十二章 黄金色の国

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 愕然とした。日が昇り、ようやく自分の両手を繋ぐものをはっきり認めたとき、驚きと怒りと絶望が一緒くたになって心を押し流し、後には虚脱感しか残さなかった。彼の両手首を封じる古ぼけた魔法封じの手枷には、白城の紋章がしっかと刻まれていたのである。そして枷の裏側には、星の神殿の紋章も。
 普通の魔法封じの手枷なら、時間をかければ外せたはずなのだ。放心してそれを眺めるブレイヤールは、この手枷の素性をおぼろげながら想像することが出来た。
 七百年前白城の王が亡くなり、王の守護を失った人々は、レイゼルトを恐れて城から次々と逃げ出した。その最中、どさくさにまぎれて城から持ち出された品々は数知れない。この手枷も、白城の紋章が刻まれている以上そういった品のひとつだろう。あるいは白城が滅びた後、宝物庫やその他の倉庫から盗み出されたのかもしれない。白城は今日まで多くのものを盗まれ続けてきたが、人間が盗んだものより石人が盗んだものの方が遥かに多いのが現実だった。
 いつの時代にか盗み出されたに違いないこの手枷も、何の因果か、最も皮肉な形で本来の持ち主の元に返ってきたわけだ。手枷は禁呪使いが多くいた時代、彼らの力を封じるため、当時の大巫女様が自らの魔力を封じて作らせたものだった。数十もの枷が、それぞれの城の紋章を付して十二城に配られた。
 ブレイヤールは手枷を近くの岩にぶつけてみる。手枷にかけられた魔法封じの力も強力なら、手枷に使われた金属も、錆だらけにもかかわらず丈夫だった。痛んだのは自分の手首だ。
「うるせえぞ! 静かにしな! また痛い目にあいてぇのか?」
 エランと呼ばれるあの嫌な人間の男が、怒鳴りつけてきた。キゲイを逃がした後、ブレイヤールは大声で誰かに助けを呼ぼうとしたのだが、すぐさまこの男に二度も腹を蹴られて黙らされたのだ。おかげでその後は、息をするだけでも胸の下あたりが鋭く痛むようになってしまった。
 エランの他には、ニッガナームと呼ばれる石人の大男と彼が連れている二人の石人がいた。三人の石人達は、それぞれ顔や腕に文様を施している。彼らはブレイヤールと極力目を合わさないようにしており、エランの行動に不快な表情を見せていた。石人にとって王族に手を出すのは、どんな悪党でも後ろめたさを感じるものだ。もっともブレイヤールの場合は、王族とはいえ城が滅びていたから微妙な身分ではあった。ニッガナームの煮え切らない態度も、ブレイヤールをまともな王族として扱うかどうか、複雑な気持ちのせめぎ合いからきていそうだ。
 ルガデルロが常に彼に言い聞かせてきた言葉の一つが、「王族としての振る舞い」だった。時に煩わしくさえ思っていたこの言葉が、今の自分の威厳と身の安全を守る唯一のものとして、ふっと脳裏に蘇る。手枷に施された白城の紋章が、それを思い出させたのかもしれない。王族の振る舞いはエランには通じないかもしれないが、ニッガナーム達には通じる。
――怖がったり、惨めな表情を見せたりするのは、絶対に駄目だ。
 ブレイヤールはそう悟る。かと言って、手枷をされながらも威厳を持ってどっしり構えるというのは、彼には無理そうだった。こうなると、ひたすら無表情を貫くほかない。
 朝食に出されたのは、塩漬けの魚の切り身に、干した林檎と水だった。ひりついた喉に冷たい水は心地よかった。魚は塩味が濃すぎ、かえって喉の渇きを酷くしそうなので手をつけずにおいた。干した林檎は海綿のような食感で、ほのかな甘味があった。
 食事がすむとブレイヤールには目隠しがされ、両脇に石人がついて彼を歩かせる。靴は逃亡を防ぐため、とうの昔に取り上げられている。おかげで地面のでこぼこが足裏に痛い。とても長い距離は歩けそうにないが、この地面の感触が、唯一自分がいる場所を教えてくれるものでもある。
