七章 黄緑の城

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 花火の音に耳を澄ます、ひとりの若い女性がいた。どこにでも変わり者はいるもので、アニュディもそうだ。城の中層に位置するひとつの町の、たった一人の住人だった。
 石人の数が減ってから、人の住まなくなった町は他の国同様、この黄緑の国にもたくさんあった。大ざっぱに廃地とよばれるこういった無人の町は、水門が閉じられ井戸は干上がり、日に一回兵士が見回りに来るくらいの寂しい所だ。
 アニュディは城に許可を取って、廃地となった町のひとつに住んでいた。下層の巨大な城内都市に住んだ方が、生活はずっと便利かもしれない。けれども変わり者の彼女は、不便で静かなこの町の方が好きだった。
 町には、石造りの家々が通りに沿って綺麗に並んで建っている。どの家も中庭を四角く囲う平屋だが、中庭は通りよりも一階か二階分低く掘り込まれた位置にあり、中央に水場が設けられている。各階は階段状に重なっているために、中庭にいても広い空を見上げることが出来た。高所から町を見下ろすと、家々は塩の結晶のように見えるだろう。
 彼女は大きな中庭を持つ家を自宅に選び、庭でたくさんの薬草を育てている。通りの入口を閉ざす門の鍵は彼女が管理し、夜になれば門の戸締りも忘れない。自分一人で町を独り占めする気分は最高だ。若い女性の一人暮らしを心配されたり、変人ぶりを面白がられたりもしたが、彼女は気にしなかった。泥棒を返り討ちにする魔法ならよく知っているし、自分でも自分のことをちょっと変わり者だと認めている。しかし人嫌いかと問われれば、そういうわけでもないと答える。月に二回は友人知人を集めて、近所迷惑の心配もなく、夜遅くまでパーティーを開くのだから。
 通りでは一軒の家だけが玄関に、ドライフラワーを巻き付けて飾った粗末な木の脚立を出している。その上には目の粗い葦の丸駕籠が置かれ、光の玉を納めた香ランプが籠の内側でぼんやりと輝いていた。日が暮れると玄関先に明かり香を灯すのが、人の住む家の習わしだ。香が尽きて明かりの消える頃が、町が眠りにつく時間だった。
 アニュディはその日も日暮れの鐘を聞き、中庭に面した地下二階から一段ずつ階段を上って、明かりを灯しに行った。たとえ自分がたった一人の住人でも、彼女はこの慣わしを大切にしている。夜に城を遠くから見たとき、この灯りがとてもきれいに城を飾ると聞いたからだ。ここより上の層に住む彼女の家族も、この灯りを見れば、彼女が何事もなく生活しているのを知ることができる。
「……あらあら、もう花火は終わりなんだ。試し打ちなら仕方ないわね。たまには賑やかな夜もいいものだけど」
 彼女は再び作業台のスツールに腰掛け、そっと台の上を片手でなぞる。乳鉢の冷たく重い胴が、小指に触れた。
「今日中に、これだけでも終わらせなきゃ」
 アニュディは呟いて、台の上の乳鉢を引き寄せる。
 ごろごろと乳鉢を擦る。乳棒の先でパチパチと弾ける、乾燥した堅いつぼみの音。ほのかに立ち昇る未熟な花弁の清々しい香り。中庭に向かって大きく開いた窓は作業台の正面にあって、冷たい風で部屋を満たしている。
「今夜も冷えそうだな。よし。もうひとつまみ春の呼び手を加えて、この寒さを退治してやる。青黄金の花はどこだっけ」
 彼女は手を止めて立ち上がる。片手を上に伸ばすと、梁にずらりとぶら下げた香草と薬草の束に当たる。彼女は指先で薬草束に触れ、その香りを確かめながら、梁の下をゆっくり歩く。青黄金の花はすぐに見つかった。乾いた茎を一筋抜き取り、薬草束の列を指で確かめながら作業台へ戻る。
 乾いた茎からしごくように青黄金の花の芽を摘み、片手で探り寄せた乳鉢に移す。さらに腕を台の奥へ延ばし、蜂蜜の鈴付小瓶を引き寄せる。ひと匙を乳鉢へ加え、瓶を元の場所へ戻す。
 やがてしばらく途絶えていたすり鉢の心地よい響きが、彼女の仕事部屋に戻ってきた。
「やつぱり冷えてきた。春呼びの香が去年より入りようなのも、納得ね」
 練りあがった香を小分けに丸め、乾燥棚へ納める。それから作業台の上に身を乗り出して、窓を閉めようと片腕を前へ泳がせた。
 最後の夕の風が、中庭からさっと吹き込んだ。彼女は首を傾げる。微かだが、風以外のものも通っていった気がしたのだ。むしろそれが夕の風を部屋に導いたのかもしれない。
 アニュディは少し迷い、窓の扉を開けたままにしておく。それから背筋をまっすぐに伸ばした。
「どちら様? お客さんなら玄関から入ってもらわなきゃ。風に紛れて入ってくるなんて、礼儀知らずね」
 彼女は努めて明るく、はっきりとした声を出す。こういうとき、怖がっていることを相手に気取られたら駄目なのだ。暫く耳を澄ますが、何の物音も聞こえない。何か入ってきたと思ったのは気のせいだったのだろうか。
 彼女が緊張を緩めかけたとき、彼女の背後、部屋の壁際辺りで、かすかな衣擦れの音がした。
――やっぱり何かいる!
