一章 黄緑の少女

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 まったく突然のことだった。
 今年十三になる、ぼんやりしていていつも一つ上の兄に馬鹿にされ、要領が悪くてしょっちゅう損な役回りを引き受けるはめになり、失敗してまた叱られる、得意なものといえばせいぜい木登りという少年にとって、この状況で取れる最も良い方法が、逃げる以外にあっただろうか。キゲイはできる限りの速度で走りながら、何度も何度も空しく助かる方法を考えようとしていた。
「だーれーかー! 助けてー!」
 結局他の誰かに助けを呼ぶ以外にない。問題は助けが来るまでどう生き残るかだ。これも結局は、全速力で走り続ける以外にないのだが。
 深い茂みの中に飛び込み、枝が体を引っ掻くのも構わず突き進む。深い森は夜に飲まれて闇に溶け、わずかな月明かりだけがキゲイの頼りだった。暗がりに潜む木の根っこに、足をとられて転べばすべて終わり。
 キゲイが抜け出した後ろで、茂みが大きな音をたててぺしゃんこになった。巨大な獣の脚が、ひとまとめに踏みにじったのだ。その脚は力強く地面を蹴り、脚に絡まった茂みの木が幾本か根っこから抜けた。黒い大きな影が、無残な茂みの上を滑るように駆け抜ける。
 こんな生き物、目にするまでは想像もつかなかった。鷹の頭に狐の体を持つ、巨大な化け物。最初にキゲイを見下ろした頭は、ゆうに大人の背丈二人分の高さにあっただろう。体長はゆっくり観察していないから分からないが、とにかく人間の子どもを頭から丸かじりに出来るくらい大きいのは確かだ。それが月明かりに目を光らせながら、キゲイを追い続けていた。悪いのはキゲイの方なんだろう。あれが気持ちよく眠っていた巣の上へ、転んで落ちたのは他でもない自分だ。
 キゲイは倒木をひとっ飛びに飛び越え、低い崖の上から身を躍らせた。地面に着地しようというとき、突然膝の力が抜け、思い切り手を前についてすりむいてしまう。足はガクガクと震え、すぐには立ち上がることができなかった。
――だめだ! もうダメだよ!
 キゲイはぐっと目をつむり、冷え切った肺の中に大きく息を吸い込む。そして息を止め、力いっぱい立ち上がろうと目を開けた。と同時に、重たい気配が頭の上を横切った。次の瞬間、巨大な黒い影が目の前に踊り、キゲイは黄色く光る二つの目玉に、真正面から見据えられる。キゲイは息を呑んだ。よろけた体が、後ろの崖に当たった。逃げ場がない。
 目の前の化け物は獲物を狙う獣さながらに、頭を低くし前足で土をかく。今にも飛び掛ろうという姿勢だ。キゲイは恐怖のあまり、体を縮めて力いっぱい目をつぶった。いっそこのまま、気を失ってしまいたい。
 キゲイは硬く目をつむり、やがて来るだろう巨大なくちばしのひと突きを待った。ジーンとまぶたが熱くなる。動くにも動けない。どんなわずかな動きが、敵に跳びかかるきっかけを与えるか分からないのだ。
 ところが不意に、辺りの空気がキーンと張りつめた。耳が痛い。最初は、恐怖のせいで耳がおかしくなったと思った。けれども違うようだ。夜の生き物達の声も、ぴたりとやんでいる。キゲイは恐る恐る目を開けた。
 月明かりの下に、化け物の姿がある。それは鳥の頭を高くもたげて、せわしなく右に左にと辺りを窺っていた。明らかに、何かを警戒する動物の仕草だ。キゲイもつられてあたりを見回してみる。暗い森が広がっているだけだ。しかしどこかに、この大きな鳥頭の化け物を怯えさせている何かがいる。
 突然、鈍い音がキゲイの耳を打った。それはあまりに低い音で、聞いたか聞かなかったか分からない音だった。それでも、その音と同時に、鳥頭の化け物の胸元が大きくへこみ、ばっと羽根が飛び散った。化け物の両前足が宙に浮くほどの衝撃が襲ったのだ。化け物はギョッと一声鳴いて白目をむく。そしてそのまま、横様に倒れた。化け物の巨体に潰されて、木々の茂みがばきばきとものすごい音をたてた。しばらくして、森は再び静かになる。
 キゲイは倒れたままの化け物の姿を、呆然と眺めていた。何が起こったのやら、まったく分からない。化け物のくちばしの端に、泡が浮いている。
 木の枝を揺らして、鳥が飛び立つ。静寂を破る音で、キゲイは我に返った。何が起こったにせよ、化け物は気を失っている。逃げるなら今しかない。キゲイはもう一度、辺りを見回した。もしかしたら、鳥頭の化け物をやっつけた何かが、まだ近くにいるかもしれない。それが自分の味方だとは限らないのだ。キゲイは震える足でよろよろと、崖肌に手をつきながら歩き出す。
「よお、坊主。大丈夫かぁ」
 突然そんな声が聞こえて、キゲイは悲鳴もあげる間もなく、その場に腰を抜かしてしまった。森の奥からひときわ黒い影が現れて、ぬーと近づいてくる。そしてせり出した小枝や腐りかけの落ち葉を乱暴に蹴散らしながら、月明かりの下に出てきた。その姿を見て、キゲイは口を開けた。喉から声は出なかった。
