十四章 英雄譚

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 古い山々に隠されるようにして横たわる、秘密めいた湖がある。その湖と一筋の谷を隔てて、石人最古の都市が広がっていた。空から一望した都市は灰色の頑丈な石造りに見えたが、市中を歩くと黄緑の城同様に木造の彫刻であちこちが飾られ、レンガ造りの場所も多い。通りの構造は石人の城と同じく、地面を荷車などが通る輸送にあて、その両脇に建ち並ぶ建物の二階、三階の側廊が歩道として使われていた。しかし建物は石人の城ほど高層ではなく、高いものも物見台を除けば五階くらいまでだ。キゲイの目にはどちらかというとタバッサの街並みを思い出させた。道行く石人達の雰囲気も城と違い、どこか優雅でのんびりとしている。顔に、色とりどりの不思議な模様を描いている人が多いのも、城と違う。
 石人の都は、アニュディの活躍の場だった。普通の石人である彼女は普通の暮らしを心得ており、キゲイとレイゼルトに普通の石人の振る舞いというものを求めた。それが素性のそれぞれに怪しい二人を守る、唯一の手段でもあった。レイゼルトのような重傷人はベッドで横になっているのが普通だったし、石人語が分からないキゲイは、無口ではにかみ屋の人見知りな子を演じるのが無難だった。
 翼のある巨獣の姿で都市に降り立った彼女は、迎えに出た役人に嘘の身の上と本当にあったことを上手に織り交ぜて話した。つまり、自分達は黄緑の城から神殿で治療を受けるためにやって来た一行で、ウージュは変身後遺症の治療、レイゼルトは怪我の手術、アニュディ自身は二人を引き受けた診療所の職員兼運び手で、キゲイはその見習い助手。ところが来る途中、強風で墜落して持ち物を失くし、森をさまよった挙句魔物や野獣に追いかけられ、身一つで都に辿り着いたという筋書きだ。役人は四人のぼろぼろになった姿を見て、話を信じたらしい。さらには同情して、後払いで泊まれる宿も手配してくれた。
 幸いにして、キゲイの怪我はほとんど治りかけていた。問題はレイゼルトの方だ。彼の傷はどう説明してよいものか難しい。普通なら助からない怪我だったのだ。結局アニュディは医者を呼ぶのを諦め、薬草を買い込み、調合用の道具を借りるために奔走した。物を買うためにお金がいるという現実的な問題に直面した彼女だが、赤城で食べ物を買ったときの小銭がいくらかと、キゲイがトエトリアを傭兵から助けたとき、シェドから記念品としてもらった硬貨が役に立った。レイゼルトが赤城で彼女に渡したお金も、実はそのときキゲイと一緒にもらった硬貨らしい。
「君からお金を巻き上げることになるなんて、思いもしなかった。まさか持ってたとも思わなかったけど。黄緑の城に戻ったら、ちゃんと返すね。ヒスイの石貨と穴あきの銀貨を重ねてはめ込んでて、綺麗なものだし」
 買ったばかりの塗り薬をキゲイに分けながら、アニュディはあやまる。もっともキゲイの方はあまり気にしていない。薬皿に入れられたべっこう色の薬に鼻を近づけて匂いを嗅いでいた。薬草独特の刺激的な匂いに混じって、蜂蜜の甘い香りもする。
「僕、お金のことはよく分からないから、どっちでもいいです。でもあのお金、どれくらいの価値があったんですか」
「そこそこ。といっても薬買って、着替えの古着を買って、宿代はツケにしたとしても、食事代で何日持つことやら。あの硬貨は、王や城のために仕事をした人に払われるお給金よ。君人間なのに、なんで持ってたの。あのお金は城ごとにデザインが違ってて、その城じゃないとそのままじゃ使えない。ここで買い物する前に、両替してきたの。こっちが石人世界全てで流通している普通のお金」
 片手で薬草をすり潰しつつ、アニュディはスカートのポケットからじゃらじゃら大小のコインや石貨を机の上に取り出す。それが四人の全財産だったが、キゲイには金額の大小は分からない。