 アニュディは振り返り、余裕を装いながら、腕を組んで作業台に軽くもたれ掛かる。本当は胸がドキドキしている。魔術の縄で進入者を縛り上げようかとも考えるが、いざとなると気が動転して呪文が思い出せない。情けないものだ。
「部屋の明かりをつけてあげましょうか? それとも用がないなら、さっさと出ていってくださいな。それがお互いのためじゃない?」
 考えた末に、もう一度呼びかけてみる。まずは相手の正体を見極めようと思ったのだ。
「明かりはいい。私は物を見るのに、明かりを必要としない」
 返ってきた言葉は少年の声色で、まるで水の奥から発せられたようにくぐもって遠かった。
 アニュディは思わず眉根を寄せる。強盗と思った相手が子どもだとは、予想外だ。しかし子どもならば、魔術を使わなくてもどうにかなるかもしれない。
「とりあえず窓は閉めるわ。私も明るかろうが暗かろうが、どっちでもいいの。ただ、冷えてきたから」
 アニュディは言いながら窓を閉める。その背中に再び声が聞こえる。今度は先程よりしっかりした音だった。
「翼を貸してもらいたい」
「翼?」
 またしても予想だにしていない言葉に、アニュディは飛び上がるようにして振り返った。それでもすぐに口元を引き結び、頭を振る。
「だめよ。用事より先に、名乗ってちょうだい。あんた、人の家に勝手に入ってきて何様だっていうのよ。いい加減にしなさい。家に帰らないと、親に言いつけるわよ」
「私は子どもじゃない。魔法使いだ」
「はいはい。そうね。そうみたいね」
 アニュディは口ではいい加減に答えながらも、頭では先ほどから少年が話した言葉を反芻していた。翼を持つ自分のもう一つの姿を言い当てたということは、相手はよほどの魔法使いだ。子どもでこれほどの才能を持つ者はまずいない。普通は長年の修練が必要なのだ。
「あんた、いい目を持ってるようね。でも、おあいにく様。私も大人じゃない。ただの調香士よ。だから翼も貸さないわ。ほら、話はおしまい。家に帰りなさい」
 アニュディは次の行動にあれこれ思いをめぐらせ、舌を噛む。この少年をどう扱えばいいのだろう。少々くらいなら痛い目に合わせるのもいい薬かもしれない。しかしただの不良少年と言い切れる相手でもなさそうだ。
 途切れ途切れの不安定な声が、再び彼女にかけられる。
「今夜は城の中枢の扉が開いている。分かるか」
 アニュディは時間稼ぎとばかりにのろのろと答える。
「知ってるわよ。王女様が王衛を迎えられる儀式をなさったはずだから。あそこの扉、巨大すぎて開けるのも閉めるのも、一日がかりなんですもの」
「あの扉が開くと、城の力は弱まる」
「ふむ。そうかもしれない。あそこは城の急所だから。だから特別なときにしか開けない」
「城の力が弱まると、その裏で力を取り戻すものがある。基礎石の内部には水の通り道がある。あれは、ただの水か。これほど静かな場所に住んでいるのだから、あのかすかな音も聞いたことがあるだろう。それともあの音を聞くために、ここに暮らしているのか」
 アニュディは組んでいた腕をほどいた。
「……あなた、ただの魔法使いにしちゃ、ちょっと鋭すぎるね。本当に子どもなの? 私をだまそうとして、魔法で声色を変えてるんじゃない? だとしたら、こちらも手加減しないわ」
「魔術は必要。死者は息をしないから、口もきけない」
