三章 白の王
3-1
荒野を縁取る遠く青い山並みの向こう。丸く白い月がかすかに泡立つ光を放って、星々と共に沈もうとしている。向かいあう東は茜色の雲を二筋引いて、金の光に大地の稜線をにじませる。空半分、夜は西の彼方へ追いやられようとしていた。レイゼルトは、境の森の外れに立っていた。天を貫いて朝と夜の狭間に立つ、巨大な白い山の全景を見据える。朝焼けの空気の向こうに霞むその山こそが、石人世界において白城と呼ばれる場所だった。
目を凝らせば、この距離からでもその山肌に、人工的な造形物が構成されているのが分かる。レース編みにも見えるアーチの連続、それが支える巨大な橋、幾重にも重なる長い回廊、階段状の屋根を持った家々、雲を突く六角の塔、高くそびえるのは崖ではなく、山肌に穿たれた高層の館だ。それら全てが、白色の石材で構成されている。
山は人工物だけで覆われているわけではない。橋の下には、黒い森があった。森からは同じく黒々とした蔦が伸び、橋脚を覆っている。高層の館の前には、かつては豊かだった耕地があった。今は茶色の荒れ野となり、崩れさった北側の塔が大きな残がいとなって横たわっている。
レイゼルトは知っていた。その城が滅び、眠りについたのは七百年前。しかし無人ではない。王族の末裔が、今もそこで暮らしている。そしてその者こそが、森に幻術をかけた張本人と思われた。問題はその人物が城のどこに住んでいるかだ。レイゼルトもさすがにそこまでは知らない。探すにしても、城はあまりに大すぎる。時間を無駄にはできなかった。
そのときレイゼルトの感覚は、かすかな魔力の軌跡を捉えた。あの銀の鏡が発する、ある種の気配だ。気配は、真の持ち主であるレイゼルトだけが嗅ぎ取れる。それは、白城へ向かって消えていた。
――大半の地読み士は、まだタバッサにいるはずなんだが。あの少年に、何があったんだろうか。鏡の軌跡に誰かが通った痕跡すらない所を見ると、あいつは一人ではないな。随分巧みに、足跡を消したものだ。……彼を石人の世界へ連れ込んだのは、誰だ。何のために。
レイゼルトはしばし思いをめぐらせる。
――まあいい。おかげで、幻術をかけた者を見つけやすくなったかもしれない。
それから彼はおもむろに森へと引き返す。一本の木に登り、太い幹の上で楽な姿勢になる。
――見立てによっては、再起不能にしておく必要もあるだろうな。アークラントには邪魔な存在になるかもしれない。
彼は幻の魔法を編み、自分の姿を枝の一本に偽った。たとえ石人の魔法使いが見ても見破られないよう、念入りに。彼はマントにくるまって、しばし休息することにする。長い間人間世界にいた彼に、石人世界の空気がはらむ魔力は刺激が強すぎた。石人ゆえに彼は土地の持つ魔法の力に敏感だった。ここにじっとして故郷に体がなじむまで、奥地から届く魔法の風に身を慣らさなくてはならない。
夢うつつに、キゲイは迷っていた。
自分が柔らかな布団の中にいることは感じていた。布団はかぎ慣れない匂いだが、なんとも居心地がいいのだ。一方で、胃のよじれるような激しい空腹感と、寝返りをうつのもおっくうな疲労感が、体中を支配している。起きて何か食べ物を探すか、このままもう少し、いつものように姉が叩き起こしに来るまで寝ていようか。頭の中でぐるぐる考える。
――ん?