 辺りが肌寒くなり、日が翳ってきた気がした。随分歩いた。日暮れ時なのかもしれない。ここでようやく目隠しがはずされ、ブレイヤールは没しつつある紅の太陽に目を瞬かせる。いるのは両側が切り立った崖の小さな谷で、谷底には川が流れている。崖の下の方には小さな穴がいくつか見えて、明かりが漏れていた。
「こっからは自分の目で見て歩くんだな」
 ニッガナームが背後からどすのきいた声で呟く。手下の石人二人が先に崖沿いの道を下っていき、ブレイヤールがそれに続いた。後ろから、エランの耳に絡みつく、独特の笑い声が降ってくる。
「いーへっへっ! 本当に想像もつかなかった拾いもんだぜ! 黄緑の城に白髪の王族様がほっつき歩いてるなんてよ! いつもなら金持ちの家に忍び込んで金目の物を失敬するだけが、まさか人に手をだすたぁな! へっへっへえっ」
「馬鹿はいつだって幸せもんだな」
 異常なほどに上機嫌なエランの言葉に、ニッガナームの苦々しい答えが続く。
「十二国の王族に手を出したら、呪い殺されるってぇ話がある。迷信だと信じたいがな。だが頭目がこいつを見たら、大喜びするのは分かってるんだ」
 ブレイヤールは「頭目」の単語を聞きつけ、小さく頭を振って淀んだ疲労を振り払う。そして二人の会話に耳を澄ました。再びエランの下卑た含み笑いが聞こえる。
「なんだぁ? いまさら怖気づいてるのかい。冷血のニッガナーム様がよ。あの手枷で魔法を封じてんだろ。今のあいつはただの青っ白い小僧で、俺達の獲物ってわけだ。しかも、近いうちに黄金に化けるんだぜ。俺の人生で、これほど楽に冠付きの獲物が取れたことは初めてだ。人間世界で王族を捕まえたかったら、セジアム辺りのど田舎で村みてぇにちっぽけな国を探して、どうにかこうにか痩せ馬並に貧相な王子とか姫を、とっ捕まえられるくらいだからなぁ。んでも、血統がいいのは高く売れるんだ」
「そんなのと比べられるようじゃ、石人の王族も落ちたもんだぜ。てめぇら人間が俺達に隠れて何してるか、知らないことにしてやってんだ。すこしゃ、黙っときな。第一そいつは、金になるかどうかもまだ分からねぇんだ」
「じゃ、こんなガキいらねぇよ」
 嫌な気配が背中に迫り、ブレイヤールは突然突き飛ばされた。完全に不意を突かれ、捉えきれない速さで視界がぐるっと回る。身を守るため、反射的に広げようとした両腕は枷に阻まれた。もはやなすすべもなく、坂道を頭から転落しかける。かと思うと次の瞬間強い力で襟首が締め付けられ、再び視界が一転して崖肌に叩きつけられた。彼は目を見開き、荒く息をつきながらへなへなと膝を曲げる。心臓が口から飛び出さんばかりに激しく打っていた。
 エランの馬鹿笑いと、ニッガナームの押し殺した怒鳴り声が聞こえる。
「正気か、この野郎! めったなことするんじゃねぇ! おい、お前ら、立たせろ!」
 先を歩いていた二人の石人が戻って来て、放心状態のブレイヤールを両脇から抱え上げる。エランの笑い声だけが、しつこく続いていた。
 崖の下には洞穴が開いており、盛んに火の粉を飛ばす松明が洞内を照らしていた。最奥に岩盤を荒く削りだした上り階段と、見張りらしき石人の姿がある。その石人も額に魔除けの刺青を施していた。エランとニッガナームは先に階段を上って行ってしまい、ブレイヤールは暫く待たされた。その間に見張りの石人が松明からランプに明かりを取り、ブレイヤールの脇を固める石人の一人に手渡す。
 階段を上った奥は、坑道のような多くの脇道を持った通路が延びていた。時々通気と採光をかねた小さな穴が、左手側に現われる。しかし右手に伸びた細い道に入ると、ランプの明かりだけが頼りになった。二人の石人は、突き当りの木戸の前で立ち止まる。一人が鍵を取り出し扉を開ける。扉の向こうは奥行きも知れない闇しかない。もう一人が黙りこくったまま、ブレイヤールの背を扉の向こうまで押す。それは、ひどく遠慮がちな押し方だ。ブレイヤールは後ろを振り返る。
