十一章 石人の亡霊

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 ブレイヤールが寝起きのぼんやりした目で食堂に現われたとき、二人は芋の芽をナイフで削っているところだった。
「具合はどうですか」
 グルザリオが尋ねると、ブレイヤールは二人の向かい側に座って、自分でも芋を手に取った。
「石人達は白城の例の現場で、レイゼルトの魔力を思い知ったみたい。今頃神殿では、レイゼルトを探して捕らえる手段を、全力で協議している頃だろう」
 グルザリオは単純にブレイヤールの体調を気遣っただけだったのだが、ブレイヤールは勘違いしたようだ。彼は声を潜めた。
「レイゼルトが黄の城を襲ったらしい。帰りがけに黄緑の城に寄って、その話を聞いた」
 驚くグルザリオとキゲイを前に、ブレイヤールは懐から小刀を取り出して、芋の芽をくり貫く。
「あいつ、偽物じゃなかったってことですか! だったらあなたも、ここでこんなことしてる場合じゃないでしょう!」
 グルザリオは押し殺した声をあげ、身を乗り出す。ブレイヤールは座れと鋭く制して、周りに目をやる。幸い食堂は適度に人がいて騒がしい。ちらりとこちらに目をやっただけで、特に興味を示す人もいなかった。グルザリオはのろのろと姿勢を正す。
「決めるのは全て神殿だ。七百年前、レイゼルトを倒したのはこの黄緑の国の王子だった。ところが今の時代は、彼と直接対峙して打ち勝つだけの力を持った石人がいない。僕も指示があるまでは、白城かここかにいなくてはならない」
 そう言って、ブレイヤールは深く息をついた。
「人間達の問題どころではなくなってしまった。レイゼルトを止めなければ、石人は滅びてしまう」
「どうして、レイゼルトが石人を滅ぼそうとするの? 変だよ。石人同士なのに」
 キゲイは尋ねた。しかし尋ねてすぐ、アークラントのことに気づく。そういえば人間も、人間同士で戦争をして、ただ勝つだけでなく相手を滅ぼそうとまでしている。ことにハイディーンは、征服した国の人々を皆殺しにするくらい徹底しているというではないか。アークラントはまさにその危機に直面している。
 ブレイヤールはキゲイをまっすぐ見つめた。キゲイは自分のした質問に、ひとり落ち込んだ気分でいたが、疲れ切った様子だったブレイヤールの瞳は、パッと明るくなった。
「そうだ。おかしい。本当に滅ぼそうと考えているなら、とうの昔に白城も黄緑の城も禁呪に襲われていたはずだ。あいつ、相当ひねくれては見えたけど、石人全てを滅ぼしそうな奴には見えなかった。でも――」
 ブレイヤールは芽を取った芋をグルザリオの方へ投げ、首を振る。
「彼の本心は誰にも分かっていない。禁呪に襲われた石人がいるのも事実だ。僕らは彼を追うべきか、それとも別にやるべきことがあるのか……。本当に、人間達に対する用意を後回しにしてもいいのか」
 ブレイヤールは小刀を拭って懐におさめる。
「アークラントの状況は油断できない。ディクレス殿はまだ空白平原におられる」
「ディクレス様と会ったの?」
 キゲイは驚いて聞き返したが、ブレイヤールは首を振っただけだった。ただ、ブレイヤールが何らかの手段で、アークラントの様子やディクレス達の居場所を確めに行ったらしいことだけは、彼にもなんとなく想像できた。しかしアークラントと白城を往復するとなると、ブレイヤールが留守にしていた日数だけではとても足りない。それこそ、魔法で空でも飛んで行かなければ無理だ。
 キゲイはそれも聞いてみようと思ったが、具合の悪いことに宿の女主人が再び現われる。彼女はブレイヤールを見つけて驚き、丁寧な口調で話しかける。ブレイヤールの顔つきが深刻になる。彼は立ち上がった。つられてグルザリオが立ち、彼はきょとんとしたままのキゲイの襟首を引っ張り上げる。キゲイも半分引きずられるように立ち、二人の後に続いて宿の表に出る。
 ブレイヤールはすぐに二人を振り返った。そして、グルザリオとキゲイの顔を見比べながら尋ねる。
「おばさんが言ってたけど、二人とも、夕方に診療所へ行ったんだって?」
 二人が頷くと、ブレイヤールは続ける。
「帰るとき、ちゃんと看護の人に女の子を返した?」
