八章 魚の少女

8-1

 キゲイは再び白城の寝室へと帰ってきた。
 朝早くにディクレス様と別れ、レイゼルトの魔法と空腹と寝不足でふらふらになったブレイヤールを引きずるようにして、白城の石人達の所へ戻った。戻ったのはなんと昼もずいぶん遅い時刻だ。その頃になるとブレイヤールはレイゼルトの魔法の影響から随分よくなって、今度は逆にキゲイの方がふらふらに疲れ切っていた。
 ブレイヤールの帰りがあまりに遅いので、石人達は皆ひどく心配していた。そしてキゲイが出戻ってきたことにびっくりしたり、同情してくれたりした。ルガデルロ大臣はさっそくブレイヤールに何があったのか問い質し、見当違いの場所ばかりを探していた目付けのグルザリオを叱り飛ばした。
 キゲイの方は、叱られて不機嫌なグルザリオに急かされるまま、味気ない昼ご飯を平らげて、すぐに寝室へ連れて行かれる。
「先のことは分からんが、とにかく今は考えるな。休め。考えるのは、王子と大臣がやってくれる」
 グルザリオは仏頂面でそういい残し、部屋から出て行った。キゲイはすぐに靴を脱ぎ捨てて、ベッドに上がる。
 上着を脱いで、その懐から銀の鏡を取り出した。くもりを袖で拭って、じっと見つめてみる。どんなに見つめても鏡は鏡で、なんとも情けない表情を浮かべたキゲイの顔を映し返しているだけだ。裏に刻み込まれた模様は複雑精緻。それでもよくよく見れば、ある程度の対象性や規則性のある模様で、洗練された芸術品であることはなんとなく分かる。けれどもそれ以上の意味を、この模様が持っているようには見えなかった。これのいったいどこに、魔法の言葉が書かれているのだろうか。
 キゲイは深い溜息をついた。グルザリオの「考えるな」という言葉を思い出す。確かにそうかもしれない。キゲイは鏡を上着に戻し、布団にもぐりこむ。よほど疲れていたのか、気を失うように深い眠りに落ちた。

