七章 黄緑の城

7-2

 髪が編みあがり、昼食もとってそろそろ眠くなる時間。ようやく舟は上層に位置する王城に到着する。待ち受けていた侍従長がすかさず寄ってきて、トエトリアの髪型を確認した。侍従長はてきぱきと女官達に指示を出す。
「すぐにお清めを。風邪をぶり返されるといけないから、お体を冷やさないよう気をつけて。そちらに部屋を整えているから、お召し替えはそこで」
お召かえ トエトリアはそのまま女官達の流れ作業に乗せられて、何がなにやら段取りがつかめないまま、急かされるままに控えの間から浴室へ、浴室から着替えの部屋へと移される。部屋の大きな机の上には正装用の衣装がずらりと並べられていた。侍従長は端から順に着せていくように指示し、自分も服を取って王女に着付けを始める。
 当の王女本人はといえば、もう半分は昼寝をしていた。寝ていても周りの女官が体を支えて引っ張りまわし、うまい具合に服を着せていってくれる。それでも侍従長が古風な長衣の帯を思いっきり締めると、彼女は咳き込んで目を覚ました。
「さ、これからが本番です。寝ている場合ではございませんよ!」
 城の、すなわち国の守護者である王の正装は、戦衣装だった。魔物から城を守るという意味がある。草水晶の石鱗を幾重にも重ねた鎧をつけ、腰には金銀細工のベルト、そして翡翠の剣を下げる。頭には銀細工の冠。こちらにも淡い黄緑の宝石がちりばめられている。最後に床に引きずるほどの長いマントを羽織る。それは春の大草原のような、萌え立つ若芽色だった。体の動きにあわせて、風が渡るかのように銀色の波模様が現れる。それはそれは見事な織物だった。
 すべての着付けが終わると、トエトリアは重すぎて動けなくなる。体重が三倍以上に増えたぐらいの苦しさだ。そもそもこの衣装は、大人用なのだ。泣きそうな顔で侍従長に無言の訴えを投げる。
「近衛隊長殿、いらっしゃってます?」
 侍従長はすぐさま隊長を呼んだ。
「両脇から支えて、姫様がお歩きになれるよう手を貸してください」
 隊長は小さくうなずき、二人の近衛騎士をトエトリアの助けに立たせた。
 用意が整うと一同は王女の歩調に合わせ、そろそろと儀式の間へと移動を開始した。道中、星の神殿から派遣された神官がすっと追いついて来て、王女と並ぶ。彼は儀式の段取りを伝えにきたのだ。
「まず一つ。ですがこれがすべてです。儀式の間では一切口を聞かぬこと。よろしいですか?」
 トエトリアは無言で頷いた。服が重くて、口をきく余裕がない。本当ならば神官の問いかけにきちんと答えないのは、とても失礼なことなのだ。もっとも神官は彼女の様子を見て、大目に見てくれた。彼は無礼を気にすることなく、先を続ける。
「王衛はあなた様の家臣であり、また星の神殿の神官でもありますが、実際の立場は特殊です。彼らの仕事は王の命を守ることで、その使命を果たすためならば法を犯しても構わないとされます。というのも王衛となるものは儀式の間へ入ると同時に、戸籍の上では死亡とされます。死んだ者ですからこの世の法に縛られる必要がないのです。儀式の部屋となる『剣の間』は、あの世とこの世の境だとお心得ください」
「分かりました」
 今度はトエトリアも、王女として何とか言葉を返す。
「結構なご返事です。それでは星の剣と杖の話は、すでにお勉強されておりますか?」
「十二国建国以来伝わる、初代国王の魔力を宿した一振りの王剣と王杖。それから、大巫女様の霊力を封じた、王剣と対になっている剣があるって聞きました」
