九章 禁呪の復活

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 何のせいかは分からなかったが、その晩キゲイはずっと落ち着かない気持ちで、寝返りばかりうっていた。寝床でじっとしていると、なんとなく自分の周りを包む雰囲気に、違和感のようなものがあった。石人の町の匂いが、嗅ぎ慣れないものだったからかもしれない。
 ようやくウトウトしたかと思うと、もう目が覚めた。室内は最初真っ暗だったが、目を開けているうちに物の形がかろうじて浮かび上がってくる。どうやら夜が明けてしまったらしい。キゲイはだるい体を起こし、隣のベッドに目を向ける。ベッドは空っぽだ。ブレイヤールはまだ帰っていない。もうひとつ奥のベッドからは、いびきが聞こえてくる。グルザリオはまだ寝ているようだ。
 キゲイはベッドから降りて、窓際に寄る。グルザリオを起こさないよう静かに掛け金をはずし、板戸を少し開けた。外には夜明け独特の、青みがかった世界が広がっている。宿の前の通りは、人影がちらほら行き来していた。キゲイは部屋に向き直る。すると、部屋の扉が開いていることに気がついた。ついでに、戸口の床に何かが転がっている。
 まさかと思いながらも、キゲイは明かりを入れるために板戸を片方開け放った。はたして青い影の中に浮かび上がったのは、戸口でうつ伏せに倒れているブレイヤールの白い髪だ。頭はこちらを向いているから、外から帰って部屋に入ろうと扉を開けた直後に力尽きたと見える。キゲイは忍び足で側に寄って、ちゃんと息をしているかどうか、注意深く観察する。大丈夫だ。今度は肩を軽く叩いてみる。反応はない。
「王様、起きてよ」
 もう一度、今度は少し強めに肩をゆすってみた。折よく、外から鐘の音が響いてくる。一度鳴っては音の余韻が消える頃に、次の音が鳴る。三つ目の音が鳴ったとき、部屋の奥でいびきがやんで、グルザリオが無言で体を起こした。四つ目の音で、ブレイヤールが呻きながら仰向けになる。
「朝か」
 ブレイヤールは片腕を目の上に乗せたまま、呟いた。声が鼻声になっている。グルザリオが朝の寒さに両手をすり合わせながら、キゲイの後ろまで近づいて主を見下ろした。
「なんでしょうね。この体たらく」
 彼は冷たい口調でそう言うと、すぐにいつものさばさばした様子になって続ける。
「今日は黄緑の王城に行って、報告をする予定です。迎えは断ってあるので、昼の鐘に遅れないよう仕度を。場所はここから三階層。昇降塔を使って昇ります。ところで大臣がまとめた文書、ちゃんと目を通してますよね」
 聞いているのかいないのか、ブレイヤールはぴくりとも動かず返事もしない。グルザリオは暫く待った後、何も言わずに自分の寝床に戻り、身支度を始める。キゲイも迷いながらブレイヤールの側を離れて自分のベッドに戻り、枕の下にたたんで隠した銀の鏡入りの上着を羽織って、腰の帯をしめる。
 二人がいつでも出かけられるようになると、ブレイヤールも立ち上がり、服を着替えた。彼はベッドの端に腰を下ろし、片手で頭を支えてうつむく。
「例の鏡は本物だ。困ったことになった」
 ブレイヤールはその姿勢のまま、低い声で呟く。キゲイとグルザリオは、ブレイヤールの方へ視線を戻した。思いのほかしっかりとした口調だ。ブレイヤールは顔を上げ、二人を軽く睨みつける。
「何か誤解されてるようだけど、泥酔してなんかいなかったからな! 気付けに一口だけだ……」
「それはもうどうでもいいです。鏡が本物だとすると、どうなるんで」
 グルザリオは声を潜めた。
「あの赤い髪の少年は、限りなくレイゼルトに近い存在ということになる」
「しかしその結論は、銀の鏡が本物だと分からなけりゃ、導かれません」
「だから困るんだ」
