二章 赤の魔法使い

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 境の森では、ディクレスに率いられた五十名ばかりの者達が、夜影に紛れて南を目指していた。有能な地読み士数名を先頭に、行軍に慣れた老兵達と雇われた魔法使い達が続く。徒歩の一行を照らす魔法の明かりは、星明りを模したかすかなものだった。
 やがて一行の行く手に、巨大な石柱が現われる。それは片面が人の形に掘り込まれてあり、その背面は一枚岩となっていて、びっしりと文字が刻まれている。彫像の顔は、長い年月と風雨に洗われて、なだらかな凹凸だけとなり果てていた。背面の文字は、アークラントの者達には読めなかった。石人達の言語と思われた。
「これが、人間世界と石人世界の境界という話です」
 地読み士がディクレスに説明する。
「あそこと向こうにも、石柱の影がご覧になれます。七百年前の両者の大戦の後、再び互いが出会い争うことのないよう、このような柱を平原の端から端まで並べて、境界としたそうです」
「では、この石柱の南側が、石人の世界になるということか。それにしても七百年といえ、石柱の風化が激しいように見える」
 ディクレスは彫像を眺め、風化を確かめるようにそっと手で触れた。ディクレスの後ろを歩いてきたローブ姿の若い男が、王の言葉に答える。
「石人の世界は魔法に満ちております。魔法の風もまた、石に影響を与えるのやも知れません」
 彼が予言者トゥリーバだった。自らの予言が成就するのをその目で確かめるため、また老いた王宮魔術師の代わりを務めるために、ディクレスと行動を共にしていたのだ。彼は身なりこそアークラントの魔術師風だが、真っ直ぐな黒髪や黄褐色の肌は、アークラントに古くから住む民族とよく似ている。
 トゥリーバは、石柱の傍に生えた木々の枝を縄で寄り合わせ、門の形にするよう地読み士達に指示する。人間が石人世界へ立ち入る際は、守りの魔法をかけた門をくぐって入るほうがよいと思ったのだ。
 一行は緊張の面持ちで門をくぐり、石柱を南へ横切る。最後の一人がくぐり終えたところで門を形作る縄を解き、元通りに木々の枝を開放する。
 石人の世界に入った実感は特になかった。周りの森の様子も、今までと変わった様子はない。森の獣達が息を潜めて、これら一行を窺っているだけだった。
「ディクレス様、困ったことが起きました。嫌な予感がします」
 先行していた地読み士の数人が、色を失って本隊と合流してきた。彼らの報告を聞くと、トゥリーバは細い眉を吊り上げた。
「愚か者が。昨日木がなかった所に、今日木が生えているだと? 無視して進め。不吉なことを申してはならん」
「ですが、しかし。せっかく作った地図が、役に立たなくなってしまいました」
「まずは、そこまで行ってみようではないか」
 ディクレスはそう言って部下達をとりなす。地読み士達が、再び先へ行ってしまったのを見届けると、彼はトゥリーバを振り返る。
「地読みの少年がひとり、行方をくらませたと聞いたが……」
「少年と石人に、関係があるかどうかは分かりませぬ。傭兵達が何か申しておりましたが、どうにも信用がおけません。それよりも、石人達が我々の行動に気付いていなければよいのですが」
 トゥリーバは声を潜めた。
「いずれにせよ、私の夢見では、あの少年が何か憂慮すべき要素になることは考えられません。少年の件はラダム老将軍にお任せしましたので、先王がお気になさる必要はありませぬ。老将軍は、兵を数名調査に当たらせると仰っていました」
「そうか」
 トゥリーバはそれから、森を見渡す。同行している魔法使い達も、なにやら落ち着かない様子に変わっていた。
「魔法の匂いが、森の奥からいたします」
 有能な魔法使いでもある予言者の言葉に、ディクレスも暗い森に険しい表情を向ける。
