十五章 星の神殿
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キゲイ達を白城へ送り出した後、レイゼルトは一人歩いて古都を出た。峠からは塩辛い水で満たされた湖が見下ろせる。湖の中ほどにはいくつもの白い柱に支えられて水上に建つ、神殿の四角い巨大な屋根が見える。辺りには潮の香りが満ちていた。この湖ははるかな昔、大海から陸に取り残された小さな海だった。神殿の周りにはたくさんの小舟が往来している。神殿もまた、船をつなぎ合わせたような構造を持っていた。湖底に建てた何千本もの石柱や石壁の間に板を渡し、それぞれの部屋を柱の支えと水の浮力でしつらえている。細い通路は板張り、大きな通路はすべて水路となっており、神殿内の移動には小舟が欠かせない。神殿の屋根も半分は石や木の板だが、それ以外は大きな帆布を張っている。巨大な正方形をした神殿は各頂点がぴったりと東西南北を指し、それぞれに高い鐘楼を設けていた。鐘楼は塩のレンガで覆われて、毎日神官達が塩水を表面に塗りつけている。
神殿の中央にある大巫女の館は、周りの帆布の屋根にすっぽりと隠されて見えない。そこだけが神殿内で唯一、大地に根を下ろした小さな島の上にあった。大巫女の館に入ることを許されるのは、大巫女に仕える巫女達だけだ。館の外は神殿騎士達が常に見張っている。騎士達は館を守るとともに、その周りを絶え間なく巡ることで、石櫃に祈りを捧げている。神殿と石人達を実質的に取り仕切る役割にある九竜神官さえ、非常時でもなければ館への立ち入りは禁じられていた。館には中庭があり、その中庭の中央に命名の書と神々の墓碑たる石櫃を納めた祠があるという。
レイゼルトはひどく疲れていた。背中の傷はだいぶ良くなったが、あの赤い竜達は、彼の背中だけでなく精神も食い荒らしていた。癒しを求める石人が最後の救いを求めて目指すのが、この星の神殿であり、大巫女の館だ。大巫女の館は、石人にとってもっとも危険に近い場所ではあるが、同時に最も安全な場所でもあったのだ。
そしてレイゼルトには、もうひとつ、大巫女の館に行くべき理由がある。
――どうあがこうと、遅かれ早かれ初代赤王の手の中に巻き取られていく。
十二人の魔法使い達が神殿を離れ城を建てようとした動機は、歴史が伝える以上に複雑で、様々な問題が絡んでいたかもしれない。石櫃に封じられた闇や、世界創生の得体も知れない秘密は、人知れず彼らを哀れな亡霊に変えてしまった。彼らに異を唱えたもう一人の魔法使いもまた亡霊としてこの世に留まっているならば、その者の居場所は大巫女の館をおいて他にはないだろう。
レイゼルトは薄い紙の切れ端を、そっと魔法の風に乗せる。紙切れは、峠の頂上から神殿へ向かってひらりひらりと舞い流れる。彼はその紙切れを追って飛び上がる。その姿は宙で、紙に吸い込まれるようにして消えた。紙はかすかな炎に包まれながら、大巫女の館に向かって飛んでいく。
赤の王族が例外なくそうだったように、レイゼルトのもうひとつの姿は、彼の背中を食い荒らした妖精竜そのものだった。ところが彼はあまりに長く生きすぎて、「生きもの」というより「もの」に近くなってしまったのかもしれない。石人に許される寿命ぶんだけ時が経ったとき、彼の姿は竜から炎に変わっていた。妖精竜が生まれた瞬間から体内に宿し、死ぬときには内側から体を焼き尽くす炎だ。
彼は紙を燃やしすぎないよう、自由の利きにくい火の体をちぢこめ、神殿の上空を横切る。たくさんの小舟が柱の間を通り過ぎるが、誰も遥か空を漂う小さな紙切れには気付かない。太陽は紙切れの小さな炎を飲み込むほどに輝いていた。それは明らかな春の兆しだ。
帆布の屋根は天の光を受け入れるため、折りたたまれた場所がいくつかある。合間からは赤、青、緑、黄、黒や白など極彩色に彩られた石壁が覗いている。神殿の壁や柱はすべて、宇宙を表す壁画に彩られているのだ。塩湖の侵食に負けじと、常に誰かの手で塗り直され続ける壁画は、目に染みるほど鮮やかだった。描かれた紋様を目で辿っていけば宇宙を巡ったのと同じことになり、死後、魂が自分の名を持つ星に帰っていくときの道が分かると言われている。石人にとって、魂が宇宙で迷子にならないことはとても重要なことだった。そして石人が死んだとき、その人の名前は壁画のしかるべき場所に、小さな星として彫り込まれる。