 ブレイヤールは悲しげな顔で、両腕をだらりと下げた。外は大分明るくなってきて、窓からの光が部屋の奥まで届きはじめていた。彼は光に照らされた古い木の床へ、見るともなく視線を向ける。
「報告会までに、魔法使いの意見が聞きたい」
 暫くの沈黙の後に呟くと、それまでと打って変わった素早さで立ち上がった。彼はキゲイを手招きする。
「ちょっと付き合ってくれ。鏡を見せたい人がいる」
「い、いいの?」
 キゲイは尋ねると、ブレイヤールは頷く。グルザリオは難しい顔をして主の判断を吟味していたようだが、結局何も言わなかった。
 早朝の街並みは、うっすらと霧がかかっているようだった。冷たく湿った空気が胸に気持ちいいが、鼻や耳たぶはそのうち寒さでじんじんしてきた。石人の姿も増えていて、多くがすでに今日の仕事に取り掛かっている。中央通りは荷車や兵隊の通行専用のようだ。荷車を黒い水牛が引き、石人は積み上げた荷台の上に腰かけている。タバッサではよく見かけた馬やロバの姿は、ここにはない。警備の交代か、鮮やかな黄緑のマントを身に着けた兵士の一団が、速足に通り過ぎていく。整然と流れる中央通りに対して、両脇の建物前に設けられた二階や三階の側道には、食べ物を売る店や、軒下に仕事道具を引っ張り出して木の皮を剥いだり、糸を紡いだりしている人達で賑やかだ。
 ブレイヤールは中央通り脇の階段を上って側道に行く。彼はひとつの店の前で、二椀の朝食を買った。店には屋外用のかまどがあり、店主は先が二股に分かれた木の棒を、かまどの中に差し入れる。取り出した木の棒の先には、金椀が引っかかっていた。かまどの隣には形もばらばらなスツールが無造作に並べてあり、かまどから暖を取りながら、お客は適当な椅子に座ったり、石畳に布を敷きスツールをテーブル代わりにしたりして食べている。
 ブレイヤールはキゲイに金椀を乗せた皿を差し出した。あつあつの金椀は、焼き上がった生地が中で丸く膨れている。それをスプーンで崩すと、生地はぷっと灼熱の息を吐いて縮んだ。生地の破れ目から穀物の粥がとろりと出てくる。熱いお粥に舌を焦がし、鼻をすすりながら、二人はもくもくと食べた。味は良く、冷えた体も温まる。
「黄緑の城って、どこもこんなに人が多いの」
 キゲイはブレイヤールに尋ねる。辺りの雑踏があるとはいえ、石人語を話していないのを聞き咎められたくなくて、声は自然と小さくなる。ブレイヤールは耳を澄ませてキゲイの言葉を聞き取り、首を振った。
「この城には大きな町の施設が三つあって、ほとんどの人がそこで暮らしてる。もう少し上に登った城内都市の方が、もっと人が多い」
 キゲイはもっと人が多い町を想像しようとして、昨晩の祭りを思い出す。もっと人の多い町とは、毎日がお祭り騒ぎみたいに、人がひしめいているのだろうか。だとするとぞっとする。宿に辿り着くまでに会った昨晩の人ごみは、もまれているうちに気分が悪くなるほどだった。
 食事が済むと、再び歩き始める。二人は人通りの多い場所を離れ、広い中庭を横切り城内都市の別棟らしき建物に入った。天井は高く、明かり採りの窓も天井近くにあるため、廊下は暗い。太い柱には蔦を模した掛け金が設えてある。そこから輝く水晶を収めた金属製の蛍籠が吊るされ、柱の足元を照らし出している。
 建物は石造りだが、内部は柱も壁も、木製の透かし彫刻に覆われている。場所によっては、竹の鮮やかな黄緑で編んだものが柱に巻きつけられていた。彫刻は蔦や木の枝がモチーフにされ、所々鮮やかに彩色された鳥や虫、リスやイタチなどの生き物の姿も彫られている。明かり採りの窓で照らされる柱の上部には、翼を広げて今まさに飛び立とうとする鳥の姿まで造られている。
 キゲイは見事な装飾に目を丸くし、不思議に思いながらブレイヤールの背中を追った。城の外にいくらでも本物があるのに、こんなに手を掛けて建物の中に森の風景を再現するなど、石人は変わっている。
