一章 黄緑の少女

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 人間と石人の世界の境には、「大空白平原」という地帯があった。これはどちらの世界にも属さない場所で、国を建てたり住んだりすることは、七百年前の両者の取り決めで禁止されていた。しかし今では、人間の国から何らかの理由で追放されたり、居辛くなったりした者達が寄り集まってできた町が点在し、怪しげな商取引で栄えていた。
 平原と呼ばれてはいるものの、実際の風景は人間世界の果てと呼ぶにふさわしいかもしれない。ヒースの茂みが点在する荒れ地のほかは泥炭混じりの湿地が多かった。そのため起伏がなくて見通しがいい割には、荷車が通れるほどしっかりした地面は限られている。場所によっては泥炭地の下で火がくすぶり、煙がたえずもくもくと上がっている。
 ディクレス先王率いるアークラントの軍隊は、オロ山脈を越えてこの大空白平原に入り、平原の町のひとつタバッサ近郊に天幕を建てて滞在していた。旅人のうわさでしかこの平原の存在を知らなかった先王は、すぐさま必要な情報を収集し、武装隊商の振りをするのが一番いいと考えた。平原の人間達は、国や軍隊というものを目の敵にしていたからだ。そして先王は、タバッサで石人達の領内に入るための準備を整えようとしていた。タバッサの南に広がる森のすぐ向こうが、もう石人の領内だったのである。
 キゲイは眠い目をこすりこすり、ディクレス様のいる天幕から、町の安宿へ戻って行くところだった。朝一番に、大人達が描き上げた森の地図を届けにやらされていたのだ。
 昨日の夜、森でキゲイが石人に出会ってしまったことは、大きな問題になっていた。ディクレスは計画を早め、明日にでも石人の領内へもぐりこんだ方がよいと考えた。そこで人々は休む間もなく、その準備に走り回らなくてはいけなくなっていた。
 明け方の小雨でぬかるんだ地面に、大小いくつもの足跡が残っている。天幕を張るには最悪の場所だが、タバッサの町議会は先王の素性を疑って、ここでの野営しか許してくれなかったらしい。キゲイはぐちゃぐちゃと新しい足跡をつけながら、忙しくしているアークラントの兵士達の間を縫って、タバッサの街中へと歩いていった。地読みの皆は、地図を書くために大きなテーブルを必要としていたので、町の宿に泊まっていた。地形を測る器具にとっても、湿気は大敵だ。
 このタバッサの町もまた、空白平原のほかの町と同様、人間の世界から追われた者、つまりは追放者や賞金首などならず者が建てた町らしかった。七百年前の戦で人間が建てた要塞跡を利用して、百年以上も前にできたらしい。しかしキゲイの見る限り、町の様子はアークラントの城下と大して変わった様子はない。通りに面する店先で働く人も、そこで買い物をする人も、ちっとも悪人には見えない。それどころか、アークラントよりも町には活気があって、人々も楽しそうだ。国が存在しないこの平原では、少なくとも戦争に襲われる心配がないのだ。
 キゲイは物珍しく通りをきょろきょろ見回しながら、帰りの道をたどっていた。彼も地読みの民の端くれだから、宿の方向が分からなくて迷子になるようなことはない。ただ、道が入り組んでいて、一つ曲がり角を間違えばなかなか思う方向へ帰れないことが、ちょっと面倒だった。
 キゲイはやがて広い通りに出た。朝早い通りは、朝ごはんの材料を買う人や、出発の早い旅人達でかなり賑わっていた。通りの両側に並ぶ店は、階段で十数段高いところにあった。階段の蹴上げの部分には、数段に渡って野菜や肉の絵が描かれている。どうやら店の看板代わりらしい。絵を見ているだけでも、結構面白い。キゲイは、親豚と子豚達が手をつなぎ、ハムの周りで踊っている絵を不思議に思いながら、通りを進んでいこうとした。
 よそ見をしていたのがいけなかったようだ。前からぶつかってきた大人に押されて通りの真ん中によろめき、キゲイは危うく突っ込んできた馬車にひかれそうになった。
「馬鹿野郎! パン種みてぇに、まったいらにのされてぇのか!」
