十五章 星の神殿

15-2

 まぶたを閉じると、そのまますっと眠りに落ちたらしい。どこか遠くからいくつもの鐘の音が響き、館の中庭にこだまが残る。目を開けると辺りは薄暗く、明け方の空には星が輝いている。彼がはっきりと目を覚ます頃には、鐘の音は打ち方を変えていた。
 一つの鐘が鈍く響き、その音が尾を引いて塩辛い湖に沈むと、また別の場所から鐘の音が沸きあがる。鐘の音は東西南北に設けられた鐘楼から響いているようだ。耳を澄ますと、かすかに人々のざわめきが感じられる。泣き叫ぶような取り乱した声は、あらゆる感情の吐露を禁じる神殿には、ただならない。鐘は、大巫女が亡くなられたことを知らせるものだった。
――館を出るなら今しかない。
 レイゼルトは察した。起き上がると、素早く館へと入る。大巫女に示された穴へ向かうために。大巫女の館を巡回して守る神殿騎士達は歩みを止め、石像のように立ち尽くしている。多くの巫女が忙しなく行き交い、神官達は顔に面を当てて悲しみを隠している。レイゼルトは巫女達の影に紛れながら館の外に出て、入り組んだ通路の先を進んだ。
 入口は古びた小さな鉄柵だった。大巫女の館の通気窓と見間違いそうなものだ。レイゼルトは扉にかかった鍵を魔法でこじ開ける。最初は這って進まねばならなかった。やがて天井が高くなる。暗闇の中で手探りをする。壁は荒々しく削られた石壁だ。館の壁を無理矢理削ったのかもしれない。神殿の物音や風の音がくぐもった不確かな響きになり、耳の奥を鳴らす。レイゼルトは先を急いだ。
 道は下りになる。平らではなく階段状になっており、段の真ん中だけが磨り減っていた。レイゼルトは大人が手をつくだろう位置へ腕を伸ばす。石壁に窪みが見つかった。九竜神官達は何千年も前から暗闇の中を手探りで、階段や両脇の壁が磨り減るほど、この通路を使ってきたらしい。
 深く降りるにつれて静寂が密度を増し、そのために今度は耳鳴りがするようになった。空気が澱んでくる。あまりに古い時代の地層まで来たのだろうか。時間すらも澱む重苦しさは、七百年前のあの日にいるような錯覚を覚えさせる。今上に戻れば、彼を血眼になって探す七百年前の石人達が、待ち受けているかもしれない。
 レイゼルトは右腕を上げる。魔法で明かりを灯そうと思ったのだ。このまま暗闇にいると昔の記憶が蘇り、頭がおかしくなりそうだった。しかし彼はしばらくためらった。下に行くほどに、原初の闇に近づくことになる。明かりを灯すのは、ここでは危険なことなのかもしれない。迷った末、足元を照らすわずかな明かりだけに止める。彼は再び下り始める。一歩一歩降りるすぐその背後で、暗闇は何事もなかったかのように帳を下ろし、沈黙が弔いの土として明るい地上と侵入者の間を埋めていった。彼は黙々とひたすらに下った。わずかな明かりと、そこに照らし出された石段だけがすべての世界だった。
 やがて階段が尽き、長く狭い通路が姿を見せる。薄暗い明かりの中で、通路は一本に見える。しかし彼が進むと、ひとつだった道は二股に分かれ始めた。やはり明かりは嫌われているようだ。彼は明かりを消す。そして壁の窪みを触って確めながら、先へと進んだ。手で辿る道は再びひとつと重なり、左右に折れ曲がりながら続く下り坂になる。
 指先の壁が途絶えた。狭い所にいる圧迫感は薄れ、終着点の部屋に辿り着いたことを知る。レイゼルトは大きく息をついた。暗闇に加え、それ以外の何かが部屋に満ちている。その感じは紫城の最深部と似ていた。ここにも理性を飛び越し本能に訴えかける、畏怖の源がある。自然と冷や汗が噴き出して、彼は舌打ちをした。
「いまさら、何を恐れる」