「黄緑の国の王女様を助けたから、あのコインをもらったのかな」
 キゲイは部屋の向こうにいるレイゼルトに尋ねた。タバッサで傭兵に追いかけられたことが、もう何年も前のことのようだ。
「王女?」
 レイゼルトはベッドの脇から顔をのぞかせる。彼はベッドの影でボロ布同然になった衣服を、苦労して脱ぎ捨てたところだった。合点がいかない様子なので、キゲイは付け加えた。
「タバッサで僕と一緒にいた、髪の長い女の子だよ。覚えてないの?」
「何? トエトリア王女様の話?」
 アニュディも口を挟む。レイゼルトは古着を被りながらベッドの上に登った。
「あの子か。アニュディ、黄緑の王族は他に誰かいるんだろうか?」
「……多分、トエトお一人だけよ。女王様ご夫妻は早くに亡くなられたから。黄緑の王家は七百八年前に直系の血筋が途絶えて、それ以来傍系の方々が王の血筋を取り戻そうとしてる。黄緑の王家はとても厳しく血統が管理されてて、それがかえって血を絶やすことにならないか心配されているくらい。一番血が濃いのが、今は王女様だけなの。次は又従姉のルイクーム様だけど、彼女はまだ血が薄いと考えられているみたい」
 これを聞いたキゲイは、レイゼルトの方を盗み見る。するとレイゼルトと視線が合った。二人はすぐに目を逸らす。黄緑の王族の血筋を絶った張本人が目の前にいるなど、アニュディは知らない方がいいのかもしれない。
 二人の少年をよそに、アニュディは塗り薬にすり潰した薬草を加えて練り始める。レイゼルトの傷には、もうひと手間かけた薬が必要らしかった。今一番疲れているのは三人を乗せて飛んだ彼女のはずだったが、怪我人の世話をしないことには休むわけにはいかないと思っているようだ。
 レイゼルトはベッドの上を渡って彼女の側に降りる。二人用の小さな部屋にもう二つの簡易ベッドが運び込まれ、さらに机も押し込まれたので、部屋には足の踏み場がないのだ。
「あとは自分でできる」
「そう?」
 アニュディはレイゼルトの方へ顎を上げた。
「じゃ、ウージュと銭湯に行ってこようかな。あなた達は傷が深いから、だめね。宿の人に頼んでここにお湯を運んでもらいましょう。とにかくみんな清潔にならないと。自分の匂いだけでも、鼻が曲がりそう」
 レイゼルトに薬の椀を渡し、布巾で手を拭いながらアニュディは立ち上がる。そして肩からかけていた青紫の外套もレイゼルトへ差し出した。
「紫城で手に入れたものは燃やした方がいいと思うの。とりあえず肌着だけじゃ寒いから、これ羽織っといて。あんたのボロになった服とまとめて、あとで処分するわ。夕食も部屋に運んでもらいましょ。下の食堂で詮索好きな連中と一緒に食べるなんて、ごめんだわ」
 狭い部屋の中で居場所がなかったウージュは、机の下でうとうとしていた。アニュディはウージュを起こす。
「宿の人達、ずっと僕らを見てたね」
 キゲイは少し不安になる。町に戻れたおかげで食べ物や寝る所の心配はなくなったが、人間とばれないかという心配が再燃してきたのだ。王族のブレイヤールなら、ばれてもどうにか守ってくれるかもしれないが、何の身分も権力もないアニュディでは、どうにかできそうにない。
「あいつらが見てたのは、この調香士さんと、妙に古風な青紫の外套だ」
 キゲイの心を知ってか知らずか、レイゼルトがぼそっと答える。
「彼女は髪も短いし、顔に魔よけの模様を描いてないから、最先端の都会人に見えるんだ」
「都会人?」
「髪を伸ばして、魔除けの模様を体に描くのが石人古来からの風俗。城は安全だから、魔除けの模様もいらないし――」
「都会人なだけで注目集めるもんですか」
 アニュディは立ち上がりながら、レイゼルトの言葉を遮る。
「私の美貌も珍しかったの。連中のヒソヒソ話が聞こえたもん」