 恐ろしい怒鳴り声が、キゲイの頭の上に降ってくる。キゲイは慌てて通りの真ん中から脇にどいた。見上げると、口から顎まで棘の様な黒い髭を生やした、ぎょろ目の男がこちらを見ている。キゲイはすくみあがった。
「チビが!」
 男はもう一言吐き捨てて、後ろを振り返った。
「何してやがる! 早く出さねぇか!」
「へえ!」
 返事がして、馬車が動き出した。キゲイの目の前を馬車が横切って行く。その荷台には、大きな檻が乗っていた。中に、なにか白と黄緑の色鮮やかなものが見えた。キゲイは通り過ぎて行く檻を、背伸びして覗く。
 檻の中に横になってうずくまる、小さな背中が見えた。長い髪は、透き通るような黄緑色をしている。
「石人だ!」
 キゲイは思わず口の中で呟いた。彼が昨晩森の中で出会った男も、青色という普通の人間ではありえない髪の色をしていた。
 檻の中に入っているのは、キゲイと同じくらいの子どものようだった。なぜ、あんなところに入れられていたのだろう。もしかしたら、この男達は人さらいというものかもしれない。身震いが走る。キゲイはその場から逃げるようにして、足早に立ち去った。
 宿に帰りついたときには、日は高くなっていた。キゲイが一人でもそもそと早めの昼ご飯を食べていると、里長がせかせかと彼に近づいてきた。
「キゲイ、悪いけどもう一回、天幕に行ってきてくれる? お医者様の所。具合の悪い子がいるのよ。解熱用の薬を、貰ってきて欲しいの」
 キゲイは頷いた。昨日の夜からほとんど寝ていないからいい加減休みたかったのだが、そうも言っていられない。皆それぞれに忙しいのだ。
 天幕に戻ると、隊商の振りをしている兵士達がそれぞれに自分達の食事を作っていた。
 その兵士のほとんどは、十六、七歳の少年か老人かのどちらかだ。それもそのはずで、その真ん中の年代の者は国を守るため、アークラントに残っていた。ディクレス先王は「宝探しが目的だから現役の兵は必要ないし、国のためにも連れて行くことはできない」と、すでに退役していた老兵を募ったのだ。さらに徴兵することのできない十八才未満の少年達を人夫として集め、また、魔物の対策として命知らずな傭兵達を伴わせたのだった。
 さて、医者から解熱用の乾燥果実を貰い、もと来た道を引き返す。人々は慌しく荷物を持って天幕の間を走りぬけ、伝令役の少年が大声で何か言っていた。出発がどうのと言っていたことから察するに、どうやら今夜、隊の一部が石人の領内へ移動するようだ。
「おい、そこの地読みの奴!」
 突然声をかけられて、キゲイは立ち止まった。数人の少年達が天幕の前に座り、手にスープ鉢を持ってこちらに顔を向けている。そのうちの一人が、キゲイを指差して言った。
「お前らのうちの誰かだろ。昨日の夜、森で石人に見つかった馬鹿な奴」
 キゲイの心臓が飛び上がる。それはまさに自分自身のことだ。その少年は眉間と鼻先に皺を寄せ、キゲイを睨みつける。
「お前らのせいでこの宝探しがみんなだめになったら、もう俺達の国を救う方法はなくなるんだ。お前らは故郷の険しい山と森の中に逃げられるからいいけどよ、俺達は敵が攻めてきたら死ぬまで抵抗する以外ないんだ。あいつら、自分の国以外の人間は、人の形をした虫けらくらいにしか思ってないんだからなっ」
 その少年の言葉に、周りの少年達も一様に頷いた。彼らの顔には不安と疲労、そして苛立ちがはっきりと現われている。キゲイはたくさんの年上の少年達に睨まれてすっかり恐くなり、体中がたがた震えだす。少年は乱暴に舌打ちをした。
「なんて臆病な奴だ。さっさと行っちまえ!」
 その言葉で、弾かれたようにキゲイは駆け出した。すっかり動転して、帰る方向を間違えてしまったのだが、構わずそのまま走り続けた。やがて小屋がたくさん立ち並ぶ場所に出てしまう。周りは見たこともない景色で、当然、もと来た宿など影も形もない。しかしキゲイは脅かされた恐怖が覚めやらず、そのまま突き進んで、やっと一つの小屋の裏手に隠れて座り込んだ。道中ずっと追いかけられているような気がして、何も考えられなかった。