 レイゼルトはかすれた声で自らを励まし、両腕を高々と掲げる。真っ白な閃光が炸裂する。光を知らない闇はことごとく払われ、巨大な部屋がその全貌を現した。レイゼルトは息を飲む。
闇の間 長い間生きた彼も、その光景には戦慄さえ覚えた。恐怖でもなく畏敬でもない。立ちすくむことしかできない壮絶な感情が全身を貫き、ひととき自分自身の存在すら忘れた。
 灰色の高い丸天井と壁面すべてが、何千もの石人の石棺に覆われていたのだ。ほぼ新円の形をした棺は、小さな模棺から実際の大きさのものまで様々ある。部屋の中央には樹木を模した巨大な石の柱が天井まで伸び、棺の隙間に石の枝葉が這っている。水滴によってできた石のつららが、枝から垂れる蔦のように幾本も下がっている。柱の根元には、石の天蓋つきの王座があった。棺があることを除けば、そこは紫城のあの地下の部屋と酷似している。
 王座には、古くなりすぎて今まさに崩れんとする彫像が座っていた。頭部は湿って丸みを帯び、目や顎の窪みがぼんやりと残っているだけだ。しかし半眼の切れ目だけは深く刻まれていたらしく、黒々と影を落として二筋はっきりとある。体には、長い衣を巻いていたらしいひだの跡が、かろうじて残っている。
 老若男女の判別がつかないその像は、心持ち王座に横座りになっていた。考え事をしているように右ひじを王座の肘掛に立てて、こぶしで頬を軽く支えている。膝頭の磨耗はひどく、そこだけ表面がつるつると磨かれて滑らかだ。
――誰だろう。
 レイゼルトの心の呟きに、深く沈んだ声が答えた。
「闇に飲まれし肖像」
 風が打ち捨てられた笛を鳴らすのにも似た、虚ろな響きだった。
 レイゼルトは鋭く身構え、王座の人物を睨んだ。相手は先程と寸分変わらない表情で思索を続けている。レイゼルトは半眼の深い切れ目を凝視し、寒気を覚えて目を逸らした。すると視線の先に、ローブで身を覆い、神官が持つのっぺらぼうの面をつけた人影が捉えられる。人影は部屋の隅にぽつんと立っていた。
 ローブ姿の者はレイゼルトの視線を受け、そっと面をはずした。フードの下は影が濃く、何も見えない。面を持つ手も、そこだけ世界が切り取られたように真っ暗だ。漆黒の肌をした石人か、そもそも姿を持たない存在なのか、分からない。
「大巫女様が見せたいと私に言ったのは、この部屋のことだったのですか」
 レイゼルトが尋ねると、相手はフードをゆっくりと下げた。頷いた仕草らしい。
「ここは九竜神官達が築いた、もうひとつの石櫃の祈り場」
 囁くような声色は相手との距離を感じさせないほど、彼の耳にはっきりと届く。
「彼らは時折ここへやって来て、膝をひとなでし、大巫女より盗み取った祈りの言葉を捧げる。彼らは部屋を満たす闇に敬意を表し、決して明かりは用いない」
「私は明かりを灯しました。しかし光で払えないものが満ちている。これが闇なのですか」
 闇と口にしたとき、レイゼルトは体の震えを感じていた。無意識のうちに忍び寄った恐怖が、言葉によって形を得たのだろうか。じわじわ喉を締め付けるかのように、体の自由を奪いつつある。
 音も無く、ローブ姿の石人はレイゼルトの方へ歩み寄る。ローブの裾が翻っても、空気が動く気配はない。
「石櫃に封じられたものの一部。ここから少し染み出している。仮にこれを『闇』と呼ぶのであれば、九竜神官達はこの『闇』を宇宙に星を浮かべる闇と同じだと思ったのだろう」
「あなたが、初代十二王達と道を違えたもう一人の魔法使いなのですか」
「かつてはそうだった。今は墓守にすぎない」
 ローブ姿の魔法使いは再び面をフードの下に当てる。そのわずかな瞬間、レイゼルトは面の後ろに隠れる、まぶたを閉じた漆黒の顔を見た気がした。
