十三章 古都へ

13-1

 もう昼近くだろうか。木漏れ日も空しいほどに弱々しく、森は木々の影に暗く沈みこんでいた。頭上の鳥が枝葉を蹴って飛び立つ音、厚く枯葉の積もった地面を踏んで何かの獣が走り去る音。森の静寂をときに破る小さな生き物達の気配は、一人ぼっちではないという安心と、いつ危険な動物と出くわすかという不安の、両方をかきたてる。キゲイ達の足音に動物達も驚いているのならば、キゲイ達も彼らの立てる音にびくついていた。
 女の子は大分遅れがちになってきていた。これまで休むことなく歩き続けただけでも、たいしたことだったかも知れない。キゲイは時々振り返って、彼女が追いつくのを待つ。
「ほら、山が近くなったろ?」
 キゲイは木々の隙間から垣間見える、山の斜面を指差した。斜面を覆う針葉樹の黒々とした森は、金色の光の下で所々輝いて見える。向こうの空だけ、雲が晴れているのだ。
 しかし女の子は何の反応も見せず、キゲイに追いつくとそのまま地面に座り込んでしまった。彼女のズボンは、転んだりよじ登ったりしたときに膝が擦り切れて、穴が開きかけている。両の手のひらも、擦り傷と寒さで赤い。
 キゲイは溜息をついた。彼女がこうやって座り込む度に、彼は小川でもないかと辺りを見て回るのだが、いつも無駄骨だった。傷を洗う水も飲み水もなく、木の実ひとつ落ちていない。森は冬の終わりの佇まいで、食べ物は期待できそうになかった。おまけに夜のことを考えるだけで、希望も何もなくなってしまう。火無しで一晩過ごすことなど出来るのだろうか。風は日中の今でさえ、こんなにも冷たいのに。
 キゲイは手に取った木の枝で、厚く堆積した枯葉の地面をほじくってみる。虫も出てこなければ、落ちた木の実も出てこない。
 女の子が何か呟くのが聞こえた。それが人の言葉であったとしても、石人語ならばキゲイには分からない。けれどきっと、彼女は魚の言葉で何か言ったのかもしれない。
 疲れ切った彼女を、伝わらない言葉や身振りだけで立たせるのは、至難の業だった。手を引いて立たせようとしても、彼女はがんと抵抗して腰をあげようとしない。
「だめだったら! 歩かないと、凍え死んじゃうかもしれないんだぞ!」
 本当なら、もっと優しく接してあげないといけないはずだ。そうと分かってはいても、キゲイにはそれだけの余裕がなかった。いらいらして手加減を忘れ、強く彼女の腕を引くと、彼女の腕からぐりっと嫌な感触がキゲイの手に伝わる。次の瞬間、彼女はか細い声を上げて泣き出してしまった。
 キゲイは慌てて手を離す。
「ごめん」
 キゲイも泣きたいほどみじめな気持ちになる。ありがたかったのは、女の子はキゲイに対して、なにも怒っていなかったことだ。ただ腕を強く引かれたことだけを、悲しく思っているようだった。キゲイが彼女の肩や手に触っても、嫌がったりはしなかった。幸い肩の関節は外れていなかったが、変によじってしまったらしい。腕を動かそうとすると、彼女は顔を少し歪めて痛そうにした。
 彼女が歩こうとしないなら、もう仕方がない。キゲイはその間に少し遠くまで探索することにする。待ってて、と声をかけて側を離れはじめると、それまで絶対に立とうとしなかった女の子が、大急ぎでキゲイの後をついて来た。きっと置いてけぼりにされると思ったのだ。無理矢理腕を引っ張る必要などなかったらしい。キゲイは女の子が追いつくのを待って、先に進むことにする。
 木々が少しまばらになり、背の低い捻じ曲がった枝を持つ茂みが多くなった。大小様々な大きさをした青灰色の岩もごろごろしていて、歩きにくい。地面は西に向かって傾斜しており、キゲイはこの斜面を登るべきか降りるべきか迷いながらも、とりあえず横様に進んでいた。木立の影は薄くなっていても、辺りは岩や地面の起伏で見通しが悪い。太陽もすでに正午を過ぎて、夕暮れに向かって刻々と傾き始めている。
 女の子はといえば、驚いたことにキゲイの足にちゃんとついてきていた。キゲイが岩の上に腰掛けると、彼女も立ち止まって同じように座る。今朝まではキゲイが彼女を引っ張って歩かなければならなかったのに、今では彼女の方が、キゲイが次に立ち上がるのを待っているようだ。
