三章 白の王
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「冬の尻尾を踏んづけろ!」廊下へ出るなり、キゲイの目の前にトエトリアが躍り出た。もちろんキゲイは驚いて飛びのく。トエトリアは輝く水晶を片手に、ニコニコしながら立っていた。彼女の姿に、キゲイはひやりとする。トエトリアの色味のない純白の肌は、人間の彼にとっては不気味の一言だった。特に、こんな暗い場所では。トエトリアの方は、キゲイのことなどお構いなしにマイペースだ。
「びっくりした? 私、春迎えのお祭りが待ち遠しいの。ほら、これ。体冷やさないでって」
彼女は相変わらずのんびり上機嫌で、厚手の上着をキゲイに差し出す。詰め物が入って、少し重いが暖かそうだ。
「ブレイヤールの部屋に案内するね。ついて来て」
そう言うと、先に立ってさっさと歩き出す。キゲイは上着に袖を通しながら、おいて行かれないよう急いで追いかけた。
トエトリアの歩調に合わせて、彼女の腰に下がった銀の飾りが、しゃらしゃらと音をたてる。それは暗い廊下にどこまでも響いた。城はあまりに広く複雑で、その多くの場所が闇の中にある。
「あの……」
キゲイは廊下に声が響かないよう、小声でトエトリアの背中に声をかける。
「何?」
彼女は振り返らずに返事した。彼女の声は、腰飾りよりも鋭く闇に響く。
「あの、きみ……じゃなくて、あなた様は黄緑の城の王女様なんですか? でも、黄緑って……?」
「石人の世界には、十二個の城があるの」
トエトリアは歩調を緩めてキゲイの隣に並ぶ。彼女は自分の長い髪をつまんで、キゲイに見せた。
「それぞれの城は、王族の髪の色にちなんで、黄緑の城とか灰の城とか呼ばれてるの。どの城も山みたいに巨大で、そこに王族も貴族も国民も、全ての人が住んでる。城には、畑も森も川もある。だから石人にとっては、城がひとつの国でもあるの。人間達は『領地』が、国なんでしょ?」
「うん、多分……。石人の人達は、城以外の場所には住まないんですか?」
「他の場所は、魔物とか恐い精霊とかで一杯だもの。他のもので溢れていて、私達のいる隙間がない。無理よ。ところで、私のことは、トエトリアと呼んでね。ブレイヤールが言ってたけど、私は人間の前じゃ王族じゃないもん。でもね、本当は名前の呼び方ってちゃんとしてないと、大人達がうるさいの。白城の大臣さんとか、うちの王室騎士団長とか……。人間でも石人でも、私のことはトエトと呼ばないといけないらしいの」
「で、でも……。『トエト』は呼び捨てじゃ……」
「尊称だから、『様』はつけなくていいんだよ。石人の名前は、二つに分けられるの。私の場合は、トエトとエトリア。最初の名前は、神様の名前を表していて、尊いの。だから、ものすごく目上の人なんかは、こっちの名前でしか呼んじゃいけない。後ろの名前は、家族とか親友とか、特別親しい人達の間でしか使わないよ。両方の名前をあわせて呼ぶのが、一番普通」
「それじゃあ、この城の王子様のことは?」
「ブレイ。でも本人は、『音感が悪い』って、気に食わないみたい。私は彼のこと、時々、白王(はくおう)って呼ぶことがあるわ。ブレイヤールってちょっと長くて言い難いから、あなたもそうするといいかも」
二人は大広間ほどの幅を持つ廊下を横切り、大きな木の扉の前までやってきた。扉には曲線を主体とした幾何学模様が彫刻されている。線はうねって、水の波にも蔦にも見える。
「ここがブレイヤールの部屋」
トエトリアは、扉についた輪っかを握り、扉をこつこつ叩く。
「キゲイ、押して開けて」