 キゲイはグルザリオを見上げる。グルザリオは首を振った。
「中庭のベンチに座らせましたが、診療所を出るとき、人に声はかけました。王子が帰ってくる姿が見えたので、こちらも急いで宿に戻った方がいいと思ったんで」
「何があったの」
 キゲイは言った。辺りは宿の窓の明かりだけが三人を照らし出す夕闇だ。
「彼女の姿がどこにもないらしい」
「どうしよう! 勝手にどこかに歩いて行ったんだ……」
 キゲイが慌てると、ブレイヤールはまあまあと手を上げて落ち着かせようとする。
「僕らも一緒に探そう。足がまだ弱いから、診療所から遠くには行けないはずだ。あの辺りは道も複雑だし、大通りへも簡単には出られないと思う。……困ったな。かえって見つけづらいかもしれない」
 ブレイヤールがみなまで言う前に、グルザリオは腰にさした杖の先に明かりを灯して、ものすごい勢いで走り去ってしまった。ブレイヤールは横目でそれを見送りつつ、宿の入口に何本か立てかけてある棒付きランプに手を伸ばす。それは濁った石英が先についた棒切れで、ブレイヤールが棒の底についた金属の先で火花を散らすと、石の中に魔法の灯がついた。彼はそれを掲げて持つ。魔法の杖なしで夜に街中を歩くときは、この共用ランプを使うらしい。
 夕方に通った坂道の石段を、二人で登って行く。日が沈んでから、辺りは急に冷え込んでいた。両脇に建ち並ぶ家の住民達は奥の部屋に引っ込んでいるらしく、人の話し声も随分遠く聞こえる。別れ道に出るたびに二人は辺りを見回して、あの女の子の姿を探した。誰も女の子の名前を知らないから、名前を呼んで探すのも難しかった。ブレイヤールは時々「おーい」と道の向こうに呼びかけたりするが、返事はない。同じく女の子を捜す診療所の人と一度すれ違った以外、道に人影はなかった。たまにどこかから、足音が近づいて遠くなっていくだけだ。
 石で覆われた狭い道の空を塞ぐように、両側に背の高い石の建物が迫っている。建物の窓はどれも暗く、一度も開いたことのないような古びた扉の前に、箒や手桶などのガラクタが積み上げてあった。時折小さな明かりを灯す間口がひっそりとある。ブレイヤールが徐々に入り込んでいった路地は、キゲイにとって汚くて狭苦しく、あまり気持ちの良いところではなかった。周りが静かなだけに、二人の靴音がよく響く。時折その足音が増えるような気がしてキゲイは度々振り返ってみたりするのだが、決まって道には誰もいない。石の壁に反響した自分達の足音か、ただの空耳なのか。それとも建物を隔てた向こうの道を、誰かが通り過ぎて行ったのか。
 辺りのうらぶれた様子は、タバッサの路地によく似ていた。傭兵に追いかけられたときの嫌な思い出が、自然と脳裏に浮かぶ。キゲイはぎゅっと唇を噛み、その記憶を頭の奥に押し戻そうとする。
 ふいに前を歩くブレイヤールが、素早く横に飛びのく。同時に建物の隙間から飛び出してきた黒い影が、避けきれなかったブレイヤールを巻き込んで地面に突っ込んだ。
 突然のことに何が起こったのか、キゲイはきょとんと立ちほうける。ブレイヤールの上に馬乗りになった人影に気がつき、息を飲んだところで、彼もまた後ろから伸びてきた手に口を塞がれ、動きも封じられる。
 ブレイヤールにぶつかったのはかなり大柄な男のようだった。男はブレイヤールをうつ伏せに押さえつけたまま、地面に転がったランプを拾い上げ、ブレイヤールの顔の近くを照らす。キゲイはどうにか身じろぎしてブレイヤールの方を確認した。どうやら激しい体当たりを受けて、目を回しているようだ。男はブレイヤールの首を持ち上げ、揺さぶる。するとキゲイの後ろからもうひとつの人影がすばやく前に出て、ブレイヤールの鼻先で何かを燃やした。火はパッと燃え上がり、すぐに紫煙だけを残して消える。ブレイヤールを押さえつけていた男は、顔を背けてその紫煙を避けた。一方ブレイヤールは息を吹き返したと同時に煙を吸い、またがくりとうな垂れてしまう。キゲイがそれにおののくと、彼もその隙にさるぐつわを噛まされてしまった。
「こいつか」