 息を整えながら耳をそばだてる。辺りはしいんとして、自分の心臓と息の音しか聞こえない。
 落ち着いてくると、今度はひどく悔しくなった。追いかけてくるはずもないのに、あんなに怯えた自分が腹立たしくなったのだ。キゲイは右手の拳を地面に叩きつけた。情けない気持ちに、うっすらと涙がにじむ。
 周りを見渡すと、キゲイのそばの小屋が一番古くて汚れている。動物くさくて、馬のヒヒンと言う嘶きが聞こえた。両手の砂を払い、宿に戻ろうと腰を上げたとき、その古ぼけた小屋から馬の声とは別に、なにやらガチャガチャという金属音がした。
 馬の声は何か怯えた感じだ。キゲイは滲んだ涙をぬぐい、でたらめに打ち付けられている壁板の隙間から覗き込んでみる。中は暗くてよく見えない。すると唐突に、
「誰かそこにいるの? ちょっと手を貸して」
 という高い子どもの声が聞こえてきた。
 キゲイはハッとして壁から離れた。キゲイの体で、小屋の中に差し込む日の光が不自然に遮られてしまったのだ。人がいるかなど思いもかけず、キゲイは一瞬ひるんだ。しかし子どもの声だったので少し安心もし、とりあえず小屋の扉の方に回ってみる。幸い、扉に鍵はかかっていない。
 薄暗い小屋の中で、まず馬の荒い息が横から吹きかかった。馬は柵の中で落ち着きなく足踏みを繰り返している。貧相な年寄り騾馬だった。そして小屋の奥、幾筋もの射し込む光の中に、特大の鳥かごに似た錆だらけの檻が置かれていた。その中に入っているものに、キゲイは見覚えがあった。
 明るい透き通るような黄緑色の長い髪。今朝、荷馬車で運ばれていたあの石人だ。その石人は、十一か十二才くらいの女の子に見えた。肌は異様なまでに真っ白で、血の気というものがまったく感じられない。大きな金色の瞳が、外からのわずかな光で不思議な輝きを放っている。まるで、彫刻が生きて動いているような不気味さだ。キゲイは顔を背けた。大理石みたいな肌も宝石みたいな瞳も、本当に石人間としか言いようのない女の子だ。
 女の子はキゲイの驚きをよそに、よく通る高い声で言う。
「ちょうどよかったわ。君、こっちに来て鍵を壊してちょうだい」
 それから呑気にも、片腕を頭の上に伸ばし、もう片方の手を口に当てて、気持ちよさそうに大あくびをした。
 キゲイは手招きされるまま、恐る恐る檻に近づいて扉の錠前を調べてみた。ひどく錆びついていて、大きく重たいものだ。キゲイはなるべく女の子が目に入らないようにしていたが、女の子の方が狭い檻の中で器用に体を曲げて、キゲイの目の前に頭をもたげた。薄暗い小屋の中でも、女の子の唇までが真っ白なのが分かる。キゲイは女の子を視界に入れないよう、さらに頭を下げる。造り物みたいな女の子が、生きて動いていることが、どうにも受け入れられない。いっそ彫刻が動き出したという方が、まだ分かりやすい。
「ああ、よかった。誰も通りかからなかったら、どうしようと思ってたんだ。ね、君は人間なんだよね。髪色、黒曜みたいね」
 女の子は無邪気に話しかけてきたが、キゲイの方はそれどころではない。石人に対する嫌悪感を紛らわそうと、ますます錠前に集中した。
「ねえ、鍵開きそう?」
 女の子は首をかしげる。彼女が話す「言の葉」は古風な感じがして、独特の優しい響きがある。
「……壊さないと無理だと思う」
 キゲイはすぐさま立ち上がって、檻から離れた。小屋を見回しながら深呼吸をする。馬は相変わらず落ち着きがない。きっとこの馬も、石人が初めてなのだ。
 なんにしても、この女の子を檻から出してあげた方がいい。キゲイはそう思った。理由は分からないが、あの恐ろしい髭面の男がいない今がチャンスだ。小屋の隅にごちゃごちゃと積み上げられているガラクタを漁ってみると、何かの柄だったらしい木の棒が見つかる。キゲイはそれを拾い上げ、いったん小屋の外に出て辺りに人がいないのを確かめた。
「これで叩き壊してみる」
 戻ってきて女の子に言うと、彼女はこっくりと頷いた。顔立ちはとてもきれいな子だった。それがさらに彼女を造り物みたいにしているのかもしれないのだが。