 トエトリアは早口に答える。重たい冠のために首は痛いし、鎧のおかげで肩も痛くなってくる。儀式の間まで、体力が持つかどうかもあやしい。
「その通りです。黄緑の国では王剣は栄光とともに失われてしまいましたが、守護の剣が残っていることはたいへん素晴らしいのです。大巫女様の力が宿っているため、剣の持つ力は王剣よりも大きく、もっともよく王を守護するといわれているのですから」
 それから神官は、黄緑の国の歴史において守護の剣が大活躍した話をいくつも話す。神官の顔に表情はないが。声だけは少し誇らしく聞こえた。
 静を重んじる星の神殿は、神官達に表情を出すことを禁じている。感情がどうしても顔に表れそうになったときのため、顔を覆うお面を持ち歩かせているほどだ。トエトリアは視線を下げ、神官の胸元を見てみる。前あわせの上着の懐に、布を押し固めて作ったお面が覗いていた。
 神官が式の段取りを確認しているうち、遅れて到着した左右の大臣達も合流して来た。やがて一同は、城の中枢に入る大扉の前に到着する。黒地に銀と黄緑の琥珀で装飾された扉も、今は幾重もの魔法の鍵を取り払われて、大きく口を開けていた。扉の両脇には神殿の騎士らが居並んで、中枢の入口を守っている。神殿騎士は神官と異なり、常にお面を被っている。その上物々しく武装した彼らの姿は人の気配も感じさせず、どことなく不気味だ。入り口の中央に立つ騎士が、白い魔法の炎を揺らめかせる長い銀のトーチを床に立てて構えていた。トーチは騎士の身長の倍もある。神官の話によると、中枢回廊に明かりを入れることは禁じられているため、この明かりを使って中に入る一同の足元を照らすという。
 中枢入口の前で神官は深く一礼する。それから一同を振り返り、静粛に進むよう、唇の前に両袖をつき合せて見せた。トエトリアは頷き、この国の王族として最初に中枢への門をくぐった。神官とその他の家臣達が後ろに続く。
 中枢回廊は城の根から頂上までを貫くといわれる、巨大な円柱の塔を中心とした螺旋のスロープである。この中枢部の壁面は、城の構造をなす石がむき出しのままになっていた。この石は城の部位によって透明度がまちまちだが、中枢部の構造石はそのすべてが澄んだ水のように透き通っている。そうとはいえ、外の光が入らない場所では、石は漆黒一色にも見えた。ただスロープ外周側の壁の奥で、白く輝く面がいくつもある。トエトリアは後ろを振り返り、神殿騎士がかかげていた明かりが、壁の中にある屈折面で反射しているのを知った。彼女は壁の奥を見透かそうと目を凝らす。しかし光を反射している部分以外は星のない夜空のように真っ暗で、奥行きさえ分からなかった。
 一同は立ち止まることなく螺旋道を下って行く。奥へ行くほど入口から直接差し込んでいた明かりは届かなくなり、騎士が捧げていた銀の杖の光を反射した白い輝きだけが道を知らせるものになった。光は壁の奥で砕けた鏡の破片のように輝き、回廊の床がそれを受けて暗闇の中に淡く輪郭を浮き上がらせている。
 中枢を支配する暗闇に目が慣れてくると、外周の壁の中にほのかな明るい縦の線がいくつも見えてきた。トエトリアは立ち止まり、壁に顔を近づける。それは細い光の線が小さな円を描いているものだった。円はわずかに細くなったり太くなったりしながら、ゆっくりと上へ昇っている。
――水の中の泡かしら? それとも水の粒なのかしら?