――あの子、僕より寒さにもお腹が空いたのにも強いのかなぁ。喉は渇かないのかな。魚だったから、喉の渇きには弱そうだけど。
 キゲイは疲労でぼんやりした頭のまま、次に立ち上がるまでに斜面を登るか降りるか決めようと考える。その隣で、唐突に隣の女の子が立ち上がったかと思うと、一人勝手に斜面を登りはじめた。
「えっ? ちょっと、待って!」
 今までからは考えられない速さでずんずん登っていく女の子を、キゲイは慌てて追いかける。彼女はしばらく登って足を止め、岩の隙間に手を突っ込んだ。後を追っていたキゲイは、かすかな水音を聞きつける。足元の地面も、少し湿っているようだ。キゲイは岩場を調べ、斜面の上から水が流れてきているのを知る。泉か、小川があるのかもしれない。
「よし、登ろう」
 キゲイは斜面の上を睨みつけ、声を出して自分を励ます。女の子は指先についた水を舐め、隣をキゲイが通り過ぎていくのを見る。キゲイがしばらく登った後に見下ろすと、彼女は湿った岩場を諦めて、のろのろと斜面を登り始めていた。
 もう少しで登りきるというとき、上から何か小さな生き物が飛んでくる。ブンと力強い羽音が耳元をかすめ、直後にカサッと軽い音が足元に落ちた。キゲイは首をかしげる。虫にしては大きかったし、ひどく鮮やかな赤色だった。それは、夕暮れの日差しの色のせいだけではない気がする。
 キゲイは最後に音のした場所を、石ころと枯枝をそっと掻き分け覗いてみる。尖った葉っぱを持つ枯れ枝の隙間から、透き通るような深紅の胴がみえた。まだ生きている証拠に、上に乗った枯れ枝が小刻みに動いてる。キゲイは枝を慎重に取りのけた。
 それはキゲイの手のひらにすっぽり乗りそうな、綺麗で小さな生き物だった。柘榴を思わせる見事な赤色の細い胴、さらに濃い色をした長い尾と細い四肢。黒い鉤詰めは釣り針に似ていて、長く湾曲している。背中にはもとは三対の見事な羽があったに違いない。七色が揺らめく透明な羽は、左側が二枚欠けてしまっていた。右の一枚も、半分が破れてしまっている。
 羽と長い胴は、なんとなくトンボも思わせる。けれどもトカゲにも似ていた。もしかするとこれは、物語でよく聞く、竜の一種なのかもしれない。
 華奢な胴部は、呼吸で腹の辺りが膨らんだりへこんだりしている。生きているみたいだが、動こうとしない。キゲイは拾った小枝の先で、竜の頭をそっとつついてみる。すると竜は自分をつついた枝ではなく、キゲイの方へ頭を上げて、威嚇するように口を開けた。胴の内側に明かりがともり、竜の開いた口から腹の中の光が漏れる。小さな口には小さな鋭い牙がびっしりと、綺麗に並んで生えている。竜はその口で枝に噛み付いた。枝が燃えることはなく、竜は噛み付いたまま、宝石みたいな紅蓮の瞳をぎらぎらさせている。
 キゲイは用心して枝を持ち上げてみた。竜は食いついたまま枝にぶらりと垂れ下がった。腹の光がもっと強ければ、このまま吊り下げランプになっただろう。キゲイはこの綺麗な生き物が、すっかり気に入ってしまった。なんとかして懐かせたいと、竜を下から受けるように、こわごわもう片方のてのひらを差し出す。
 ところが竜は、キゲイに飼い慣らされる気はさらさらなかったようだ。キゲイの片手が自分の尻尾の下に差し出されるのに気づくと、ぱっと枝から口を離してキゲイの親指に噛み付いた。あまりの痛みに、キゲイは悲鳴をあげる瞬間も逃す。竜の食いついた手を勢いよく払うと、竜は岩場の向こうへぽーんと、オレンジの流星になって勢いよく飛んでいった。
 キゲイは噛み付かれた指を確める。突然噛まれた驚きと痛みで、腕が震えていた。傷口は竜の噛み跡だけに小さかったが、奥は深いらしく血がどんどん溢れてくる。
「うう、やっぱり無理かぁ……」
 痛みをこらえながら首に巻いていた帯をはずし、その端っこを血の止まらない指にきつく巻きつける。周りを見渡すと、下から登ってきていた女の子が、竜の落ちた辺りに興味を示しているのが目に入った。
