十一章 石人の亡霊
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「ここにいた方が情報が入りやすいとはいえ、暇すぎてどうしようもないな」買い物から宿の部屋へ戻ってきたグルザリオが、溜息混じりに呟いた。キゲイはテーブルについて、薄紙の上の地図へ細かな書き込みを加えていたところだ。ブレイヤールが黄緑の国の兵士らとともに白城へ戻ってから、十日近くが経っている。レイゼルトの痕跡を探すのが黄緑の兵士らの役目だったようだが、彼らが何の手がかりもつかめないまま黄緑の城に帰還したのは五日前だ。ブレイヤールは彼らと一緒には帰ってこなかった。
「ほう。前より大分あちこち細かくなったなぁ」
グルザリオはキゲイの地図を覗き込んで、気のない褒め方をする。キゲイはむっとして、視線をさえぎるように地図の上に身を乗り出し、森の描き込みに集中した。そこはキゲイの里がある山間部の森だ。
この地図は、ブレイヤールに頼まれて書きはじめたものだった。報告会から帰ってきた後、ブレイヤールがすぐにアークラントの地図を書いて欲しいと、とんでもない要求をキゲイにしてきたのだ。キゲイは困って断った。地図など今までうまく書けたためしがない。それでもブレイヤールが諦めなかったので、しぶしぶ書いたものだった。
キゲイの里には、里長の家にアークラントの立派な地図が飾ってある。キゲイは小さい頃からその地図を見飽きるくらい見ていたし、ディクレス様とともに大空白平原へ行くときも、里長はこの地図の前に皆を集めて行程を示して見せた。キゲイはそれを思い出しながら、自信の無い線でどうにかこうにか薄紙の上に再現してみた。その紙は銀の鏡の模様が書いてあったもので、裏返しての再利用だ。
とにかく大雑把過ぎる地図だった。もっともアークラントは、自然の地形によって国境がはっきりした、比較的書きやすい国ではある。西から南を通って東まで、馬蹄型のオロ山脈に包まれるようにあり、北は高い崖を隔ててエカ帝国やハイディーン王国のある丘陵地帯と森が広がっている。二国が高原にあると言うよりも、アークラントの土地が低い位置にあった。アークラント平原が「巨人の足跡」と呼ばれる由縁だ。またオロ山脈から流れるメデン川は、アークラント領内を縦断して北へ流れ出ており、その先は高原を深くえぐる谷となってエカとハイディーンの国境になっている。アークラントは切り立った崖の下にあり、メデン川も崖の近くからは急流となっていた。地形的には、エカもハイディーンも、アークラントへの進入は難しい。
書き上げてみた地図は、キゲイ自身も驚くほどみすぼらしいものだった。国境は大体あっていると思うのだが、国内の地形はうろ覚えでほとんど真っ白だ。しかしブレイヤールはこの地図を真剣に眺め、それから白城へと発っていった。後悔の念で一杯だったキゲイは、その後も思い出してはこの地図に書き込みを加え続け、なぜブレイヤールがアークラント国内にまで興味を持ったのか、不思議に感じていた。
「石人の世界には地図がないからな」
グルザリオはテーブルに手をついて、キゲイの作業の様子を見守る。絵は下手だと思っているが、地図自体は物珍しがっているようだった。
「城を繋ぐ道が一本ありゃ、他はどうだっていいんだ。他はろくに人の住めない、危険な場所しかないんだから」
「本当に石人は、城と神殿ってとこ以外にはどこにも住んでないの?」
キゲイは顔を上げて尋ねる。
「境界石付近は、分からん。魔物の影も薄いし魔法の風も弱いから、危険は少ない方だ。土地は貧しいがな。空白平原に人間界のはみ出し者が集まったみたいに、石人世界のはみ出し者も、いるかもしれん。黄緑の城もな、先の女王様がいなくなってから、そういう連中がどこからともなく悪さをしに来ることがあるそうだ。ついこの間も、一人暮らしをしていた若い調香士が姿を消したらしい。人さらいにあったんじゃないかと」
それからグルザリオは声を少し落とした。
「トエトリア様が成人されて王座に就く日を、この城の住人は心待ちにしている。王が王座に戻れば、連中も悪さをしにくくなるからな。まだまだ先の話だが」
石人にとっても、王は国民を守ってくれる頼もしい人らしい。キゲイは白城の王が七百年前に殺されて、国民が皆逃げ出した話を思い出す。
「じゃあ、王子様が王様になったら、白城にも国民が住めるようになる?」