 一行の行く手に、密に生えた針葉樹の黒い影と冬枯れの茂みが立ちはだかった。少年と老人の二人が、ディクレス達を待っていた。少年の髪は、木々の枝から差し込む星明りに、深い緋色をかえしている。隣に立つ人間の老人は、少年同様粗末なローブをまとい、身長ほどの長い杖を持っている。少年はレイゼルトであり、老人はレイゼルトの師を名乗っていた。
 老人はディクレスの姿を認めると、恭しく礼をする。一方レイゼルトは師の後ろで、体裁程度に頭を下げただけだった。レイゼルトは一本の木を手で示しながら、ディクレスとトゥリーバに報告する。
「ご覧ください。この木はまやかしです。この棘だらけの茂みも幻に過ぎません。同じく、幻の丘や崖も出現しております」
「昨日調べたときには、これらは一切なかったんですよ」
 地読み士が地図を片手に、情けない声で付け加えた。
 ディクレスはレイゼルトの示した木に手を伸ばす。先王の手が、木の中にふんわりとめり込んだ。そっと手を引き出すと、明るい色の薄い霧が手にまとわり付き、やがて霧散する。木の像は、変わらずそこにあった。
「これは石人の魔法か」
「はい」
 ディクレスの言葉に、レイゼルトは答える。トゥリーバも鋭い視線で辺りを窺う。
「かなり広い範囲に、魔法がかけられているようだが」
 レイゼルトはその言葉に頷く。
「地読み士達が把握しているよりも広範囲にわたって、このように術がかかっています。奥行きは、恐らく森を抜けるまで。ただひとりの術者がこれを成したようです。これだけの範囲に術をかける以上、よほどの魔力の持ち主。人間の魔法使いでは、とても太刀打ちできません」
 レイゼルトの最後の言葉に、トゥリーバはあまり良い顔はしなかった。
「では、お前は解けるのか」
「解く必要があるのでしょうか」
 トゥリーバはディクレスに向き直る。
「彼が申すように、所詮は幻に過ぎません。幻術をほどくにも、雇い入れた魔法使い達だけでは荷が重く、消耗が激しいでしょう。ディクレス様、いかがいたしましょう。この先にまだ何か罠があるやもしれませぬ」
「害がないなら、幻術はこのままで良い。存在しないものが見えるのは厄介だが……。このまやかしは、穏当な警告ということか。魔法の力を誇示し、我らを引き返させたいならば、他にもっと効果的な方法があったろう」
 ディクレスは答え、考えごとをするように、顎に片手を添える。幻自体に害はないとはいえ、実際の地形が見えない場所を歩くのは、時間が余計にかかるだけでなく、危険でもある。
 レイゼルトが、ディクレスに向かって一歩前に出る。
「この魔法をかけた者を探し、その実力の程を確かめに行っても良いでしょうか。この幻術がかけられたのは、今朝以降でしょうから、術者はそれほど遠くへ行っていないと思うのです」
「ならん」
 厳しく答えたのは、トゥリーバだった。
「我々はまだ、お前を信用しておらぬ。勝手な行動は、慎むのだ」
「だからこうして、先王にお伺いをたてているのです」
 レイゼルトはぴしゃりと言い返し、ディクレスの方をまっすぐ見つめる。先王は苦笑した。レイゼルトを雇ったのは自分だし、そのレイゼルトがお抱え魔術師に喧嘩腰では、彼も立つ瀬がない。
「行け。しかし何かあれば、我々の所に戻ってきてはならんぞ」
 先王の言葉を受け、レイゼルトは初めて丁寧なお辞儀をする。そして一目散に森の奥へと駆け出す。幻の中へ身を躍らせ、彼の通った場所だけしばらくの間、像が乱れていた。彼には森の実体が見えているらしかった。
「申し訳ありません。礼儀のしつけが、まだ十分ではなかったようで」
 レイゼルトの師である老人が、先王と予言者に詫びる。ディクレスは笑って答えた。
「それは構わんが、あの子に袋いっぱいのパン屑でも持たせておくべきだったかもしれん。さて、出発することにしよう。地読み士達よ、森の姿が偽られた今、お前達の地図だけが頼りだ。我々を、石人の縄張り奥深くへ導いてくれ」