神殿が石櫃とともに守る命名の書には、この世に生まれるすべての石人の名前が既に記されていると言われている。命名の神官達は命名の書の写しを持ち、生まれた子の真上や真下に輝く星を見極め、その星の名前を与える。誕生のとき、命名の神官が立ち会えなければその子は名前を持てず、死後も天に昇れず地上をさまよって、いずれは石櫃の闇に飲み込まれてしまう。命名の神官が星を読み違え、間違った名前を与えてしまった場合もそうだ。あるいは名前を持っていても、大きな罪を犯せば神殿に名前を取り上げられる。神殿の壁画に名前を刻まれることもない。だからレイゼルトの名も彼の父王の名も、壁画には刻まれていない。命名の神官にとっても、星を読み違うのは大罪だった。
紙はとうとう燃え尽きる。レイゼルトは人の姿に戻りながら、灰とともに館の中庭へと降り立った。周りは古代遺跡と見まごうばかりのひっそりとした石の館が取り巻き、山を下ってきた風が吹き溜まって鳴っていた。庭の下草は茶枯れて、ネムノキが数本、庭の隅で寒風に枝をさらしている。庭の真ん中には崩れかけた小さな祠があったが、それはレイゼルトの身長ほどの高さもない。風雨で浸食された石肌に、白い塩の結晶が浮いている。
レイゼルトは灌木の影に身を伏して、じっと辺りをうかがった。土の湿った匂いがする。館は冷え切っており、人の気配がまったくない。耳を澄ませば、どこか遠くで神官達の演奏する楽器の音がする。風音と混じるその単調な旋律は、石人ならば必ず知っている。初代の大巫女が竪琴から紡ぎ出したと言われる、水の旋律だ。
顔を背けて地面に片耳をつける。神殿の奥底に潜むという闇の音を、地中から聞き取れるかと思ったのだ。七百年前の赤城で、城の壁内に水が弾ける音を聞いたときのように。しかしそれは無理だった。もう片方の耳から風音と水の旋律が聞こえて、邪魔をする。腕を上げて耳に蓋をすれば、今度は腕から血の脈打つ音と筋肉の軋む音がする。そこで目を閉じ、鼓動の合間の静寂に集中する。
そのうちに、鼓動以外にも規則的な音が聞こえてきた。人の足音だ。枯れた草を踏み、ゆっくりとこちらへ近づいてきている。
レイゼルトは身じろぎひとつせず、その足音に意識を移した。耳に心地よい歩調で、まったく危険を感じない。頭の先で、足音は止まった。香の匂いが一瞬、鼻先を撫でる。彼はそっと頭を持ち上げる。漆黒の裸足が見え、透けるほどに薄い衣がその足にかかっている。
レイゼルトは頭を地面に伏せたまま、両膝を腹の下におさめてひれ伏した。
「訪問の失礼をお許しください。大巫女様」
レイゼルトは呟いた。柔らかい優しい答えが頭上から返ってくる。
「待っていましたよ。そして、待ちくたびれました」
レイゼルトはその答えを不審に思い、顔を上げる。すでに大巫女は彼に背を向けて、庭の真ん中へ歩を進めるところだった。
とても背の高い人だ。薄物の布を幾重にも漆黒の細い体に巻いて、その端は風がもてあそぶままに流している。光を通す銀白色の髪には、たくさんの銀粒の飾り。歩を進めるたびに、着物の裾からしっかりとした素足が覗く。大巫女はひどく年老いていていながら、まるで童女のように初々しい優しい仕草を持つ人だった。
「間に合ったようですね」
大巫女は振り返り、両腕を広げてそっと上げる。レイゼルトはその仕草に従って、同じようにそっと立ち上がった。
「あなたにはいつか会ったように思います。何百年か前、あるいは私が死した後に見続ける、夢の中で」
大巫女は灰色の目を細め、弱々しい様子で微笑んだ。
――この方は、私が来るまでを待っていてくださった。
レイゼルトは気付いて、顔を伏せる。彼の視界から大巫女の姿は消えたが、それでも恐らく、彼女はずっと微笑み続けていた。
