十四章 英雄譚
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「ディクレス殿は恐ろしい方だ」ブレイヤールは一人呟いた。これから起こるかもしれないこと思うと、身が震えるようだ。
本人からそれと聞いたわけではない。しかしブレイヤールは自分の考えがさして間違っていないことを確信していた。なぜならば、もはやそれしかアークラントの人々を救う方法はなかったのだ。それは大きな犠牲を伴いながらも、国を存続させるために残された、唯一の選択だった。
――空白平原は決して王も国も受け入れない。無理に住み着こうとすれば、平原の人間達全てを敵に回すことになる。
だからディクレスは石人の世界に目をつけた。そこは人間にとって得体の知れない土地ではある。それでも、石人が住めるなら人間も、という意識があったのかもしれない。アークラントの書庫に埋もれていた古文書には、石人の城の記述もあったろう。石人の地に来て、彼らは実物の城を発見した。それは遥か昔に滅び廃墟となっていたが、石人が住んでいないのは彼らにとって願ってもないことだったろう。たとえ廃墟でも、遺跡は新たな都市を築く指針と礎になる。彼らが目にした巨大な白い遺跡は、期待していた以上の希望となるはずだった。
ディクレスにとって石人の魔法の宝など、この地へ赴く方便に過ぎなかったのだ。彼は宝を探させる一方で、その実、地読みや家来達に廃墟の具合を調べさせていた。構造の痛み具合はどうか。人が住める場所はあるか。なによりそこは安全なのか。
長く廃墟であった白城の土は、荒れて貧しいものとなっていた。しかしアークラント国民の勤勉な手と背中ならば、荒野も緑の耕地に変えられるはずだ。遥か昔、異民族に追われて人々がアークラントに移ってきたときも、そうだった。
それらの希望も、白城に石人が住んでいたということで大きく揺らいでしまった。ディクレスがブレイヤールと言葉を交わした晩、つかみかけた希望は再び幻に変わった。ブレイヤールはディクレスの目論見を見抜き、これを許さなかったのだ。七百年前、石人と人間との間で取り交わされた約束は、石人にとってはまだ生きたものだった。そして、石人が人間を嫌う気持ちは、昔よりもずっと強くなっていた。空白平原の人間達を、石人がどれほど目障りに思っていることか。
滅んではいても十二国の王の一人である彼は、人間を受け入れるわけにはいかなかった。ディクレスの目論見に気づいていたからこそ、アークラントの運命についても同情せざるを得なかった。結局彼はあいまいな態度しか取れなかった。本来ならばあの場で彼らの希望を全て断ち、国へ追い戻すべきだったのだ。いや、そもそも境界の森を越えさせるべきではなかった。
「もう引き返せない」
ブレイヤールは横になり、目をかたく閉じる。
アークラントの動きを知ってから、彼は流れる時の歩みが、これまでにはなく自分の身を刻み、閉ざされていた未来を拓きながら進んで行っているような気がしていた。それはなんとなく心で感じる、あやふやな感覚だ。アークラントの運命に巻き込まれた瞬間を、無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。その運命はどれほどの人々を巻き込み、どこへ向かおうとしているのだろうか。多くの犠牲もまた、必要とされているのではないだろうか。
――境界石の向こうから、人間達がやって来た。石人の世界にも、深く沈んでいたものが浮かんできた。石人達がもっとも忘れようと努めた、忌まわしい戦の記憶。アークラントがこの地へ来たら、石人達はどうする? 七百年前と同じことが繰り返されるだけだ。石人も白城も、彼らを受け入れることはできない。受け入れてはいけない。境界石の誓いを守らねば。
暗闇の中、アークラントの大地がまぶたの裏に浮かぶ。
アークラントの人々は、ハイディーンにもエカにも馴染まないだろう。ハイディーンはアークラントの全てを自分達の様式で塗りつぶす。エカはアークラントを丸飲みして、王家の血筋をも消化してしまうだろう。そのどちらも、アークラントを滅ぼす。古い血を継ぐアークラント人であること、英雄の血筋を王家といただくこと、どちらもアークラントを建国当時から支えてきた人々の誇りだ。