 石人と目が合った気がした。ランプの明かりは相手の背後にあって、その瞳も額の下でわずかに照り返した二つの小さな輝きに過ぎない。輝きは妙に震えていて、落ち着きがなかった。相手が萎縮していると分かったとき、ブレイヤールは自分が白城の王族であったことを思い出す。ブレイヤールの顔はランプに照らされて、二人の石人からはこちらの表情が分かるだろう。
 何か言った方がいいのだろうか。ニッガナームよりはこの二人の石人の方が、脅しやすそうではあった。ブレイヤールは考えるために一瞬まぶたを硬く閉じ、眉を寄せる。次に目を開いたときには、何も言わない方が賢明だろうと考えた。単に気のきいた言葉を思いつけなかったのもあるが、口をきくべきは目の前のつまらない二人ではなく、ニッガナームが頭目と呼んだ人物のはずだ。
 彼は自分から背を向けると、暗闇の中へ足を踏み出す。するとその後ろで静かに扉が閉められ、鍵がかけられる。彼は遠ざかる足音が完全に聞こえなくなるまで、じっと動かず待った。去る足音は、ほとんど駆け出さんばかりだった。
 完全に一人きりになると、ブレイヤールは真っ暗闇の中で左右の足を回し、この場所を確かめる。右側に木箱らしき物があり、軽く蹴ると中身があるのも分かる。その脇には麻袋もあった。中身は粉か砂かがぎっしり詰まっている。左側は何もないようだが、すり足で空間を確かめていくうちにすぐ岩盤に突き当たった。
――牢屋というより、ただの小さな倉庫だな。とすると、案外すぐにここから出されるのかもしれない。
 鼻をひくつかせると、白城の地下食料庫と似た匂いがする。古い小麦粉や、カビかけた香草類が、木箱や麻袋に詰まっているに違いない。詰まっているだけ、白城の食料庫よりましなのだろうが。
――城を捨てた石人達の住居か。
 ブレイヤールは自分をさらった者達の素性に思いをめぐらせた。
 石人世界は魔法の力が強く、魔物や邪妖精の存在に溢れていて、城以外で安全に暮らせる場所はまずない。それでも城での暮らしを捨て、神殿の加護すらも避け、こういった生き方を選ぶ者達がいることは知っていた。多くの場合は、その城の王族の恨みをかったなどで城に居づらくなった貴族が王の報復を恐れて城を去り、彼らの親族や信奉者とともに隠れ家を建設する。もしくは、何らかの理由で神殿の決まりに従わず、罰を恐れて城を出る者もいる。しかしどんなにやむない理由があったとしても、ブレイヤールをはじめ多くの石人達にとって、彼らの選択を理解することは難しかった。大巫女様のいらっしゃる神殿から離れ、王が守る城での暮らしを捨てたら、石人に何が残るというのか。精神の拠り所もなく、天と地に渦巻く魔法の力の真っ只中で、邪妖精に正気を奪われ、魔物に命を狙われ、影に魂を蝕まれる危険に怯え続けなければならない。
 しかし大空白平原に近い土地であれば、地に宿る魔法も弱まり、危険もある程度払いのけられるものとなってくる。この崖の内部に掘り込まれた住居は、実体を持つ魔物達から身を守るのに最適だろう。けれども、空気のようにどこにでも入り込む邪妖精から身を守るには、様々な護符や魔除けの文様を身に付けるしかない。ニッガナームや他の石人達が体に文様を施していたのは、そのためだ。護符を持つより、体に直接描く方がより強力な守りになる。そもそも城が建設される以前の石人達は、皆あのような刺青や色とりどりの顔料で肌を覆うのが普通だったらしい。
 ブレイヤールは暗闇を見透かそうとする。光がなくても、妖精達の影は見えるものだ。けれども手枷で魔力を封じられているせいか、彼らの姿を捉えることはできなかった。気配だけは感じられるのだが。
 彼は岩壁に背を持たせかけ、まぶたを閉じた。何も見えないのだから、目を守るためにもそうしておいた方がいい。邪妖精は、瞳の中から心に潜り込むことだってできる。
――生きてここから出られるかな。ここの連中も、僕をどうするつもりか分からないし、あいつも頭目が大喜びするって言ってたし。……なんで喜ぶんだろう。僕を殺したって、白城に移り住むなんて出来るはずがない。黄緑の城がそれを許さないし、そもそも王族の命を奪えば、星の神殿からして黙っちゃいない。
