統治されることとなり、左沢には田川郡鶴ヶ岡城主となった酒井忠勝の弟酒井直次が1万2千石を以って封ぜられ左沢藩が成立した。直次は当初楯山城を居所と定めるも、戦国時代から続く山城は領国経営に不向きであったため、程なくして小漆川に左沢城(陣屋か)を造営して居所を移し、楯山城は廃城となった。


 本丸を中心に二の丸、三の丸が配置され、最上川と桧木沢川の天然の要害を利用した、東西1300m南北600mに及ぶ広大な山城です。現在三の丸が楯山公園(日本一公園…なぜ?)として整備され、大江町の市街地と最上川の流れが一望できます。訪問時は夕暮れ時で焦っていたこともあってか本丸へ至る道が判らず、夕闇が近づいたため三の丸で攻城を断念してます。それから行ってないな〜。

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「出羽諸城の研究」(伊吉書院1980)、「山形県城郭古絵図展」(最上義光歴史館1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「図説 日本の名城」(河出書房新社1994)、「山形県中世城館遺跡調査報告書第2集 村山地域」(山形県教育委員会1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「古写真大図鑑 日本の名城」(講談社+α文庫1998)、「山形県山辺町埋蔵文化財調査報告書第9集 高楯城跡発掘調査報告書」(山辺町教育委員会2000)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「新全国歴史散歩シリーズ6 山形県の歴史散歩」(山川出版社2001)、「週刊名城をゆく36 山形城」(小学館2004)

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