 城ではどんな高所でも、水が尽きることなく湧き出ていた。それはこの城に限らず、白城でも他の城でも同じだ。その仕組みについて昔から様々な議論がされていたものの、実際の所は誰にも分からなかった。水は構造石の湧き出し口から流れてくるのだが、構造石はダイヤモンドのように硬く、その奥の水路がどうなっているのか、調べようにも手が出せないのだ。
 水を汲み上げる秘密があるとすれば、この中枢のどこかだろう。この壁の奥でゆっくりと立ち昇る小さな水、あるいは気泡を含んだ細い水の通り道が、その秘密なのだろうか。トエトリアは首をひねって壁から離れ、再び歩み始めた。
 剣の間は塔の中にあった。扉は開け放たれ、部屋からは白く輝く煙が外へ漏れている。スロープの外周側には砕けた光の欠片がいくつもあったが、塔の外壁でもある内周側は、常に真っ暗だった。剣の間付近だけを輝く煙が照らし、透き通った基礎石を通して塔の内側を覆う化粧石の背面をあらわにしている。化粧石は黒っぽい色をして、背面には細かな蔦模様らしきものが彫り込まれている。
「少々お持ちください。儀式の用意がまだ整っていないようです」
 神官が扉の前に立ち、トエトリアにそっと告げた。まだ部屋には入れないらしい。
 トエトリアは神官の背中越しに室内を覗いてみる。暗い部屋の中央には、きらびやかな正装に身を包んだ老神官の姿があった。その片手に鎖のついた光炉を下げている。輝く煙はそこから立ち昇り、淡くあたりに漂っていた。煙に照らし出される室内は磨かれた暗黄緑の石が敷き詰められているだけで、調度品は一切ない。部屋の奥に、隣室へと続いているらしい二本柱のアーチがある。隣室は真っ暗だ。
 やがてそのべったりと暗闇に塗りつぶされた柱の間から、三つの人影が浮き出るように現れた。真ん中の人影は知っている。彼女をタバッサから連れ帰った若い方の石人、シェドだ。両脇の二人は装束から神官だと分かる。光炉のほのかな明かりの中で、三人とも顔色が悪く見える。シェドは時々足元がふらついて、左右の神官に支えられることもある。
 三人は老神官の前にひざまずく。左右の神官だけがすぐに立ち上がり、部屋の片隅へと身を引いた。そのうち一人が、怯えたように自分達の出てきたアーチの暗闇へ一瞬目をやったのが見えた。
 老神官が腰帯から細身の銀の杖を抜き、光炉を軽く打つ。澄んだ音色が中枢に響いた。儀式を始める合図だ。トエトリアはそっと部屋へ踏み込む。何枚も着重ねているというのに、室内の冷気が肌を刺した。老神官の隣へ行き、ひざまずいたシェドと向かい合う。シェドが身に付けているのは、黒地に銀刺繍で複雑な曲線を描いた貫頭衣だ。それは石人の死装束だった。
 老神官が再び光炉を打つ。隣室から剣を捧げ持った神官が、静かに歩み出てきた。剣は抜き身のままで、研ぎ澄まされた刀身には冴え冴えとした白い光が宿っているように見える。神官は顔にお面をつけていた。老神官は光炉と入れ替わりに輝く剣を受け取り、それを恭しくトエトリアの前に差し出した。
「大巫女様の無き御名において、この者は剣の影となることをお誓い申し上げます」
 トエトリアの背筋を痺れるような悪寒が走る。嫌な誓いの言葉だ。剣の影なんて、まるで人ではなくなるかのような言い回しではないか。
 彼女は王衛と言うものが、他の家臣達とは全く異なる立場にあることに、ようやく気が付いた。剣を捧げ持つ老神官の手は震えている。大巫女の魔力が宿る剣の尊さと、剣の鋭さを畏れているのだ。彼女も震えた。命を捨てて剣の影になろうとする王衛を迎えることは、彼女自身もまた、王の立場に一歩近づくことなのだ。その責任の重さに気が付くと、彼女は怖くて仕方がなくなった。
