二章 赤の魔法使い

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 キゲイはようやく、地読み士の皆がいる宿へと戻ってきた。色々あり過ぎて、まるで二日ぶりにでも帰ってきた気分だ。実際にはまだ夕暮れに程遠いから、思っていたより時間は経っていない。もっともそれはキゲイにとっての感想で、待っていた人にとっては必要以上に時間が過ぎていたらしい。
「遅かったじゃない! 何をしていたの!」
 東の里長は、もうカンカンだった。荒れる里長を前に、キゲイは事情を説明していいものかどうか悩む。レイゼルトのことはともかく、あの女の子や二人の石人の男達と関わりあいになったことは、話さないほうがいいように思われた。彼は既に人間世界と石人世界の境の森で、石人相手に大失敗をおかしているのだ。
「ええと、傭兵のおじさん達に絡まれちゃって」
 やっとのことでそれだけ告げると、里長はあきれ返る。
「だから、近づいちゃダメって言ったでしょ!」
「ち、違います」
キゲイはムッとして言い返す。里長はますます怖い顔になった。
「どう違うのっ」
「あいつらから、近づいてきたんだ!」
 キゲイはお使いの薬草をテーブルに叩きつけると、逃げるように宿の二階へ駆け上がる。どうしてこう、何でもかんでも失敗の原因を自分のせいにされてしまうのだろう。里長が階下から何か叫んだが、キゲイは聞こえなかったふりをして大部屋の一つに飛び込んだ。そこでは、昨晩境の森で徹夜の作業をしていた地読み士達が、既に横になって休んでいた。キゲイは姉と兄の姿を探して、二人の間の寝床に潜りこむ。
 もう、くたくただった。キゲイは掛布の下で靴の紐を緩める。ぐっすり寝て、何もかも忘れてしまいたい。
「キゲイ、里長と喧嘩したの?」
 隣の姉が、寝返りを打って仰向けになった。起こしてしまったらしい。
「里長も色々大変なんだから、あんまり困らせないでね」
「僕だって、ものすごく大変だったのに……」
 キゲイは脱いだ靴を掛布から出し、深々と溜息をつく。傭兵に蹴られた背中と頭がひどく痛む。目を閉じると、すぐに前後不覚の眠りに落ちていった。
 次にキゲイが目を覚ましたとき、辺りは真っ暗だった。眠る前はよろい戸の隙間から、午後の陽射しが室内に差し込んでいた。周りで眠っている地読み士達の姿も、ほとんどなくなっている。子どもが何人か寝ているだけだ。キゲイのお腹が鳴った。もうとっくに夜になっているのかもしれない。
 慌しい足音が階段を駆け上がり、室内へ飛び込んできた。
「キゲイ、起きなさい! 大変なことになったわ」
 キゲイの姉が、目をまん丸にして戸口に立っていた。キゲイが寝ぼけ眼のままぼんやりしていると、姉は彼の側に駆け寄り両肩を掴む。
「ディクレス様の所から、兵士の人が来たの! 石人と内通しているらしいから、取り調べるって。あんた、境の森で石人と会ったでしょ。それに今日のお昼だって、石人と会っていたって!」
 キゲイの目がいっぺんに覚める。
「誰がそんなこと言ったの!」
「ねぇ、あんた大丈夫なの?」
 姉はキゲイの言っていることに取り合ってくれなかった。
「石人に、変な魔法をかけられて、操られているんじゃない?」
「僕は、普通だよ!」
 キゲイは叫び返す。徐々に暗闇に目が慣れてくる。再び、階段を駆け上がる足音が響いた。安宿全体が、その振動でミシミシと唸る。姉がキゲイを後ろに庇い、素早く振り返る。キゲイは姉の背中越しから、新しく現われた人影を認めた。
「あっ!」
「おお!」
 キゲイの声に、相手が嬉しそうな声を返した。忘れもしない。あのひげ面の傭兵だ。彼は部屋の外に向かって、轟くような大声を張り上げた。
