五章 交錯

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 荒縄の束と、木タールが塗布された木箱の狭間は、居心地のよいものではない。縄はごつごつとして痛いし、木箱は木タール独特の焦げ臭い匂いがする。キゲイは、相変わらず地読み士達の荷物テントの中だった。
 夕暮れ時に、東の里長が血相を変えてやって来た。彼女はキゲイの無事を喜んだものの、やはり、彼の存在はアークラントの兵士や傭兵達から隠しておきたいようだった。さらに彼女は、昼遅くに城内で手付かずの宝物庫が発見されたことを、興奮気味に話した。
「なかなか、込み入った場所にあった宝物庫だったわ。運び出しは明日だけど、こりゃ期待大だね。あの中に、国を救ってくれるような魔法の宝があれば、一歩前進よ。予言に言われている英雄って、案外ディクレス様ご自身のことじゃないのかしらね。国を留守にして、怖い石人の世界に足を踏み入れるなんて、ご英断をされたんだもの」
 キゲイは里長の言葉を、なんとも言えない気持ちで聞いた。あの宝物庫の中には、アークラントが真に望んでいるようなものはないのだ。それが分かったときには、皆さぞがっかりすることだろう。彼女は忙しげに去っていき、キゲイは再び一人取り残される。
スープ 夕食時には、テントの中にいても、周りの人々の興奮した活気ある沈黙を感じ取ることができるくらいだった。日が暮れて冷え込みがきつくなると、荷物見張りの男が熱くした石をいくつかよこしてくれる。キゲイは石を布にくるんで胸に抱き、熱くてぴりぴりするスープをすすって、じっと寒さに耐えた。
 今では、辺りはすっかり静かになっていた。人々の多くが眠りについたようだった。キゲイも毛布をもらってうとうとしていたが、寒さで熟睡ができない。そのうちに、おしっこまでしたくなった。いくらずっと隠れていなければならなくても、こればかりは無理な話だ。外の見張りに声をかける。
「漏れそうです……!」
 見張りは飛び上がった。
「そこではするなよ! こう暗くなれば、顔も見えんから大丈夫だろう。向こうの城壁の隅でしてこい。あとはちゃんと隠すんだぞ」
 キゲイは渡されたスコップを手に、小走りにテントの群れから離れた。城壁の影に穴を掘り、用を足す。穴を埋めて砂で手を洗うと、ほっと一息ついた。
 振り返って城を見上げる。城内はひっそりと静まり返り、星を浮かべる夜空と同じくらいの深い闇に満たされている。何もない闇を見つめていると、その中で瞬く小さなものがある。キゲイは目をこすった。瞬くものは見えなくなったが、不意に背筋に悪寒が走り、反射的に胸に手を当てた。手の下には、懐に収めた石人達の品がある。
 ひとつは、黄緑の王女様にもらったお守り。これがあれば、悪い妖精は怖くないはずだ。ひとつは、彼女を傭兵達から助けたときにもらった硬貨。そして、最後のひとつはレイゼルトの銀の鏡。
――もしかしたら宝物庫の宝より、僕が持ってるものの方が、ずっとずっと価値があるのかも。
 冷たい風が出てきたため、キゲイはテントへ帰ろうと小走りに駆ける。ところがその足はすぐに止まった。城の奥、いくつも連なる柱の影に、ひとつの人影らしきものが動くのが見えたのだ。胸が高鳴った。もしかしたら、ブレイヤールではないのだろうか。他の人に気づかれる可能性もあるから、声を上げるわけにはいかない。キゲイは城壁の影に身を沈ませて、そっと追い始めた。
 月の淡い輝きが、暗い柱廊へ斜めに差し込んでいる。人影は、月の光と柱の作る影の狭間を、音も無く滑るように進む。キゲイはできうる限り足を速めた。それでも徐々に、人影は先へ先へと小さくなっていく。最後に人影がひと揺らぎして、柱の影に入る。キゲイは一瞬駆け出し、それから立ち止まって柱廊の奥をうかがう。闇の中で何かが動く気配は、ここからでは良く分からない。キゲイは息を整え、思い切って城の方へと歩みだした。
