十三章 古都へ

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 女の子が最後の一口をすすると、レイゼルトは出発の号令を出した。朝日はまだ山の下にあり、空と雲だけを照らし出して稜線と森の影を際立たせている。三人は夜の寒さが残る森を、白い息を吐き、身を縮めながら進んだ。レイゼルトは時々足を止め、瞑想するかのように立ち尽くす。魔物達の聖域の隙間を探すのだ。レイゼルトが立ち止まるたびに、キゲイは女の子を自分の隣に伏せさせ、邪魔をしないよう二人して息を潜めた。森は小鳥の姿ひとつなく、他の獣の気配もなく、朝靄を漂わせ、いつ破られるとも知れない静寂の下にあった。レイゼルトが再び歩き出し、柔らかな地面を踏みしだく音がすると、キゲイは詰めていた息を緩ませてほっとするのだった。
 日が昇り木漏れ日が地面を暖める頃になると、森は物言わぬ生き物とともに目覚めていく。三人はそこでようやく足を止め、キゲイは辺りを偵察し、一休みに丁度いい陽だまりを見つける。並んで腰を下ろしそれぞれに両足を伸ばして、凍えた体を日に当てる。キゲイはレイゼルトの様子をうかがった。顔色はまだいいとはいえない。竜に噛み付かれた頬の傷は、赤黒い筋になってふさがりかけていた。左手の噛み跡も血は止まっているらしい。一番ひどい背中の傷は広げた帯で隠しているから分からない。でもおそらく前よりは良くはなっているだろう。
「大丈夫だ。死なないし、気絶もしないから」
 キゲイが心配そうに自分を見ていることに気づいて、レイゼルトは苦笑する。そんな二人の様子をじっと眺めていた女の子が腰を上げ、二人の前に立った。キゲイ達が不思議に思って彼女を見上げると、彼女は上着の裾下から小さな布の包みを取り出し、差し出してくる。レイゼルトが目配せし、キゲイはどこか見覚えのある包みを受け取ってそっと開いてみる。中には粉々になった焼き菓子があった。
 女の子が不明瞭な発音で何かを言った。レイゼルトはその言葉に耳を傾け、彼女の発音を確認するように同じ言葉を返す。もっともキゲイの方は、焼き菓子しか目に入ってなかった。
「いままでずっと持ってたの!」
 キゲイが叫ぶと、レイゼルトは脇から手を出して、かけらをつまみ上げた。
「彼女は『おみやげ』だと。……水がないと、とても飲み下せそうにないな」
 キゲイは丁寧に包み直し、自分の懐におさめる。これ以上女の子に持たせていたら、焼き菓子は小麦粉に戻ってしまうだろう。女の子はやや不満げな顔をして、元の場所に座り直した。
 この日は正午過ぎに、沼のほとりで歩くのをやめた。沼は比較的大きく、その上には曇り空が広がっている。レイゼルトは再び魔法で狩りをして、野兎を二羽捕らえて来た。さらに彼は、銅色に輝く大きな羽根も帯にさしていた。キゲイの腕ほどの長さで、向こうが透けるほど薄い。一枚の鏡のようになめらかなのに、指で裂いたりまたくっつけたりできるところは、紛れもなく鳥の羽根だ。
「近くにいるのかもしれない。探しに出るから、ここで待っててくれ」
 ささやかな昼食の後、レイゼルトは森へ姿を消す。キゲイは大きな銅の羽根を片手に、この羽根を持つ翼がどれほど巨大なのか想像しようとした。その翼を広げて飛び立つとしたら、ひらけた沼のほとりは丁度いい場所かもしれない。
 キゲイの想像に反し、夕暮れ近くにレイゼルトが連れ帰ってきたのは、石人の女の人だった。ただの石人と言いたいところだったが、そうも言えないくらい猛烈に怒り狂っていた。
 キゲイが最初に聞いたのは、森の奥から突っ切って届いたわめき声だ。高い声で文句を言っているらしいと思えば、今にも泣き出しそうな震え声になったり、叫び声になったりする。キゲイはそれでレイゼルトが戻ってきたのを知ったのだが、出迎える気持ちというより待ち構える気分になった。女の子はといえば、声に恐れをなして木の根っこの影に身を潜めてしまう。