「おはよう……ございます」
 翌日、キゲイは朝早くに目覚めて食堂へと顔を出した。すると意外にも食堂にはブレイヤール一人で、他には誰もいない。彼は自分の席で眠たそうな顔をして、もそもそと朝ごはんを食べていた。
「うん。おはよう」
 ブレイヤールは顔を上げ、自分の側の席を指差す。キゲイがそちらにいくと、ブレイヤールは自分の食卓の鍋と籠から、シチューとパンをキゲイに取り分けて置いてくれた。
「もうしびれは取れました?」
 キゲイが尋ねると、ブレイヤールは頷いた。
「ほとんどね。けど僕ら、随分寝坊したようだ。皆とうの昔に朝の仕事に出たよ」
「まだ外暗かったですよ」
「ここ城の西側だし、今日も天気は曇りがちみたいだ」
 ブレイヤールはいったん黙ると、パンを力いっぱい引き千切った。
「食事を終えたら、すぐに黄緑の城へ発とうと思う。キゲイも石人の服を着て、一緒に来てくれ。例の鏡は、なるべく側に置いて見張っておかないといけないんだ」
「黄緑の城って、石人がたくさんいる所じゃ……」
 キゲイは恐る恐る尋ねてみる。
「いるよ」
 キゲイの気持ちを知ってか知らずか、ブレイヤールは事も無げに答えた。彼はシチューにパンの端をつけて、ぐるぐるかき混ぜる。そのままパンをふやかすことに集中するように見えたものの、少し経って、ようやくキゲイの怖気づいた顔に気づいてくれた。
「うん。石人の服を着て、少し魔法をかければ大丈夫だ。石人は、人間が自分達の城にいるなんて夢にも思ってないから、まずばれないよ。石人語が話せないのは、そうだな……。赤ん坊の頃人間にさらわれて、大空白平原で育ったってことにしよう。そういう人、時々いるし」
「はあ……」
 それを聞いたキゲイは、生返事しか出来ない。ブレイヤールがそう言ってくれても、「人間だとばれたら」という、不安がなくなるわけではない。おまけにブレイヤールは、とんでもないことをさらりと言った。彼の言う石人語を話せない理由から、空白平原に暮らす人間達がどれだけ石人に酷いことをしているかが、よく分かる。キゲイは石人に対して申し訳ない気持ちになってしまった。空白平原の人間といい、宝探しに来た自分達アークラントの人達といい、人間は石人に迷惑ばかりかけている気がする。
 しょんぼりしたキゲイを、ブレイヤールは誤解したようだ。
「大丈夫だよ! 万一ばれてしまっても、僕がなんとかするから。黄緑の城では僕かグルザリオか、必ずどちらかと一緒に行動した方がいいかな。とにかく一人で動かないように」
「でももし、なんとかならなかったら? もしかして、牢屋に入れられたりしたら……」
「いや、所持品をあらためられて、平原に放り出されるくらいだろう」
「一人で平原に放り出されたら困るなぁ……」
 あまりにキゲイが心配するので、ブレイヤールも少し不安になったらしい。
「君の所持品をあらためられても困るよな……」
 と、小さく呟やき首を振った。それから腕を組んで考え込む姿勢になる。いつまで待っても、次の反応が返ってこない。キゲイはその間にパンを食いちぎり、シチューに浸してふやかした。こうでもしないと、硬くて食べられたものではない。そのうちにブレイヤールも黙って食事を再開した。
 二人でパンをシチューに沈めていると、大臣のルガデルロが早足に部屋へ入ってきた。彼は片手にひと巻きの紙筒を持っていて、ブレイヤールにそれを手渡した。
「やれやれ。朝早くからいい運動をさせてもらいましたわい」
「ご苦労様」
 ブレイヤールは簡単にねぎらって、紙筒をくるくると開く。キゲイは下から見上げてみた。薄い羊皮紙に、何か文字が書いてあるのが透けて見える。
「それ、何ですか?」
「ディクレス殿に頼んでいた、レイゼルトに関する記述だよ」
 ブレイヤールはパンをくわえたまま、紙に目を通し始める。ルガデルロは、行儀が悪いとその口からパンをもぎ取った。
「食事をするか、読むか、どちらかにしてくだされ。それでアークラントの者達のことですが、彼らはすでに城から引き払った後でした。その紙以外、彼らがあそこにいたという形跡は残されておりません」
 キゲイはうつむいた。どうやら自分は、本当に置いてけぼりにされたらしい。覚悟していたとはいえ、こうまでうら寂しい気持ちになるとは思わなかった。こうなったらもう、全面的にブレイヤールに頼るしかない。
「空白平原で雇い入れた魔法使いの中に、レイゼルトがいたわけか。育ての親で、師匠を名乗る人間の老人と一緒に。レイゼルトを赤ん坊の頃に空白平原で拾った、とある」
「それ、王様がさっき僕に言った嘘と、同じだ……」
 ブレイヤールはキゲイと目を合わせる。ルガデルロが言った。
「よくある話ではありますが、逆にそれ以外ないとも言えます。さらわれでもしない限り、石人の子どもが人間世界にいるなどありえないですからな。つまり、嘘も誠も見分けがつかないということで」
「それは、限りなく胡散臭いということか」
 ブレイヤールは大臣の言葉を要約し、キゲイに目配せする。
「僕、なるべく人間ってばれないようにします」
 キゲイは答えた。嘘はつかないに越したことはない。胡散臭いなら、なおさらだ。
 朝食をすませ、二人は早速旅支度にはいる。キゲイには石人の服が用意された。グルザリオが一式持ってやって来て、着方を教えてくれる。
「ばあやさんがこの裏に隠し袋を縫い付けてくれたから、例の物はここに入れろ。蓋が閉まるから、逆立ちしても落とさん」
 黄土色の長袖の肌着に、渋茶のだぼだぼしたズボン。グルザリオが隠し袋を見せてくれたのは、くすんだ黄緑色らしき色調の膝丈の上着だ。ブレイヤールが着ているのと形が同じだ。八分丈くらいの袖は、袖口がかなり広がっている。これでは寒いのでないかと思っていると、グルザリオは紐を取り出して袖口の穴に差しこみ、ぎゅっと絞った。さらにズボンの裾は、膝下まで脚半を巻く。
 最後に上着の上からお尻を包むように腰布を巻いて、幅広の帯を締めるとようやく完成だ。
「よし終わり。お前の服は、こっちで預かっておく。仲間の所に帰るとき、またいるからな。じゃ、これ羽織りな」
 マントを受け取りながらキゲイは頷いた。石人の服は普段と違う所を締め付けるので、動くと変な感じがする。特に幅広の堅い帯は、少々お腹が苦しかった。グルザリオが言うには、帯が幅広でしっかりしているのは、悪い妖精から内臓を守るためらしい。すぐ慣れるから、我慢しろとのことだった。
 ブレイヤールもキゲイとほとんど同じ出で立ちで部屋に戻ってきた。着ているものはキゲイのよりずっと上質で、綺麗な刺繍も入っていたが。
「キゲイ、これ被って。それからこれも」
 彼は持ってきた布束を差し出した。まだ身に付けなければいけないらしい。受け取ってみると、三角の布帽子とマフラーだった。キゲイが慣れない手つきで帽子を被ると、グルザリオが手を出して、帽子を耳が隠れるくらいまで引っ張り、三角の頂点を頭の後ろに折り込んだ。マフラーも鼻先が隠れるように、しっかり巻きつけられる。
「石人の世界は風も違うんだ。人間は出来る限り当たらない方がいい。体調を崩しやすくなるみたいだから」
 ブレイヤールが言った。それからキゲイが、銀の鏡とトエトリアの髪でできたお守りを持っていることを確認する。
「私は一緒に行けませんが、レイゼルトに関する話は、慎重に願います」
 いくらかの紙束を抱えて、大臣のルガデルロが部屋に入ってくる。ブレイヤールはその紙を薄布に包んで、自分の荷物袋へ入れた。
「今朝までのアークラントの者達に関する報告も、これまでのものに付け加えておきました。道中もう一度よく目を通されて、これと辻褄の合わないことは、一切おっしゃらないように。そこにはレイゼルトのことは書いておりません。必要ならばご自分で付け加えて構いませんが……」
「アークラント側に石人の魔法使いがいるくらいは、書いた方がいいかも知れない。魔法使いとして、非凡な才能を持っているのは確かだ。でもディクレス殿は、レイゼルトは姿を消したって、言ってたし。あーあ……もう! ややこしいな」
 ブレイヤールは嫌そうに顔を歪めて、中空を見上げる。何もないところをまっすぐに見上げるのは、彼が考えるときの癖のひとつらしい。
「アークラント先王とお会いになったこと、それで知りえたことは、まかり間違っても言ってはなりませんぞ。嘘を言うくらいなら、ずっと手前で黙っておられるよう。あなた様が禁呪に触れたことがばれたら、この白城は完全に終わりです。なにはなくとも、ご自分の身を守ることをお忘れなきよう」
 ルガデルロが厳しく釘をさす。彼はブレイヤールが心配でならないらしい。グルザリオと代われるものなら、彼が一緒に黄緑の城に行きたかったろう。しかし彼はもうそこまで足腰は強くなかった。
「……分かってます」
 ブレイヤールは眉間に皺を寄せたまま、前に向き直った。