「『闇』を世界に開放し、星の名を持つ石人達をその統治者とする。それは地上に星空を描くこと。世界は天の鏡となり、太古に砕け散った神々を継ぎ合わせ、蘇らせる。九竜神官はそれこそを石人の役目と信じ、代を重ねながら時を待っている。当時の九竜神官達は『闇』の理解者を求め、古都十三の地をそれぞれに治めていた我々を招致した。この部屋で『闇』に魅入られた我々は、大巫女の背負うお役目を理解した。九竜神官の悲願もまた、理解した。だからこそ、石人達を神殿のただひとつの支配から開放せねばならぬと考えた。初代大巫女が石人に定めた理を、神殿の堕ちた力が及ばぬ地で再び明らかにするために」
 魔法使いは緩やかに腕を上げ、王座の石像を指差した。
「あれが石像なのか、太古の石人の亡骸なのかは我々にも分からない。あの像は、石櫃に次ぐ『闇』の覗き口だ。あなたも今感じているはず。もうそれで十分。その像の目を覗いてはならない。あなたはまだ我々ほど深く『闇』に飲まれてはいないのだから。こちらへ」
 レイゼルトは魔法使いの方へ足を向ける。傍に立つと、魔法使いの静かな息遣いに気が付いた。まるですべてが死んでいるようなこの部屋で、魔法使いが生身を持っているのは意外に思える。魔法使いのローブからは、神官が日常の祈りで使う香の匂いすら漂っている。
「なぜあなたは城を創るために、神殿を出られなかったのですか」
「レイゼルト、あなたは紫城を解放した。紫王は消えぬが、城との繋がりは断ち切られたのだ。それは城の正体を見極め、役目を終えて滅んだ無人の城が、元の姿に立ち戻ることを望んだからではないのか。七百年前、紫王の依代が試みた復讐の中で、あなたは城が何かを知った。さらなる昔私もまた、城を創ることによって隠される世界を危ぶんでいた。十二王達は決断し、私は留まり続けた。『闇』に飲まれるまで。存在の様式は反転し、私が現身を保てるのは『闇』の側のみとなった。この部屋を出れば姿をなくすのだ。以来私はこの部屋で、名のない石人、名を奪われた石人の弔いをしている」
 魔法使いは天井の、ある模棺を指差した。レイゼルトは棺に名が刻まれているのを見た。
「シュラオイエン。あなたの持つ銀の札に禁呪を隠した魔術師だ」
 レイゼルトは銀の鏡を取り出す。彼は鏡面に棺を映した。ふいにいたたまれないほどの弱々しい気持ちが、頭をもたげてくる。
「かの人が、砂の魔術に興味を示すとは思えません。私も砂には興味がありません。この銀の鏡には、別の魔法が秘められていたのです。幼い日の私はその魔法に惹かれて、鏡を手にした」
 レイゼルトはそこまで言うと、鏡を懐に戻す。力が抜けて鏡を落としてしまわないように。それをみてとった魔法使いの虚ろな口調は、やや柔らかになる。
「そうだ。その札には土の魔法が込められていた。老魔術師は黄王に頼まれ、城に豊かな土を蓄える魔法を探していた。あの城の周りは凍りついた荒野で、乾いた砂しか得られない。彼は砂を土へ変える魔法を編み出そうとしていた。それはついに成功しなかった。その札に込められた禁呪は、失敗した魔術のひとつ。命あるものを土に戻してしまう、使い方を過てば危険なものだ」
「初めて札に込められた魔法を使ったとき、でも、これは確かに砂の禁呪だったのです」
「年の端もいかぬうち一人塔に封じられ、暗闇で生きていた子どもが、禁呪を得たとき、再び二本の足で体を支え言葉を話し、禁呪を読み解くだけの正気を取り戻した。その理由を考えたことはなかったか。その札に封じられていたのは、禁呪だけではない。魔法を生み出そうと失敗を重ねてなお衰えなかった、老魔術師の人々への思いがあった。彼は魔術に持てる力全てを捧げた。その心が銀の札を手にした哀れな子どもに、失われていた命の活力を与えた。禁呪に封じられていた強い生命の力を代償として。命をはぐくむ土の魔法は力を失い、砂の魔法へと変じた。残念ながらその後、禁呪は誤った使い方をされた」