キゲイはふと気がついて、目を開ける。茜色に染まる古びた石壁が、目の前にあった。記憶にない光景。そういえば、こんなふかふかの布団に寝たのも生まれて初めてだ。重たい体を何とかひき起こす。
彼は、簡単な作りのベッドの上にいた。部屋は石造りで広くはない。壁に造り付けられた暖炉と、小さなテーブルに椅子が一脚。開け放たれている縦長の窓からの光で、全てが茜色と橙色に染まっている。部屋の壁は歯抜けとなった色タイルの列と、模様の描かれた剥がれかけの漆喰でまだらだ。ゆるい山形の曲線をした天井にも、壁からの模様が続いて描かれている。こちらも剥落がひどい。きっと以前は部屋中美しい模様で飾られていたのだろう。暖炉でぱちんと火花がはじけた。
キゲイはようやく、今までのことを思い出す。灰色の髪をした石人と、境の森を抜けた。森を抜けて彼が最後に見たのは、起伏の激しい荒野と、星空の下にそそり立つ高い山だ。たしか石人は、あの山を指差して白城だと言った。山が城なのか、城が山なのか。しかし彼の方は眠たくて眠たくて、まっすぐ立っているのも難しかった。
その後の記憶がない。眠たいなりにも、歩き続けたのだろうか。それともあの石人が、自分を担いでここまで運んでくれたのだろうか。いずれにせよ、白城の中に居ることは間違いないようだ。
キゲイは用心深く辺りをうかがうと、靴をはき、椅子の背にかけられていた上着をはおる。そして窓にそっと忍び寄って、外を覗いた。
「うわぁ……」
キゲイは思わず身を乗り出した。窓の外は、小さな庭だった。ところが周りを囲んでいるのは、信じられない高さの建物だ。空がひどく遠く見える。建物同士の隙間から日の光が差し込み、そのおかげでこの奥深い庭も真っ暗ではない。それにしても、周りの建物に人の気配が一切ない。庭も荒れ放題だ。辺りは重苦しいほどに静まり返っている。
キゲイは、ひどく心細くなった。まるでこの世に、ひとりぼっちにされたみたいだ。いてもたってもいられなくなって、部屋の扉を開けて外へ出てみる。
「えぇ……?」
部屋の外は、広い庭に面して柱が建ち並ぶ、吹きさらしの廊下だった。しかも、馬鹿みたいに長い。右を向いても左を向いても、どこまでもまっすぐに伸びている。そして廊下の壁も複雑な装飾の入った多角形の柱も、薄汚れてヒビだらけだった。今にも崩れてきそうだ。
――なんだか、寂しいところだなぁ……。
辺りは徐々に、暗くなり始めている。
――夕方だったんだ。
キゲイが途方にくれてあたりを見回していると、廊下の先にぼんやりと明るい場所があることに気づいた。不思議な感じのする白っぽい光だ。恐る恐る近づいて行ってみる。その間に、夜が駆け足で迫ってくる。明かりは廊下を途中で曲がった先の、半開きの扉の向こうから漏れていた。
特徴のある高い澄んだ声が、キゲイの耳に入る。半開きの扉の向こうからだ。隙間から遠目に覗いてみると、キゲイの知っている姿がそこにあった。
あの、黄緑色の長い髪をした女の子だ。側には、扉の隙間から見切れるものの、傭兵から彼女を助けた黄緑色の髪をした石人が、大きな体を曲げてひざまずいているのが分かる。彼は手に木のコップを持って、女の子に渡そうとしている。しかし女の子の方は偉そうに両腕を組んで、そっぽを向いている。彼女は再び何か言ったが、その言葉はキゲイには分からなかった。多分、石人語だ。
「トエトリア」
今度は、穏やかな若者の声が聞こえてくる。
「あの傭兵達が君に飲ませた眠り薬は、質が悪くて、一つ間違えば大変なことになっていたんだよ。それを飲んで、少しずつ体から毒を洗い出さないと」
若者の言葉は「言の葉」で、キゲイにも何を言っているのか理解することができる。
女の子は若者の言葉に納得したのか、ようやくコップを受け取り、一気に飲み干した。
「それで良うございますよ、姫様」
隣の石人も「言の葉」で答え、そして、キゲイの方へと顔を向けた。目が合う。戸口にいたキゲイは、息を呑んで身を引いた。その背中に、何かが当たった。キゲイは驚いて扉の取っ手に飛びついた。かろうじて扉にすがりつきながら後ろを向くと、大人の男がひとり立っている。部屋から漏れる明かりでぼんやりと照らされた男の頭髪は、青色だ。顔立ちにも見覚えがある。他でもない。彼は境の森で、キゲイが生まれて初めて会った石人だった。
