十一章 石人の亡霊

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 飛び込んだ先は急な斜面だった。厚く堆積した枯葉の上で足を滑らせ、全身を叩きつけられながら転げ落ちる。足がつくたびにキゲイは何とか走ろうとあがく。暗闇の中で木にぶち当たり、根に足を取られてまた転ぶ。枝が頬をかすめて肌を裂き、キゲイは目を守るために片腕を顔の前に掲げた。追ってくる足音が聞こえるかどうかは、もう問題ではなかった。下り坂で勢いづいた体は、走ろうが転がろうが止まることができない。それでもとうとう真正面から木にぶつかり、跳ね返されて仰向けに倒れる。一瞬気を失ったが、柔らかい腐葉土の上でずり落ちた体を、ぶつかった木がとどめてくれた。
 地面に叩きつけられた衝撃の痛みをこらえながら、キゲイは暫く息を潜めた。転がり落ちている最中は、随分騒がしかった気がする。悲鳴もあげたかもしれない。しかし今は静まり返って、内側から突き上げるようにどくどくと鼓動する自分の心臓の音が、耳の奥から響くだけだ。
 じっと上を見つめる目に、ようやく張り巡らされた細かな枝の影と、夜空が形を現してくる。星が一面に散らばっている。キゲイは星を数えた。数えるうちに、気持ちが少し落ち着いてくる。枝のかすった頬にそっと触れると、指がべったりと濡れた。舐めると、血と涙の味がする。怪我をした頬は痛まなかったが、鈍く痺れた感じがある。キゲイは体を起こした。あちこち打ち身だらけのようだが、動けないことはない。キゲイは四つん這いになり、慎重に斜面を下り始める。まだ逃げ切れたとは限らないのだ。
 やがて地面の傾斜はゆるくなる。雲が晴れたのか夜空の明るさが増して、樹冠の影が濃くなる。月明かりの帯が枝葉の間から降り、森の地面を小さな島のように浮き上がらせる。辺りの静けさに気づき、キゲイはようやく安堵した。自分はもう完全に一人きりになったらしい。それは安全ではないが、少なくとも追われる心配はなくなったということだ。あとは黄緑の城を探せばいい。
 膝の痛みに耐えながら、今度は登りの道を探して歩き出す。見晴らしのいい場所に出て、城の位置を確かめたかった。時折どこかで、地面を蹴る鋭く乾いた音がする。その度にキゲイは足を止め、耳を澄ました。夜行性の小動物が、キゲイに驚いて逃げた音らしい。
 幾分か歩いたとき、その音が自分の周りでいくつも上がり、枯葉を蹴立ててすぐ隣を横切って行った。森の奥で狐らしいしなやかな影が、一瞬木々の向こうを過ぎ去る。キゲイも慌てて辺りを見回し、さっと身を伏せて近くの倒木と岩の影に隠れる。耳を澄ますと、何かが柔らかい地面を踏みしだいて歩く音がする。野生の獣にしては、ずいぶんのんびりした歩調だ。かといって、二本足で歩いてる感じでもない。キゲイは魔物のことを思い出す。息をつめ、服の上から胸に隠した三つ編みのお守りを触って確かめる。
 夜の淡い光の中、四つ足の姿が現われる。ほとんどシルエットでしか分からないその姿は、見たことがないものだ。もたげた頭からは牡鹿のような角が生え、胴は人に似ていたが、毛むくじゃらで背中が丸い。長い腕と短い足を交互に出して進み、立ち止まってはけだるげな動作で低い鼻面を枯葉の中に突っ込む。臭いをかいでいるようだ。
 それが魔物なのか、この辺りに棲む獣なのか、キゲイに知るすべはない。その生き物の鼻が鈍かったのか、お守りが効いたのか、ともかくも奇妙な影はキゲイに気がつく様子もなく、のったりのったりと森の暗闇へ去っていく。
 キゲイは安堵する。手足は力の入れようがないほどに震えていた。震えがおさまり、木と岩の狭苦しい隠れ家から出るのに、それからまた随分時間がかかる。
 得体の知れない場所を進まなければならない恐怖と体の疲労は、あの生き物を見たために、さらにキゲイの歩みを遅くした。頭は空っぽになり、城に戻って助けを呼ぶという使命だけが、方角を知らせる星として、胸の内でぽつんと輝いている。