キゲイは扉の取っ手に手をかけて、押してみる。かなり重い扉だ。両手を突いて体重をかけると、ようやく一人が通り抜けられそうな隙間が開く。キゲイの期待に反して、扉の向こうは真っ暗だった。トエトリアが真っ先に扉の間をすり抜ける。
「ここは?」
キゲイは周りを見回しながら、トエトリアにそっと尋ねる。扉の向こうで、二人は水晶の明かりの中に取り残されていた。周りは一切の真っ暗闇で、明かりを照り返すのは足元の床だけ。かなり広い空間が二人の周りに広がっているらしい。声も足音もよく響く。空気はよどんでいて、かび臭い古い匂いがする。
「白城の大図書館よ」
トエトリアは何の目印もない真っ暗闇を、水晶を掲げて迷いなく進んでいく。
「彼はとっても本が好きだから、ここに住んでるの。暇があれば本棚のどれかによじ登ってるみたい。えーと、そろそろ右に曲がらなくっちゃ」
二人の行く手に、暖かい色合いの光が現われる。それは一つの部屋から漏れている。部屋の入り口には厚手の織物が下がっていた。二人は織物をくぐって、中へと入る。
「いらっしゃい」
ブレイヤールが書き物から顔をあげた。
部屋はそれほど広くはなかった。部屋の壁数カ所の窪みに、それぞれ蝋燭が燃えている。蜜蝋のろうそくらしく、室内にはほのかなよい香りが漂っていた。素朴な造りの書見台とスツールが窓際に、そして小さな暖炉に火が灯っている。暖炉の赤い照り返しは天井へも伸びていて、天井の輪っかからつるされた糸束を照らし出していた。糸束は部屋の隅に置かれた簡素な織り機につながっている。その脇にはベッドがあり、毛布が数枚、きちんと畳んで重ねてある。小ぢんまりとした、居心地の良さそうな部屋だ。だが、とても王族の住む場所には見えない。
ブレイヤールは、部屋の真ん中にある小さな丸テーブルにいた。彼は手元の紙を脇にやり、素焼きのランプの灯りをテーブルの中央に戻した。
トエトリアは水晶の明かりを消し、テーブルの椅子にちょこんと腰掛ける。キゲイも促されて、椅子に座った。水晶の明かりがなくなると、この部屋には魔法らしいものは何もなくなる。キゲイにはそれが少し不思議な気がした。
「それじゃあ、ちょっと話そうか。トエトリア、まずは君から」
ブレイヤールは左の袖を探る。中から紐の束を取り出すと、それをトエトリアへ渡す。受け取ったトエトリアはあらためて、紐をキゲイに差し出した。
「あの、これは?」
「お守り。私の髪でできているの。魔術をからめて編んだのは、ブレイヤールだけど」
確かにそれは彼女の髪を一房、三つ編みにしたものだった。両端は髪がばらばらにならないよう、溶かした黄金でしっかりと留められ、表面には何かの模様が型押しされている。ただこの紐、やたらと長い。どうやらトエトリアは、ほとんど根元から髪を切ったようだ。
キゲイはお守りを受け取った。
「それを持っていれば魔物はあえて近づいてこないし、たちの悪い妖精にちょっかいを出されることもない。白城あたりはまだ大空白平原に近くて、土地の魔力も薄いから、魔物も邪精もたいしていないんだけど……」
ブレイヤールは話しながら、暖炉にかけられていた真鍮(しんちゅう)の茶瓶を引き出す。
「夜はやっぱり、彼らの力が増すからね。魔よけとして、持っておいた方がいい。いや、石人世界じゃ持ってないと、むしろ危険だ」
彼はテーブルに戻ってくると、三つの小さな湯飲みに中身を注ぐ。キゲイはトエトリアにお礼を言った。
「ありがとう……。えっと、王女様の髪も三つ編みが何本かあるけど、もしかして、それにも全部おまじないがかかってるの?」
「え、まさか。もしそうなら、髪結いの人が大変よ。そっちの三つ編みが特別なの。それは迷惑かけちゃった、せめてもの償い」