 彼女は子どもみたいに、大げさに胸を張って見せた。あまりに自信に溢れた態度なので、キゲイは呆れるどころか気後れさえ覚える。彼女は皆の注目を集める系統の美人ではない気がするものの、もしかしたら石人にとってはすごい美女なのだろうか。反対にレイゼルトは肩をすくめた。彼は呆れているようで、アニュディの言葉を冷たく突き放す。
「早く行ったら」
「どうせ、まだあんた達には分からないでしょう」
「部屋を出て右に二十二歩半。左手に手すりと階段十七段。降りて左手に進む」
「知ってる知ってる」
 アニュディは勝手に自慢して勝手に機嫌をそこね、何が起きたのかさっぱり分かっていないウージュの手を引いて出て行った。彼女の気ままさにキゲイもついていけない。
「変わった人だね」
 階段を踏む音が扉越しに聞こえる頃、キゲイはようやく口を開くことができた。レイゼルトは頷いただけで何も言わなかった。結局のところ、二人はアニュディにそれぞれ大きく助けられていた。キゲイにとって彼女の普通っぽさは自分と近いものがあり、茶色い髪も人間と同じで、なんとなく安心できる。レイゼルトにしても、子どもの姿では宿で休む手はずさえ満足に整えられなかったろう。
 レイゼルトは薬を練り続け、キゲイはお湯が来るのを待つ以外、まったくの手持ち無沙汰になってしまった。キゲイはぐるりと部屋の中を見渡す。
 石造りの宿の部屋には小さなくり貫き窓がついており、夕暮れの日差しが部屋の影を濃くしている。漆喰が塗られた天井は緩やかな弧を描いて、星に見立てているのか磨かれた金属の円盤がいくつも埋め込まれていた。暗い天井でその円盤だけが夕日の光を受け、鈍く輝いている。
「休めるのはここにいる間だけだ」
 レイゼルトは顔を上げずに言った。
「白城の王子がどうなったかは、いずれは都にも噂が届くはず。アニュディに調べてもらえばいい。状況が分かるまでは、お前も白城に戻らないほうがいい」
「それは、今戻っちゃいけないってこと?」
 レイゼルトは頷いた。
 キゲイはベッドの端に腰かけて、少しうな垂れる。もしブレイヤールの身に最悪の事態が起これば、自分は白城にさえ戻るに戻れなくなってしまうだろう。それに禁呪の鏡をレイゼルトに返した今、自分と石人世界を繋ぐものは何もなくなったという気がした。果たすべき役目は終わったのだ。そう思うと、無性にアークラントが恋しくなる。けれども、そこにもまだ帰ることはできない。アークラントは滅亡の瀬戸際にあり、滅びてしまえば、帰る場所すらなくなってしまう。
 行き場のないやるせなさに、キゲイはふてくされるしか出来ない。大の字になって、ベッドの上にばたんと身を沈めた。暗い天井で、円盤が輝いている。妙な感覚が胸をよぎった。それは、まだ石人世界で自分の出来ることが残っているのかもしれないという、根拠のない予感だった。予感は不意に形を定め、夜空に張り付いて動かない方角を知らせる星となって、心の中にぴたりと留まる。とはいえ、何をどうすべきか分かったわけではない。
「君はこれからどうするつもり?」
 キゲイはそわそわと体を起こして、レイゼルトの背中に問いかける。レイゼルトは背を向けたまま答える。
「白城の噂を捉えてお前達を見送ったら、神殿へ行く。後はアニュディが白城まで世話してくれる」
「神殿には何があるの」
「大巫女様がいらっしゃる」
 レイゼルトはやはり振り返ることなくそう答えた。それが全てだと言わんばかりに。

 リュウガ将軍はアークラントと大空白平原を結ぶエイナ峡谷で、たくさんのアークラント人とすれ違った。集団の先頭は地読みの民と、ディクレス先王が平原へ伴っていたアークラントの若者達がいて、続く者達を導いている。さらに彼は王女の輿を担いだ一団とも出会ったものの、一刻を惜しんで立ち止まることなく、峡谷からアークラントへ抜けた。
 アース国王はディクレス先王の知らせに先立って、最後の行動を起こしたのだ。リュウガ将軍は峡谷近くに築かれた砦に走り込む。真新しい丸太の門に、王の旗が掲げられていた。砦は建国以前から存在していた遺跡の上へ、拠点の一つとしてディクレスが建てた急ごしらえのものだった。