「兵士さん! こっちですぜ! こっちにいましたぜ!」
「いくらなんでも横暴よ! まず東の里長と西の里長に、事情を説明すべきだわ」
 姉がひげ面に食って掛かる。眠っていた他の地読みの子ども達も、何事かと目を覚ました。キゲイは脱いでいた靴を腰帯に挟むと、よろめきながら部屋のよろい戸へ駆け寄り窓を開ける。日暮れの冷たい風が吹き込んでくる。きっとこれは、傭兵達の仕返しに違いない。
「ディクレス様は、お忙しいんだよ。お、小僧、逃げるつもりか? やっぱり、怪しいぞ!」
「違う! 自分でディクレス様の所に行くんだ!」
 キゲイは怒鳴り返して、窓枠へ身を乗り出す。階下から、東の里長の怒鳴り声が響いてきた。あっちもあっちで、それなりに厄介なことになっているらしい。キゲイは二階の窓から、一階の庇(ひさし)へ逃れ、地面まで飛び降りる。ひげ面の怒鳴り声を背に、町外れへ向かって走り出した。
 ところがキゲイが一人で逃げ出すことなど、傭兵達にとっては想定内のことだったらしい。キゲイの走る道へ、三つの影が躍り出る。
「来たな、このチビ! 貴様は俺達に、想像を絶する大損をさせたんだ!」
「手足を、引っこ抜いてやる!」
「口から手ぇ突っ込んで、靴下みたいに裏返しにしてやる!」
「うわぁぁ!」
 キゲイは悲鳴をあげて、町の中心部へと走り出した。他に逃げる場所など、思いつかなかった。
 人通りのある場所へ出ると、キゲイはほっとした。そして、ぎょっともした。昼とはうって変わり、まさにならず者の町に相応しい光景が目の前にあった。筋骨隆々の大男、用心棒を連れた金持ちの商人、目つきの危ないまじない師、前後不覚の酔っ払い、挙動不審の優男、怪しい品物を売る出店の怪しい店主。そんな連中が、通りにひしめいている。しかし、恐がってはいられない。すぐ後ろに傭兵達が迫っているのだ。キゲイは思い切って、通りへと踏み出す。
 新しい災難が、間髪いれずキゲイを襲った。変に黄色い顔をした痩せっぽちの小男が、揉み手をしながらキゲイの前に立ちはだかったのだ。
「あれぇ? 僕、ひとりなのぉ? この辺りじゃ、あんまり見かけない格好だねぇ?」
 ねちっとした猫なで声を出し、まばらな前歯をむき出して笑いかけてくるが、目は明らかに笑っていない。
「そうだ、おじさんが売ってる物を、見て行かなぁい? 面白いよぉ……」
 キゲイは何も答えられずに、じりじりと後ずさる。この痩せっぽちより、まだ傭兵達の方がましかもしれない。だがしかし、これはあんまりな二択だ。
「断る」
 不意にきっぱりとした声が、キゲイの肩越しに響く。後ろに、昼間会った灰色の髪の石人が立っていた。彼はキゲイの肩に手をかけ、そのまま通りの先を歩くよう促した。痩せっぽちは顔を歪めて腕を上げ、石人に向かって魔除けの仕草をする。キゲイは後ろを振り返った。五人の傭兵達がとうの昔に追いついていて、恐い顔で数歩後からついて来ている。
「すまなかった。我々に関わってしまったせいだな。心配したとおりだった」
 石人が呟く。キゲイは黙っていた。状況が好転しているのかいないのか、まったく判断がつかない。色々ありすぎて頭は混乱し、もう何一つまともに考えられなかった。
 石人は、歩きながら低い声で続ける。
「傭兵達の素性を、知っているか」
 キゲイは首を振った。
「アークラントは兵が不足している。数少ない兵は国境の守りについている為に、国内の治安が維持できていない状況だ。それにつけ込んで町や村を襲い、盗みを繰り返していたのが彼らだ。ディクレス先王は、国の南端から大空白平原へ抜ける秘密の峡谷を通り、共に石人の国の宝を探すことを条件に、どうにか彼らを国外へ出すことに成功したんだ」