「よせ。行くな」
 背後からの声が、キゲイの足を止めた。キゲイは息を呑んだ悲鳴を上げ、振り返ると同時に腰を抜かしてしまう。崩れかけた城壁の上を、レイゼルトが歩いていたのだ。レイゼルトは城壁に腰を下ろし、そのまま崩れ落ちた石の塊を次々と、無駄の無い動作で飛び降りる。そして、キゲイの側まで詰め寄ってきた。
「この世界で得体の知れないものについて行くのは、命取りだぞ。いったい、あれを誰だと思った」
「だ……、誰なのさ……」
 キゲイは相手に圧倒されたまま、どうにか問い返す。レイゼルトの顔にはたいした表情は浮かんでいなかったが、全身の様子から、どこか緊張と警戒を秘めているように感じられたのだ。レイゼルトは城の方へ顔を向ける。月明かりに浮かんだ彼の横顔は、一瞬厳しさを帯びた。
「石人の亡霊みたいなものだ。あれは目が悪いから、大きな魔法しか見ることができない」
 レイゼルトはぱっとキゲイに向き直る。
「お前に渡した、その銀の鏡に引き寄せられて来たんだ。いざ近づいてみて、鏡の持ち主が私ではないことに気づき、立ち去ったんだろう」
 レイゼルトの口からするすると出てきた一言一言に、キゲイは混乱する。どの言葉も、何かとんでもないことを暴露している気がした。いくつもの疑問と戸惑いが形を成さないまま、キゲイの頭の中で激しく渦を巻く。ところが次の瞬間、それらの全ては一色の怒りに変わった。
「誰なんだよ! お前は! 名前だって、嘘ついてるくせに! それに、この鏡だって!」
 目の前の人物が、ブレイヤールを殺しかけたことを思い出したのだ。キゲイはよろめきながらも、立ち上がる。
「嘘か。私の名の由来を聞いたのか?」
 レイゼルトは横にちらりと目を逸らし、投げやりな動作で、右腕の籠手のベルトを緩めて取り外す。そしてキゲイの方へ、右腕を差し出した。その腕は手首から先がない。口をへの字に曲げてそれを見つめるキゲイに、レイゼルトは呟いた。
「『レイゼルト』には右手がない。私が名乗った名前とこの腕が、果たして何の証拠になる? 『レイゼルト』じゃなくたって、こんな怪我は珍しくもない」
 レイゼルトは再び籠手をはめ、ベルトを締める。
「それよりも、その銀の鏡は間違いなく禁呪だと言ってみせようか」
 キゲイはさっと胸に手を当て、それから懐から鏡を取り出した。
「人間の味方なら、なんで先にこれをディクレス様に渡さないんだよ! 魔法の宝なんだろ? 人間の味方をするって、言ってたじゃないか! これがあれば、アークラントは滅びなくてすむんだろっ」
「私は今それに触れられない。さっきの化け物に気付かれる。お前がディクレス様にそれを渡したいなら、今しかチャンスがないぞ。渡したいなら渡すがいい。それも運命だ」
 澄まして答えたレイゼルトに、ますますキゲイはむかっ腹が立ってきた。
「本当に僕らの味方なのかっ! アークラントを助ける気、あるのかよ!」
「アークラント先住民ごときが、『国を助ける気』だって?」
 思いがけないレイゼルトの切り返しに、キゲイは目を点にする。彼の怒りはなぜか、冷や水を浴びせられたかのように、一瞬にしてすぼってしまった。レイゼルトの言っている意味が、よく分からなかった。
「な、なんだよ。そっちだって、石人のくせに……」
 レイゼルトの瞳は、鋭さを帯びてキゲイに向けられていた。そこにあるのは怒りではない。その眼差しを、キゲイはよく見知っていた。アークラントの老兵士、タバッサで天幕の前にいた少年達、ひいてはアークラント人全てに共通する、ディクレス様への真摯な忠誠の表情だ。それに気がついたキゲイは、目の前の人物をどう解釈すればいいのか、完全に分からなくなってしまった。なぜ石人である彼が、そんな言葉を口にするのだろうか。なぜ石人である彼が、アークラント人と同じような眼差しを持てるのだろうか。