 廊下の突き当りには、大きく堅牢そうな四角い木の扉と、身長ほどの杖を持った扉番がいた。扉の表面には、細かな文様が見事な木象嵌細工で施され、文字らしき金の象嵌も刻まれている。扉番も立派な服装で、裾を床に引きずるほどの長い黄緑の上着が印象的だ。
「お久しぶりでございます。白殿下」
 扉番はブレイヤールに会釈する。ブレイヤールも同じように会釈をかえした。キゲイは石人語がさっぱり分からないので、ブレイヤールの後ろで神妙にする。グルザリオに言われたよう、人前では従者の振りをしていなくてはいけない。
「大樹の塔の老師にお会いしたく、参りました。老師のご都合はよろしいでしょうか。午後から用事があり、できればそれまでにお会いしたいのです」
「お通りください。午前中は、大樹の塔の最上階におられるはずです」
 扉番は静かな低い声で応じる。扉がほんの少し開けられ、ブレイヤールはキゲイを連れて中へ入った。二人の後ろで、扉が閉じる。
 扉の向こうは円形の広間だった。中央には石造りの大樹が、大きく身をよじりながら彼方の天井まで伸びている。天井は枝葉の細かな透かしが掘り込まれ、その隙間から朝の光が注いでいた。よく磨かれた石の床は深い黄緑色で、天井に揺れる外の光を映している。ここは石人達が魔法を学ぶ学院だった。広間を行き交うのは、魔法を学びつつある学生達だ。
 キゲイは里の森を思い出した。神木の生えている場所もこんな風に薄暗く、地面はやわらかな苔で覆われている。木漏れ日は遥か上から注いでいて、神木の根元は影で暗い。神木はその影に、様々な森の秘密を隠して守っているらしい。
 この館も、たくさんの秘密を持っており、それらを影の中に隠しているようだ。広間の影と静寂を守るかのように、誰も一言も口をきかない。何人かはブレイヤールの姿に気づき、通りすがりに会釈した。ブレイヤールの方は、頷くだけでそれに応えていた。
 広間にはたくさんの扉がついていた。どの扉にも大人の目の高さに、金色に光る文字が刻まれている。光は夕焼けの色に似ていた。ブレイヤールはそのうちの一枚に向かって歩みだす。キゲイも周りの物珍しさをひとまずおいて、後を追った。ブレイヤールはキゲイをいったん振り返って、扉を押し開ける。
 扉の向こうも、先程と同じような広間に太い柱が立っていた。しかしこちらの広間は窓が付いていて、とても明るい。数人の学生達が冷たい石の床に布を敷いて座り、陽だまりの中で熱心に本や巻物を読んでいた。広間の中央に立つ巨大な円柱は、葉っぱや枝をかたどった石と木の彫刻で飾られている。円柱をそのまま大樹に模した造りだ。円柱には入口が、石の木の根の間に彫り貫かれていた。入口は狭く、キゲイでも中腰にならないとくぐれない。
「さて、ここからが辛いぞ」
 ブレイヤールはそう言って、円柱内部の狭い螺旋階段を上り始めた。階段の途中には木の洞の形の出入り口が開いていて、それぞれの階の部屋に出られるようだ。静かな階もあれば、何か熱心に言い合っている声が聞こえる階もある。階段で時々学生とすれ違うこともあったが、場所が狭いためにどちらかが壁に張り付いて道を空けなければならない。たいていは学生の方が壁に張り付いて、ブレイヤールとキゲイを先に通してくれた。学生の反応からすると、どうもブレイヤールは敬われているようだ。
 キゲイは階段が何段あるのか数えていた。単純に登った高さを知るためだったのだが、百段登っても、ブレイヤールは足を止めない。二百段になる頃には、キゲイよりもブレイヤールの方がくたびれてきていた。それでも二百四十段目に、ようやく階段が尽きる。