 見たことのない大人の男の人だ。少なくともアークラント人には見えない顔立ちをしている。どちらかといえば強面だ。それからキゲイは何度も目をしばたたかせる。おかしい。目の前に立っている人の髪の色が、なんだか青みがかって見える。月夜にはなんでも青みがかって見えるときがあるが、それにしても青すぎる。あんな髪の色の人間なんて、見たことも聞いたこともない。
「なんで人間の子どもが、こんな夜に。しかも一人でうろついてるんだか」
 そのおかしな髪の色の男はぶつぶつ言いながら、キゲイに近づいてきた。その言葉は、やや奇妙な発音の癖があるものの、「言の葉」だ。明らかにこの人は、キゲイにも分かるように独り言を言っている。
 キゲイは男の髪から注意を解き、身なりに視線をさまよわせる。腰帯に、剣が下がっているのが見えた。キゲイの顔から、血の気が静かに引いていく。
「おら、立ちな。お前どこから来た? ここで何をしていた?」
 木の根をまたいで来ながら、乱暴な口調で男が言う。キゲイはあわあわと足を滑らせながら、どうにか立ち上がった。
 そして。
 一目散に逃げ出した。なぜなら目の前の人物は、人間じゃなかったからだ。そして武器も持っていた。せっかく鳥頭の化け物から助かったのに、今度は得体の知れない人物に剣で斬られるようなことがあっては、たまったものではない。

「キゲイ! 心配したじゃないの!」
 キゲイの姿をようやく見つけたとき、東の里長(さとおさ)は思わず叫んでしまった。キゲイの姉と兄が、弟とはぐれたと騒ぎ出してもう随分時間がたっていたのだから、無理もない。しかもここは異郷の森だ。暮らし慣れた里の森ではない。狼や熊よりも恐ろしい魔物だっているというではないか。
 里長は興奮して震えるキゲイを促して、森に張ったテントへと帰った。そこへちょうど、同じようにキゲイを探していた里の者達も帰ってきて、キゲイの捜索はめでたく終了となった。もっとも、そのほっとした雰囲気も、キゲイの話で吹き飛んでしまう。
「化け物ですって?」
 里長のかすれた低い声は、素っ頓狂に高くなった。キゲイはおずおずと里長を見上げる。里長はずんぐりした体格の中年の女性で、怒るとキゲイの母親よりも恐い。腕だって、キゲイの父親に負けないくらい太くて逞しい。
「きっとそれは、魔物だね。石人の世界には、うようよいるという話だわ」
 里長はいったん考える仕草をしたものの、すぐさまキゲイに向き直って、眉を吊り上げる。キゲイは首をすくめた。
「だから言ったでしょう! ちゃんと気を引き締めて作業に当たれって! 大体あんたは、自覚が足りない。私達がディクレス様からおおせつかった役目は、分かっているでしょ!」
 キゲイ達は、地読みの民と呼ばれる、アークラントに古くから住む民族だった。地読みの民とはその名の通り、地勢を把握することにかけては他に秀でることのない人々だ。彼らは見も知らない土地でも、正確な地図を描くことができた。なぜそこまでの技を持っているのかは彼ら自身も知らなかったが、広大な樹海に暮らす彼らには古くから当たり前に必要なものだったのかもしれない。地図自体が珍しいこの時代において、彼らの存在はアークラントにとって大変貴重だった。そして今も、石人の世界に忍び込むのに、地図は必要不可欠とされた。その地図を作る役目を、キゲイ達はアークラント先王ディクレスから言いつかっていたのだ。しかもできる限りの人手が必要だと言うことで、十三才以上の子どもからこの仕事に参加することになった。キゲイにとっては、生まれて初めて故郷から遠く離れる旅だった。挙句の果てには、魔物とかいう恐ろしい化け物にまで追いかけられた。
「なんにしても、無事でよかったよ。ちょっと騒ぎすぎてしまったのは、気になるけどね」
「え?」
 キゲイはきょとんと里長を見上げた。立ち去りかけていた里長は、半身ほど振り返ってまた眉を吊り上げる。
「石人に私達の侵入が知れたら、全ての計画がおじゃんになりかねない。なんせ、石人が私達に味方をしてくれるとは限らないからね。いや、誓いを破った私達に、絶対に味方なんかしてくれない。万一気づかれて、私達の邪魔をしようとしてきたら、アークラントは終わりだよ!」
 キゲイは胸の下で、ぎゅっと両手を組み合わせた。あの妙な髪色の男が、思い出されたのだ。
「あのぅ」
 キゲイは里長を追いかけ、おずおずとその袖を引っ張った。里長が怪訝そうに、キゲイの顔を見返す。
「僕、もしかしたら、石人に見つかったかもしれない……」
 里長が目をむいた。周りの大人や子ども達も、互いの顔を見合わせる。気まずい雰囲気が、辺りに満ちた。
 事の成り行きは、どうやら深刻になりそうだった。