十三章 古都へ

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 あらかた食べつくしてしまうと、レイゼルトは見計らって、キゲイになぜこの森にいるのか尋ねる。空腹がとりあえず落ち着いて、キゲイも話す気になっていた。黄緑の城で人さらいに会ったことから話したが、ブレイヤールの身の上が今頃どうなっているか分からず、キゲイは肩を落とす。
「人の心配をする状況じゃない。今は私達も危険な場所にいる。私の連れもはぐれて、このどこかでさまよっているはずだ」
「連れ? それに、ここどこなの」
「ここは石人世界の真ん中だ。星の神殿が治める山地だが、徒歩では遠すぎる。お前はそのお守りを手放さないようにしろ。目には見えないが、この森は色々な精霊がいて、無防備な魂を常に狙ってる。人間は格好の餌食だ。お前のお守りも、随分力を使ってしまった。気をつけろ」
「精霊って? あの白いお化けみたいな奴は、僕にも見えたんだ。あれは精霊じゃなかったってこと?」
 キゲイはあの晩女の子を追いかけた、背の高い光のような影のことを思い出す。今思えばあれは幽霊のような不気味さはあまりなく、深い森の底にたつ白霧のように神秘的なものだった気がした。危険な存在なのは確かだが、どこか強く心を惹く何かがあった。美しいものは人を魅了するが、美しすぎると逆に恐れられる。そういった類のものだ。キゲイは影が触れた左腕に視線を落とした。レイゼルトもキゲイの視線の先を横目にとらえる。
「触られた跡のあざが、消えたんだ。治ったのかな。もう痛くないみたいだし」
「いや、消えたんじゃない。浸透したんだ。骨まで」
 レイゼルトは低い声で答える。ぎょっとした表情に変わったキゲイに、彼は少し声のトーンをあげた。
「異界に属する者に触れられた、火傷跡みたいなものだ。お守りを持っていたから、その程度ですんだ。寒い日なんかには神経痛みたいに痛むこともあるかもしれない」
 キゲイは半信半疑で腕をさすった。それから思い出して、銀の鏡を懐から取り出す。レイゼルトは黙ってそれを受け取った。
「ようやく戻ってきた。私が探していたものを引き連れて」
 止血の布でぐるぐる巻きになった左手に鏡を握ったまま、レイゼルトは鼻で笑う。キゲイはそれに顔をしかめる。
「はぁ? ……よく言うよ。誰がそれをこっちに押し付けたんだ」
「石人に好かれやすいのかもな、お前は。白の王族、普通の石人、普通じゃない石人、人さらいの石人に、石人の亡霊。色々な石人に会っている」
「鏡さえなかったら、僕は一人で石人世界に取り残されることもなかったんだ。石人に会うのだって、なかったはずなんだ!」
 まるでからかうようなレイゼルトの態度に、キゲイは怒って今までずっと心に秘めながら、誰にも言えずにいた言葉を吐き捨てた。言ってしまうと、さらに新しい怒りがこみ上げてくる。その言葉で硬くしめられていた心の栓が抜けたように、怒りはキゲイの胸にひたひたと注がれる。しかし怒りはどこかで歯止めがかかっていた。銀の鏡があったから、ディクレス様はブレイヤールに会えたし、ブレイヤールもアークラントのことを気にかけるようになったのだ。それは嫌でも認めなければならない。何とも気分が悪い。レイゼルトは自分を利用して、何か大きなことをしようとしていた。なのに自分は何も分からないまま、知らされないまま、相手の言いなりになって鏡を受け取り、お人好しにもここまで捨てずに持ち続けた。そんな自分自身にだって腹が立つ。消化不良の怒りは、はけ口もなく、キゲイの胸で澱むしかなかった。
「石人の世界だってめちゃくちゃだよ。君が黄の城を襲ったって。もしかして砂にしたの? アークラントも今頃どうなってるか、もう分からないっていうのに……」
 キゲイはレイゼルトから目を逸らし、歯を食い縛りながらつぶやく。脇を見やると、女の子は横になって寝息を立てていた。彼女だけは何の悩みもなさそうだった。レイゼルトが右腕を伸ばして、女の子の額に手首の先を当てている。
「その、本当に石人を砂にしたの。さっきの鳥みたいに」
 キゲイはレイゼルトにそっぽを向けたまま、よそよそしく尋ねる。もし本当なら、答えなんか聞きたくなかった。かといって聞かずにいられるほど些細なことでもなかった。