 荒々しく削られた岩場がそそり立つ場所で、ようやく森が途切れる。見上げると岩場はあちらこちらが四角く削られて、明らかに人の手が入っている。その向こうに見えたのは、星空ではない。本来の空を圧倒して立つ、灯りをちりばめた巨大な黒い影。黄緑の城だ。
 キゲイは、岩場に沿って歩き出す。登れる所を見つけなければならない。宿を出てから随分時間がたったように思うのだが、夜が明ける気配はなかった。それどころか、辺りの闇が再び濃くなっていく。見上げれば、薄い雲が月を飲み込みつつあった。
――どうしよう。城からどんどん離れてる気がする。
 岩場を登ろうにも、この暗さでは足場を見つけることさえできない。いい加減歩き疲れてきて、キゲイは立ち止まってしまった。岩場は諦めて、別の方向に道を探した方がいいかも知れない。そう考え、森の方へ向き直る。すると、何か白いものが目の端にちらついた。
 キゲイは目をこすって、もう一度森の奥に目を凝らす。暗闇の向こう、木の幹が幾重にも連なる奥に、淡く輝く小さな人影のようなものが見える。
 あれがもし妖精ならば、時刻も不確かな真夜中に、あんなふうに光をまとって森の小道を歩いていても不思議ではない。あるいは、幽霊かもしれない。あれも真夜中に現れるものだ。
 ゆっくりと森の奥へ歩き去ろうとする人影に、キゲイは不審の目を向ける。どんなに行き先に困っていても、到底あれの後をつける気にはなれなかった。
 結局、岩場沿いに来た道を引き返す。息を殺し、白い人影に万が一でも気づかれないよう、足早に、音もなく。ところがそのとき、キゲイの隣で小枝と枯葉が砕ける乾いた音が立つ。間髪入れず、小さな影が目の前に躍り出てきた。内心怖くてたまらなくなっていたキゲイは、腰を抜かして地面に尻餅をつく。
 森から飛び出してきた影は、一人の女の子だった。目をまん丸に見開き、尻餅をついたキゲイの前で、構えるように仁王立ちになっている。純白の肌に痩せて目ばかりが大きい彼女は、紛れもない診療所から姿を消したあの子だ。
「なんで……」
 キゲイは言葉を詰まらせる。どうやって一人でここまで来たのだろうか。それよりもなぜ、この子は一人でこんな所にいて、自分とばったり出くわしたのだろう。そう思った直後、キゲイははっとして森を振り返る。
 先程の白い人影が、また見えた。なお悪いことに、今度はこちらに向かって近づいてきている。女の子がキゲイの腕を引っ張った。よく分からないが、逃げるべき状況のようだ。なのにキゲイは立ち上がろうとして足首をひねった。女の子も巻き込んで、地面にばたんと両手をつく。疲れきった体と頭は、もう素早い動きについて行けなくなっていた。
「ああー!」
 心底怯えきった悲鳴は、女の子のものだった。キゲイは悪夢を見るように、白い人影を見上げる。人影は目の前に来ても白いままだった。霧の塊のようなそれは、ぼんやりと人の形をしていて、頭の辺りだけが淡い萌黄に色づき、炎のようにさかまいている。人影はとてつもなく長身に伸びたかと思うと、二人の真上へ頭をもたげてくる。
 キゲイの手は、無意識のうちにお守りを握り締めていた。しかしキゲイ自身は、お守りよりも銀の鏡の方が頼りになるかもしれないと思っていた。禁呪の方が、目の前のこれをやっつけてくれそうな気がしたのだ。
 霧の塊が形を変えて、細長い腕のようなものを伸ばしてくる。その腕はキゲイの頭上を通り過ぎ、女の子に向かう。女の子は立ち上がって走り出す。腕はすぐさま霧の中へ戻り、人影も女の子を追ってゆらゆらと、すべるようにキゲイの目の前を通り過ぎる。
 キゲイの手の中で、お守りがパシッと小さな音を立てて弾けた。その音でキゲイは我に返る。焦げ臭い嫌なにおいが立ち昇った。見ると、お守りの三つ編みが途中で千切れて真っ二つになっている。一方の三つ編みだけが灰色に変わっていて、握りこむとはらはらと崩れてしまった。このお守りは、キゲイも知らない間にあの影と戦っていたのだ。
