山辺町
トップさくらとおしろ山形県東村山郡山辺町高楯城
高楯城
高楯城跡石碑、解説板。
高楯城跡石碑、解説板。
【所在地】 山辺町山辺
【別称】  
【築城年】 宝徳元年(1449)
【築城者】 武田信安、高楯正福
【城主変遷】 最上氏[武田氏、高楯氏](1449-)…
【廃城年】 元和八年(1622)
【現状】 天満神社、市街地
 山形城主最上氏を頼り出羽国へ下向した武田信安(甲斐国武田伊豆守信昌次男、武田晴信(信玄)大叔父)が、宝徳元年(1449)最上満家より当地を宛行われ築城したのが起源といわれる。山野辺城と沢を一つ隔てたごく至近距離に立地しているためその一角と考えられていたが、全く別の城であった。

 武田信安は、文明三年(1471)最上義春(政家)が陸奥国会津郡黒川城主蘆名氏の内訌に介入するとそれに従い出陣するも、多くの家臣を失ったことで世の無常を感じ、翌年出家して本西を称し隠棲した(失脚したともいわれる)。

 慶長年間(1596-1615)には最上義光重臣高楯遠江守正福が2500石を以て居城したが、その頃に城郭として整備、拡張された様である。しかし正福は元和元年(1615)大坂夏の陣に従軍し討死、跡を継いだ俊福は元和八年(1622)最上義俊が改易となり近江国大森へ移るとそれに従い、以降高楯城は城郭としての機能を失ったものであろう。


 小規模な平山城の形態だが工夫された縄張を持っていたとされ、本丸、二の丸、さらに集落の外周に三の丸の堀を巡らせていたという。


 本当に山野辺城と数100mしか離れていませんが、全く別の城の様で、なぜこのような形で2城が並立しているかは不明な様です。城跡は現在天満神社、児童公園となっており、城跡碑、解説板が設置されています。
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山野辺城
山野辺城跡石碑、解説板。
山野辺城跡石碑、解説板。
【所在地】 山辺町山辺
【別称】 小鶴城
【築城年】 永正十一年(1514)
【築城者】 山野辺刑部、山野辺光茂(義忠)
【城主変遷】 最上氏[山野辺氏、日野氏](1514-1622)
【廃城年】 元和八年(1622)
【現状】 山辺小学校、市街地
 永正十一年(1514)、山形城主最上氏家臣山野辺刑部が居館を構えたとされるが確証はない。また前九年合戦の折に須賀川山辺氏によって築城されたともいわれる。

 戦国時代になると、山野辺氏の活躍が近隣の伊達氏や各地の記録に見られるようになり、軍記物語にも最上氏重臣として登場、信頼に応えた大きな働きを見せている。しかし永正十一年(1514)、伊達稙宗の侵攻による長谷堂城合戦で山野辺刑部が討死すると、その後日野備中守が1千石を以て封ぜられ、さらに慶長六年(1601)には最上義光四男山野辺光茂(義忠)が1万9300石で楯岡城より移封された。

 光茂は山野辺城の整備、拡張を行い、また約22年間の治世の間に数多くの業績を挙げ、暗君といわれた藩主最上義俊に代わる当主として期待されたほどの人物であった。しかしその人望が最上家中の混乱、家臣団の対立を招き、元和八年(1622)最上氏は改易となり近江国大森へと移り、山野辺城も廃城となり破却されるに至った。なお、その後光茂は備前国岡山藩主池田氏預かりとなり、12年の幽閉生活を送った(その頃に諱を義忠に変えたと考えられている)。しかしその才を惜しんだ常陸国水戸藩初代藩主徳川頼房に1万石を以って召抱えられ、以後山野辺氏は水戸藩家老として藩主の信任厚く、幕末には8代義観が助川海防城城代に任ぜられている。

 山野辺城廃城後、文化九年(1812)から文久三年(1863)の約50年間、白河藩主阿部氏(解説板には文政六年(1823)白河藩主阿部氏)の山野辺陣屋が旧二の丸に設けられている。


 出羽丘陵から村山盆地に突き出た丘陵地舌端部の絶好の位置に築かれ、宝暦二年(1761)の古絵図によると、城域は旧町役場跡から山野辺小学校プールにかけての東西四十間(73m)、南北五十六間(102m)を主郭とし、その周囲東西百十六間(210m)、南北百八十間(327m)を副郭とする輪郭式平山城であったとされる。山野辺義忠の改修により近世城郭となり、平凡な縄張りであるが随所に工夫が見られる。周囲に三の堀を巡らして城池を拡張、城の西側は丘陵部からの敵の侵入に備えて四の堀を用意し、北西部に出丸を設けて防御を固めている。道路は直線状であるが微妙に曲がって見通しを妨げ、各道路間は三叉路を多用し直進できないようになっていた。また各街道口には寺院を配置し、有事の際の防御陣地として想定されていた。


 現在二の丸跡に山野辺陣屋玄関が現存しています。また大きな石碑と解説板が設置されていますが、初めて訪問した際は狭い直角カーブだったので見落としてしまいました。現在は様子も変わっていたのでそんなことないかな…?
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山野辺陣屋
山野辺陣屋現存陣屋玄関。
山野辺陣屋現存陣屋玄関。
【所在地】 山辺町山辺
【別称】  
【築城年】 文政六年(1823)
【築城者】 阿部氏
【城主変遷】 阿部氏(1823-63)
【廃城年】 明治三年(1871)
【現状】 山辺小学校、市街地
 白河藩主阿部氏出張陣屋。

 文政六年(1823)陸奥国白河藩10万石に封ぜられた阿部正権は武蔵国忍城より小峰城へと移り、その内2万7千石を出羽国村山郡に飛地として与えられ、旧山野辺城二の丸に陣屋を置き支配した。


 陣屋の規模は東西三十一間、南北六十二間にわたり、表御門を入ると正面に代官の役宅があり、右手に現存する玄関があった。この玄関は明治三年(1871)に陣屋が廃止された後も小学校の玄関などとして利用され破却を逃れている。

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「出羽諸城の研究」(伊吉書院1980)、「山形県城郭古絵図展」(最上義光歴史館1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「図説 日本の名城」(河出書房新社1994)、「山形県中世城館遺跡調査報告書第2集 村山地域」(山形県教育委員会1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「古写真大図鑑 日本の名城」(講談社+α文庫1998)、「山形県山辺町埋蔵文化財調査報告書第9集 高楯城跡発掘調査報告書」(山辺町教育委員会2000)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「新全国歴史散歩シリーズ6 山形県の歴史散歩」(山川出版社2001)、「週刊名城をゆく36 山形城」(小学館2004)

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