「だめ! そいつはものすごく凶暴だから!」
 片手に帯を握り締め、キゲイは岩場を降りていく。女の子が岩陰に手を伸ばそうとする前に、キゲイはすんでのところで彼女の襟首をつかんで引き止めた。岩場から先程の竜が羽をうならせて飛び上がる。腹部がまだほのかに光っていた。
トンボ竜 竜は二人を無視し、傷ついた羽で不安定に斜面の上へ飛んでいく。キゲイはそれを目で追い、そして目を疑った。斜面の上の林に、赤やオレンジの小さな光がたくさん現われている。あの小さな竜の群れだ。もしあれが全部こちらに襲ってきたら、自分達は本当に食べられてしまうかもしれない。キゲイは血の気が引くのを感じ、女の子の肩を叩く。
「お、降りよう。早く!」
 押し殺した声がかすれる。女の子は目を丸くして群れる光を見つめ、動こうとしない。
「早く!」
 怖気づいたキゲイは思わず二、三歩降りていた。何とか踏みとどまって、女の子の背に手招きをする。女の子の頭越しに、さっきの竜が光の群れの近くまで飛ぶのが見えた。竜は最後の瞬間にきりもみをして、斜面の上近くに落ちる。光の群れの明かりが強くなり、キゲイ達の所まで羽音の唸りが聞こえてくる。竜達はすばやく木立の天辺近くまで舞い上がった。
 次の瞬間、光が斜面に向かって急降下してくる。それと同時に黒い影が斜面に飛び出して、転がり落ちた。光はそれを追い、ある竜は取り付き、ある竜は失敗して再び上空に戻り狙いをつけなおす。光にたかられながら岩場を転がり落ちるものに、キゲイは見覚えがあった。
「レイゼルト!」
 キゲイは叫んで、出来る限りの速さで岩場を降りる。竜の群れはレイゼルトを狙っていたのだ。
 レイゼルトは半分走りながら、半分転がりながら、取り付いた光を払おうと両腕を振り回し、とうとう一番下まで辿り着く。体勢を整えようとして一度だけ背を伸ばしてまっすぐ立ち上がったが、再び光が体中に食いつき、地面にがばりとうつ伏せになる。何匹かの竜が、彼の体の下に消えた。
 キゲイが追いつくと、レイゼルトは再び立ち上がろうとしていた。服は泥と血で汚れ、暗赤色の髪は乱れて顔にかかっている。竜が押しつぶされたはずの胸元は、潰れた竜のかわりに灰色の煙がくすぶり、焦げ臭さがキゲイの鼻につく。地面についた左手は血で濡れ、竜が二匹、手首に腕輪みたいに巻きついて光っている。彼は顎を上げ、髪の間からキゲイの顔を見たようだった。
 レイゼルトが動きを止めた隙を、竜達は逃さなかった。光が彼の背中めがけて急降下する。キゲイの目の前で、レイゼルトはまるで背中から燃やし潰されるように見えた。キゲイは無我夢中になって、レイゼルトの背中にくっついた光を引きはがす。竜達は恐ろしい執念でレイゼルトの背中に食いついており、キゲイが無理やり引き離しても頭だけは噛み付いたまま残る。竜の体はキゲイの手の中で一瞬明るく輝き、かすかな煙を上げて消え去った。体内の炎で、自ら跡形もなく昇華してしまうのだった。
 キゲイは首の後ろに熱い痛みを感じ、悲鳴をあげて仰け反った。首筋を叩くと、光が頭の後ろではじける。新しい傷のせいか、光のせいか、キゲイは頭がくらくらとなる。
 レイゼルトは地面を転がり、体に取り付いた竜を潰そうとあがいた。キゲイは暗くなった視界を怪しみながら、一帯を縦横に飛びまわる光の数に絶望する。もう何匹もやっつけたというのに、数が減るどころか増えている。竜の羽音で耳がおかしくなりそうだ。
「鏡を持っているか!」
 うなり続ける無数の羽音にまぎれて、レイゼルトの叫び声がかろうじて聞き取れた。レイゼルトは相変わらず光を相手に、半分戦い、半分もがき苦しんでいる。キゲイは懐に手を入れる。ところが彼が迷いなく取り出したのは、あの三つ編みのお守りだ。
 キゲイは飛び交う竜の光にお守りを突き出した。レイゼルトの言葉はすっかり忘れていた。かわりにあの幽霊を追い払った晩のことを思い出したのだ。レイゼルトがまた何か叫んだとしても、羽音でかき消されてしまっていただろう。それどころかキゲイは切羽詰って、お守りを使うことしか頭になかった。自分にとっては、銀の鏡よりもお守りの方が確実に信用できる魔法の品だ。キゲイはお守りの編み目に指をかけ、力いっぱい引き抜く。