 石人は、横目でキゲイを見下ろす。石人が背中を押さなければ、キゲイは危うく立ち止まってしまうところだった。
「あの、待ってください。なんで、なんで、そんなこと、知ってるんですか」
 石人に気づかれないよう行動してきた、今までの自分達の努力は一体なんだったのか。
「石人は、人間の世界に興味はない。だが人間が我々の世界に侵入してくるとなると、話は別だ。誤解はしないで欲しい。我々は、人間に危害を加えるつもりはない」
 石人は短く溜息をつき、ちらりと後ろを窺う。相変わらず、傭兵達がついている。
「今は、君の身の安全が先だ。先王には、傭兵達をどうにかできる余裕はないんだろう。傭兵達が野放しになっている以上、彼らも君を諦めない。あの魔法使いの少年はただの通りすがりだったようだし、彼に仕返しできない分、君に二倍返しするつもりかもしれない」
「じゃあ、僕はどうなっちゃうんですか……」
 キゲイは泣きそうになった。ディクレス様が傭兵達の言葉を信じて、宿へ兵士をよこしてきたことはショックだった。それが石人の言葉を聞いて、さらに心に響いてくる。キゲイは何度も、手の甲で目元を拭う。
 石人はキゲイを連れて、店の階段を登る。階段の絵を見ると、そこは古着屋のようだった。店の扉の前で二人は立ち止まる。傭兵達は腕組みをして、階段の下からこちらを見上げている。
「境の森を抜け、さらに一行程南へ向かった先に、石人の城がある」
 石人は、油断なく傭兵達を見据えながら言った。
「我々が白城(はくじょう)と呼ぶ場所だ。そこへ行けば、かくまってもらえる。恐らくディクレス先王も、石人の世界に入ればそこを目指すことになるはずだ」
「おじさんが人間に化けて、一緒にディクレス様の所に行ってくれませんか。そしたら、傭兵達の誤解が解けるし……」
 キゲイが涙声で訴えると、石人は申し訳なさそうに首を振った。
「できない。万一石人だとばれれば、取り返しがつかなくなる。……本当に、すまない」
 とうとうキゲイは、ガックリとうな垂れてしまった。絶望とは、このようなことを言うんだろうか。
「行きます。その白城とかいう所に……」
「では、今すぐ発とう」
 石人が店の扉を開け、キゲイを促す。キゲイが中に入ると、外の傭兵達が人さらいと騒ぎ出す。石人はそれを無視して、後ろ手に扉を閉めた。通りの喧騒が遠ざかる。
「主人、扉に鍵を」
 石人は店の主に告げると、陰気なランプの明かりの下で、古着の山を漁りだす。店主は、こういった厄介事は慣れっこらしい。繕い物を放りだすとすばやく扉へ駆け寄り、差し木を通す。直後、木板を砕かんばかりの激しいノックが扉を襲っていた。
「夜は冷える。石人の世界は、まだ冬の中だ」
 キゲイは、石人の差し出す羊毛のマントを受け取った。羽織ってみると、手頃なサイズだ。
 店主がきしむ扉を背に、むっつりと口を開く。
「そいつは銅貨八〇枚。扉の修理代をあわせて……、締めて銀貨八枚。それと、裏口はそこの奥」
 石人は銀貨八枚を次々と店主に投げ、キゲイを奥へと促す。
「今夜、君の仲間の一部も、境の森に入るようだ。かち合わないよう、少し遠回りする。強行軍になるから、覚悟して欲しい」
 その言葉を聞いて、キゲイは心の中で情けない溜息をつく。まったく、一体どこから大切な情報が石人達へだだ漏れしているのだろう。ふっと頭に、レイゼルトのことが思い浮かぶ。彼が原因ということは、ないだろうか。それからキゲイは、レイゼルトに託された物があったのを思い出した。服の上から触ってみると、あの銀の鏡は、キゲイの胸の内ポケットに、重みを持って静かにひそんでいた。