「大空白平原にも、石人とやらの城にも、アークラントの行くべき場所はない。だが進まねばならんということか」
 リュウガ将軍がディクレス先王の言葉をそのまま伝えると、アース国王は胸のうちから引き絞るように、その言葉を口にした。王は砦の一室で、右肩に受けた矢傷の手当てを一人待っていた。
「峡谷への道は人々の列が途切れることなく続いています。陛下、私に次の命をお与えください」
 リュウガ将軍は王の前にひざまずく。十数日国を留守にしただけで、事態は想像もつかないまでに一変していた。詳しい事情を聞き知りたい気持ちはあったが、王の姿から、もはやその時間すら危ういことは明白だ。将軍は与えられる役目にすぐさま移らねばならぬと覚悟する。
「最初に来たのはエカだが、今はハイディーンが迫っている」
 疲れきった表情の中で、王の瞳と口調だけが明るく定まっていた。彼はディクレスからの知らせに、少なくとも落胆はしていなかった。
「奴らが来る前に、峡谷の道を魔術士兵を用いてふさぐ。我々も戦い、出来る限りの時間を稼ぐつもりだ。お前は地読みの民を峡谷に行き渡らせ、人々が一刻も早く平原へ抜けられるようにせよ。そして万一に備え、人々の最後尾に兵力を集中させておけ」
「承知しました。しかし峡谷の入口には、まだ大勢の国民が立往生をしています。狭い道の半分を、荷が塞いでいるのです」
「荷を捨てぬ者は命を捨てる者だ。兵に命じて、邪魔な荷は谷底に捨てよ。峡谷に配置した物資が尽きる前に道を抜けるしかない」
 王は頬をゆがめ、無情な決断をした。宮廷魔術師のザーサが部屋に現われ、王の肩に包帯を当てる。医師らはいまだ兵士達の処置から離れられないのだ。リュウガ将軍は再び承知と答え、部屋を後にする。王は傍らの老魔術師に顔を向けた。
「おかしな話だ。今このアークラントではエカとハイディーンが争い、我々は国の隅に身を寄せて、山脈の亀裂に群がっている。その向こうの希望は、まだ眠ったままだというに」
「後から来たハイディーンが、無人の王都を征したエカの軍勢ごと町に火を放ったのは、想像だにできませんでした」
 部屋の戸口に軍師長が姿を見せる。彼の手には血の染みに濡れた書面があった。
「新しい知らせか」
「ハイディーン軍の精鋭がこちらへまっすぐ向かっております。その中にハイディーン王の姿を見たと申す者もいるようです。騎兵を主力とするハイディーンには考えられないほど、数多くの魔術士兵を伴っており、その中には染めたとも思えぬ、奇妙な頭髪の色をした者もいるとか。先日陛下が追撃されたハイディーンの先遣隊ですが、彼らはわが軍に見向きもせずに南へ突き進みました。エカは王都と陛下を狙っておりますが、ハイディーンは違います。陛下、残念ながら」
 王はゆっくりと頭をもたげ、声もなく笑う。しかしすぐに真顔に戻り、歯を食い縛った。
「確かに奴らは王都もアークラントの王冠も要らんらしいな。俺の首を狙って一目散にやって来たエカの大群の方がよほどかわいく思えるわ! 奴らの狙いは何だ。王家の血を引く娘か? それともあの峡谷か?」
 命がけで届けられたであろう最後の報告書を受け取り、王は粗末な腰掛から立ち上がる。他の将軍達も部屋に現われ、王の両脇に居並んだ。軍師長は盆を手にした小姓らを招き入れた。手当てを終えたザーサは立ち上がり、そっと部屋から立ち去る。峡谷を崩す手はずを整えなければならないのだ。
 王は捧げられた盆の上から四脚の杯をとり、一口飲んで隣の将軍にまわす。彼も一口飲み、隣へ渡す。杯が一同を巡って再び王の前に戻ってくる。
「私はアークラント王として、人間世界の末端に住まう人間として、この地を去ることはしない。ハイディーンを止めるは、国を守るだけでなく、人間世界の秩序もまた守ることになる。しかしこの地を離れる決断も、国を蘇らせ、人間世界の秩序を取り戻すに必要なことだ」