 トエトリアは助けを求めるように、視線を泳がせる。老神官は剣を捧げ持つことに全身全霊を傾けている。シェドはまるで眠っているかのように無防備にうな垂れてひざまずいたままだし、部屋の隅に控える神官達も無表情だ。部屋の入口には侍従長や大臣達の姿が見えた。彼らは目を丸くして、無言でトエトリアを急かしている。助けてくれそうな人はいない。むしろ彼女が王にならねば、この人達は助けの手を差し伸べられないのかもしれない。王に仕え、国に仕える人達なのだから。
 トエトリアは口を引き結んで覚悟を決める。彼女は剣の刀身に右手を下から添え、左手で剣の柄を掴む。心配していた剣の重量は、あまりの軽さにかえって戸惑うほどだった。子どもの彼女でも、危なげなく持てる。老神官に視線を送ると、彼は両腕を真っ直ぐ下げた。剣はトエトリアの手に残る。
 彼女は光炉の光に煙る銀色の刀身を見つめた。ふとある確信が芽生えて、固く目を閉じ、右手を握りこむ。刃が指の腹に当たる感触がある。再び手を開く。指には刃の痕が残っていたが、血は滲んですらいない。彼女は理解した。確かにこの剣は王を守る剣だ。自らの刃からも王を守っている。当時の大巫女様の魔力が、剣にその意思を吹き込んだのだ。
儀式 彼女は剣から顔を上げ、老神官を見返した。相手は一礼をして後ろへ下がる。儀式は、王衛の首の後ろへ剣を添えれば終わる。彼女は刀身に添えた手を離し、剣を水平に薙ぎながら王衛の方へ向きなおる。
 トエトリアは目を見開き、全身で大きく息を吸った。彼女はそれで我に返った。いつの間にか、剣は足元の床に突き立っている。何が起こったのかよく分からず、じっと剣を見つめていると、シェドのやや戸惑ったような顔が視界に入る。彼は立って、剣の柄に手をかけて引き抜いた。それから剣を脇に置き、再び服従の姿勢に戻る。トエトリアが横を向くと、老神官が部屋の入口を示した。儀式は王が王衛を伴って部屋から出ることで完結する。とすれば、もう儀式は終わったのだ。
 トエトリアはわけが分からないままに、老神官の無言の指示に従った。体が冷え切っていて感覚がない。両足もきちんと動かせているか、衣の裾から覗くつま先に意識を集中させなければ歩けなかった。部屋から出ると、すぐに両脇から近衛兵達が支えてくれた。一行は足早に中枢のスロープを戻った。
「私、儀式をちゃんとやれていた?」
 ようやく城の中枢から出ると、すぐにトエトリアは侍従長に尋ねた。自分が儀式の最中の、しかも一番大事なときの記憶を失っていたのは確かだ。よほど緊張していたのだろうか。あの間、自分の身に何が起こり、自分は何をしたのか、不安でならなかった。
「はい。迷うことなく王衛殿の首に剣を載せ、たいへん立派でございました。最後に剣を取り落とされたのには驚きましたが。床の傷は神官様方が直してくださいますから、ご心配には及びません」
侍従長は血の気の引いた顔をしていた。けれどもそれは、単に緊張と寒さのせいなのかもしれない。彼女の口調は、いつもと変わらなかった。
「王女様には、剣が重かったのかもしれません。お気になさいますな。あの剣はとても鋭い刃を持ちますが、王と王衛は決して傷つけないのです」
 儀式の間へ案内した神官も口を添える。トエトリアは頷いた。
 周りで見ていた者達は、見た通りのことしか分かっていないようだ。彼女が目を開けたとき、心がまるでどこか遠くから帰ってきた感覚がしたことや、そのために、まるで自分の魂を体に呼び戻すように、大きく息を吸い込まなければいけなかったことは、彼女にしか分からない。これが儀式というものなのだろうか。過去の黄緑の国の王達も、そして他国の王達も、王衛就任の儀でこんな気味の悪い経験をするものなのだろうか。
