八章 魚の少女
8-3
ところがキゲイは、突然無口になってしまったブレイヤールの態度がなんとなく気に食わない。知っているのに、ちゃんと答えてくれていない感じがしたのだ。レイゼルトに腹を立てたときと、同じような気分だった。レイゼルトは、キゲイにいっぱい隠し事を持っていた。ブレイヤールも同じように、キゲイに何か隠し事をしているはずだ。キゲイが人間だから、というのが隠し事をする理由だろう。実際にブレイヤールは、ディクレス様の前でも「人間には話せない石人達の考え」という隠し事をしていたのだ。
「本当に、本当なんですか? 絶対の絶対に、幽霊とかじゃない?」
キゲイが詰め寄ると、ブレイヤールは困った顔をした。
「この子は確かに石人だ。でも、突然湖から現れたのは普通じゃない」
搾り出すような声でそういうと、彼は大きく息を吐いて肩をすぼめた。
「本人に聞ければいいんだけど、出来そうにもないんだ。ただ……」
ブレイヤールは横目にキゲイの懐を見た。銀の鏡を隠している所だ。
「やっぱり、これのせい?」
キゲイはうんざりした顔で、胸元を指差す。ブレイヤールは女の子に視線を戻した。
「大きな魔法を納めている物は、そこにあるだけで色々なことを引き起こす。石人の亡霊を目覚めさせたのも、そのひとつかもしれない。それでこの子だけど、彼女は多分別の姿をして、湖で暮らしていたんだと思う。魚とか、貝とかだったのかも。それなのに今日、鏡が自分の側にやって来て、それがちょっとした刺激になったのかもな。魔法が解けて、石人の姿に戻ったんだ。だけど長い間魚として暮らしていたから、自分が人だったことを忘れてるのかもしれない」
「なにそれ」
キゲイは口を尖らせて、明らかに不満そうな声を出す。魔法で魚の姿になっていた女の子が突然人の姿に戻るなど、まるでおとぎ話だ。さすがのキゲイも、そのおとぎ話を何の疑いなく信じるほど、子どもではなかった。
ブレイヤールも自分の話が、人間にはどれだけ受け入れられない現象か、すぐに気づいたようだった。キゲイの冷めた視線を遮るように片手を額に当て、口元を薄く開いた。一人で苦笑いをしていたのかもしれない。
二人の間に気まずい沈黙の幕が降りる。
「キゲイ」
しばらくして、ブレイヤールが先に口を開いた。
「一生誰にも話さないって、誓える? 一生だ。今度ばかりは銀の鏡のときみたいに、ディクレス様にだって話しちゃだめだ。本当に誰にも、他の石人にだって言わないと、誓えるか」
キゲイはブレイヤールを見返した。ブレイヤールの顔からは、先程のあいまいな表情は消えて、真剣そのものになっていた。
「それとも、僕がこれから話すことは聞かないでおく? そうすれば、そんな一生の誓いは持たずにすむ」
「それは、聞かなくてもいいってこと?」
ブレイヤールの挑んでくるような口調に、キゲイはあっさりと怖気づく。
「この先どんな妙な現象を目の当たりにしても、どうしてそうなったのか分からなくても、それをそのまま受け止められるなら、聞かなくていい。君は石人のことも石人世界のことも知らないから、理解できないのは仕方ない」
「分からないことだらけは、嫌かも」
キゲイは目だけを動かして、周りをぐるりと見渡した。暗い森も、そそり立つごつごつした岩場も、すべて石人世界に属するものだ。生えている木や植物の多くは、キゲイもよく見知っていた。でも人間世界に生えている杉と、石人世界に生えている杉は、同じように見えてどこか違うのかもしれない。彼にとって本当の意味で馴染みのあるのは、頭の上に広がっている空だけだ。この世界では、キゲイは完全に余所者だ。
「この子のことだけ、聞きたいです。突然現れてすごく怖かったから、どういうことか、ちゃんと知りたい」
ブレイヤールは頷いて、居ずまいをただす。キゲイも覚悟を決めて、一生守らなければならない秘密というものを、聞くことにした。
「姿かたちはほとんど同じなのに、石人と人間を全く違う存在にしている点がある。石人は人以外のものに姿を変えられるんだ。普段は人の姿をしているけど、それは二つの姿のうちの一つに過ぎない。もうひとつの姿は『真なる体』と言われて、普段は人の姿の中に隠されている。石人世界で『魔法使い』といわれている人達は、修練を経て、この『真なる体』と人の姿を自由に交換できるんだ。そんな人達でも、めったに変身なんてしないけどね」
「じゃあ、王様も、何か別の姿に変われるってこと?」
ブレイヤールは気が進まない風に頷く。