 石人だの人間だの、ディクレス様だのブレイヤールだの、敵だの味方だの、もうめちゃくちゃだ。何を信じて、何を疑って、何をすべきなのか、ひとつとして分からない。キゲイはただただ負けたくなくて、レイゼルトを睨み返すだけになってしまった。
「人が来るな……」
 レイゼルトが不意に視線を逸らし、キゲイはそのおかげで我にかえる。しかしすぐさまレイゼルトに首根っこをつかまれ、状況の分からないまま、城壁の下の崩れ落ちた石材の影に引っ張り込まれてしまった。レイゼルトも隣に隠れて、短い言葉とともに開いた左手を宙で握りこむ。辺りの影が、より濃くなったような気がした。
「鏡を覗いてみろ」
 キゲイは言われたとおり鏡を覗き込む。レイゼルトが横から手をかざすと、鏡にくっきりと一つの像が染み出してきた。キゲイは石材の影から城の方をうかがい、再び鏡に視線を戻す。鏡はすぐそこの柱廊を映し出していた。そしていつの間にかそこに現れていた、いくつもの人影も。レイゼルトが再び左手を上げ、何かを巻き取る仕草をする。風に乗って、大人の話し声がキゲイの耳に届いてきた。
「おい、誰もいないよな? よな?」
「大丈夫だ。ここまで来れば」
「しかしまぁ、こんな夜中に城に忍び込もうなんざ、よくやるよなぁ。トゥ……なんたらは、夜に入るとやべぇって、言ってたろ?」
「ふん。魔術師なんぞ、子ども以上に愚かで意気地無しだわ」
 鏡に映し出される柱の狭間から、独特の形の鎧を身につけた汚らしい男達が姿を現した。傭兵だ。後からやや身なりのいい男達が続く。傭兵達は皆、背中に重たそうな麻袋を背負っていた。
「それにしても、本当になんか出そうだったぜ」
「ひゅーぅ。こんな所でとり殺されちゃぁ、浮かばれないぜ。なぁ?」
「俺達だって、お頭にばれてみろ。ミンチにされるか、三枚に下ろされるかの、どっちかだぞ」
「違うな。下ろされてミンチだよ」
「タバッサの方へ抜けるんですかい?」
「そこで馬車を借りて、カナリーの町ヘ向かう。そこからさらに北へ向かい、平原を出る。アークラントでの先の見えた小競り合いなどとは、永遠にお別れだ」
「これだけありゃあ、いい暮らしができまさぁ。でも旦那方は、髪は少ないが知識は豊富なその頭で、この金を何倍にも増やせるんでがしょう? 分け前は頼みますぜ」
「もちろんだ。馬の用意はできているだろうな?」
「向こうで仲間が待ってるはずでさぁ」
 たくさんの人影は鏡から見えなくなる。会話はこの後もぽつぽつと続き、やがてそれも遠くなった。レイゼルトは鏡の像を消し、立ち上がる。
「こいつら……」
 キゲイは呆れと怒りで、二の句がつけない。鏡をぎゅっと握りこんだ。
「アークラントの行く末は暗い。灯りがいるな。予言者はそれが石人世界にあるというが」
 キゲイは顔を上げる。レイゼルトは皮肉な笑みを浮かべて、裏切り者達が立ち去った方向を眺めていた。
「連中のことはすぐにばれるから、お前は気にせず戻っていいぞ」
 レイゼルトは偉そうに言いながら、城壁を這い登る。キゲイは慌てて立ち上がった。
「宝を取り返しに行くの?」
「その必要はない。それよりお前、早く戻った方がいいんじゃないのか? 仲間が心配する」
「待ってよ。それじゃあ、どこに行く気なんだよ! それにこの鏡、お前のだろ! いらないのかよ!」
「私はその鏡を時の水面(みなも)に投げ入れた。鏡の描く波紋がどこに行きつくか、もう少し見させてくれ。それは七百年前も見事に動いてくれた。魔法の品は無意味には動かないものだ」
「ど、どういう意味だよ! わけ分かんないってばっ……!」
「分からないように言ったんだ」
 それ以上の答えが返ってくる気配はなく、レイゼルトの姿は城壁の向こうへと消えた。キゲイは迷ったものの、追いかけて行くわけにもいかない。暫く城壁の下でうろうろしていたが、結局、地読みのテントへ戻るしかなかった。その足取りは重い。再び懐の中に隠した鏡の存在が、あまりに重かった。