「石人が初めてこの地に留まったときから、大巫女はこの館に住み、石櫃の前に座して祈り続けてきました。石櫃に封じられているものは、常に外へと染み出そうとします。大巫女は、石櫃の中で静かに潜んでいただくよう、古い言葉を捧げてお願いするのです」
「大巫女様は石櫃と命名の書の原型をお守りするため、命名の書から石人の名を書き出すために、神殿にいらっしゃるものだとばかり思っておりました」
レイゼルトは不意に不安になり、庭を囲う館に目を走らせる。
「この館には今誰もおりません」
大巫女様はレイゼルトの不安を一言で打ち消した。
「私のお役目は、石人の名を命名の書より書き出し、人々に与えることです。名が闇に飲まれぬように。そして、私が書き出すに間に合わなかった名前を、さまよえる石人の魂に与えるために。なぜ石人が命名の書を手にし、神の名を得ることになったのでしょうか。正しくは神の名ではなく、砕け散ったそれぞれの神の体の、一部を指す名ですが」
大巫女はゆっくりと庭を横切り、館の脇に据え置かれた石のベンチに腰を下ろす。レイゼルトはそれを見送り、しばらくして戸惑いながら大巫女の脇に両膝をつく。大巫女は先程とは違う厳しい表情で、まっすぐにレイゼルトへ視線を注いだ。
「私はあなたの名を知っています。レイゼルト。かつて神殿は、この名をあなたから取り上げました。それをここで返しましょう。あなたはもう、地上でさまよってはなりません」
大巫女はそこで深い溜息をつく。表情は再び和らぎ、視線が落ちて疲れた様子になる。
「何ゆえ石人達がこの地にいざなわれ、命名の書を手にし、神殿をこの地に築いたか。初代大巫女が最初にこれらを手にし、それとともに真実は彼女の喉を焼き付けました。初代大巫女は誰にも伝えられぬ真実を、その呪いとともに次代の大巫女へ託しました。それは代々の大巫女に継承され、私もまたすでに次代の大巫女へ引き渡しています。初代の大巫女が触れた大地は、すでにこの深い地層の下に。石櫃を安置した祠もその塔の先がわずかに覗くだけとなりました。この小さな島は、沈み続けているのです」
「初代十二王達は、石櫃の闇に捕らわれました。大巫女様のお役目をともに担おうとして、呪われたのでしょうか。彼らはいまだ十二城に潜んでいます。新たな者を闇に引き込みながら。私もまた言葉を焼き付けられ、彼らのことを誰にも伝えることができません。大巫女様のように次の依代にしか伝えられないのです。しかし次の依代は、人としての意識を剥ぎ取られ、肉体に命が宿っているだけです。あれではどんなにあがいても、奪われた意識は影ほどにしか取り戻せない」
「影が実体以上に真実の姿を映すときもあります。この神殿ではそのために、影を恐れる者達もいます」
「神殿とは何でしょうか。石人だけに課された、世界での役割があるのでしょうか」
「我々が考える以上に、世界は思いがけないものです。石人は世界の全ての色を、その髪に、瞳に宿しています。『もうひとつの姿』として、この世に存在した様々な生物の姿を隠し、世界を創造したといわれる神の名を継いでいるのです。一方で、石人の精神の中心であるこの島の地下深くには、世界が形作られた瞬間、その代償として封じられたと伝えられる闇が眠ります」
大巫女は硬く目を閉じ、喉を抑える。レイゼルトはその姿をしばらく見つめて言った。
「それが真実の外殻なのですか」
「ええ。その通りです。それが花の蕾のように、いつか開くものだと信じている者達もいます」
「私は闇がどんなものか知りに参りました。石櫃を覗かせてはくれませんか」
レイゼルトが無邪気に尋ねると、大巫女はまぶたを閉じたまま、小さく笑って首を振った。
「あなたは石櫃を壊しかねない。これ以上、闇の犠牲者を出すわけにはいきません。それより見てほしいものは、別にあるのですよ。それが我々の側にある真実だから」
大巫女は老いて痩せた片腕をあげ、指先で宙に線を描きはじめる。指の軌跡に銀色の光が残り、やがて神殿の見取り図が完成する。彼女は最後に、ある通路の行き止まりを指さした。