 二人は倒れこむように円柱から外へ出た。視界は一気に開け、土と草と岩の斜面が目の前一面に広がる。厚い雲の隙間から、日の光が帯になって降り注いでいる。地面の草は露をのせて、岩陰には小さな川が幾筋もきらめきながら流れている。斜面の上の方には林の暗い影が見え、さらにその上には黄緑色に苔むした石の壁が、絶壁のようにそそり立っていた。壁には彫刻と窓の穴がいくつもあり、所々の大きな窪みには庭園がある。石の壁の上もさらに森の影や草地の斜面があり、集落の存在を思わせる煮炊きの煙が、雨霧の中にうっすら溶け込んでいる。
 円柱の出口は、丸屋根の祠のような建物だった。両隣にも同じ形の祠が二つずつ並んでいて、地面に突き出た巨人の指先のようにも見える。どの祠もひどく古ぼけて、茶枯れた苔と蔦に覆われていた。近くには葉を落とした大きな楡の木が、幹と枝を広げて立っている。枝の狭間から見える城を囲む山々は、霧と日の光で、灰色と金色の複雑に交じり合った色彩に霞んでいた。
 ブレイヤールは、我を忘れて景色に見惚れるキゲイの背中を押した。
「ほら、あそこが僕の魔法の師匠がいる館だ。あの人なら、銀の鏡を見せても大丈夫。常識はずれな人だから」
 ブレイヤールの指差した先。斜面の下の方に、煙突から煙を吐く白い平屋の家が見える。林の影に隠れるようにあって、古そうだがとても立派な建物だ。ただキゲイは、「常識はずれ」の言葉に内心首をかしげる。キゲイには石人の常識などさっぱり分からない。
 門をくぐると、去年の落葉が散らかった閑散とした庭を囲んで、館はコの字型をしているのが見てとれた。庭周りの吹きさらしの回廊には、濃い褐色の木の扉がいくつも並んでいる。館はしんと静まり返って、人の姿はない。
 ブレイヤールは一番大きな扉の前に立って、こぶしで扉を叩く。扉は軋んだ音を立ててひとりでに開いた。ブレイヤールは一礼をして中へ入る。キゲイもブレイヤールの真似をして礼をすると、こわごわ戸口をまたいだ。
 部屋の中は、薬草の強い香りが充満していた。壁には乾燥させた薬草の束や、複雑な文様のタペストリーが所狭しと下がっている。壁には何か流れるような曲線が彫刻されているようだが、ぶら下がっているものが邪魔でまったく見えない。色タイルをはめ込んだ暖炉が目の前の壁際にあり、火には大鍋がかけてあった。暖炉の周りには、火掻き棒や杖が入った壷や、大きな木さじなどがごちゃごちゃと置いてある。室内の雑多な様子は、すっきりした造りの館とはうって変わって、庶民的な雰囲気だった。
 部屋の奥は床が一段高くなっており、何十もの布を積み重ねた上に、一人のおばあさんが胡座をかいて座っていた。草木染の使い古した肩掛けを羽織って、長い髪がその体のほとんどを、マントのように覆っている。白い髪は、暖炉や窓からの光に透けるときらきら透明に輝いて見えた。しわくちゃの口元は歯がほとんどない様子で、かなりの高齢らしい。おばあさんは二人の姿を見ると、すぼんだ口の両端をにいっとあげて、愛嬌のある笑顔を浮かべて見せた。切れ長の目が、線のように細くなる。
「お気をつけ。他の者の目はごまかせても、あたしの目はごまかせないんだよ」
 おばあさんはキゲイにも分かる「言の葉」でそう言った。キゲイはびっくりして立ち止まる。ブレイヤールの方を見ると、彼は首を振って溜息をついた。
「僕の師匠だからだよ。普通の石人には分からない」
 ブレイヤールの師匠と言うこのおばあさんは、にこにこ笑いながら手招きした。ブレイヤールは咳払いして、老師の一段下の石床に胡座をかく。彼はキゲイを手招きして、隣に立たせた。
 キゲイに向けられた老師の瞳は、変わっていた。金色の瞳を、淡い水色のラインが縁取っている。中央には深い紫の瞳孔。綺麗だが、キゲイはこんな目を今まで見たことがない。キゲイの様子を見てか、老師はパチパチとかわいらしく瞬きしてみせる。
