九章 禁呪の復活

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 再び宿に戻ったブレイヤールはキゲイをグルザリオとともに宿に残し、単身黄緑の城の報告会へと赴く。昇降塔で三階層上へ昇った所で、彼は黄緑の左大臣に迎えられる。
「白の王子様、お久しぶりにございます」
 左大臣は灰色の長い髪を結い上げた、年配過ぎの婦人だ。正しく整然と事を運ぶのをよしとする彼女は、黄緑の城の指針そのものだった。姿勢は柱よりもまっすぐに見える。その彼女が報告会に先立って自分の目の前に現れたことに、ブレイヤールは胸騒ぎを覚える。
「少々気になる知らせが入りまして、会わせたい者がいるのです。こちらへ」
 左大臣はブレイヤールを先導するため、すぐに背を向けて歩き始めた。左大臣の射るような視線が苦手な彼は、若干ほっとして後に従う。
「会わせたい者とは?」
 ブレイヤールは動揺を抑えながら、何気なさを装って尋ねた。ディクレスと会ったことや、キゲイとともに銀の鏡を隠匿していることは、絶対にばれてはいけない秘密だ。これが動揺の原因とはいえ、ブレイヤールはいまさらながらその秘密の重さをひしひしと感じる。
「会えば分かります。ところで、白城に忍び込んでいた人間達は、平原へ戻ったそうですね。タバッサに潜ませていた石人達からも、彼らが町から去り始めたとの報告がありました」
「……正確には、彼らは五日前の早朝までに白城から退いています。宝物庫も発見し、中身を持ち出しています。トエトリアを助けた人間の少年も、無事仲間の元へ返しました」
「ええ。白城からの報告にも、目を通させていただきました。これで人間達も満足して、国へ引き上げてくれればよいのですが。王女様のことでも、たいへんご迷惑をおかけいたしました。誠に感謝しております」
 ブレイヤールは眉をひそめる。ディクレス達がタバッサからも引き上げようとしているのは、妙だった。キゲイがまだここにいるというのに。アークラント本国に何かあったのだろうか。気になって仕方がないが、左大臣にあれこれ質問して不審に思われるのは避けたかった。
 彼は気を紛らわせようと、自分の周りの見事な建造物に目を移す。滅びた白城にはないものが、ここにはたくさんあった。その際たるものは、人だ。忙しく行き交う人々が、どちらを向いても存在する。白城では忙しそうな石人の代わりに、崩れ落ちた石壁の破片か、ねずみの死骸を見つけるのが関の山だ。
 二人がいる建物には、下層で王と城民がまみえるための謁見の間もあった。それだけに造りもひときわ立派だ。大広間を支える巨大な柱は、樹木を模している。遥か頭上のドーム天井は、琥珀で造られた木の葉で埋め尽くされ、陽光を透かしていた。学院同様森を思わせる場所だ。この広間を歩く人々は多くが役人で、皆黄緑色を基調とした衣装を身に付けている。赤や黄など鮮やかな髪をしている者は、遠目に森の底に咲く花のようにも見えた。
 左大臣はやがて一本の廊下に入り、飴色の木の扉の前で立ち止まった。彼女はブレイヤールを振り返る。
「白城で人間達の動向を探っていた、灰城の偵察兵です。今朝、命からがらこの城へたどり着きました」
 彼女は表情を固めたまま扉を開け、ブレイヤールに入るよう促す。ブレイヤールは眉をひそめて室内へ足を踏み入れた。灰城の偵察が白城にいることは知っていたし、そのためにブレイヤール自身色々気をつけてもいた。有能な兵士を「命からがら」な状態に出来るのは、例の魔法使いしか心当たりがない。
 室内は日の光が直接差し込んで明るい。小さな応接間らしかったが、椅子やテーブルは壁際に押しやられ、変わりにベッドが運び込まれていた。白城の王子を迎えるために、わざわざ灰城の偵察兵の方を、こちらによこしたらしい。ベッドの上には、暖かみのあるやわらかな灰色をした髪の、小柄な男が横になっていた。側には医師らしき石人も控えている。
「白の王子様、恐れながら彼は怪我により、体を曲げることができません。横になったままで失礼いたします」
 医師はそう言って、ブレイヤールに場所を譲る。左大臣も部屋に入ってきて、ブレイヤールの隣に立った。灰城の兵士は上半身にぐるぐると包帯を巻いて、仰向けにされていた。兵士は目を動かして、ブレイヤールと左大臣に無言の挨拶をする。目の動きには、助けを求めている人の怯えと忙しなさが垣間見える。
「彼は小鳥に姿を変え、人間の様子を探っていました。そのときに魔法をかけられ、このようになってしまったのです。彼は片足を半分失い、喉も潰されておりますが、実際をご覧になる方が何があったか分かりやすいと申しております」
 ベッドの向かいに回った医師は上掛けを取って、兵士の胸から腹部を覆う包帯を、少しめくって見せる。ブレイヤールは思わず顔を引きつらせた。血の滲む痛々しい肌が見えたからだ。
「火傷ですか。かなりひどいように見えますが」