相手は無表情のまま、顎を上げ気味にじっとキゲイを見下ろす。キゲイは目をまん丸にしたまま、見返すのが精一杯だ。
「誰かな、そこにいるのは。入っておいで」
この奇妙な睨み合いを中断させたのは、再び部屋の向こうから聞こえてきた、先ほどの若者の声だった。
青髪の男が扉に手をかけ、半ば力づくでキゲイを部屋の中へと押しやる。
部屋は広く、昼のように明るかった。光は、天井からぶら下がっている複数の青銅の皿からくる。皿には幾本も水晶の柱が蝋燭のように立っていて、それが白っぽい光を放っている。部屋の中央には五十人用くらいの大きな長い食卓がある。さらにその向こうは壁で、床より一段高いところに広い窪みが彫り抜かれていた。そこには小さいながらも立派な座卓と、植物の彫刻に縁取られた美しい背もたれ付きの座椅子が、しつらえられている。
その壁の掘り込みのふちに、年の頃は十七、八といった感じの石人の若者が座っていた。顔立ちには、鋭いところがまったくない。少しくせのある短髪は、恐らく純白だ。肌色はアークラント人よりは色白かもしれない。机や座椅子が立派な割には、身につけている物はそれほど高級そうには見えなかった。暗緑色の厚手のチュニックに、膝丈の渋茶の上着を羽織り、藤色をした幅広の帯で締めている。下には、ゆったりした生成りのズボン。非常に簡素だ。
青髪の石人が、キゲイの後ろで扉を閉めた。彼は部屋の右手に開いたアーチをくぐって、隣室へ消える。彼の衣装も、外形は白髪の若者とほぼ同じだった。しかし袖や襟元には凝った刺繍が入り、房のついた薄布を金の鎖とともに腰に巻いて、非常に見栄えがする。
「ええっと、名前はキゲイでよかったかな。こちらへ」
白髪の若者はふちを登って座椅子におさまり、キゲイに手招きする。キゲイは促されるまま、長テーブルでも一番若者に近い席に歩み寄る。
「白城へようこそ。僕はここの城主、ブレイヤールだ」
キゲイが椅子に浅く腰掛けると、彼はそう言った。人の良さそうな、優しい笑顔だ。
「事情は、トエトリア王女とシェド……君をここまで連れてきてくれた、灰色の髪の人だよ。その二人から聞いた。必要なだけここに居るといい。歓迎するよ」
「あ、ありがとうございます……」
キゲイは中途半端に頭を下げる。空腹のせいかもしれないが、頭が全然働かない。自分が石人の城にいることも、まだ信じられなかった。今は、何も考えない方がいいかもしれない。
パタパタと軽い足音を響かせて、黄緑の髪の女の子がやってくる。彼女はキゲイの向かいの席に片膝を乗せて、机に身を乗り出した。
「ごめんね。君を巻き添えにしちゃって、まさかここまで大騒ぎになるなんて、思わなかったの」
同じく、黄緑色の髪をした初老の石人もトエトリアの後ろにやってきて、申し訳なさそうな顔をキゲイに向ける。
「我々は、この白城からさらに南方にある、黄緑の城の者です。こちらは、黄緑の城の王女。今回は本当に、ご迷惑をおかけいたしました」
初老の石人があまりに深々と頭を下げたので、キゲイは戸惑ってしまう。
「このおじいさんは、黄緑の城の王室騎士団長」
ブレイヤールが簡単に紹介する。
「あのぅ、その、お姫様って……」
キゲイはブレイヤールの方を向いて、言葉を詰まらせる。
「君は王女様を、悪者から助ける手伝いをしてくれたんだ。すごいじゃないか」
ブレイヤールは快活に答えた。
「僕も一応はこの城の王族だけれど、そうかしこまることはないよ。僕らは、石人にとっての王族に過ぎないんだから。それより、腹が空いているだろう? 仕度ができたようだ。夕食にしよう。キゲイ、食べられない物はある?」
「ええっと、大丈夫です。キノコは嫌いだけど……」
「そうか。人間も石人も、似たようなものを食べるってことだね」
キゲイの返事に頷くと、ブレイヤールは卓上のベルを取って、カランカランと鳴らす。するとまもなく、廊下の扉や隣室からの扉が開き、次々と石人達が部屋に入ってきた。奇妙なことにその全てが、ものすごいお年寄りだ。皆髪は白かったが、ブレイヤールのようにはじめから白かったのか、歳をとって白くなったのか、分からない。ただ彼らの髪はブレイヤールと違い、暖炉の火や天井の照明に透けて、きらきらと輝いていた。そしてやっぱり皆、それぞれに凝った服装をしていた。最後にあの灰色の髪の石人が戸口に現われて、キゲイに気がつき会釈した。彼もトエトリアの家来の一人だったわけだ。