 レイゼルトは長い間だまっていた。風の吹きすぎる音と、それに揺れる木々のざわめき、時折単調なそれらの音をみだす鳥の羽ばたきが、沈黙の時間を埋めていく。あまりにずっとレイゼルトが答えないので、キゲイは待つことに耐え切れず、首を落として目を閉じた。二人の石人の姿が視界から消える。
 耳に入る森の気配や、湿った土と木々の匂い、頬に当たる冷たい風。それらはキゲイの暮らす里の森とほとんど同じだった。多くが年経た古木で、洞が口を開け、雷や風で裂かれた古傷を持っている。若い森は東にあって、里はその森を追って百年に一度引越しをするのだ。再び目を開ければ夢も消えて、故郷の森で昼寝から目覚められるのではないかという、淡くはかない期待もかすめる。
「私は石人を砂に変えたことがある。七百十年前のことだ」
 レイゼルトが口を開き、キゲイは現実に引き戻された。顔を上げると、片手で鏡をもてあそびながら、憂鬱な表情を浮かべるレイゼルトの横顔が見えた。彼はキゲイの視線に気がつくと鏡を膝に置き、てのひらに蔓草の葉を一枚乗せる。見る間に葉は濃い緑色を薄め、褐色の砂と崩れる。レイゼルトはその砂を握りこみ、顔の前まで上げるとそっと手を開く。手から舞い落ちたのは砂ではなく、先程の葉っぱだ。キゲイはぽかんと口を開けた。砂からもとの形に戻るのは、はじめて見た。
「これが今と昔の違いになるかもしれない」
 レイゼルトは腕を下ろしながら呟く。彼はあぐらをかいたまま、両膝にそれぞれ腕をあずけて、楽な姿勢をとる。
「私にこの違いを与えたのは、アークラントが関係している。アークラントの起源を知っているか」
 キゲイは首を振る。レイゼルトは別段それを責めることなく、先を続けた。
「七百八年前、トルナクという建国まもない小さな国があった。今のハイディーンがある辺りだ。一方石人世界では、私は滝に落ちて死んだことになっていた。しかし私はそのまま川を流され、トルナク近くの川辺にうちあげられた。禁呪の異常な力で不死不老を得たとしておこう。私はそれから季節が二巡するまで川べりから動けず、呼吸同然に生死を交互に繰り返していた。助けたのはトルナクの初代王だ。彼は私を連れ帰り、王妃とともに養い親となってくれた。当時の人間達は、石人の存在をまだ恐怖をもって記憶していた。彼らが不死の石人に驚くことも恐れることもなく、自分の子ども達と同じ館に住まわせたのは、勇敢だったと今でも感嘆する。私は生まれて初めて人としての生活をおくらせてもらい、人の心というものを教えてもらった。
 彼らは賢い人達だった。魔法については無知だったが、不死不老の者がこの世を生きていくのに必要な全てを確信的に知っていた。それは人のいる所でもいない所でも、一人ぼっちであろうと、ともに暮らす仲間がいようと、生きるのに必要な知識と技を、普通の者より徹底して学ぶことだった。天候と人の心を読み、植物や鉱物の特性を知り、狩りや織物の手業を体に染み覚えさせる。魔法やその他の学問は二の次だった。なぜならそれらは、最初の学びの中で得た知識と技を、単に系統立てて整理したものだからだ。彼らが最も大切にした教えは、何だったと思うか?」
「狩り、かなぁ」
「いいや、誰とでも仲良くやる方法だ」
「一番大事な教えを全部忘れただろ」
 キゲイは口を尖らす。レイゼルトはニヤッと笑って、すぐ真顔に戻る。彼は声を落とした。
「それから百年余りが経ち、トルナクは北から異民族の侵略を受けた。トルナク最後の王は人々をアークラントの地へ導いた。そこには地読みの民、エツ族をはじめ先住の人々がいたが、王は敵が背後に迫っていたにもかかわらず、自分達を彼らの地へ受け入れてくれるかどうか、彼らに使いを送り許しを請うたという。後に彼は英雄と呼ばれるようになり、国の名をアークラントと改め初代国王となった。
 その後も時代の混乱が続いたが、アークラントは戦のたびに国土を広げ、ついに有史初とも言われる広大な国へと成長した。竜骨山脈が分かつこの大陸において、アークラントこそが西の覇者かつ世界の中心と謳われ、大陸中の富が王都に集まっていた。しかし衰えというものは避けられない。新たな時代の混乱はアークラント国内から起こり、巨大な王国は姿を消した。英雄の血を継ぐ王家の誇りは始祖たるアークラントの地でささやかに取り戻されたが、全ての栄光は過去にしかなく、それも伝説と化した。今のアークラントはわざわざ攻める価値もない、貧しい小さな国だ」