 王は集まった家臣達の顔を見渡す。一同は王を先頭に部屋を出て、兵士らが集まる砦の門へと歩む。門の下にはリュウガとザーサが立ち、門の外には彼らの部下が居並んでいる。王は一度杯を掲げ、残りの生酒を大地に捧げた。戦いに行く者と大地の神との間に交わされる、昔ながらの儀式だった。
「運命の神は我らに試練を与えんとされている。私は王として、いずれ戻る者達のためにこの地を守り続けよう。未知なる大地へ向かう者達に風神水神の祝福を。この地より運ばれる風と水が、そなたたちを生かすよう」
 ザーサが王の前に歩み出て、杯を受け取り水を注ぐ。彼のしわがれた声が、新芽を隠す荒んだ野に響く。
「アークラントの地神が、留まる子らを隠し、去る子らを忘れんことを」
 ザーサは杯をリュウガ将軍に託す。アークラントで生まれた水を一滴こぼさず平原まで運び、いつか戻る日までの仮宿となる大地へ捧げるのが役目だった。
「忘れられてしまう前に、戻ってこい」
 アース国王は二人だけに聞こえる声で、苦笑した。
 砦の門を隔てて、残る者と去る者が互いの幸運を祈ると、リュウガとザーサは峡谷へ向けて発つ。アース国王は他の将軍らとともに兵士らをまとめ、間近に迫るハイディーンを迎え撃つ準備を整える。
 数日後。峡谷の入口にハイディーンの騎兵隊が到着した。彼らはひとけのない峡谷の様子に不審を抱きながら、数騎を偵察として進ませる。彼らが両側から迫る崖下を抜けようとしたとき、轟音とともに崖が崩れ落ち、騎兵達の姿が岩と砂埃の中に消えた。それを合図に、ハイディーン軍の背後から鬨の声が上がる。矢が雨のごとくハイディーン軍の頭上を襲った。隊列は乱れ、ハイディーン兵らは矢から逃れようと崩れ残った崖の影へ退いていく。
 峡谷の急斜面を下って、あるいは林の奥に身を潜めていた最後のアークラント軍が、次々と現われる。矢は打ち尽くした。彼らはアース国王を先頭にハイディーン軍と対峙する。アークラント軍は大地の神を信奉する証に、緋と紺の二色からなるマントと合印を身につけている。皮と銅の鎧は黒い上薬が塗られ、胸元にはアークラントの紋章がある。王は重たい兜の上に王冠を戴いていた。
 彼の視線の先には、ハイディーン軍を自ら率いて現われたハイディーン王の姿がある。ハイディーン王は年の頃はディクレスとほぼ変わらない。金糸の刺繍が入った淡い空色のマントに白銀の鎖帷子を身につけている。それはハイディーンが、最高神であり雷を司る神の使いであることを表すものだ。
「アークラントの栄光は三百年前に終わっている!」
 ハイディーン王の声が響き渡った。
「栄光を陥れたそなた達はいまだもってこの地に留まり、英雄の御霊を汚した。我らは英雄の眠る大地を戦で洗い、アークラント王家の血を天統べる神の血で清めにまいった。時は動き、もはや古き帝国の威光が輝くことはない。わが国をもって新たな世の暁とする」
 峡谷の奥からは、地を震わす轟きが続いていた。大空白平原へ向かう人々の背後で、ザーサが魔術士兵を指揮し、随所で道を崩しているのだ。アークラント王はその音を耳にして、この戦闘でどれほどの時間が稼げるかを考える。ハイディーン軍はまだあとからいくらでもやってくるだろう。崩れた道を開通させるには膨大な労力と時間が必要だが、ハイディーンが連れている多くの魔術士兵は、想像されるよりも短い時間でそれをやってのけるかもしれない。
「ハイディーン王よ。そなたが求める暁は、この峻峰の向こうから来るのではないか」
 アークラント王は短く答えた。
「この大地を統べる神は、侵略する者に恵みを与えることはない。アークラントを汚す者には裁きが下るだろう」
 ハイディーン王の言葉は、彼らの真の目的を隠しているに違いない。その目的が何であれ、アークラント王は彼らをここで止めなければならなかった。彼は剣を掲げ、全軍に突撃の命を下す。
 ついに決戦の火蓋が落とされた。黒い鎧と白い鎧が入り乱れる戦場は、地と天、百と万の戦いだった。