 キゲイはお守りの残り半分をしっかり手に持ち、立ち上がって白い影を追いかけ始める。不思議と全身に力が戻ってきていた。体を石のように固めていた恐怖心も、お守りが振り払ってくれたかのようだ。
 白い影自身が、明かりの代わりになった。影の歩いた跡は、ぼんやりと輝く軌跡が暫く残る。影の後姿は、長い衣を引きずる女の人にも見えた。風が吹けばそのまま飛んでいきそうなほどに頼りない輪郭を透かして、影から逃げる女の子の背中がちらつく。
 女の子が転ぶと同時に影はその側へ流れ込むようにすべり、再び伸び上がってかがみこむ。霧の腕が伸びて女の子の顔を覆うと、女の子は悲鳴をあげた。
「離せっ! このお化け!」
石人の亡霊 キゲイは追いつき、影の背にお守りを突きつける。影は耳を持っていたのか、キゲイの方へ上半身をねじったように見えた。揺らめく頭部がすっとキゲイの顔の側まで近づく。キゲイは眩しさに目をしかめ、お守りを突きつける。
 真っ白な相手の顔の中に、深い紫の宝玉が二つ浮かんだ。キゲイはぞっとしたが、すぐにその心を押し殺し、手にしたお守りを振り上げて影の顔を打つ。お守りは煙をたたくように、なんの手ごたえもなく顔の中をすり抜けてしまう。
 ところが影は音も無く仰け反った。紫の瞳が消えたかと思うと、キゲイの左腕に焼けるような冷たい痛みが走る。影から伸びたもう一本の腕が、キゲイの左腕に巻きついていた。つかまれている感覚はないのに、すさまじい力でねじり上げられたような痛みだけが、影に覆われた部分から肩まで広がる。その痛みが左肩から心臓に達する前に、キゲイはお守りを無我夢中で影の腕に叩きつける。
 今度も手ごたえはなかった。それでも影の腕はするすると引っ込んだ。女の子をつかんでいた腕も、影の中に消える。お守りから火花がはじけ、三つ編みの編み目一つ一つから、小さく鋭い光が漏れた。キゲイはそのお守りを影に突き出す。影はじりじりと下がる。
「消えろ!」
 キゲイは叫び、編み目のひとつに指をかけると、思い切り引きほどいた。編み目の光がぱっと夜の森に弾けた。長身の影が足元から溶けて地面にべたりと広がる。水溜りのように平たく伸びると、地面に込まれて段々と薄くなっていく。
 キゲイはさらにもう二つの編み目を、水溜りの上でほどいた。再び光が弾け、それを最後に水溜りは完全に消え失せる。お守りから漏れていた光もまた、かすかになって消えていった。
 どのくらい時間が経ったろうか。辺りが清浄な夜の闇を取り戻したのに、キゲイはようやく気づく。耳の奥ではどきどきと脈が踊っている。前に突き出したままのお守りは、もう光ることもなくただの三つ編みに戻っている。キゲイの向かいには、女の子が地べたに座って、短くなった三つ編みをぽかんと見つめていた。
 キゲイは息をついた。一番の危険は去った。女の子も見つかったわけだし、あとは城に戻る道を探すだけだ。彼はそう思った。しかし、まだ終わってはいなかったのだ。
 影の消えた地面からはっきりと、耳をつく凄まじい叫び声が響いた。声は途切れることなく長く続き、キゲイは耳を押さえて自分も悲鳴をあげる。それと同時に木の葉交じりの強い風が、キゲイの背中を打つ。地の底からの声に答えてか、天からも引きつった絶叫が降ってきた。空を見上げると巨大な翼を広げた鳥のようなものが、今まさにこちらに向けて鉤爪を伸ばすところだった。

 それから自分がどうなったのか、キゲイには記憶がない。確かなことといえば、自分はそれなりに立派に、得体の知れない光のような幽霊と戦ったということと、鷲のような鳥にさらわれたが、まだ生きて元気だということだ。でもこの状況では、それはなんの慰めにもならない。
 キゲイの耳に、すぐ隣でわんわん泣いている女の子の声は、あまり届いていなかった。目覚めてすぐこの声を聞きつけたときは、骨でも折ったのかと心配したのだ。しかし単に恐怖の名残で泣いているだけらしいと分かると、放っておいた。ある意味、助かったことを喜んで泣いているようなものだ。