「……じゃあなんで、ハイディーンやエカが狙うの。ほっといてくれたらいいじゃないか」
「連中は歴史も血統もない、辺境の蛮族だからだ。アークラントのかつての威光は、伝説として今も大陸中に残っている。アークラントの地を手に入れることで、彼らは多くの国を従わせる名を得る。かつてのアークラントの版図を掲げ、国土を広げる大儀を得る」
 レイゼルトはキゲイに炎色の瞳をすえた。
「もし彼らがアークラントに大空白平原への抜け道があると知れば、アークラントの価値は跳ね上がるだろう。険しい地形と多くの国々で阻まれ、手を伸ばしても届かない西部の富を、東西を繋いで横たわる平原を通じて得られるのだ。しかしその抜け道はアークラントでさえ、最近になるまで忘れ去られていた。ハイディーンやエカが抜け道の存在を知るときがあるとすれば、アークラントに入ってからだろう。彼らには、最後まで知らぬままでいてくれた方がいい」
「まるでアークラントはもう滅びるみたいに言うね……。予言者様は、英雄が現われるって言ってたじゃないか」
 レイゼルトの話しぶりに動揺を覚えたのか、自分は所詮アークラント人じゃないという一抹の後ろめたさのせいか、キゲイの抗議の声は途中から消え入りそうになる。レイゼルトはもしかしたら、ディクレス様以上にアークラントを取り巻く困難を知っているのではないだろうか。知っていてそれをディクレス様に伝えるわけでもなく、こんな森の中でキゲイ相手に話している。
「君はオロ山脈の抜け道を、最初から知ってたの」
 とがめるように尋ねると、レイゼルトは首を振った。キゲイの質問は答えを聞いたところで、何か意味のあるものではない。しかしレイゼルトは、キゲイの感じていることをおぼろげながら汲み取ったらしい。
「私は石人で、しかも本来ならこの時代には生きていないはずの者だ。不死不老は生命と人の世に対する不器用で不確かな欺きだ。世に関わってはならない。何をしようと出すぎたまねだ」
 レイゼルトはうつむく。彼は口の端を引きつらせて、やや陰険な笑みを浮かべた。
「なのに、その出すぎた真似をしているんだ。予言者は己にしか見えぬ、ひとつの未来を語った。ディクレス前王は予言された未来に賭け、アース現王は国に留まって目前の未来に立ち向かおうとしている。私も予言に動かされた。アークラントが石人世界に向かうのなら、私にもできることがある。トルナクの初代王は私の恩人で、アークラント王家は恩人の子孫だ。私はあの王家に恩を返したい」
「石人のことは? 皆、七百年前のことを思い出して怖がってるみたいだ」
「滑稽だな」
 レイゼルトは神妙な口調を一変させ、そっけない言葉を吐く。彼は少し姿勢を崩した。額が汗ばんで、苦しそうにも見えた。傷のために熱が出ているらしい。
「滝から落ちて以来、石人世界と関わりを持たずに来た。そして時の終わりに戻ってきた。私は私で始末をつけることがある。アークラントにかこつけてあの世から蘇ったかのように姿を現して見せたが、軽率だったかもしれないし、何かの役に立ったかもしれない。確かめる機会はもうないが」
 レイゼルトはふっと息を吐き、左手の布を解いて傷の具合を確かめる。
「動けるなら、他にも少し薬草を集めてきてくれないか。私の傷は今夜から明日にかけてが峠だと思う。だが、明後日になったらとにかく動こう。私の連れは飛べるから、合流できればすぐに神殿の都市に向かえる。そこでなら治療も受けられる。お前は人間だから、私が傷を見たほうがいいかも知れないが。傷が膿まないよう、まじないをかけてやる。首の噛まれた所はたいしたことはない。髪の毛が当たらないように帯を巻いとけ。指の噛み傷の方が深い」
「分かった。でも、治療って? この子も、神殿で見てもらわないとって、言われてたんだけど」
 キゲイは呑気に寝ている女の子を指差す。レイゼルトは頷いた。
「神殿の治療より、別のものが必要だ」
「……僕、この子のこと、まだ何も話してないはずだよ」