 編み目はキゲイの意志を汲み取り、自らゆるんだ。幾房かに分けて複雑に編みこまれた髪の先は、まるで円陣を描く筆のように、ぐるりぐるりとほどけていく。青白い小さな稲妻が髪先ではじけ、糸巻きに巻きついていくかのように、だんだん大きな雷の玉になる。編み目がほどけきったとき、稲妻の玉が強烈な光を発して砕け散った。キゲイは片腕で両目を押さえ、光から目を守る。
 レイゼルトのうめき声が聞こえ、キゲイは目を開けた。辺りはほとんど真っ暗に見えた。竜の発する光はひとつも見えず、キゲイは地面に這いつくばるようにして、レイゼルトが倒れていた場所まで辺りを探りながら進む。耳に何も聞こえなくなっていたのは、あれほどうるさかった竜の羽音が、突然消えてしまったせいだろうか。
 キゲイの手がレイゼルトの体に触れた。ぜいぜいという早い息が、手のひらから感じられる。
「あいつら、どうなった? それに、もう夜になった? あんまり、何も見えないよ」
 キゲイは暗闇に向かって声を出す。その声すらも耳の奥というより厚い壁越しから聞こえてくるようで、自分の言葉だという実感がない。首筋は冷たくなっているし、竜に噛まれた左の親指は火にくべられたように熱く、痛みが心臓の鼓動にあわせて脈打っていた。
「みんな消えた。いいものを持っているな」
 キゲイはそれ聞いて安心した。レイゼルトの体にかけていた手を引っ込めると、重く動かなくなってきた体を丸めて横になる。相変わらず指はずきずきして、首筋は冷たく痺れていた。横になると、まぶたも重くなってくる。そういえば、あの女の子の面倒を見るのをすっかり忘れていた。キゲイは半分朦朧としながら自分の責任を思い出す。けれども、それがその日の最後の記憶になった。あとは夢もない、真っ暗な底なしの眠りに落ちていく。
 寒さに耐えながら、前後不覚に夜をやり過ごしたらしい。キゲイが目を覚ますと、辺りは明るかった。自分のすねの辺りで、女の子が丸まって寝息を立てている。後ろを振り返ると、昨日はレイゼルトがそこに倒れていたはずだが、今は姿はない。彼が倒れていた所の土や石ころは血で汚れたままだったから、昨日ここで彼に会って、たくさんの竜に襲われたのは夢でも幻でもない。
 キゲイは何度か瞬きをし、目がおかしくないことを確める。気を失うように眠る前、突然目の前が暗くなったのはなぜだろうか。辺りの景色は暗闇に沈んで形を失っても、飛び交う竜の光だけはずっと明るかった気がする。
 近くに水場があったことを思い出し、キゲイは重い体を引き起こした。渇きで喉がはれてひりひりする。斜面を細々と流れる糸のような流れを音を頼りに見つけ、狭い岩場に手を突っ込んで水をうける。何度か繰り返して水を飲み、空を見上げて太陽を探す。暖かな日差しが降り注ぐ仰角は、正午前後の時間を指していた。
 ピイーと、鋭く高い音が斜面の上で鳴る。音の聞こえた辺りを目で探すと、木立の影にレイゼルトが立っていた。昨日ぼさぼさになって顔を覆っていた髪は、今日は後ろにまとめて結んであった。彼は影から日の光の下に姿を現し、キゲイに手招きをする。キゲイがそちらへ登ろうとすると、レイゼルトは左手を動かして女の子も一緒に連れてくるように指示した。
「この先に水場がある」
 レイゼルトはいつもの口調でキゲイに伝えた。こんなどことも知れない森の中で、キゲイに会ったことも、見も知らない女の子がいることも、まったく驚いている素振りはない。まるでずっと一緒に行動していたかのようだ。とはいえ、レイゼルトの顔色は蒼白を通り越して土気色をしていたし、竜に散々噛みつかれた背中は服の破れ目で毛羽立ち、目を背けたくなるひどい傷もあらわだった。キゲイも体のあちこちが痛く、疲労で頭がぼんやりして、何かに驚く元気もない。レイゼルトもキゲイと同じ状態なのかもしれなかった。