「これはこれは、はじめてお目にかかる」
キゲイの向かいの席に、バター色の髪と髭の、厳格そうな老人が座る。他の老人達より少し若くて、六十代くらいだろうか。白地に細かい金紋様の入った衣装は、一際目をひいた。
「主君が適当な服を着ておっても、家臣の方は常に身だしなみに気をつけねばならん。わしはこの白城の大臣、ルガデルロと申す」
キゲイは大臣に頭を下げる。石人の名前は、キゲイにはまだなじみが薄い。頭を上げたときには、大臣の名前など、すっかり忘れ去っていた。
「白城は滅びて国民もいないのに、大臣だなんて」
機嫌の悪い声が聞こえたと思ったら、青髪の石人が、鉄の鍋を片手にキゲイの後ろに立っている。彼は鍋の中の食べ物をおたまですくい、キゲイの前に置かれた椀に、べたり、ぼたり、とよそう。
「白の王子はともかく、家来の役職なんか意味ないじゃないですか。俺達全員、失業状態ですよ、大臣殿。あ、キゲイ、俺はグルザリオだ。王子の目付けをやっている。その他の雑用が多いがな」
彼は仏頂面のまま、おたまを鍋の中に突っ込み、キゲイに尋ねる。
「昨日の夜から、大して食ってないんだろ? これ、もっと沢山ほしいか?」
キゲイは慌てて首を振った。彼の前にはすでに、全体的に灰色の粥状のものが、椀から零れ落ちるまでに取り分けられている。グルザリオは、鍋を持って別の石人の所へ移って行った。キゲイは怪しいものでも見るように、椀に盛られた食べ物をじっと観察する。
それは、灰色の穀物をどろどろになるまで煮た物らしく、赤イモや大根などの根菜、その他緑や紫の菜っ葉、黒い豆が混ざっている。なんともいえない色彩の取り合わせだ。死ぬほどお腹が空いていたのに、胸が一杯になってくる。その間にグルザリオは粥を配り終え、長テーブルの数か所に、薄切りの肉らしきものが乗った大皿を置いて行った。
壁の掘り込みを見上げると、ブレイヤールとトエトリアが座卓に向かっていた。卓上にはやはり灰色の粥が載っていたが、二人は王族であるためか、料理が一品多い。
ブレイヤールのは、杏色をした正体不明の瑞々(みずみず)しい団子。トエトリアの方は、薄切りの燻製(くんせい)肉。
夕食は、ブレイヤールが自分の料理に手をつけるのを合図に始まった。キゲイは心の中で、溜息をつく。地読み士の里での食事の方が、まだましかもしれない。木さじで粥をすくい、一口食べてみる。大地の香りが喉の奥から鼻先をかすめた。端的に言えば、土臭い。薬草の味が強く、おいしくもなければ、意外とまずくもない。大皿の薄切り肉は、ほとんど油と塩の塊だった。粥に溶かして、塩味を足すだけのものらしい。
周りの老人達は食事より会話に夢中で、合間合間、灰色の粥を無感動に口へ運んでいる。もしかしたらこれは、彼らの体に合わせた薬膳料理なのかもしれない。一方、二人の王族は、黙々と食べていた。トエトリアは難しい顔をして、灰色の粥をもぐもぐとしている。彼女にとっても、この粥はおいしくないらしい。ブレイヤールの方は食事をしながら、何か考え事をしているようだった。
慣れない場所で、まわりは石人ばかり。理解できるのは周りの石人達が話す「言の葉」だけだ。天気と腰痛と今年生まれる子羊の話題が、大半を占めている。つのる心細さを振り払うように、キゲイは粥に集中した。幸い一口食べるごとにお腹が落ち着いてきて、重たい疲労感も薄れていく。
「キゲイ」
いつのまにか、ブレイヤールが褐色の瞳をこちらへ向けている。彼はまだ何かを考えている風だった。
「後で、僕の部屋に来てくれないか? この城で過ごすのに、知っておかなくちゃいけないことが、幾つかあるし、君が仲間達の所へ戻る時期についても、少し話しておきたいし……」
キゲイはその言葉に、ほっとして頷いた。城に泊めてくれるだけではなく、キゲイが帰るときのことも、ちゃんと考えてくれているようだ。
「キゲイ! 夕ご飯、それだけじゃ、足りないでしょ」
トエトリアが、すかさず口を出してきた。