 キゲイを捕まえている男が低い声でささやく。それは石人語ではなく、キゲイにも分かる「言の葉」だった。ブレイヤールを押さえつけていた大男が半身ほど振り返って、「そうだ」と答えた。ランプの明かりで、大男のごつごつした四角い顔と深緑の頭髪が分かる。キゲイを捕らえていた男は、後ろにいたらしい仲間へキゲイを乱暴に押し付ける。そしてブレイヤールの隣にしゃがみこんだ。キゲイはその男の装束に見覚えがあった。石人の装束ではない。タバッサの商人達によく見る服装だ。
「貧相なガキだぜ? 間違いじゃないだろうな」
 その商人風の男は、「言の葉」で緑髪の大男に言う。大男は何か答えたが、低い声はくぐもってよく聞き取れなかった。
「こっちのはどうします」
 キゲイを押さえ込んでいる男が尋ねる。大男がこちらに顔を向ける。両頬と額に、奇妙な模様が描いてある。
「必要ないが、置いてくのも殺すのも後々面倒だ。連れて行く」
 不思議なことに、やり取りは全て「言の葉」だった。それだけに話の内容と「殺す」の言葉をすべて聞き取ってしまったキゲイの頭は、真っ白になる。魂を抜かれたように、抵抗する気にも逃げる気にもなれず、両手両足を縛られて、ブレイヤールが袋に詰められ、自分もまた同じように袋の中に放り込まれるのを、大人しく受け入れるより他はなかった。
 袋は汗臭い酸っぱい匂いがして、息苦しい。キゲイは自分の体が持ち上げられ、どこかに運ばれていくのを感じた。人攫い達の足音は、最初は殆どしなかった。枯葉を踏む音がしてはじめて、キゲイは彼らが町の外側に広がる林に入り込んだことを知る。その林も、黄緑の城にあるものだ。その先は城と外界の境となる城壁があるはずだった。キゲイは自分が持ち上げられて、別の男に手渡されるのを感じ、それから暫く後には、地面に引きずられたり、どこかから投げ落とされたりして、死ぬほど痛い思いをする。さるぐつわを噛まされていたおかげで、幸い舌を噛むことはなかった。
 投げ落とされた後は再び拾い上げられ、上り坂や下り坂を運ばれているらしかった。真っ暗闇と恐怖一色に塗りつぶされた時間は、いつ終わるとも知れない。袋の中で息苦しさはいよいよ増し、恐怖し続けることにも疲れが出て気が遠くなりかけた頃、最後の衝撃が全身を打ち、キゲイは正気づいた。
 袋の口が開けられて、キゲイはようやく胸いっぱいに清潔な空気を吸う。木立の影と岩肌、その隙間にわずかに覗く夜空が見えた。投げ出された地面は石ころと土と砂で硬い。隣にはブレイヤールも袋から顔だけ出されて倒れていた。まだ気を失ったままらしい。側に石英のランプも、明かりがついたまま転がっている。その明かりは大分弱くなっている。
 人さらい達は、森の中の崖下で休息を取るつもりらしい。焚き火の黒い跡も見えたが、彼らは火は焚かずに火鉢らしき物のまわりに集まっている。近くに彼らの荷物が見えた。四つの人影がうろうろと動き、やがてそのうちのひとつがこちらにやって来る。キゲイは慌てて目を閉じ、死んだふりを決め込む。どうせ逃げられはしないのだから、何をされようと見ないでいた方がましだ。
 しかしやって来た人影は、ブレイヤールに用があったらしい。
「後ろ手か?」
「いや、前にしとけ。後ろ手にすると、こっちが世話焼くことになる。この先は自分で歩いてもらうんだからな」
 他の仲間とやり取りをした後、ブレイヤールの体を引きずってるらしい音と、ガチンという重い金属音がして、足音は去っていく。
 キゲイは薄目を開けてみる。ブレイヤールが上半身を袋から引き出されて仰向けにされており、腹の上で両腕に手枷をされているのが見えた。左頬は体当たりされて転んだときにできたらしい擦り傷で、一面に血がにじんでいる。分かったのはそこまでで、弱くなっていた石英ランプの明かりが消えると、辺りは暗闇になった。月明かりは崖の影に阻まれて、ここまで差し込んでこない。
 人さらい達は火鉢の側に集まって、ひそひそと何かを話している。キゲイは横たわったままのブレイヤールの影に視線を戻して、どうやって起こそうか迷っていた。何か声を上げようにも、さるぐつわを長時間きつく噛みすぎていて、顎が固まってしまっている。とりあえず人さらい達に気づかれないよう、キゲイはゆっくりと芋虫みたいに袋からにじり出ようとした。腰までどうにか出てこれたとき、ブレイヤールのうめき声が聞こえてきた。キゲイの心にパッと希望が芽生える。ブレイヤールが目を覚ましさえすれば、魔法で人さらいをやっつけて逃げることも簡単なはずだ。