「安全は確保されるだろうな。んでも、滅びたまま七百年経ってるんだぞ。月日が流れるうちに、城の構造を熟知していた家来もいなくなり、今じゃ即位式の間がどこにあるかも分からん。うちの王子がその気になっても、即位式の間が見つからないうちは、一生王子のままだな。即位の間にある水盤に姿を映さないと、城の方が王を認めない」
グルザリオはテーブルから離れて、買ってきた焼き菓子の包みを荷物から取り出した。
「景気の悪い話はやめだ。で、お前も来るだろ?」
彼は包みを幅広の袖の中に落とし込みながら、キゲイに尋ねる。キゲイは頷いて筆を置き、紙を内ポケットにつっこんだ。
この数日、二人は近所の小さな診療所に毎日顔を出していた。黄緑の城に行く途中、湖の中から突然現われたあの白い女の子に会いに行くためだ。彼女はいまだに親も身内も見つからず、自分の名前も知らず、見舞う人もいないまま病室で過ごしていた。
キゲイにとっても、宿にばかりいると気がめいる。かといって石人だらけの町を、いつ人間だとばれるか、ビクビクしながら歩きたくもない。小さな診療所の庭から眼下の町並みを見物する方が、ずっと気楽だった。
診療所は町外れの路地に入って、石段を登った先にある。路地の両側には間口の大きい建物が並んでいるが、それはすべて石人の家だ。石人はこの大きな建物に、数家族が集まって暮らしているらしい。日中、大人達は仕事、子どもは学校へ行き、留守番の者も建物の裏手にある中庭で生活する場合が多いということで、路地は静かで人通りはほとんどなかった。
キゲイは道の両側に迫る石造りの建物を眺める。建物の壁面を飾る柱には蔦や葉が彫刻され、花や鳥だけが木彫りで後から接着されていた。何度通っても、路地にはたくさんの秘密が隠されている気がする。グルザリオが言うには、複雑な構造の石人の城で自分の位置を確認するには、建物の窓や通路の装飾が目印になるらしい。石人の城には、こういった目印が色々刻まれているとのことだった。白城でもブレイヤール達がある程度迷わずに歩けるのは、この印のためだ。もっとも大事な場所に通じる目印は暗号のようになっており、老朽化の激しい白城では目印そのものが壊れたりして、文字通り迷宮になってしまった場所もあるというが。
診療所では、あの白い女の子が二人を待っていた。ぶかぶかした毛の肩掛けを着せられて、ぼうっとうつ向いている。生気がないというよりは、心がここにないという感じだ。膨れっ面をした若い看護人が、女の子の手を引いてグルザリオとキゲイの元へずんずん詰め寄って来る。
「機嫌悪いな」
グルザリオが看護人の表情にひるむと、彼女はここぞとばかりに訴える。
「この子の身元がまだ分からないんです。それで近々、古都へこの子を移しては、という話が出ているんですよ。確かに神殿の側なら、この子にもっといい治療が出来ますけど、それじゃ親探しが遠のいてしまうし。ブレイヤール様が引き取ってくださったらいいんだわ。白城ならここと近いですもん。それに白城は、変身後遺症の療養地としても有名だったんですよね」
「七百年前はな。今は無理だ。とても病人を引き受けられる場所じゃない」
「……ですよね。まったく、ここの兵士さん達が頼りないのがいけないんだわ。うちのお姉ちゃんの消息も、まだ全然分からないって」
「心配だろう」
「お香が全部灰になってたって……。仕事を投げ出してどこかに行っちゃう人じゃないのに。そうだっ! これもブレイヤール様に見立てていただけたら!」
「気持ちは分かるが、白城も王子も、何でも屋じゃないんだから」
「……すみません」
看護人はぺこりと頭を下げて、女の子の手をグルザリオの方へ預ける。彼女が膨れっ面のまま立ち去ると、キゲイはグルザリオのひじを引っ張った。
「あの人、何を怒ってたの?」
グルザリオは中庭へ向かいながら簡単に答える。
「この子はもうじき、治療のために神殿のある古都に行くらしい」
「いいことみたいだけど」
「俺はどっちがいいのか分からんが、彼女ははっきりしてるようだな」
中庭へ出たキゲイは診療所の平屋根へ伸びる階段を上り、グルザリオは適当な場所で女の子を自由に歩かせてやる。医者が往診に出ているので、この時間は診療所内の人影が薄かった。
キゲイが平屋根の上をゆっくりと歩くと、庭に落ちる彼の影も動く。女の子はその影を追いかけて、そろそろと歩く。不思議なことに、この女の子はキゲイの姿よりも影の方を気にしているのだ。動くものはどれも、先に影の方を見ようとする。