 やがて夕暮れの森から二つの影が現れる。一つはレイゼルトで、もう一つがその怒れる石人だった。とにかくひどく怒っているようで、ひと時も黙らない。片腕をレイゼルトに引かせていたが、もう片方の腕は宙を探るように動くときもあれば、いらいらと拳を振るうときもある。激しい怒りとは裏腹に、歩みだけは随分ゆっくりと慎重だ。その歩き方とレイゼルトの介添えの仕方で、キゲイは女の人は目が不自由だと知る。
 森から沼に出ると、レイゼルトはどうにも収拾がつかない連れを、乾いた場所に座らせようとした。ところが彼女の振るった拳が運悪く背中に命中し、飛びずさるようにして彼女から離れる。あっと悲鳴をあげたのはキゲイだけだ。女性は手の感触によくないものを感じてぐっと押し黙る。当のレイゼルトは痛みに顔をゆがめ、唇を噛んだままキゲイの隣を足早に通り過ぎた。通り過ぎざま彼は、
「私の名は彼女には言うな。少し、頼む」
 と苦しそうにキゲイに伝える。キゲイは覚悟を決めて、女性の側に駆け寄った。
「背中に大怪我してるんだ。手を振り回したら、危ないよ」
 女性はキゲイの声へ顔を向ける。耳の上で切りそろえた栗色の髪と、まぶたを閉じて瞳の色が分からないために、彼女はほとんど人間に見えた。肌の色合いも褐色を帯びていて、アークラント人と似ているかもしれない。丸っこい鼻と唇をした愛きょうのある顔立ちは、元来人がよさそうだ。キゲイは、彼女が人間だったらよかったのにと思った。正直石人ばかりに囲まれているのに疲れてきていたのだ。
 女性は眉をひそめて難しい表情をつくり、それからしばらくして、キゲイと同じ「言の葉」で尋ね返した。
「誰?」
 キゲイが言葉に詰まると、女性はレイゼルトの背に当たった手をさすり、血の匂いを嗅ぎ取る。彼女は心配そうな顔つきになり、再びたどたどしい「言の葉」で言葉を搾り出す。
「私、彼に何した?」
「そっちの手が怪我したところに当たったんです。向こうに逃げて痛がってるだけだから、大丈夫だとは思うけど……」
「そう。……悪かったわ」
 先程の怒りが嘘のように、女性はしょんぼりと肩を落とす。
「ところで、君は誰? 彼の友達?」
「キゲイです。友達かどうかは分からないけど、知り合いなのは確かだと思う」
「変わった名前ね。私はアニュディっていうの」
 アニュディはキゲイを人間だと、少しも気づいていないようだった。
「もしかしてキゲイ、彼の名前、知ってる?」
 キゲイは慌てて首を振り、それだけではアニュディに伝わらないことに気づいて言い直す。
「えっと、知らないです」
「うそ。さっき知り合いって、言った」
「だって……。あいつ、言うなって」
 言いながら、キゲイはみるみるうち、アニュディに再度怒りの炎が燃え立つのを見た。彼女はキッと顔を上げ、「ガラ!」とよく通る声で一声叫んだかと思うと、怒涛の石人語で何かをまくし立てる。キゲイは恐れをなして彼女から離れたが、彼女の境遇をうすうす感じ始めていた。キゲイ同様、彼女もレイゼルトに利用された一人なのだ。だとしたらアニュディの怒りも分かるし、自分だって同じようにレイゼルトに怒鳴り散らしてもよかったのかもしれない。レイゼルトの射抜くように鋭い目と向かい合えば、そんな大胆な真似はとてもできたものではない。しかしアニュディにはできるのだ。
「好きなあだ名で罵れ! 私の名前なんか、知らない方があんたにはいいんだ!」
 レイゼルトが遠くから「言の葉」で言い返した。アニュディはさらに石人語でわめいたが、そのうちとうとう頭を抱えてしゃがみこみ、子どもみたいにわんわん泣きはじめてしまった。
「僕だけじゃなく、この人も巻き込んだんだな」
 アニュディの側へ戻ってきたレイゼルトを、キゲイは呆れ気味にとがめる。レイゼルトは明らかに不機嫌な顔つきだった。
「私も万能じゃないんだ」
 レイゼルトはぼそっと呟いて、アニュディに水で湿らせた布を渡した。
「これで顔を拭いて、血のついた手も」
 アニュディは大人しく言われた通りにした。これではどちらが大人か分からない。とりあえずも平静を取り戻したアニュディは、乱れた髪を指ですき、立ち上がりながらスカートを引っ張って皺を伸ばした。