「キゲイ、無事?」
 ややろれつの回らない、ブレイヤールのひそひそ声が聞こえた。返事をしようにもキゲイはさるぐつわをされている。そこで頭を動かして地面の砂利で小さな物音を立ててみせる。キゲイからはブレイヤールのシルエットが星明りに薄く見えるが、ブレイヤールからはキゲイの姿は崖の影に隠れてほとんど見えないはずだ。
「石人の城で誘拐なんて」
 ブレイヤールは呟いて、手枷を確かめるように両腕を少しあげる。それから胸の辺りで手をごそごそとやり、キゲイの方へ寝返りを打つ。
「例の物も無事? 連中に取られてないか?」
 キゲイは頷いた。人さらい達はこちらの持ち物をあらためたりはしなかったから、銀の鏡はまだ懐の隠しにあるはずだ。まさかキゲイのような子どもが、こんな大事なものを持っているなど、彼らは思いもしなかったらしい。
「縛られてるみたいだな。こっちに背中を向けて」
 言われるとおり、キゲイは後ろ手に縛られた背中をブレイヤールの方へ向ける。ブレイヤールは手枷で不自由な腕を伸ばし、キゲイの腕に触った。しばらくするとぷつぷつという感覚とともに縄が緩み、腕の痛みが軽くなる。そしてキゲイの手に、何か硬いものが手渡された。キゲイは両腕が離れて、自由に回せるようになったことに気づく。
「刃物だから、慎重に」
 ブレイヤールが言った。どうやら懐の小刀をそのまま持っていたようだ。とすると、人さらい達はブレイヤールの持ち物にも興味がなかったらしい。
 キゲイは横になった姿勢のまま、膝を曲げて両足を縛る縄を手探りで切った。最後に固く結ばれていたさるぐつわも真っ二つにして、大きく深呼吸する。ずっと食い縛っていたせいか、顎の付け根がギシギシ鳴り、ひどく痛む。
「キゲイ、黄緑の城まで戻ってグルザリオを探して。それで僕を助けに来てほしい」
 ブレイヤールの言葉に、キゲイは耳を疑った。キゲイはブレイヤールの体の影に隠れるようにして、相手に向き直る。
「なんで? 一緒に逃げようよ」
「……できないみたいだ」
 力のない囁きが暗闇から返ってくる。
「これは魔法封じの手枷だし、痺れ薬のおかげで、体の自由もまだ戻ってない。一、二、三で立ち上がったら、向こうの茂みまで振り返らずに走れ。あとは僕がおとりになる。キゲイは絶対に捕まるな。君は例の物を持ってるんだ。何かの拍子に連中に奪われるとまずい。これまで奪われなかっただけでも奇跡だよ」
「で、でも、怖いよ。あいつら、僕だけ殺すって言ってたもん……」
 体は自由になったはずだが、あのときの人さらい達の言葉を思い出すと、キゲイの体は自然と石のように動かなくなる。
 ブレイヤールはそれを知ってか知らずか、しばらく押し黙った。キゲイはブレイヤールの頭越しに恐々うかがう。人さらい達はまだ何か互いに話し合っていて、時々こちらに視線を送っていた。とても隙などない。こちらが動けば、彼らはすぐにすっ飛んでくるはずだ。
「僕は立つぞ」
 ふいにブレイヤールがそう言いきった。かと思うと上半身を起こす。人さらい達が声をあげて指をさした。キゲイは震え上がった。無我夢中で立ち上がり、こちらに向かって走ってくる人さらいを目におさめながら、身をひるがえす。
「走れ! 走れ!」
 ブレイヤールが声の限りに叫ぶのが聞こえた。後ろでブレイヤールがどうなったのか、振り返る勇気も余裕もなかった。いつだったか、今と同じように突然、何の覚悟も決まらないまま走らされたことがある。けれども今度の全速力には、間違いなく命がかかっていた。
 キゲイは崖の根に沿って転がるように走る。後ろから追っ手の声が聞こえ、それはやがて呪文を唱えるような朗々とした響きに変わる。しかしキゲイの身には何も起こらない。胸の辺りがちりちりするだけだ。そこは銀の鏡と三つ編みのお守りを入れているあたりだ。
 ブレイヤールの言った茂みは、真っ暗だった。足を下ろす地面もどうなっているのかよく分からない。キゲイは一瞬怯み、そこではじめて後ろを振り返る。男が一人、こちらに迫ってくる。キゲイは茂みの中へ飛び込んだ。