「石人の目はね、人間とはちいと構造が違うの。なんせ、人間よりひとつ余分の世界を、この目で見るんだからね。そこの白髪の弟子の目は、色合わせが似た感じだから分かりにくいけどね。あたしも若い頃はこの瞳と雪のように白い髪で、ずいぶん声をかけられたものだよ。今じゃ髪の方は、すっかり色が抜けちまったけど。水みたいに透明だろう?」
 年に似合わず茶目っ気のある老師に、キゲイの方が目を瞬く番だった。魔法の師匠と言うから、もう少し重々しい人格だと思っていたのだ。ブレイヤールが咳払いをして、師の世間話をさえぎる。
「師匠の目はごまかせずとも、他の目をごまかせればいいんです。時間がありませんので、細かい挨拶は省かせていただきます」
 彼はそう言うと、懐から銀の鏡の写しを取り出し、老師に渡した。老師は受け取った紙に目を鋭くするが、紙を近づけたり遠ざけたりする。
「細かいねぇ。あたしにはまったく見えないよ。本題をお出し」
 ブレイヤールはキゲイを見上げる。キゲイは銀の鏡を納めた懐に手を当てた。
「……えっ? い、いいんですか」
「うん」
 ブレイヤールは頷く。
「師匠は物事の常識から、大分外れた方だから。怖いものが何もない人なんだ」
 老師はそれを聞いて肩で笑う。
 キゲイには判断のしようがない。大人しく銀の鏡を懐から取り出し、手を伸ばして老師に手渡そうとする。
「いや、いくらあたしでも、弟子が触りたがらないものに触りたくはないよ。もうちょっと近くで見せてくれないかね」
 キゲイは老師の乗っている布山の上に片膝をかけて、鏡を差し出す。それを見る老師の顔は、さらに皺だらけになった。特に、文様が彫刻されている面よりも、鏡の面の方をしげしげと覗き込んだ。
「砂漠が見える。これはシュラオイエンかエフェニエットの魔法だろう。禁呪だね。まさか触っちゃいないだろうね、王子」
「手遅れです。ですから、ご助言を頂きにあがったのです」
「手を見せてごらん」
 ブレイヤールは右の手のひらを、老師に向ける。彼女は厳しい顔つきで鏡と弟子の手を何度か見比べた。
「際どい所だけど、触ったなんて言わなけりゃ、誰も分からないだろう。神殿の首狩騎士どもにも、分かりゃしない」
「人間達が石人世界にやって来た話はお聞きでしょう。そのとき、この鏡も持ち込まれました。あのレイゼルトが砂の禁呪を携え、人間達に混じって戻ってきたのです」
「七百八年前に死んだ者が? 死に損なって、まだこの世を彷徨っていたとしたら、かわいそうなものだが」
「彼の身に起きた事情は与り知れませんが、私はその鏡を通じて、彼がレイゼルトに極めて近似した人物であることを知りました。彼自身は、自分の正体と思惑を明らかにしていません。しかし禁呪使いの存在は、我々を滅ぼしうるものです」
 ブレイヤールは息をついて、うつむく。老師はキゲイに視線を戻した。
「坊や、この札はどうやって手に入れたんだね? ああ、もうしまっていいよ。それのことは、よく分かったから」
 キゲイは老師に促されて、ブレイヤールの隣に正座する。ブレイヤールはうな垂れたままで、ずっと床を見ている。
「その鏡は、レイゼルトが預かってて欲しいと言ったんです。自分がこれを持っているのを、ディクレス様達に知られたくないって。あ、ディクレス様というのは」
「偉い身分の人間だろう」
 老師は両手を膝の上に乗せて、姿勢を正した。
「そのレイゼルトとやらが偽者だろうが本物だろうが、魔法使いであることは確かだ。軽い気持ちで命より大切だろうその禁呪を、他人に、しかも人間の子どもに託すはずがない」
「でも、この禁呪を探してる変なお化けがいるみたいで、レイゼルトはそれに見つかりたくないから、僕に持たせたのもあるみたいです」
「ほうほう。白王子、この子にお守りを持たせた方がいいよ」
 ブレイヤールは呼ばれてようやく顔を上げる。
「もう持たせています。キゲイ、あれをお見せして」