「……うん。よく見かけるような動物や虫になる人もいれば、今では伝説にしかいない生き物に変身する人もいる。他人に見られたくない、気持ち悪い生き物になる人も。修練が足りなければ、自分の意志で姿を変えることはできない。なにかの拍子に姿が変わってしまったら、自力じゃ戻れない。その上、長い間姿を変えていると、自分が人だったことを忘れて、それそのものになってしまう。運よく元の姿に戻っても、前の姿の影響が残ってしまう。例えば魚は、髪の毛なんて生えてないし、水の中で泳ぐだけから、歩き方も忘れたりする。言葉も忘れる」
「あの子がそう?」
「湖に突然現れたんだから、そうだと思う。きっと以前、湖やここに流れ込む川で行方不明になった子どもがいたんだろう。水遊びをしていて、フナかタニシに姿が変わってしまったとか。何ヶ月前なのか、何年前なのかは分からないけど、銀の鏡がきっかけにしろ、何か他の理由があったにしろ、元に戻れたのはよかったんだろうな」
「ふうん」
今度の話は、キゲイもまあまあ納得がいった。不思議な話には違いないが、石人世界ではあり得ることなんだというのが、ブレイヤールの口ぶりから分かったからだ。それにしても、石人のことが少し気持ち悪くなったのは確かだ。キゲイはそろそろとお尻をずらし、ブレイヤールから距離を取る。ブレイヤールはそれを咎めるように、横目でじろっとキゲイに視線を送った。
「……絶対言うなよ。石人が変身できるってこと。人間にばれたら、大変なことになる。石人にも、何に変身できるかなんて聞かないように。すごくデリケートな質問だから。自分のもうひとつの姿は大抵の場合、人に見られたくないし、やすやすと見せるものでもないんだ。僕にも聞かないように」
「分かりました。絶対言いません」
「絶対だからな」
あの女の子は銀の鏡が呼んだ幽霊でないと分かって、キゲイはようやく安心した。それにブレイヤールの話してくれた石人の秘密は、一生守るにふさわしい気もする。なぜなら話し終わった後のブレイヤールは、まるで話したことを後悔するかのような、浮かない表情になっていたからだ。ブレイヤールには悪いと思いつつも、キゲイは石人の大切な秘密を、勝ち取った気分だった。
キゲイが見た通り、確かにブレイヤールは少しだけ後悔していた。銀の鏡を持つという重荷を背負ったキゲイの不安を察したからこそ、話した方がいいと思った大切な秘密だったからだ。ところがキゲイは彼が心配していたよりも、繊細ではなかった。立ち直りが早くて、ちょっとした言葉ですぐ元気を取り戻す。人間だから、銀の鏡の重大性を今ひとつ理解し切れていないのかもしれないが。彼はもう二度と、必要以上にキゲイを気の毒がったりしないと心に決める。
「キゲイも食べたら寝な。明日もたくさん歩かなきゃいけないから」
疲れた声でそう言うブレイヤールに対し、キゲイは一生ものの秘密にわくわくしながら、眠りについたのだった。
翌日、キゲイが目を覚ますと、グルザリオは女の子を連れて先に出発した後だった。ブレイヤールも支度を整え、キゲイを急かしてすぐさま歩き始める。湖を過ぎると、足元は随分歩きやすくなっていた。平たい石が所々残った道の残骸が姿を現す。道は進むにつれて広くなり、苔生した小道から街道と言えるくらいの立派なものにかわっていった。
四日目に、ようやく二人の目の前へ不思議な形をした綺麗な山が姿を現した。赤く燃える空を背景に、夕暮れの柔らかな影をまとったその山からは、たくさんの細い塔が生えている。影の中に滲む細く白い筋は、夕食を用意するかまどの煙だ。中腹に見える白っぽい崖は巨大な建物の側面で、レースのように穿たれた外回廊と空中庭園の木々に飾られていた。
黄緑の城にたどり着く頃には、日はとっぷり暮れていた。谷間を通って城の裾野に達すると、数人の兵士達が道の先から現れてブレイヤールに挨拶をした。兵士達は二人の荷物を持ってくれ、先に立って城の門まで導いてくれる。彼らは杖の先に鎖を下げ、そこに光るランプを引っ掛けていた。光は靄の玉で、ランプの中でもやもやと形を定めていない。優しく輝いて、ランプが揺れるとその軌跡に短い尾を残す。
キゲイはブレイヤールの後ろを歩きながら、城の姿を見上げた。城にはあちこちに明かりが灯っていた。たくさんの窓とアーチが輝いて、人々の行き交う影が見える。風に乗って花の香りと美しい音楽が届いた。
「今夜は、春呼びのお祭りなんだ」
ブレイヤールが教えてくれる。
キゲイは神妙に頷いた。春は誰もが待ち望む季節かもしれない。しかし今年ばかりは、アークラントの人々は春を歓迎しないだろう。春になって暖かくなると、冬眠していた戦線が動き出す。
――冬を引き止めるお祭りがあってもいいのにな。
キゲイは、今はそう思うだけに留めておいた。
黄緑の兵士達はブレイヤール到着を王城に知らせ、貴賓室へ案内しようとした。けれどもブレイヤールはそれを断り、城の裾野近くに広がる町中に、宿をとった。