「私は見も知らぬ、古い時代の禁呪使いに助けられたというのですか」
 レイゼルトは声を震わせる。
「禁呪に込められた力は、私の命を救っただけでした。むしろそうしない方が、他の石人達にとってどんなによかったか」
 彼はキッと棺を見上げた。言い尽くせない様々な感情や記憶が胸にこみ上げ、心が耐え切れずに破裂しそうになる。それらを押し殺そうとすると、喉がぎりぎりと痛んだ。
「あなたはずっと口を閉ざしてきた。いずれは実を結ぶ言葉もあったはずなのに」
 魔法使いは言った。レイゼルトは見上げた姿勢のまま、何度も息を飲み込む。それからようやく彼は苦しげに口を開いた。
「そうせざるを得なかった。口を開けば宿運の悪さを嘆く恨みの言葉しか出てこない。自分の本当の気持ちすら分かりませんでした。私は自分が誰なのか、分からなかった。
私は多くの石人を砂に変えました。それは父王の命があったからです。言うことを聞けば、私は二度と塔に戻らなくてもいいかもしれないと、信じていた。塔にいる間、私は幼いなりに人の心を忘れまいと努めていましたが、世を知らぬ孤独は精神を蝕み、心も歪め固めてしまいます。塔の外へ戻ることを求めながらも、いざそれが叶うと、慣れ親しんだ塔での孤独を懐かしみ、そこから己を引き離した外の世界を憎むようになるのです。塔の外で禁呪を目の前に差し出され、それが意味することを察したとき、今まで守り続けていたはずの正気が、すでに壊れていたことに気付きました。大きな過ちを犯そうとしているのを知りながらも、世へ戻りたいという渇望を癒す欲に負け、同時にそのようにしてしか癒されえない渇望を憎み、孤独を永遠に失うことを恨みながら、邪精のように日の下へ躍り出たのです」
 レイゼルトは両の頬を伝う涙に気付いたが、拭いもせず気にもせず、そのまま流れるに任せた。
「砂の禁呪はあまりに綺麗に人を砂に変えてしまう。私には砂遊びの延長であり、禁呪の恐ろしさもそれを使っている自身の非道さも、一切省みませんでした。多くの石人が私を捕らえようとしながらそれができなかったのは、身を守ってくれる者がいたためです。ところがその者が殺されたとき、私は初めて死というものを知り、それを恐れるようになりました。私の命を狙う石人の中には、肉親であったはずの兄王の姿もありました。兄の心の内も知らず、その裏切りを恨みました。私を倒したとされる黄緑の王子も、本当は私を助けようと考えていたのです。しかし私には疑念と復讐しかなく、それに従うことができなかった。再び禁呪を用いた私に、彼は自らの役目を果たす以外ありませんでした。彼は石人の愚かしさに深く絶望し、英雄として帰還することを拒みました。私が彼を道連れにしたのではなく、彼が私を道連れにしたのです」
 レイゼルトはうな垂れる。
「くしくも私の命は滝では終わりませんでした。私のしたことは永遠に許されることはない。この罪は生涯を越えても償いきれはしません。だから初代赤王に囚われ、不死の牢獄にいた七百年間は、償いのひとつになると思えば耐えることができる。兄王や黄緑の王子、その他の数少ない石人達。あのとき私を助けようとしてくれた者達は、私により広い視野と心を遺しました。そして私は、それに見合う生き方を、半ば強いられたのです。それでもなお、今でも頭から離れない思いがあります。石人達が私にした仕打ちは、誰が償ってくれるのか。もっと早くに、救われたかったと」
 頬は乾いていた。レイゼルトは樹木を模した柱へと視線を移す。