 木立を進むとレイゼルトの言ったとおり、岩の崖の隙間から、冷たい水が湧き出して辺りをぬかるませていた。凍るほど冷たい雪解け水だ。三人で交互に水を飲んだ後、レイゼルトは汚れた穴だらけの上着を脱いで、それを水に湿らせる。そして背中の傷口にそっと当てた。キゲイも竜に噛まれた指を洗い、帯を水で湿らせる。女の子はわずかに首をかしげながら、それぞれ自分の傷の手当てをする二人の少年を、不思議そうに見ている。
「で、なんでお前がここにいるんだ」
 しばらくして、レイゼルトが背中の痛みに顔をゆがめながら、キゲイに尋ねる。キゲイも熱を持った首筋に水を含ませた帯を当てつつ、歯を食い縛りながら答えた。
「知るもんか。僕だって好きでここに来たんじゃないのにっ」
「そうか」
 レイゼルトはふっと同情するような表情を見せたが、次の瞬間に鼻から笑みを漏らす。それを見て、キゲイはますます機嫌が悪くなった。
「誰のせいでこうなったと思ってるんだよ」
「誰のせいか、確めてみよう。私のせいだと分かったら、あやまってやる」
 レイゼルトはキゲイの不機嫌もものともせず、右腕でキゲイの左胸を指し示す。キゲイはその腕を見てはっとした。破れた袖の中に先の丸まった手首が見えた。
「その胸ポケットに入っているものを出してみろ」
「いいよ。そのかわり、鏡はもうそっちに返す。鏡が色んな化け物を引き寄せて、お守りがそれを追い払ってくれてるに違いないんだ。きっと」
 キゲイは懐から銀の鏡とお守りを取り出す。そして銀の鏡だけレイゼルトに突き出したが、あいにくレイゼルトは左手を後ろに回して傷口を冷やしていたので、受け取れない。すでに十分怒りを溜め込んでいたキゲイは、レイゼルトの口に銀の鏡を突き出した。仕方なしにレイゼルトは鏡を口で受け取ったが、おかげでそれ以上何も話せなくなる。彼は空を見上げ、鏡をくわえたまま傷を洗うのに集中した。キゲイもお守りを懐にしまう。
 レイゼルトは首を傾けながら、口にくわえた鏡で太陽の光を捉えて反射させる。暗い木立に鏡の明るい反射が走り、キゲイは単にレイゼルトが光を反射させて遊んでいるだけだと思っていた。ところが不意にレイゼルトはその光を空に上げ、入れ替わりにその空から何かがぽとりと、蔓草の茂みに落ちる。
「今、何したの」
 キゲイが尋ねるとレイゼルトは鏡をくわえたままキゲイの方を向く。キゲイは慌てて腰をかがめ、鏡の反射を避けた。レイゼルトは足元の苔に、鏡をぷっと吐き落とした。
「猟だよ。拾ってきてくれ。ついでにそっちに生えてる蔓も」
 まだ腹を立てていたキゲイは不満を感じながらも、実際にはかなりの重症人であるレイゼルトの言葉には逆らえず、茂みに分け入る。茶色っぽいキジに似た鳥が落ちているのを見つけたが、両翼の羽根がきれいさっぱりなかった。どうやら鏡の魔力で羽根が砂になってしまったらしい。恐ろしいものだ。レイゼルトに鏡を返さない方がよかったかもしれない。
 キゲイが鳥と葉っぱを持って戻ると、女の子が銀の鏡を拾い上げて遊んでいた。レイゼルトは石の上に腰かけ、ぼんやりというより朦朧とした目をしていたが、キゲイが戻ってくるのには鋭く気がついた。
「私はこの数日食べていない。おまえ達はどうだ」
「一昨日の晩から何も食べてないよ……」
 レイゼルトは頷いて、鳥を受け取る。彼はそれを平らな石の上に乗せ、魔法をかける。刃物を使わず血を抜き、火を焚かずに丸焼きを作るなど、魔法使いにしかできないだろう。レイゼルトが鳥の体に手を触れると、羽根はすべて砂になって舞い落ち、火に包まれて真っ黒焦げになる。その焦げた皮をはがすと、湯気を立てる柔らかい肉がでてきた。
「あの鏡、あの子に遊ばせておいて大丈夫?」
「魔法使いじゃないなら危険はない。鏡越しに太陽を見たら、眩しいだろうが」
 鳥の匂いに釣られて、女の子も二人の側に寄ってきた。その隙にキゲイは女の子から鏡を取り上げる。女の子はすでにレイゼルトが裂き分けたキジ肉しか目に入らなくなっていた。三人はしばらくものも言わず、味付けも何もない肉をほお張る。レイゼルト自身は食欲が振るわなかったのか、少しだけ食べた後はずっと、キゲイや女の子の様子を注意深く観察していた。