祭りのせいもあるのかもしれないが、街には所狭しと石人が溢れている。皆が様々な色彩の頭髪を生花や造花、薄衣等で飾り、揃って目の覚めるような黄緑色のスカーフをしている。老若男女問わず長髪の人が多く、それぞれが自分の髪色を意識して結い上げたり垂らしたりしていた。衣装も華やかだ。建物も柱も斑模様を浮かべる黄緑の石で出来ていて、石畳は霧のような鈍い灰色だ。町の構造は白城で見た廃墟の町と同じ。大通りの両脇に立つ建物は階段状の層構造で、空に向かって開いている。大通りは行き交う人と花で飾り立てられた輿でごった返し、各階に設けられた側道にも人が溢れていた。そこには大通りと異なり、小さな出店もひしめいているようだ。
キゲイはあまりの人の多さに、気分が悪くなりそうだった。目を閉じても、町の明かりや人々の華やかな衣装がまぶたの裏にちらついて、くらくらする。人ごみの中、ブレイヤールの背中を追うだけで精一杯だった。
宿は祭りの場所から外れた静かな一角にあった。ブレイヤールは馴染みらしく、二つ返事で部屋に通してもらう。白城の寂れた部屋を思わせる古い宿で、こじんまりとして清潔な部屋に入ると、キゲイはようやく一息つくことが出来た。しかしブレイヤールにはまだやることがある。
「銀の鏡を調べに、図書館に行ってくる。下手したら今夜は帰ってこれないけど、グルザリオにこの宿へ来るよう、兵隊に言伝てを頼んだ。じきに現れるだろう。食事は宿の人が持ってきてくれる。石人語の挨拶とお礼の言葉だけでも教えとくよ」
キゲイを残し、ブレイヤールは銀の鏡の写しを入れた丸筒を持って街へ舞い戻った。路地裏から石段を登ると、町の広場が見渡せる丘へと出る。
広場には舞台が設けられており、「春呼びの星降り物語」という演劇が行われていた。様々な表情の面をとっかえひっかえしながら、役者達が舞台の上で飛び跳ねる。無言劇のため、広場から聞こえるのは観客達の歓声や溜息のみだ。ブレイヤールのいる丘も見物人が多い。もっとも彼は劇を見るために丘に登ったわけではなかった。広場の中央には噴水があり、背の高い水時計が建っている。時計は真夜中より二針手前を指していた。ブレイヤールはそれを確認すると、売り子の差し出す花やお菓子も素通りし、図書館へと向かう。
図書館周辺はひっそりとし、入口の大きな扉には守衛が座り込んで舟をこいでいた。それでも中に入ると、人の姿は少なくない。祭りそっちのけで勉強にのめり込む学者や学生達だ。貴重な書物の類は、利用者が少なくなる祭りの日にこそゆっくり読める。あまり人に知られたくない調べ物も、こういう日が絶好のチャンスだ。
ブレイヤールは可動式の書見台を引きずって、ひとまず七百年前の歴史を納めた書架を目指す。書架は都合のいいことに人影がまったくない。心おきなくレイゼルトに関する記述を洗いざらい調べ、レイゼルトが使った砂の禁呪が誰のものだったのか突き止める。
――正十二国創成期頃の黄城お抱えの大魔法使い、シュラオイエン。大地に根ざす魔法を操り、また多くの禁呪を遺した。レイゼルトの禁呪もまた砂という大地に関するものであるため、シュラオイエンの禁呪であった可能性は高い。
ブレイヤールはその名前を手がかりに、美術品目録の書架へ移る。その中から大魔法使い由来の品を探し出した。もしシュラオイエンの遺品に銀の鏡があれば、これに砂の禁呪が納められていることを裏打ちする。膨大な目録を繰りながら、ブレイヤールは自分が刻々と真実に近づいているのを感じていた。行をたどる指は、自然と遅くなっていく。
――ああ、これは断首決定だな。
血の気が引く。開いたページには、彼の持つ写しと寸分違わぬ図版がある。おまけに、最後にこの鏡を持っていたのは赤城で、約五千年前に黄城から譲り受け、その後七百年前の禁呪焚書直前に行われた所蔵確認の際、紛失を確認。現在に至るまで見つかっていないという説明まであった。彼は暫く放心して、ぼんやりと図版に目を落とす。
銀の鏡は、シュラオイエンが黄城の名工に特注で作らせた、五十二組の札のひとつだったらしい。レイゼルトのは「南の8」で、銀の鏡はゲーム用の札を模した、実用性のない美術品だったと記されている。シュラオイエンは友人を招く際、招待状として皮製の一般的な札を送り、招待客は晩餐の席で自分に届いた札と同じ銀の鏡が置かれた席に座ったという。どういった経緯でその札のひとつに砂の魔法が隠されたのかは知れないが、大魔法使いにもやむを得ない事情があったのだろう。大きな力を持つ魔法が一転して禁呪として扱われるようになったのは、この大魔法使いが生きた時代の終わりのことだ。
レイゼルトと銀の鏡のことを、石人達に話さなければならなくなってしまったようだ。ブレイヤールは焦点が定まらないまま、天井を見上げる。考えはそれ以上まとまらなかった。