 肘を上げ、両腕を左右に開こうとする。手枷の鎖が強い手ごたえとともに、チャリンと高い音を立てた。この手枷に知恵があるなら、自分が白城の王を窮地に追いこんでいることを知るべきだ。白城の紋章を刻まれているというのに。
――石人と人間がぐるになって、悪事を働くなんて。ここの連中はなぜ城を捨てた? もとはどこの城に住んでいたんだ。いつからここで暮らしてる。こんなところじゃ、魔物に命をさらし、邪妖精に魂をさらし、畑をやれる柔らかい土も安全もない。……食料を得るには、大空白平原の人間達と手を組むしかない。
 ブレイヤールは深い溜息をつく。大空白平原の無法な空気は、石人世界にも確実に影響を及ぼしているのだ。七百年前の約束であの平原には誰も入ってはいけないことになっていたというのに、約束を破った人間達が恨めしい。もちろん入ってきた人間達は善人ではなくならず者で、そういった連中に約束を守ることを期待しても無駄なのだが。
 そこで彼は、石人の古い歴史を思い出した。
――神殿しかなかった時代でも、神殿の守る都市から出ていく者達はいた。……初代十二王達は、その最たるものだったのかもしれないな。正十二国創設の理由も、神殿の腐敗した権力と支配から石人達を解き放つのが目的だったはずだ。なのに今度は、その城から逃れようとする石人達がいる。白城の者達など、七百年前からずっと、いつか城を蘇らせることを夢見ていた。城を捨てる者達の存在を知りもせず。何千年も前から、城は神殿以外で石人の生きる唯一の場所だった。そう信じて疑わなかった。
 そこでブレイヤールは思考を中断する。
「来るな、来るな。随分太ってるのに、まだ食べたりないのか!」
 彼は息を殺して見えない相手に囁き、魔除けの呪文を呟く。獲物を嗅ぎつけた邪妖精達が暗闇から現われて、彼の体に触れようとしているのを感じたのだ。さほど力を持っている相手ではないが、手枷をはめられている今は油断できない。彼らはブレイヤールの心に恐れや疑いを見つけ、それを食べにきたのだ。けれども彼らは十分太っている。他の石人達から食べた負の感情で肥えたとしか考えられない。
「白城を蘇らせるなんて、ばかげてるのか」
 暗闇の中で、なすすべもなく問いかける。それが全ての問いだという気がした。答えはたくさん必要だったが、何一つとして良い考えは浮かんでこない。
――ところで、まだここにいなきゃいけないのかな。
 恐れる心を、妖精に少しばかりかじられたのかもしれない。虫食いの心はさらに脆くなるものだ。頭目の前に引き出されるのが、怖くて仕方がなかった。相手の出方が分からない上に手枷で魔力を封じられているとあっては、自由になる口だけが文字通りものをいう。しかし言葉が見つからなければ、口だって封じられたのと同じだ。
 ブレイヤールが暗闇でうつうつしていると、足音が近づいてきた。声も聞こえてくる。二度と聞きたくもないあの声は、エランのものだ。あの声はもう、激しい怒りと苛立ちしか呼び覚まさない。そしてそれが今はありがたかった。この怒りをエランではなく、頭目に対してぶつければいい。彼はどうにか気を奮い立たせる。
「待たせたなぁ? この国の王様がお会いになられるぞ! ……おお怖い怖い」
 扉を開けて顔をのぞかせたエランを、ブレイヤールはすっくと立って睨みつけていた。馬鹿にしたように怖がって見せるエランの後ろには、ニッガナームもいる。
「頭目か、王か、はっきりさせろ」
 ブレイヤールはニッガナームに向かって言い放つ。かなりの勇気がいったが、言い切ってしまうと妙に覚悟が決まった。
「会えば分かる」
 ニッガナームは無表情で、ほとんど唇を動かさないまま答えた。彼は腕を伸ばしてブレイヤールの手枷を掴み、扉の向こうから通路へ引き出した。
 ブレイヤールはエランとニッガナームの二人に前後を挟まれ、岩穴の通路を延々と進んでいった。