「初代大巫女は石櫃を守り、九竜神官の言葉には一切耳を貸してきませんでした。彼らは石櫃に封じられた闇がいずれ真実となって明るみに出で、それに秩序を与えるのが石人の使命と信じました。彼らは神殿の地下にうごめく闇を、彼らなりに解釈しました。闇の側にいる大巫女が知ることと、闇の外にいる彼らが知ろうとしたことは、表裏一体ですらないでしょう。大巫女の焼き付けられた喉が、九竜神官達との間に不信の溝を広げてしまいました。彼らは自ら石櫃に近づこうと、神殿の一角に、祠へ通じる穴を掘ろうとしました。それは今でも一部が残って、使われています。はるかな昔、彼らは石櫃に捧げる大巫女の言葉を、地中に潜んで盗みました。それでもなお彼らは闇に近づくことは出来ませんでしたが、触れてはならぬものを得ました。彼らもまた自らの役目を、次代の神官達に伝えています。けれども――」
大巫女が指で払うと、宙の光は砂粒のように乱れて消えてしまう。彼女はレイゼルトに穏やかな視線を向けた。
「あなたが見るべきものは別にあります。この七百年、あなたは孤独であったでしょう。けれども多くに守られて、ここにあることも知っているはずです。あなたを最も苦しめたものが、最もよくあなたを支えたかもしれません」
「……いまさら知って、何になるのです」
レイゼルトは大巫女を見返す。
「私があなたに勧めるのは、闇に関わる者達の話ではありません。あなたがこの七百年間ずっと携えてきた、その禁呪の本当の力を知ってもらいたいのです。それは償いにもなりましょう。慰めにもなるかもしれません」
「禁呪に慰めを見出すほど、辛い刑罰はありません」
「力も取り戻せるでしょう。あなたにはひとつ、心残りがありますね。それは私にとっても同じです」
レイゼルトの肩に手を置き、大巫女は立ち上がる。振り返って見下ろした彼女の髪に、日差しが透けた。
「私は夢の中で、館から出て外を歩きます。いえ、太古の風景の中には、館も神殿も存在しません。私は幼い頃より、夜はこの夢の中で過ごしてきました。過去に会った者も、これから会う者も、すべての人々や生き物達がそこにはいました。彼らの姿は霧で、近づかねば容姿も判別がつきません。私はすでに多くの者の姿をそこに見出しましたが、あなたが最後と思っていました。しかしこの数年は奇妙なことに、遠くにはっきりとした人影が見えます。彼は人間です。どこから迷い込んだのでしょうか」
「アークラントの運命からです。アークラントの運命と石人の地との交わりから、大巫女様の大きな夢に迷い込んだのでしょう。彼はエカという国を恨んでいる。アークラントを存続させることが、戦で失われた故郷の無念を晴らす復讐へとつながるのです」
レイゼルトはトゥリーバのことを思い出し、苛立ちを覚える。
「復讐心が、彼を正しい夢見の判断から遠ざけてしまった。彼に手を貸してやってはくれませんか。あの夢はアークラントの希望を予言しているのではなく、彼自身の戻るべき道を示していたのだと。……恨みを断ち、振り返らねばならぬことを」
一息に話しきり、レイゼルトは息を吐いて肩を落とす。恨みや復讐がどれほど空しいものか、そしてそれらを断つことがどれほど難しく、どれほどおぞましい苦しみを伴うか。なおかつそれから逃げることがどれほど虚しいか、彼は嫌と言うほどに知っていた。
大巫女は微笑んで頷き、ゆっくりと館へ歩み出す。
「次の夜明けまで、そこでお休みなさい。鐘が鳴ったら、先程の場所に行くのです。あなたに会えたことは、私には最後の癒しとなりました。ごきげんよう。私は先に参ります」
大巫女の姿が館の影に溶け、足音が遠ざかって消える。庭に一人残されたレイゼルトは、石のベンチで横になる。傷で消耗していた体力は、いまだ戻っていない。七百年に渡る放浪の疲れが、最後の最後で追い討ちをかけるように彼の気力を蝕んでいた。禁呪使いとして追われた七百年前の恐怖とやり場のない恨みが、これだけの時を経ながら鮮烈に思い出せる。他の記憶はすでに形をなくし、思い出すことさえ難しくなっているというのに。