 ブレイヤールは尋ねる。医師の代わりに左大臣が口を開いた。
「傷口から病の精が入り込まないよう気をつければ、命に別状はありません。火傷ではないようです。まるで、やすりにかけられたよう。衣服は無傷であったのに」
「誰にやられたのですか」
 ブレイヤールの再度の問いに、今度も左大臣が答えた。喉をやられたという言葉どおり、兵士は自分では口をきけないようだった。
「人間達の中に、少年ですが石人の魔法使いがいたらしいのです。しかしどのような魔術を用いて、このような傷を負わせたのかは判じかねます。そもそも白城で魔法を使えば、殿下にもそれがお分かりになるはず。何か気が付かれることはありませんでしたか?」
 ブレイヤールは黙っていた。左大臣はそれをブレイヤールが何も気付かなかったと見たのか、ふっと溜息をついた。
「……もしやと思い、先に殿下にご覧になっていただきたかったのです。小鳥にとっては小さな木の枝が刺さっても、命取りになることがあります。この者も小鳥に姿を変えていた折とはいえ、油断して些細な魔法にかかっただけなのかもしれません。小鳥の足はか弱いものです。とにかくこの城に運ばれて来たとき、彼は受けた傷よりも恐怖のために取り乱し、言ったこと全てを信じるわけにはまいりません。白城で傷を負ったなら、殿下にまず知らせるべきなのに、この者は敵から遠くへ逃げることしか頭になかったのです」
 左大臣は判断に迷っているようだった。一方でブレイヤールは、兵士の身に何が起こったのか、すぐに確信できてしまった。やはりレイゼルトに襲われたのだ。しかもこの兵士が受けた魔法は、禁呪かもしれない。そしてレイゼルトはこの兵士を生きて逃がした。彼は自分の存在を、石人達の前に現すようなことをしでかしたのだ。
「彼は片足を失くしたといいますが、それも魔法によるのでしょうか」
 ブレイヤールは医師に尋ねる。医師が答えようと口を開けたとき、突然今まで大人しく横たわっていた兵士が体を起こし、痛みに震える手でブレイヤールの腕をつかんだ。そしてきれぎれの細い悲鳴のような声で、必死になって叫ぶ。それは短い言葉で、「砂と崩れた」だった。ブレイヤールが兵士の顔を見返すと、彼はもう一度口だけを動かして同じ言葉を言った。
 医師と左大臣が色を失って、兵士をブレイヤールから引き離す。兵士の方はベッドに押さえ付けられるように寝かし直されながらも、首だけ伸ばしてブレイヤールに何か伝えようとしていた。ブレイヤールが手を上げて制すると、相手はがくりと頭を枕に戻した。
「いつ、この傷を」
 ブレイヤールは直接兵士に尋ねる。兵士が途切れがちの息でようやく伝えた日付と時間は、正確だった。それはキゲイを人間達のテントに帰した朝で、ブレイヤールがレイゼルトに捕まり、魔法を受けて気を失っていた時間と一致する。ブレイヤールは唇をかむ。
「どうされましたか」
 ブレイヤールの表情の変化を、左大臣が鋭く捉える。
「何か、思い出されたのですか」
「いえ」
 左大臣の追及に、ブレイヤールは首を振る。頭の中を、あらゆる考えが目まぐるしく駆け巡った。もう少しこの嵐が収まるのを待っていたかったが、答えを遅らせることは左大臣の前では無理だ。
「実は私も、石人の少年に攻撃を受けました」
 吐き出すように答えたブレイヤールに、左大臣は口と眉を歪めた。どこかで自制してそんな中途半端な表情になったのだろう。彼女がブレイヤールの告白に、怒りを覚えたのは確かだ。そして彼女の怒りは、正当なものだった。
「なぜそれを、もっと早くに知らせていただけなかったのです」
「彼が何者か、まったく分からなかったのです。私が受けた魔法は特別なものではありません。けれど、強力なものでした。そして、彼は城から立ち去りました」
「分かりました」
 左大臣はいつもの厳しい顔つきに戻り、そこで話を打ち切った。時を告げる鐘の音が鳴っていた。
「続きは報告会で話された方がよいでしょう。そろそろ時間です。この者も後で会議場に運ばせます。どうやら我々が憂慮すべきは、人間ではなくその少年になるかもしれません」
 左大臣は一礼をして、先に退出する。医師もベッドを運ばせる手はずを整えに、一度部屋を出て行った。ブレイヤールも議場に行かなければならない。その前に、彼は兵士に声をかけた。
「片足が砂に変えられたこと、私は本当に思える」
 兵士はその言葉に頷き、口を動かした。禁呪使いが現れたことを信じるのは、禁呪を受けた者以外には難しい。兵士の唇は、「砂の禁呪」と読めた。彼の頭には、すでにレイゼルトの名が浮かんでいるのかもしれない。史実に名を残す砂の禁呪使いは、レイゼルトただひとりしかいないのだ。
 ブレイヤールは部屋を出た。あの兵士がどれだけ孤独を感じているか、彼にはよく分かる。レイゼルトは禁呪が蘇った事実を、兵士の喉を潰すことで、彼ひとりの心に閉じ込めてしまった。そして真実を、彼の体へ残酷に刻んだのだ。