――しかしアークラント王国は長く続きすぎた。大陸の中央で肥大した帝国が周辺の国々を圧迫し、戦火は人間世界の辺境にある我が国まで飲み込んだ。長き平和にあり、かつての強い意志と誇りを保守と頑迷に鈍化させてしまった国が、この時代にあって滅びるのは当然かもしれん。だが民がいる限り、我々に諦めるという選択肢はない。真の地獄はこの世にしかないのだ。無上の楽園もしかり。どのような形であれ生き延びることが、新たな国の萌芽に繋がることもあるだろう。たとえ石人の世界に落ち延びたとしても、帰還の日は訪れる。その日は、運命の紡ぎ手たる老いて幼き神がお決めになることだろう。
夜は白みかけ、机の上に広げられたアークラント王国の地図は、光に描線を滲ませながら再び暗闇から浮かび上がってきた。ディクレスはいまだ見えない運命の虚空を凝視する。アークラント国民のために、白城が必要だった。このままこちらだけが行動を起こせば、白城を巡って石人と戦になるだろう。
――白王を動かさねば。
それがアークラントの全てだった。そしてその最後の手立てをいかにすればよいのか、彼には最良の策を考える時間はもうなかった。
アークラントの王都アルスには、春を予感させる暖かな風がそよぎ始めていた。オロ山脈の雪解け水を運ぶトルナク川は、冷たい水面をやわらかな日差しにきらめかせ、朝方に降った雨は、見渡す限りの若い麦畑や大地の緑を鮮やかに洗っていた。街角を飾る木々は、芽吹いて間もない柔らかい葉から雨露をすべらせ、石畳の水たまりをはね散らす。
それらの美しい情景を、活気ある一日の始まりとして目に留めた者がいただろうか。少なくとも現アークラント国王の心をとらえはしなかった。春の乙女たる女神の歩みは、すぐ後ろに血まみれの戦神を連れているのだ。
王は城の見張り台からじっと、大地の彼方に目を凝らす。彼の側には、昨年徴兵されたばかりのまだ髭も生えていないような見張りの兵が、緊張の面持ちで控えていた。やがて見張り台に軍師の長が現われ、その若い兵に席を外すよう合図する。
「陛下、こちらにおいででしたか。みな会議室に集まっております」
「あの陰気な部屋で、悪い知らせを待つことほど気の滅入ることはない」
軍師長の言葉に、王は背を向けたまま答える。
「俺は驚かされるのは好かん。悪い知らせはやってくるより先にこちらから掴みたいのだ」
「ここ最近になってから、国境付近にて思わしくない報告が増えました。もはや悪い知らせなど、珍しくもございません。掴む手はいくらあっても足りないのです」
「いや」
王は腕を上げて彼方を指差す。
「一番悪い知らせは、身内から来るんだ」
軍師長は王の指先に目を細める。南へ向かって消える街道の道筋は、人一人の姿もない。
「国境からの知らせも、あれで最後かも知れん」
王は、北へも顎をしゃくってみせる。北からの道には五つの黒い点が、こちらに向かっている。
「ひどくやられているな」
王は呟き、指先で手すりをこつこつと叩く。五つの黒い点はやがて、五騎の傷ついた騎兵の姿になった。
「裏の城門から入れましょう。市民が動揺いたします」
「いや、市中を通らせる。南から来る最悪の知らせを掴みに行く前に、民にも覚悟を決める時間が必要だ」
「会議はいかがしますか」
「我々が取るべき行動は決した。鐘を鳴らせ。あの騎兵達を迎え入れよ」
王は手を叩き、先程追い払われた若い見張り兵を呼び戻す。入れ替わりに彼は軍師長を伴い、鐘の音を背にして会議室へと向かった。
「ディクレス様のもとへ使いに出たリュウガ将軍は、まだ戻りません。帰りを待つべきです」
会議室で王を待ち受けていたのは、彼の決断に従うことを渋る重臣達がほとんどである。しかしアークラント王は、父親譲りのすさまじいひと睨みで彼らを黙らせた。
「では将軍が指示を抱えて戻ってくるまで、敵に待ってもらうとでもいうのか。先程の知らせを、耳を塞いで聞かなかったとでも? エカが国境を突破した。指示を待つ猶予など、もうないのだ!」
机の上に拳をぶつけ、王は一同を見回す。
エカ帝国が先に進軍を開始したのは、誰もが予想だにしていなかったことだった。エカにとっては、ハイディーンに背後を突かれることも覚悟の上の進軍である。エカの軍勢は数こそ少ないものの、ハイディーンに追いつかれる前にアークラント深くへ進行しようという心積もりらしい。エカの兵士達もそれだけに焦っており、アークラント最後の国境の守りも、あっという間に突き崩されてしまったのだ。
「エカの進軍が呼び水となり、ハイディーンも時をおかずして軍勢を整え、攻め寄せてくるだろう。もはや我々に敵を押し戻す力はない。逃げ場を持つ先住の民は身を隠し、アークラント人は全て、国外へ逃れねばならぬ。ふれを出し、仕度をさせるのだ。さもなくば命の保障は敵方次第だ」