トエトリアはしおらしげにうな垂れて見せ、早速湯飲みに口をつけた。ブレイヤールも湯飲みを包むように持って、両手を暖める。石造りの城は底冷えがする。
「キゲイ、この城、ものすごく広いだろ?」
キゲイはお守りを懐に収め、ブレイヤールの言葉にうなずいた。
「僕一人だったら、絶対迷子になると思います」
「だろうね。僕だって、時々迷うことがあるんだから」
ブレイヤールは苦笑いを浮かべた。
「この城は、七百年前に滅びてしまったんだ。戦争で王が亡くなり、家来も国民も、城からみんな逃げ出してしまった。王族とわずかな側近だけが残ったんだけど、城はあまりにも大きすぎた。管理が行き届かなくなったうえに、時が流れるにつれ、城に関する知識や情報が失われてしまったんだ。側近の末裔達もどんどん数が少なくなって、もう年寄りばかり。今では僕自身にも、城のどこに何があるか、ほとんど分からない状態になってる。おまけに城が滅んだ後、なぜかうわさだけが大空白平原の人間達に伝わった。以来数百年間にわたってこの城は、遺跡と勘違いした人間達に、遺された財宝を盗まれ続けてきたんだ」
「宝物がこの城にあるんですか!」
キゲイの胸が高鳴る。それは、アークラントの人々が探し求めている魔法の宝なのだろうか。
「数百年間も盗まれ続けている割には、この城に隠されている宝は減っていないようだね。この間も、探検家を名乗る人間が勝手に城内をうろついていたから、追い払ったところだ。追い払っても何度も来る奴はいるけどね。変に顔馴染みになった連中もいるし」
ブレイヤールは、短い溜息をつく。
「この城は本当に広いんだ。深入りすれば、出られなくなることもある。城内で遭難して、飢え死にする人間もいるくらいなんだ」
それを聞いて、キゲイは不安になった。どうやら本当に手に負えないくらい、広い城らしい。ディクレス様達は、この城に入って大丈夫なのだろうか。うっすらと心配にもなる。
「アークラントの人達も、多分この城にやってくると思う」
ブレイヤールが、キゲイの心を見透かすようにこう言ったので、キゲイは思わず湯飲みを取り落とすところだった。もっともブレイヤールは、自分の湯飲みに視線を落としたまま考えにふけっていて、キゲイの様子には気がついていないようだ。
「問題の傭兵達も、城に来れば財宝に目がくらんで、君のことは忘れてしまうだろう。その隙に、こっそり戻っちゃえばいいんじゃないかな……。地読み士の皆は、君の味方なんだろう? ならきっと、かくまってくれるはずだ」
キゲイは、ブレイヤールの言ったことを、頭の中で繰り返してみる。本当にうまくいくだろうか。楽観的すぎるような気もするが、確かにそのタイミングで仲間の所に戻れなければ、いつ戻れるのかという気もする。
「じゃあ、僕、皆がこの城に来るまで、ここにいることにします……」
「そうしてくれ」
ブレイヤールは心細そうなキゲイに、穏やかな表情を向けた。
「さて、そろそろ二人ともお休み。キゲイはまだ疲れているだろうし、トエトリアは明日の朝早く、黄緑の城に帰らなきゃいけないんだからね」
トエトリアは、はぁいと返事して、椅子から飛び降りる。キゲイも湯を飲み干し、立ち上がった。軽い甘みとしょうがの味の湯だった。
「あの王様、ありがとうございます」
白王と呼ぶのもなんだが堅苦しい気もしたので、キゲイはブレイヤールのことを、王様と呼ぶことにした。ブレイヤールはキゲイの言葉にうなずいてみせる。彼はその呼び方を受け入れたようだ。結局白王は、キゲイにアークラントのことなど一つも尋ねなかった。