キゲイが立ち止まって初めて、女の子はこちらを見上げた。きょとんとした顔つきで、大きな目をくりくりさせている。そのうち太陽が目に入ったのか、彼女はひゅっとまぶたを細めた。丸坊主だった頭には、蜘蛛の糸のような細い髪が生え始めている。髪色は毛が細すぎて、よく分からない。髪は風の中でふわふわと浮き、日の光を透かしてきらきらしている。彼女の顔に表情はほとんどなく、かといって赤ん坊のように幼稚な様子もない。仕草がぎこちない所は小さな子みたいだが、それは単に体を動かし慣れていないせいらしい。
湖で魚として暮らし、自分が人だったことを忘れているというのは、大変だった。医者達は彼女に鏡を見せて自分の姿を覚えさせたり、言葉を教えたりと苦心しているようだ。女の子は鏡を不思議そうに覗くだけですぐに興味を失うし、言葉についても石人の鳴き声くらいにしか認識していないらしかった。
庭から診療所の外へ目を移すと、眼下に町の屋根が幾重にも重なって見える。それぞれの家の煙突からは、夕食の支度をする煙が立ち昇り、照り返しで赤く染まっている。建物の隙間から垣間見える通りはすっかり夕闇に沈んで、行き交う石人達の様々な髪色も見分けがつきにくい。
通りから路地に入るひとつの人影が目に付いた。人影は疲れた足取りで角を曲がって、見えなくなる。けれども、その背格好と歩き方にキゲイは見覚えがあった。すぐに振り返って、屋根から庭へ駆け下りる。女の子も動いた彼の影に反応して、ついてきた。
「ねえ、グルザリオ。王様が帰ってきたみたい。今、向こうの道からこっち側に歩いてたよ。宿に戻るんじゃないかな」
「そうか。じゃ、ちょっと早いが、帰ろうか。ほら、これ皆と一緒に食べな」
グルザリオは持ってきた菓子の袋を、女の子に手渡す。いつものことなので、女の子は慣れた手つきで受け取る。言葉が通じているかどうかは怪しいが、この中においしいものが入っていると彼女は知っていた。
ブレイヤールは二人より先に宿へ戻って、ベッドで寝ていた。頬がこけるくらいに痩せている。寝顔から、体力的にも心の根っこからも消耗しきっているように見える。
白城で何があったのか。話を聞こうと思って診療所からすぐに帰ってきたのに、肩透かしを食ってしまった。寝ているのを邪魔しないよう、キゲイとグルザリオは部屋から出て、行き場もないので宿の食堂にたむろする。
「王様、大丈夫なのかな」
レイゼルトの問題で白城に戻っていただけに、キゲイは心配でならない。キゲイが知る限り、あの少年はとにかく容赦をしない性格だ。白城に再び現われて、石人達をひどい目に合わせることくらい、十分にあり得る。
「白城で何かあったら、もっと早くに帰ってきたはずだ」
グルザリオはきっぱりと言い切った。彼は眉間に深い縦皺を寄せたまま黙りこむ。そこで邪魔が入った。宿の女主人が、暇そうにしている二人に、夕飯の鞘豆をむく手伝いを頼んだからだ。グルザリオが何か言う前に、女主人は豆を一袋テーブルにどさっと置いて厨房に去った。二人は仕方なく豆をむく。手伝いをすると、夕食を少し奮発してくれるのは確かだった。
しばらくして、グルザリオは口を開く。
「石人は、人間の世界じゃ長く持たない」
「へ?」
話が唐突に飛んだ気がして、キゲイはきょとんとした。グルザリオは豆をむく手を休めることなく、横目でちらりとキゲイを見下ろす。
「土地の魔力が薄いと、石人は干物みたいに魂から乾いていくそうだ。人間の世界も場所によっては土地の魔力が強い場所もあるが、たいがいは薄いからな。石人にとって魔法は水みたいなもんだ。生きていくのに絶対必要だが、ありすぎると溺れ死ぬ。なさすぎると干からびる」
「もしかして、王様は人間の世界へ行ったってこと? もしかしてアークラ……」
みなまで言う前に、キゲイはグルザリオに椅子ごと蹴られた。
「手が止まってるぞ」
グルザリオは白々しくキゲイを叱り飛ばす。キゲイは倒れた椅子を起こし、座りなおした。石人の町で人間世界の話をするなど、論外だ。自分では気づかなかったが、声もつい大きくなっていたようだ。「言の葉」で話しているのを聞かれるのもまずかったのだろう。それにしても、もう少し手加減してくれてもよさそうなものを。キゲイは隣のグルザリオに恨めしい視線を投げながら、麻袋に手を突っ込み新たな鞘豆をひっつかむ。