 相手の声が再び揺らいで遠くなる。それとともに床板のずっと下から、何かの力が立ち昇りつつあるのを彼女は感じた。それは厚い石と土の層の下。城を支える基礎石から。
 城がこの得体の知れない者から、自分を守ろうとしている。アニュディはそう感じた。この自称魔法使いが高い魔力の素質を垣間見せながらも、せいぜい粗末な魔術で少年の声色を使っているだけなのは、城の力のせいかもしれない。城の力は、城民に害をなすあらゆる存在を封じると言われているのだ。けれども、それはあくまで王が城の力を用いるときの話。黄緑の城には、王女はいても王は不在だ。何か嫌な予感が胸の奥で頭をもたげてくる。
 声はくぐもり、さらに消え入りそうになった。相手は明らかに、城の力に押されつつある。
「時間がないようだ。翼を貸すか貸さないか、今すぐ決めろ。貸すならば、それに見合う代償を払う。そうでないなら、代償を払うことになるのはそちらだ」
「代償?」
「この運命を受けるかどうか、決める時間もあなたにはない。下から何か昇ってくるのが分からないか。この力は私だけを打ち倒して、あなたはそのまま無傷で残す、そんな器用な真似は出来ないぞ」
 声は小さくなる。部屋に立ちこめてきた城の力は、アニュディの肌までちくちくと刺してきた。言われるように、何かもっととんでもない存在が近づいてくる予感がする。部屋に立ちこめる力は、それの気配にすぎないのかもしれない。
「あんた、この城の何を呼び出したって言うの」
「何も。呼び出したのは王だ」
「嘘。今は空位のはず……」
 気づけば、彼女の手のひらは冷や汗でびっしょりだった。相手の言葉を信じるつもりは無いが、近づいてくる何かから、とにかく逃げ出したい。何の根拠もなく突然湧いた焦りが、彼女を支配した。
 部屋の片隅で何かがはじける。強い芳香が広がった。青黄金の花の甘い香り、白星草の清々しい香り、朱妃木の香りは他のどの香の中でもすぐにそれと分かるほど華やかだ。乾燥台に乗せた香の玉が次々と、力に反応して燃え始めている。この分だと一番高価な光香も燃え出し、部屋には白い光の霧が濃く漂い始めているに違いない。
 彼女の耳元を、炎の音がかすった。梁に下がった薬草も、火の粉を上げて燃え落ちている。香りの奔流の中、彼女の焦りは一瞬にして激しい恐怖と弾ける。
「分かった。翼を貸す。だから早くここを離れましょう。私を早くここから出して!」
 言い終わらないうちに、部屋の隅で床板を蹴る音がした。驚く間もなく、アニュディは誰かの背に担がれる。作業台の窓が開く音がしたかと思うと、彼女は思いきり体を振り回された。
 冷たい夜気が頬を打ち、髪の中を通る。室内の強い芳香は薄れ、馴染みある薬草畑の香りと、砂利を踏みしめる音がした。どうやら中庭に飛び出したらしい。
「発て! 風を送る!」
 すぐ脇で、少年の声が聞こえた。今度はしっかりとした声だった。生身の体から発せられたものとほとんど区別がつかない。
 アニュディはすぐさま姿を転じる。自分を担いでいた少年は、押しつぶされる前に彼女の首筋に飛び乗った。彼女は苛立って大きく頭を振る。しかし、しがみついた乗り手は振り落とせなかった。四肢をばねに跳躍すると、魔法で呼ばれた風が彼女の翼を打った。
――飛び立ってしまった!
 上空の風を捉えたアニュディは後悔する。後戻りはできなかった。目の見えない彼女は、もう一人では地上に降りることができなかったのだ。