 半ばうんざりして、キゲイは愚痴った。どうもレイゼルトは何もかも見通しすぎる。それが彼の魔法使いとしての資質にあるのか、七百年も生きた年の功にあるのか分からない。わざわざ見せてもいないのに、キゲイの怪我の具合も知っているし、女の子がどう具合が悪いのかも察したようだ。自分自身重い怪我と熱で頭が朦朧としているはずのに、よくそこまで人を観察できるものだ。それでも感心よりも反感を覚えてしまうのは、なぜだろう。
「この子、湖から突然現れた子なんだよ」
 キゲイが探りを入れるとレイゼルトは鋭い視線を向けた。キゲイが怯むと、レイゼルトは視線はそのままに、頬を緩ませる。
「知ってるんだな。誰から聞いた」
 声色はかなり厳しかった。キゲイは視線で射抜かれ、標本台の上にピンで留められた虫にでもなった気がした。絶対に認めたくないが、絶対に勝てない相手だというのが身に染みる。キゲイはこれが最後のあがきと思いながら、ささやかな抵抗のつもりでブレイヤールとの約束を厳守することにする。
「聞いたことは、誰にも、話すなって言われた。石人にも話すなって」
 つっかえながらもどうにか答えると、レイゼルトは少し驚いたような顔をして、鋭い視線から解放してくれた。
「石人にも話すつもりがないなら、安心だ」
 そしてキゲイを手で追い払う仕草をする。勝手なものだ。キゲイは口を尖らせ、薬草摘みに出た。
 レイゼルトは鏡を手に取り、ちょうど目を覚まして伸びをしている女の子に目をやった。彼女はキゲイが側に居ないのを知って、真っ白で緩やかな曲線を描く額に眉を寄せた。卵の殻みたいな額だ。しかしレイゼルトがいるのを見て取ると、彼の方に淡い空色の大きな瞳を向ける。血の匂いをぷんぷんさせて、瀕死の石人が座って何をしているのか、不思議に思っているのかもしれない。
 レイゼルトはこの女の子が、人よりも魚の目で自分を観察しているように思えた。それくらい、瞳の裏にある感情が読み取りにくい。その顔つきは無垢や無知とは言い切れない、原始的で年齢不詳の知性が宿っているようにも見える。
「名前は? 自分で記憶しておかないと、そのうちお前の名前を知る者はいなくなる。他の石人は、七百年も生きない」
 無駄かもしれないと話しかけたが、やはり答えは返ってこない。レイゼルトは女の子の空色の瞳に、細かな金色の網目が浮かんでいるのに気がついた。彼は黄緑の城の神魚を思い出す。あれは空色の地に金色の鱗を持っていて、黄緑色の体に見える。
「空白平原の都市に、私の仲間を待たせている。もしこの世に行き場を失くしたなら、彼のところに行ってみろ。それか紫城に。そっちには幽霊のきれっぱしがいるかもしれないが、城の本来の姿を見ることができる。……紙と筆が手に入ったら、書き残しておいた方がよさそうだな」
 レイゼルトはそれ以上女の子の相手をするのをやめて、鏡に目を戻す。
 キゲイは妙な大鳥にさらわれてこの森に運ばれたと言っていたが、実際は鏡がこの女の子を自分の側まで導いたと考える方が正しい気がしていた。レイゼルトの方は真っ赤な竜達に追われながら黄の城からここまで逃げ切り、そこでアニュディの体力に限界が来て森に墜落した。これももしかしたら、墜落したのではなく何者かに着陸を強いられたのかもしれない。
 キゲイ達をさらった大鳥が、いったい誰に操られていたかは分からない。十二城の初代国王達がそれぞれの城の最深部で今も生き続けているのならば、神殿において彼らの同僚であり、歴史上において消息がいつの間にか途絶えたもう一人の石人も、いまだ石人世界のどこかにいるかもしれないのだ。
――やはり神殿に向かうのが正しいのか。
 つらつらとそんな事を考えていると、ひどい眠けに襲われる。すると女の子が立ち上がって、彼の体を強く揺さぶった。彼は目を覚ます。丁度キゲイが両腕に様々な葉や蔓、菌類の生えた木の皮に根っこつきの大葉まで持って、戻ってくる。
「アークラントの抜け道から大空白平原へ出て、ひと月くらい経っている気がする」
 森を巡るうちに機嫌を直したキゲイは、レイゼルトに尋ねた。
「ひと月半になるかもしれない。神殿都市まで行ったら、すぐに白城まで戻れるよう手配する。ありがとう、キゲイ。後は私がやる」
 キゲイはレイゼルトに植物の山を手渡した。レイゼルトは、明後日になるまで自分に絶対近づかないようキゲイに言いつけて、遠くに見える巨木の根元に横たわる。キゲイは言われたとおりにした。時々向こうの様子をうかがっても、レイゼルトは血の気の失せた顔で横になったまま動かなかった。