「このお肉、あげる。香ばしくて、おいしいよ。こっちのは、なんて名前だったっけ。ミルクの膜と何かのスパイスを混ぜてつくった、水煮のお団子らしいわ」
トエトリアが燻製肉の皿に杏色の食べ物を添えて、キゲイに差し出す。ミルク団子はともかく鹿肉はありがたかったので、キゲイは少し上ずった声で礼を言い、素直に受け取った。団子は香料が効きすぎて個性的な味だったが、鹿肉は本当においしかった。
食事がすむと、淡紅色の髪をした老婦人がつと寄ってきて、お風呂に入るように言った。
「みそぎの意味もあるのだけど、それより、旅で埃だらけですからね。お湯に浸かれば、疲れも溶け出しますよ。服も洗濯します。代わりにこれを着ていらっしゃいな」
差し出された着替えを受け取り、優しげな老婦人に続く。「みそぎ」と言う言葉には、おそらくキゲイの体にくっついている、人間世界の埃や匂いを拭うという意味があるのだろう。あまり体を洗うのが好きでないキゲイも、ここは素直に従った方がいいと考える。
日は既に落ちて、部屋の外は暗闇に包まれている。老婦人が手にした輝く水晶の明かりを頼りに、終わりのないような廊下を進む。いくつもの角を曲がったために、キゲイはもとの部屋が分からなくなってしまった。大迷宮のような城だ。
「後でまた、迎えがお越しになりますよ」
老婦人は浴室の前で、そう言ってくれた。彼女の言葉遣いにキゲイは首をかしげたが、何も言わなかった。
キゲイはひとり、脱衣室に入る。部屋は相変わらず古びた様相だ。浴室への入り口から白い明かりが差し込んで、脱衣室をぼんやりと照らしている。
浴室は、キゲイがこの城ではじめて見た豪華さだった。床一面に、幾何学模様が砕いた白タイルで描かれている。所々タイルが剥がれているものの、白の曲線が様々な淡い色合いをした石床の上で踊っているさまは、見事だ。すぐ脇の壁際からは、暖かい湯が小さな滝になって注いでいる。お湯は床を一段掘り下げた水路を流れて、薄暗い部屋の奥へ消えていた。浴室の中ほどには四角い穴が三つあり、湯気の立つ湯が溜まっている。人の姿はない。
キゲイはお湯の滝に当たって、頭からつま先まで汚れを落とす。きれいになるだけなら、これで十分だ。しかし「みそぎ」のために、慣れない湯船の一つへそろそろと身を浸した。思っていたより気持ちがいい。体が温まるとともに、今まで張り詰めていたものが、ゆるくほどけていくようだ。
一人きりになれてよかった。湯船から石床の上に片腕を出し、その上にあごを乗っけた。そして、肺が空っぽになるまで、心底深い息を吐く。
これから、自分はどうなるのだろうか。そして、いつまでこの城にいればいいのだろうか。さっぱり見当もつかない。おまけに突然いなくなったから、里長や姉や兄は、ひどく心配しているだろう。傭兵の言いがかりで、地読みの皆に迷惑が掛かっていないといいのだが。
しかし今回のことは、石人を知る良い機会ではないのだろうか。ここで知ったことをアークラントの皆に話せば、役に立つかもしれない。
すぐにキゲイは、いやいや、と首を振った。レイゼルトの存在を思い出したのだ。石人のことは、彼が皆に説明できるだろう。そうなのだ。キゲイの力を必要としている人なんか、どこにもいない。
――僕、また失敗して、ここにいるだけなのかぁ……。
鼻の奥がつーんと痛くなる。キゲイは鼻をこすって、別のことを考えることにした。白城のことだ。
夕食に現われた石人達は、四十人くらいだった。それがこの城の全住人なのだろうか。しかもよぼよぼの人達ばかり。そういえば、青髪の石人が言っていた。白城は滅びたと。人も建物もよぼよぼボロボロなのは、そのせいか。
――この城で僕ができるのは、これ以上ヘマをしないってことだ。
もしあの白髪の王子にアークラントのことを聞かれたとしても、絶対に黙っていよう。そう決心する。
キゲイは風呂から上がり、新しい服を身につける。汚れた服の内ポケットからは、銀の鏡を取り出した。レイゼルトに預かってくれといわれた品物だ。鏡は、浴室からの明かりで、ぼんやりとにぶく輝いている。
――こんなところまで持ってきちゃったけど、よかったのかなぁ……。持ち逃げしたなんて、思われてなきゃいいけど。困ったな。
キゲイは銀の鏡を、服の前合わせの隙間から懐にそっとおさめた。