 キゲイは檻に片足をかけると、錠めがけて思い切り柄を振り下ろした。がきんと鈍い音を立てて、錠がゆれる。一撃では全然だめだ。もう一度錠前を調べ、効果があるのを確かめながら、何度も力いっぱい柄をぶつけた。女の子もぐらぐら揺れる檻の中で、鉄格子につかまり窮屈な体勢で頑張っている。
倒れる 出し抜けに、鈍い音とともに錠前の腕が壊れた。それと同時に檻はバランスを失って、女の子もろとも後ろに倒れる。
「いたっ!」
「あ、ごめん!」
 キゲイは柄を投げ出すと、すぐさま錠前を取り外して檻の扉を開けてあげる。女の子は頭の後ろをさすり、涙目で這い出てきた。
「びっくりしたけど、ありがとう……。ああ、よく寝たなぁ」
 女の子はあくびを噛み殺しながら、お尻をはたく。何とも呑気な様子にキゲイは少しむっとする。ところがあらためて女の子の格好を見て、首をかしげた。
 女の子は濃い黄緑の服を着ていて、それが彼女のかかとまで届く明るい黄緑の髪に、とてもよく似合っている。しかしその服は絹みたいに柔らかで光沢があり、美しい銀の刺繍が襟と裾を縁取って、とても高価そうだった。シャラシャラと涼しげな音を立てる腰の銀飾りは、服よりもっと手の込んだ透かし細工の花びらだ。
「君、もしかして、どこからかさらわれてきたの。ひょっとして、お金持ちの家の子なの?」
 女の子はきょとんとしただけだ。
「お金は持ってないよ。私、森の中で道に迷ってたの。ものすごくお腹が空いてて。そうしたら、変な鎧を着た汚い格好のおじさん達が、パンと水をくれたんだ。後は良く覚えていない。目が覚めたら、この檻の中にいたの」
 女の子は檻を振り返る。
「これってさらわれたっていうのかなぁ? 私、人間の町に行きたかったし、今目的の場所にいるわけだから、まるっきり失敗ってわけでもないと思うけど」
 膨らませたほっぺたに指を当て、女の子はキゲイに向き直った。彼女はひゅっと息を吐いて頬を戻す。
「ねぇ、どうしたの? さっきからすっかり黙っちゃって」
「だって……」
「だって?」
「だって、いくらなんでも、鈍すぎ……」
キゲイの言葉が分かったのか分からなかったのか、女の子は楽しそうにクスクス笑った。少し変わった子であるのは間違いなさそうだ。
 ところが女の子はすぐに笑うのをやめ、小屋の扉を横目にわずかに顎をあげる。キゲイがどうしたのと尋ねようとすると、彼女は素早く口の前に拳を当てて見せた。遠くから、人の声がしてくる。
 キゲイは板の隙間に駆け寄って、外を窺う。やはり、あのひげ面の男達だ。お酒が入っているのか、皆やけに賑やかだ。あまりに大声なので、遠くにいても何を言っているのかよく分かる。
「石人ってぇのはあれだろ? 牛や羊みてぇに無駄がねぇって!」
「髪や骨は魔法使いに売れるし、血肉も錬金術の材料になるってぇ、裏じゃ取引されてるらしいぜ!」
「髪と言えば、あの石像みたいなガキ。あの髪は結構な値段にならねぇか? きれぇーな長い髪してたぜ」
「小指ほどの一束で、銀貨十枚ってとこかね。しかも髪はまた伸びるべぇ」
「こりゃすげぇ! じゃあ、歳を食うまであの檻に閉じ込めて髪売って、んで、見世物にでもして、いよいよとなりゃ潰せばいいわけだ! ひゃひゃっ!」
 キゲイはぞっとして振り返る。女の子は、小屋の窓枠に片足をかけているところだった。
「逃げたほうがいいかもね」
 彼女も傭兵達の言葉を聞いた筈だが、気にしている風にはまったく見えない。少しどころかずいぶん変わった子だ。
 二人がそっと窓から抜け出した直後、傭兵達は扉の前に着いた。
 傭兵達が扉を開けたと同時に、キゲイ達は何とか窓から飛び降りる。しかし、逃げるのが遅すぎた。
「あっ! なんだ、なんだ!」
 男の怒鳴り声が背中にかかる。キゲイは女の子の背をついた。
「走ろう!」
 女の子は頷いて、踊るようにくるっと身をひるがえす。長い髪が光に透け、宙をうねった。走り出した女の子の足は、思いがけず速い。
 キゲイは慌ててそれを追う。もちろん、あのひげ面の男達も、凄まじい怒鳴り声とともに土煙を上げながら追いかけてきた。