 気味が悪いほど年を取った巨木の足元で、鮮やかな赤い髪と、紫紺の上着の色だけが木陰に浮かび上がっている。キゲイはその光景に、不思議な感じを覚えた。七百年前もレイゼルトは似たような場所で、ああして深手を負った体を休めていたのかもしれない。レイゼルトが横たわる場所と自分の立つ場所との隔たりに、七百年の時の幅たりが一瞬重なった。キゲイは胸に手を当てる。銀の鏡はもうそこにはなかったが、その方がよかった。鏡はレイゼルトのいる方へ戻り、キゲイの胸には三つ編みのお守りがあった。レイゼルトと鏡は、キゲイ達とは全く異なる世界へ戻りつつある。キゲイはくるりと背を向けて、自分達の過ごす場所を探す。
 キゲイと女の子は、体力を温存するために翌日もほとんど動かなかった。レイゼルトがあらかじめ幾つかの石に火の魔法をかけてくれたおかげで、夜も凍えることはなかった。わずかな山菜を石で焼き付け、飢えをしのぐ。
 まだ夜も明けきらない真っ青な時間、レイゼルトは約束どおりにキゲイ達を呼びに来た。キゲイはレイゼルトが片手に何かぶら下げているのを見て、目をこする。イタチに似ているが、毛皮には黒い文字に似た縞模様がある上、尻尾は二股に分かれ、頭だけ爬虫類の鱗で覆われている。
「それ……」
「小さい魔物」
 レイゼルトは二日前よりもしっかりした声で答えた。身のこなしも怪我を感じさせないほど素早く、彼は魔物を右腕に引っ掛け、苔むした平たい岩に近づく。岩の上に左手を置くとその手の下で岩は砂に変わり、砂を払うと小鳥の水飲み場のような窪みが岩の上にできていた。そのくぼみの中に魔物を横たえ、レイゼルトは手をかざす。すると魔物の体が白みを増して泡立ち、一瞬にして透明になったかと思うと、とぽんと水音を立ててくぼみに溜まる。キゲイはそっと岩の上の水溜りを覗き込む。水面は青暗い空と枝葉の影を映して震えていた。
「……砂にするだけじゃなくて、水にもできるの?」
「これは禁呪じゃない。魔法で時間を早めただけだ。岩が砂になるのは自然だし、死んだ魔物が水に変わるのも自然なことだ」
 レイゼルトは女の子を招き寄せ、溜まった水を飲むよう身振りで示す。女の子は身を乗り出して、水たまりに直接口をつけた。レイゼルトはその様子を見守りながら、言葉を続ける。
「人間も獣も最後は土に帰るだろう。石人は死んだら石になって、最後は砂になる。魔物は水になる」
「……これ、飲んで大丈夫?」
「この世で最も純粋な生命の形と言われる。魔法にかかって心を失った者や、魂を失った者、あるいは今まさに死にかけている者だけに効く。普通の水と混ぜるとしばらくは溶け合わず、粒になって浮遊するが、そのうち力を放散してただの水に変わる。具合の悪い者の体の中で、力を放つのが効くんだ」
 レイゼルトはキゲイに湯気の立つ葉っぱの包みを手渡した。開けてみると、半熟の小さな蒸し卵が顔を出す。キゲイは湯気を吹いた。卵をすするキゲイの隣で、レイゼルトは話を続ける。
「魔物は自分の縄張りを持っている。それはいわば彼らの聖域だ。自分の聖域を侵す者を魔物は食う。連中は腹を空かせてものを食うことはない。己と出自の異なる生命を、自身を形作る生命の水の中へ戻すために食う。石人世界の地下深くには、生命の水でできた地底湖があるらしい。魔物が死んで水になると、大地に染みて地下水脈に落ち、生命の水は地下水に混ざる。水と溶けあわなかったものはさらに下に染み落ちて、その地底湖に還るそうだ。水は希薄なほどに澄み通り淡い光をまとっていて、明かりの差さない地下で湖だけが暗闇に浮いて見えるらしい。地底湖に溜まる生命の水は地下水が川として染み出すのと同様に、魔物達を再び地上に送り出す。魔物達の聖域が複雑に絡む石人世界で、我々が暮らせるのは神殿と城だけだ。神殿は魔物達を狩り続けることで魔物が持つ聖域の空白地帯を、いわば石人達の聖域を確保している。魔物狩りの儀式には生贄が必要だが、城では魔物狩りの必要はない。生贄もいらない。城自体が聖域だから」
「生贄って。この小さい魔物を捕まえるときに、君、何かを捧げたの?」
「血を少し。しかし、足りないだろうな」
「それは……」
「盗人は追われる」
 レイゼルトは立ち上がった。
「仲間が水に戻されたのを嗅ぎつけられる前に、出発しよう。まとめる荷物はないか」
「ない。すぐに歩けるよ」