 キゲイはトエトリアの髪でできたお守りを取り出し、老師に手渡す。老師はそれが王女の髪だと知ると、髪を持った両腕をいったん掲げて敬意を示す。それから三つ編みの編み目に、ふしくれた指を当てていく。
「編み目ごとに色々なまじないを織り込んだね。相変わらずいい出来だ。これなら、幽霊だろうが邪妖精だろうが、よほどのものでもない限り、この子にちょっかいは出せないだろう」
「皆に知らせるべきでしょうか。レイゼルトの出現を。今の我々は人間達を追い返すので頭がいっぱいですが、禁呪使いの出現にも気づかねばなりません」
「なんだって」
 老師はお守りをキゲイに返しながら、目を丸めてブレイヤールを見る。驚いているというよりは、呆れている様子だ。
「あんたはそれを、あたしに聞きに来たの」
「……それとも私は、迷うべきことを取り違えていますか」
「人が迷うのは、正しい答えを得られないからではなく、正しい問いかけが見つけられないからだと言うね」
 老師はそう言って、杖を突きながら立ち上がった。彼女は暖炉にかけられた鍋に歩み寄り、壁にいくつもかけてある木のコップを杖の先に引っ掛けて取る。コップに鍋の中身を注いで、立ち昇る緑の奇妙な湯気に鼻を突っ込んだ。
「いい出来だ」
 彼女は座ったままこちらを見る二人に、満足そうな顔つきでコップを上げてみせる。
「これが長生きの秘訣」
老師の部屋 老師はそのまま一息に飲み干した。ブレイヤールは膝をついたまま、老師の足元に寄る。
「レイゼルトのことをどうお考えになりますか」
「魔法使いならば、何が大切かを見失ってはならん。いずれ王となる身であるなら、なおさらだ。たとえ亡国の王だとしてもね」
 老師は足元のブレイヤールに、やれやれと頭を振った。
「あたしは魔法使いだから、レイゼルト何とやらの話よりも、その禁呪が今ここにあることを信じる。禁呪が禁呪とされるようになってから、魔法使い達は禁呪から引き離されるようになった。後も禁呪を編み出す優れた魔法使いはいたが、編み出された禁呪は神殿によって破壊され、魔法使いも二度と禁呪に関わらないよう、永久に魔力を封じられる罰を受けてきた」
 それまでかくしゃくとしていた老師の表情が、暗くなった。
「シュラオイエンもエフェニエットも、立派な魔法使いだった。禁呪を編み出すことは、魔術の真理に近づくことでもある。今のあたしらには、その道は閉ざされてしまった。あたしもある時点で、探求の歩みを止めた。そして後から続く弟子達が、探求の境界を見極められず先に行ってしまわないか、見張っている。才能のある者ほど、分別が育つ前に境界を越えてしまうものだ。そもそも大樹の塔は、禁呪が封じられた後に大魔法使い達が新たに作り出した学問だ。魔法を使わず魔法を学び、力を使わず魔法を使い、魔術の真理から遠ざかりながら、同時に近づくためのね。後世、この塔で学ぶ者達が、魔法を使わない魔法使いと揶揄されるようになったのはもっともな話だけど、まさかあんたが禁呪を手にすることになるなんて、嫌な巡り合わせだ」
 老師はブレイヤールの上に覆いかぶさるように構え、鋭く弟子を見据えた。
「この禁呪との出会いに早まった答えを出してはならない。禁呪に関わって無事ですむのは、禁呪使いと、魔法の力をまったく持たない者だけだ。あんたは禁呪を理解するより先に、扱えるだけの魔力を持っている。その銀の札を見せて、レイゼルトが現れたことを信じ込ませる前に、皆は禁呪に触れたあんたの方を、禁呪に関わった者として恐れるだろう」
 キゲイはブレイヤールの顔が赤くなったのを見た。それからすぐに、血の気が失せていったのも。ブレイヤールは呆然として、両膝で立った姿勢からゆっくりと腰を踵に下ろす。まさか自分が禁呪使いの疑いの対象になるなんて、思ってもいなかったようだ。
 ブレイヤールとは対照的に、老師の機嫌はなおる。