 辺りの景色は森のままだった。けれども森の様子は、あの晩彷徨った森と似ても似つかない。木々の種類も地面の様子も森の匂いも、全然違う。おまけにくぼ地の影には白い雪が残り、霜が一帯の地面を覆っているのだ。
 女の子の声が枯れてきた。キゲイは視線を自分の左腕に落とす。袖をまくると、幽霊につかまれた辺りの肌が赤いあざになっている。差し込んできた朝日が腕を照らすと、あざはみるまに小さくなっていき、最後には跡形もなく消えてしまった。なんだか、見てはいけないものを見た気分だ。キゲイはおもむろに袖をなおし、立ち上がって朝日の方向を確かめる。
 自分達がいる高台から北には山がそびえ、東西と南は森林しか見えない。さらにその向こうには薄青い山々の稜線が重なっている。月が山向こうに半身をのぞかせ、光に溶けながらうっすらと輪郭を保っていた。
「……なんかさ、やっぱり人間は石人の世界じゃ生きていけないと思うよ。魔物はいるし、あんな変なお化けはいるしさ。耐えられないと思うんだ。こんな世界」
 言葉は通じないと分かっていても、キゲイは女の子に愚痴らずにはいられなかった。女の子はようやく泣くのをやめて、キゲイの方を向いた。その顔には、相変わらず表情というものがほとんど現われていない。さっきまで大泣きしていたのが嘘みたいだ。言葉が通じないこともあわせて、キゲイはどうしてもこの子を不気味に思う気持ちを拭えなかった。だからといって、ここに置いていくわけにも行かない。
 キゲイは森の海をもう一度見渡す。思い起こせば、アークラントの険しい山を越えて大空白平原に出たときも、地平の彼方まで続く灰色の大地に驚かされた。住み慣れた国を後にする不安も忘れて、地平線のどこかにいる英雄をまっすぐ迎えに行けるのだと心がはやった。今もそのときと似た、何かを新しく始めるような気持ちがしている。もっともそれは、わくわくでもどきどきでもない。背後では常に絶望が待ち受ける、緊張に満ちた静かな気持ちだ。あのときと違うのは、頼れるのが自分ひとりだけということ。驚くくらい冷静でいられるのは、そのせいかもしれない。最初の放心からも、すこしずつ立ち直り始めていた。
 日が高くなるにつれて、青い影だった世界が色彩を取り戻し始める。
 キゲイはずっと右手に握り締めていたお守りに、初めて目をやった。三つ編みのお守りは、編み目が数えるほどしか残っていない。けれども、編み目はほどけてはいなかった。調べてみると、一見ただの三つ編みに見えるこのお守りは、もっと複雑な編みこみを内に隠していた。そのおかげで簡単にはほどけないようになっているらしい。ブレイヤールが魔力を織り込んだのも、この細かな編み込みの方だったのだろう。強めに編み目を引っ張ってみるが、編みこみは崩れなかった。あのとき、よくこの編みこみを指一本で引きほどけたものだ。キゲイはお守りを丁寧にたたんで胸のポケットにしまう。そこにはあの銀の鏡も、まだちゃんと入っている。
「行こうか。歩けるよね」
 キゲイは女の子に声をかけて、北の連山に視線を移す。地読みの民としての感を働かせなくとも、辺りの様子から自分達が黄緑の城からかなり南に連れて行かれたことは分かる。冬がまだ立ち去らない方角。石人世界奥深くに連れ込まれたのだ。ならば北へ向かえば、いつかは境界石の連なりに行き当たるはずだ。行き着ければの話だが。
「僕、森は歩き慣れてるんだ。里も山の森ん中にあったから。ここはトウヒが多いから、里の森に帰ってきた気がするよ」
 女の子はキゲイの言うことに耳を傾けた。石人語も分からない彼女に、「言の葉」も通じてはいないだろう。身なりは診療所で会ったときのままで、暖かそうな格好をしていたことだけは救いだ。ズボンの膝が少し破れて血がにじんでいる。かわいそうだが、我慢して歩いてもらわないといけない。
 キゲイは腰に巻いていた下帯をはずし、首もとに巻きつけてささやかな防寒をする。そして女の子を促しながら、北に向かって斜面を下り始めた。