 トエトリアは後ろを振り向いた。王衛になったシェドが、服を着替えて中枢の扉から出てくるところだ。身に付けていた死装束は縦に長細く折りたたまれ、肩から腰へたすき掛けにして王衛を表す帯飾りになっている。剣帯は黄緑の国の所属であることを示す黄緑色で、剣を二本吊っていた。細身で短い方があの守護の剣で、もう一本のものは近衛兵が持っている剣と同じだ。改めて守護の剣を見ると、柄には国の紋章である神魚が透かしとして彫り込まれており、全体的に華奢で、実用というよりも飾り用に見える。それでも実際には石に突き刺さるほどの、とんでもない切れ味の剣なのだ。
 シェドに続いて、儀式の間にいた二人の神官達も出てくる。彼らは互いに言葉を交わしていたが、小さな声だったので彼女には何を言っているのか分からない。シェドがそれに気づいて、鋭い動作で彼らを振り返ると、神官達は揃って口を閉じた。トエトリアには、シェドが彼らを無言で戒めたように見えた。とすれば、神官達は何かよくないことを言っていたのだろうか。
「さあ、すべて終わりました。戻りましょう。姫様も随分お体を冷やしてしまいました」
 左大臣がトエトリアの様子を気遣って、皆を急かす。確かにトエトリアはくたくただった。寒い部屋で散々緊張して、冷や汗もいっぱいかいた。悪寒も止まらない。結局私室に戻った彼女は、すぐさまベッドに寝かしつけられて薬草茶を飲む羽目になってしまった。悪寒の説明が、上手く出来なかったからだ。おかげで儀式の間で体験した不気味な記憶の欠落は、風邪をぶり返したせいにされてしまった。
 日が暮れると大臣達が見舞いに訪れ、最期にシェドが現れた。トエトリアは暖炉の側の長椅子で、しょんぼりと食後の水薬を飲んでいるところだった。
「お加減はいかがですか?」
 彼は一礼をした後、大臣達と同じ言葉をかけた。
 シェドはひと月前に、神殿から城に来ていた。王衛に選ばれるくらいだから、髪は灰色でも黄緑の貴族の血縁者なのだろう。トエトリアの前にもちょくちょく顔を出していたので、どんな人なのか大体分かっていた。他の神官に漏れず、彼は礼儀正しく、過不足ない行動というものをわきまえている。そこから真面目で善良な性格が垣間見えることもあった。表情に乏しいのは神官というそれまでの生活上、仕方がないのかもしれない。仕事中の近衛兵達も同じように無表情な感じだから、さほど気にはならない。王衛の儀を終えたからといって、彼は人が変わったようには見えなかった。ただ儀式で疲れているのか、少し悲しげな様子が目元や声色ににじんでいる気はする。
「本当に、あれでよかったのかな」
 トエトリアは尋ねてみた。儀式のことがどうしても気になってしょうがない。王衛ならば遠慮なく聞いていい相手だ。あの儀式が持つ秘密を共有しているのだから。
「それから、あの部屋の奥はどうなっているの? 守護の剣が置いてあるだけ?」
「恐れながら……」
 シェドは長椅子の脇にひざまずいて答えた。
「あの部屋に何があるか、口外してはならないのです。部屋に入ることが出来るのも、王衛と星の神殿の神官だけです」
「……それは、剣以外にも何かあるってこと?」
 トエトリアが探りを入れると、相手は困ったように微笑んだ。
「確かに剣が安置されています。剣には代々の王衛達の記憶が残されており、それが王をお守りするために役立ちます。剣は王の身に降りかかるあらゆる危機を、はねのけてきたからです。この話はご存知でしょう」
「うん。じゃあ、私に降りかかる危機も、剣ははねのけてくれるの?」
「もちろんです。しかし幸いにして、今は穏やかな時代です」
「王の剣が失われたとき、守護の剣は王の剣の側にはなかった」
 トエトリアは国の歴史の一節を口にする。黄緑の国の王剣は、七百年前に失くなったのだ。
「悪い魔法使いを倒すために、当時の王子が、姉であり王であった人の棺から、勝手に王剣を持ち出してしまったのよね」