「石人の歴史は古い。この正十二国だって、創生されたのは七千年以上も前だ。古すぎる歴史は、得体の知れないものも育む。この世の中、あたしらの理解を超えた魔法の存在が、誰も見ていない所で徘徊しているんだ。連中が歴史にその一端を表すとき、歴史は裏と表に加えて深みを得る。そこは誰にも語られず顧みられることもない場所だ。おそらく『レイゼルト』も、そういった存在のひとつだったのかもしれん。銀の札が呼び寄せたとかいう、亡霊もね」
 老師は片手で鍋をかき混ぜながら、杖の先で壁にかかるコップをもうひとつ取った。
「あんたがこの大樹の塔に来たとき、あたしは言った。『王子の才能は、大昔の偉大な魔法使いに匹敵するほどだ。だから王子を本当の魔法使いとして教え導ける者はいない』って。それでいいんだ。王と魔法使いは同じようで違う。『魔法使いは夜の崖を明かりなしで歩くが、王は明かりをかざさねばならない』とも言ったことがある。この世に真の闇はない。己の目が役に立たぬなら、他の者の目を借りるものだ。己の見るものばかりを信じ、明かりを灯す者は智者とは言えぬ。闇の中で光を灯せば、光に目がくらみ闇は深まるだけ。光に照らし出された己の影こそが、真の闇として生じる。しかし導く者は、敢えて明かりを灯さねばならない。後に続く者達へ、進むべき道、見るべきものを明らかにするために。レイゼルトは銀の札を掲げて現れた。あれはある者にとっては王の光かもしれんが、ある者にとっては魔法使いにとっての光だ。あたしが分かるのはそこまで」
 老師は湯気の立つコップを、ブレイヤールの顔の前に差し出した。
「……飲むかね? 強烈だよ」
 コップからは緑色の湯気が、燐光を放ちながら立ち昇っている。受け取ったブレイヤールは無表情のままでコップの中身を見つめ、ぎゅっと目を閉じたかと思うと、喉を鳴らしてぐいと飲んだ。そしてなぜかキゲイの方へコップを突き出す。コップの中にはまだ半分残っていた。ただよう強い芳香に、キゲイはのけぞった。
「おやりよ、坊や。それは精神に活力を与えるのさ。人間にも効くよ。生き物みんなに効くのさ」
 老師に促され、キゲイは仕方無しに息を止めて、なるべく薬が舌に触らないよう一気に喉へ流し込んだ。
 ガンと衝撃が全身を駆け抜ける。喉がかっと熱くなって、鼻の奥から激烈な薬草の香りが抜けた。薬が体の中ではっきりとした軌跡を描いて、胃に落ちるのが分かる。ブレイヤールをつと見ると、彼は瞑想でもしているかのように頬を引き締め、じっと床を注視して体の中で暴れる薬に耐えている。キゲイもそうだった。あまりのまずさに顔をゆがめる余裕もない。耐えている間、頭の中の雑念や心配事ははるか彼方へ遠ざかって、空っぽになる。まさに修行者か魔法使いでもなければ、好き好んでこんな飲み物を口にしたりしない。
 ブレイヤールはやっとのことで立ち上がると、老師に礼を言う。彼はまだ衝撃から立ち直れていないキゲイを引きずるように、部屋を後にした。キゲイには、ブレイヤールが答えらしい答えを老師からもらっていないように思えた。ブレイヤールの顔つきはここに来る前と一緒で、難しいままだ。けれども、彼は何かを決意したようだった。
「ディクレス殿と話せたおかげで、アークラントは平原へ退いてくれた。アークラントのことがきちんと決着するまで、僕は鏡のことは話さないで、今後も白城に残れるようにするよ。キゲイ、悪いけどもう少し石人の世界にいてくれな」
 話がまったく見えず、ともかくキゲイはブレイヤールの言葉に頷くしかない。どうやらブレイヤールがした決断は、皆の所へ戻る機会を先延ばしにしてしまうもののようだった。こうなるとキゲイの方も、とことんまでブレイヤールに付き合う覚悟を決めなくてはいけないらしい。しかしキゲイは返事の代わりに、何度か頷くのが精一杯だった。薬がいまだ胃の中でめちゃくちゃに乱舞して、下手に口を開くと飛び出しかねない。