反応の鈍い家臣達に、王はいらいらと怒鳴った。国境から王都までの道筋には、もう殆ど兵は残っていなかった。王都を守る軍を動かし、時間稼ぎをする他はない。それは王自らが、逃げる国民達の背後を守ることを意味する。それほどの切迫した危機は、家臣達にも理解できるはずだった。それでありながら決断を渋るのは、先王へのあまりに強い依存心がある。トゥリーバの予言もまた、奇跡と英雄の出現を待ちたいという思いを強くさせていた。
アークラント王は額に指を当て、机から身を引いた。動かない家臣への怒りと焦りで、腕が震える。ディクレスが大空白平原に出立する際に、いよいよのときは国を挙げて逃げ出すと皆に言い残してくれていれば、家臣達も彼の言葉にすぐ従ったかもしれない。しかしディクレスは、息子である彼と、信頼できるわずかな家臣にしかこのことを話さなかった。当然だ。石人世界へ旅立つ先王へ人々の期待が集まっているときに、そのような話をすれば、人々を不安のどん底に陥れるだけだったろう。
軍師長が見かねて、他の家臣達をいさめようと口を開く。しかし王は彼を止めた。王は暫くうつむいたまま、会議机の下で拳を握る。そして、唸るように言葉を搾り出した。
「謹んで聞くのだ。峡谷を越え、大空白平原へ逃げるのは、先王が私にくだしおかれた命である。英雄の探索が間に合わねば、そうせよとのお達しであった。……我々は、間に合わなかったのだ」
その言葉は、渋っていた家臣達に誰が自分達の主であるかを思い出させた。自分達が今の主にどれほど屈辱的な思いをさせてしまったかも。
彼らは自らの非礼を恥じ、王に忠誠の礼をする。そして与えられた命を果たすため、次々と会議室を後にする。軍師長はずっとうつむいていたが、彼もまた礼をして最後に去っていった。一人残された王は大きな溜息とともに、硬い木の王座に沈み込んだ。
彼は王冠を継いだ日のことを思い出す。あれからまだふた月と経っていない。あの日彼に渡された王冠がどのような意味を持っていたか、宮廷魔術師の老ザーサ以外に気付いた者がどれだけいただろうか。彼が自ら王位を先王に求めたのは、先王からはとても言い出し難いことだったからだ。しかし王位は彼が継がねばならなかった。それは単に彼が先王の息子だったからではない。彼が先王の代わりに大空白平原へ行っても、それは何も生み出さないからだ。彼の才量は先王と別のところにあり、国に留まることこそが彼の役目だったのである。先王が英雄王の再来と呼ばれるまでの人でなかったら、彼がそう呼ばれていたかもしれない。皮肉なのは、アークラントが必要とするものを己は持っていないと、誰よりも彼自身がよく知っていたことだ。
王はのろのろと立ち上がる。彼は父親同様体が大きく、背の高い王だった。代々使われている会議室の王座は彼には窮屈すぎ、長い間座っていると腰が痛くなる。彼は気の進まない様子で会議室から出る。これから都の国民達に、大意は国を挙げて逃げ出すということを、もっともらしく、そして名誉の退却らしく言い聞かせなければならない。
――トルナク最後の王にして、アークラント初代王となった英雄王の退却の話を引き合いに出そう。あのときも今も、敵に追い詰められた状況は同じだからな。そうすれば混乱を最小限におさえ、士気を維持したまま統率の取れた行動ができるはずだ。逃げる先では、先王が待っておられる。
途中、王は妹である王女に鉢合わせた。彼女は不安で顔色が良くなかったが、気丈に振舞っていた。今年十五になるはずの彼女と王が並ぶと、ほとんど親子に見えるくらい年が離れている。王は立ち止まることなく大股に歩き続け、王女は小走りにそれを追いかけた。
「兄上、知らせの者達の手当てはすみました。でも、城門前に人々が大勢集まっています」
「知っている。お前は急ぎ城の者達に、ここを発つ用意を整えさせよ」
「どこへ参るのですか」
「父上のおられる場所だ。予言者が言っていただろう。南に最後の希望がある。希望とはこちらから迎えに行かねば、重い腰を上げんものだ。お前は先に立って、皆を導け」
「私に務まるでしょうか」
「そのはずだ。我々は偉大な王家の血を引いているんだ」
「兄上はどうされますか」
「兵を率いて最後に都を発つ。落伍者を拾いながら後を追い、皆の背後を守る」
「はい」
王女はそれ以上時間を無駄にしなかった。彼女は一礼をして足を止め、守りの印を宙に描いて兄の背を見送った。