「はい。以来、王子のご遺体とともに行方が知れません」
 シェドはトエトリアの言葉に頷いて答える。王の剣が失われたということは、守護の剣が王を守る唯一の剣になってしまったことでもあった。それだけに王衛は、いっそう重大なお役目になってくる。
 トエトリアは儀式の間の隣室に、守護の剣以外に何があったのか、なんとなく分かるような気がした。シェドの沈んだ様子は、七百年前に王剣の持ち主を守れなかった、守護の剣の無念にあるのではないだろうか。ならば彼も、あの儀式で、形は違えど彼女と同じように不気味な経験をしたのではないだろうか。
「儀式の最中、私が意識を失ったのに、気がついた? 私、あなたの首に剣を置いた記憶がないの」
 トエトリアははやる気持ちを押さえつつ、口元に手をあて、小声で話す。脇の小机を隔てて、女官達がトエトリアの寝仕度の用意をしていたからだ。シェドもちらりと彼女達の方へ目を向けた。彼も他の者に聞かれるのはまずいと思ったらしい。声を落として答えた。
「神官達もそれを気にしていたのです。しかしながら私を含め彼らも、姫様が気を遠くされたのは、剣を取り落とされた一瞬だと思っておりました」
 彼は腰にさした守護の剣を、ちょっとだけ引き抜いてみせる。澄み透った刀身がトエトリアの瞳を映している。シェドの答えに、トエトリアは当てをはずした気になってがっかりした。
「姫様はまだ即位をしておられませんから、お力が不十分であったのかもしれません。この剣を手に取るだけでも、それなりの気力が必要なのです。しかし決して忘れないでください。王衛を任じられるのは、王だけです」
 それから彼はわずかに覗かせた刀身へ、自分の指を押し当ててみせる。トエトリアは、あっと声を上げそうになった。シェドが再びその指を彼女の方に見せると、細いあざが出来ただけで、血は流れていない。
「私が王衛と認められた証です。姫様も剣を握られたとき、手を切ることはございませんでした」
「……そうだね」
 トエトリアには、自分の感じたことを伝えられるだけの言葉で、うまく話すことが出来なかった。剣が彼女を主だと認めているのは、間違いないようだ。けれども儀式の最中に意識を失った理由ははっきりせず、それが拭いきれない不安としてずっと心に残っている。
「あのね。剣の間は、怖い所だった?」
 シェドはトエトリアを見返した。暫くした後、彼は頷いた。
「二度とあの儀式の間に入りたいとは思いません」
 トエトリアは答えを聞いて、ようやくにっこりと微笑んだ。やはり王衛にとっても、儀式は恐ろしいものだったらしい。王衛の本音を引き出して、彼女は満足した。
 城にはたくさんの秘密が隠されていて、それが城の力となっている。いくら王でも、城の秘密を全て知ることは出来ない。けれども知っている秘密も知らない秘密も、すべて受け入れることが、王には必要なのだ。今日あった二つの儀式にも、城の秘密はいっぱい隠されていたに違いない。もし自分が正式に王となれば、儀式を執り行う度、今日のように不可解な経験をすることもあるかもしれない。だとすれば、それをいちいち怖がっていては、王は務まらないだろう。
「寝る支度ができたみたい。私、今日はもう休みます」
 トエトリアが告げると、シェドは頭を下げて身を引いた。彼女は長椅子からぽんと飛び降り、寝室の扉へ歩き出す。控えていた女官達が扉を開ける。寝室の向こうのバルコニーから、色とりどりの光の粒が散るのが見えた。春迎えの祭りで放つ、花火の試し打ちらしい。
「すごい!」
 トエトリアは歓声を上げ、バルコニーへと駆け寄った。花火の輝きは、城の秘密がつまった暗い中枢の記憶を、彼女の頭からいっぺんに追い払ってくれた。