「少し落ち着いたわ。この数日、口にしたものといえばキツネの生肉と生の骨が少し。人の姿に戻れば、魔物や狼の餌食になるのは分かってるし。おかげであやうく自分が人だってこと忘れそうになってて。自分がどんなところにいるのかも分からないし……。ひとりぼっちで、とにかくものすごく怖かったのよ」
 幾分沈んだ声で、アニュディはばつが悪そうに説明する。キゲイは懐から焼き菓子の包みを取り出し、彼女に手渡した。レイゼルトも飲み水を用意するため沼の方へ去る。アニュディは焼き菓子を指で探り、口に運んだ。そして微笑む。
「甘いわ、うれしい。これ全部もらっていいの?」
「うん」
 キゲイは言葉少なに答えた。アニュディの剣幕に恐れをなし、木の根の下に隠れていた女の子も、ようやく顔だけを出してこちらをうかがっている。レイゼルトは魔法で器の形に掘り抜いた石に、水を入れて戻ってくる。アニュディは焼き菓子と水を堪能し、満足げな溜息をついた。本当に嬉しそうだ。
「子ども三人を乗せて、飛べるか。飛んでも数刻はかかる」
 レイゼルトが珍しく遠慮がちに尋ねる。焼き菓子のおかげで空腹と心を癒されたアニュディは、いつもの忍耐と賢さを取り戻していた。彼女は余計な質問はせず、朗らかに答える。
「長距離は苦手って言わなかったっけ。ま、後のことを考えなくていいなら、飛んでみせる。掴まれる場所は首の後ろから背中の上までしかないから、墜落の心配をしなきゃいけないのは、あなた達の方かもね。あと一人はどこ? 紹介してちょうだい。ちゃんと自己紹介できたら、その子も乗せてあげていいわ」
「自己紹介できない子だ。魚の姿で、長年湖で暮らしてた。人の心を忘れて、自分の名前も知らない。あなたも危なかったようだが。私にあだ名をつけたように、彼女にも何か呼び名をつけてやってくれ。不便で仕方がない」
 アニュディは眉を寄せ、唇を尖らせた。秘密だらけの三人の子ども達に辟易しているのだろう。
「……ウージュ。女の子なんでしょ」
「そっちはいい呼び名だな」
 レイゼルトは答えて女の子を連れに離れる。レイゼルトの足音が遠ざかるのを聞きつけて、アニュディがキゲイに尋ねた。
「ウージュって、どういう意味か、君、分かるかな?」
「えっ……」
 キゲイはレイゼルトの背を見送りながら、不安げに呟いた。アニュディはやや硬い笑みをわずかに口の端に浮かべている。
「答えられないの? 石人語なのに?」
 キゲイが黙っていると、アニュディの口から笑みも消えてしまった。それはキゲイにとって、恐ろしい瞬間だった。
「正直に答えなさい。あなたは誰」
 キゲイは音を立てないよう細心の注意を払いながら、アニュディの側から離れようとする。一方アニュディは、そんなごまかしは効かないとばかりに、キゲイの方を向いて腰に手を当てた。そこへ幸いにもレイゼルトが戻ってくる。
「キゲイは人間だ。白城のあたりで起こっていることを、聞いてないのか。キゲイ、ウージュは石人の古語で、『少女』という意味を持つ」
 レイゼルトは足早に二人の間に割って入り、アニュディの手に女の子の手を握らせる。
「ほら、ウージュだ。彼女を怖がらせないでくれ」
「……人さらいの天才ねぇ、あなたは。人間ですって?」
 アニュディはこめかみを押さえ、しばらく自分の殻に引き篭もってしまう。ウージュはアニュディに手を握られたまま、困った様子でその手を見つめている。キゲイとレイゼルトは、彼女の次の言葉を待った。あとは彼女の決心次第だ。
 やがてアニュディは、ゆっくりと頭を起こす。彼女の決心は明快だった。不死の石人だの、なぜか石人世界にいる人間だの、変身後遺症の石人だの、ともかく今は大した問題ではない。食べ物がない以上、この森にとどまる必要は皆無だ。
「よし!」
 アニュディは一声上げると、姿を変えるために両腕を広げる。キゲイ達は彼女から距離をとった。キゲイの隣で、レイゼルトが珍しくほっと安堵の息を吐いた。