トエトリアがキゲイを連れて部屋を出て行くのを見送った後、ブレイヤールはひどく陰うつな気持ちに戻って、ベッドの端に腰掛ける。彼は知っていた。この先、アークラントに何が起こるかということを。しかしそれは、それと認めたがらない者以外ならば、誰にでもすぐ分かる事実に過ぎない。
滅ぶのだ。あの国は。
そもそも石人達にとって、大空白平原の人間達は疎ましい存在だった。七百年前の誓いで、互いの世界を分かつ境界を侵さないこと、大空白平原には誰も住まないことを決めたはずだ。なのに人間達はその誓いをたった三百年で忘れてしまったらしい。平原に住みはじめた人間に石人が気付いたときには、彼らの数は簡単に追い返せるほどではなくなっていた。それでも多くの人間達は本能的に境界石群を超えるのを恐れ、誓いの最後の一つは守られていたために、石人達も平原の人間に手を出すことは差し控えていた。少なくとも平原の人間はかつて争った人間達と異なり、平原を東西に行き来することだけにしか興味を持っていなかったからである。確かにこの平原は、大陸の東西をなだらかな地形でつなぐ唯一の道らしかった。
ところが今、忘れ去られたはずの峡谷を抜けて、新しい人間達が平原にやって来た。しかも彼らは躊躇なく境界石を越えようとしている。石人達はすぐに気が付いた。アークラントの人間達は不吉な運命を負って峡谷を通り、戦の匂いを運んできたのだ。平原の人間だけでも厄介に感じていた石人達が、新たに現れた人間達の素性を確かめるのに、大した時間はいらなかった。
「なんでこんなことをしてしまったんだろう……」
ブレイヤールは独り呟く。
キゲイはトエトリアを助けてくれた。それで困った事態になったのだから、今度はこちらがキゲイを助けるのは、当然だ。お互いの立場や生まれを気にすることなく、親切に親切で応じるだけですんだなら、どんなによかっただろう。
ブレイヤールを悩ますのは、キゲイが滅びる国の人間だったこと。このまま仲間の元に帰せば、いつかはアークラントを巡る戦争に巻き込まれて、ひどい目にあうか死ぬかのどちらかだ。かといって、彼をこのままずっと、城に引き止めておくわけにもいかない。一方では助けていても、一方では見殺しにしようとしている。トエトリアが人間の町に行くなどという、浅はかな行動をしでかさなければ、彼もこんな割り切れない嫌な気持ちにならずにすんだろう。そう考えると、彼女のことを恨めしく感じる。
彼を落ち着かなくさせているものは、他にもあった。アークラントの人間達が石人世界に入ろうとしている、事実そのものだ。石人達はアークラントの人間達を、それほど危険だとは思っていない。魔物が闊歩(かっぽ)するこの石人世界で、人間はすぐに引き返す道を選ぶと考えている。人間達が峡谷の向こうに帰れば、峡谷を魔法で突き崩し、二度と通れなくしてしまえばよいと。しかし本当にアークラントの人間達の侵入を、そんな程度に捉えていていいのだろうか。
ブレイヤールは立ち上がり、織り機の前に行く。織り機には作りかけのタペストリーが張ってある。彼はこのタペストリーで、森に広大な幻を織り込んだ。布に縫い取られた森の姿は、いまだどの場所も、ほつれたり穴が開いたりはしていない。幻術は破られていないようだった。なのにどうも嫌な予感がする。
彼は虚空を見上げる。魔法使いとしての鋭い感覚が、アークラント人達が平原に持ち込んだ戦の匂いとは別のものを嗅ぎ取っていた。
「人間の心配だけなら、いいんだけど……」
ブレイヤールは呟いて、すぐに口をつぐむ。アークラントが石人の宝を求めて平原に現れたのは、石人達に否が応でも七百年前のことを思い起こさせる。七百年前には、人間との戦以上に、振り返りたくない過去があったのだ。