「そう思う度に私はすぐに考え直します。すでに償ってくれている。私にこのような生き方を強いた者達は、己の命を代償としてくれていたのです。そして七百年の終わりに、大巫女様は名まで返してくださった。私はこの広い世界で、自由を得た」
 魔法使いは黙っていた。
「あなたがおっしゃったように、私は塔に幽閉されているときに城の音を聴き、城の正体について思いをめぐらせていました。それは私だけの体験ではありません。長い歴史の中で、城の音を聞いた者は少なくないでしょう。しかしその体験を深める機会に恵まれた者はわずかです。あの音は城の最下層に近づくほどよく聞こえます。この部屋は、その音が最も近い、城の中枢の部屋に似ている」
「私は見たことはないが、似ているのならばそうかもしれない。ここから出るとき、私は他の獣の姿を借りる。時が迫るのを見て、私はあなたをなんとしてもここに呼び、次の依代と巡り合わせたかった。私はその実、七百年間、あなたが石人世界に再び戻ってくるのを待っていた。伝えたかったことは多いが、時間はもうない」
 魔法使いは悲しげに呟いた。
「あなたが塔に封じられていたように、この部屋が私の全てだ。柱と像は最初からあったが、部屋を覆う枝や棺は私が刻んだ。私は石を食う虫に姿を変えることができる。名のない者には、名の代わりとなる棺が必要だ」
「石の大樹を育てていらっしゃるようだ。この木はいずれ地上へ達するのですか」
「そうかもしれない。私がさらに『闇』に飲まれぬ限りは」
 面の下の声はくぐもり、辺りが薄暗くなってくる。魔法使いは続けた。
「長きを生きてきた者を癒すのは、容易ではない。かの者を支えてきた強さそのものが、その障害となる」
「この七百年、悔恨と復讐心が、入れ替わり立ち代り私の命を支えました。私に親切にしてくれた人々の存在が、私の正気を支えました。もはや休息を欲しいなどとも思いません。けれども強さが癒しの障害となるのであれば、私はそれを捨てます。私を支えてきた全てのものを私自身として、ここに弔います。赤王はすぐ近くへ来ている。ただ、次の依代のことをあなたにお頼みしたいのです」
 魔法使いは身を引いた。明かりはますます暗くなる。レイゼルトは完全に暗くなってしまう前に、部屋の入口へと歩み始めた。魔法使いはその背に、最後の言葉をかける。
「時がその方向を失う場所で、私は十二王とその依代達を、待っている」
 明かりは消えうせ、辺りは再び暗闇に変わる。レイゼルトは何も見えない中で、そっと手を前に差し出した。冷たい壁に触れる。さらに探ると、指先に壁の窪みを見出した。彼は壁に沿って、もと来た道を辿りはじめる。
 暗い穴から抜け出しても、神殿は押し殺したざわめきに満ちていた。レイゼルトは誰に気にされることもないまま、水路につけられた小舟で神殿から湖へ出る。そして湖の中ほどで舟を止める。
「忘れないうちに、約束を果たしておくか」
 レイゼルトは空を眺めて呟く。鈍色の空とその色をそっくり映す湖に挟まれているのは、とてつもなく心地よい。ことにあの重苦しい地下の闇から出てきた身にとっては。
 彼は左手で右目を隠し、ややこしい呪術の文句を唱える。唱え終えると彼はのろのろと立ち上がる。そして懐に忍ばせた紙気球を風に乗せ、火に姿を転じて飛び移った。紙気球は風に流されながら上昇していく。
 湖の西に広がる林の中に、白いものが見えた。赤王だ。赤王は心なしか、以前見たときよりも体の輪郭がぼやけているようだった。動き方も苦しげに見える。闇に囚われた初代十二王達にとって、城の中枢から出るのはよほど大変なことなのだろう。すぐ上空にレイゼルトがいることさえ、気づいているようには見えない。だからといって赤王から逃げ切れるわけでもない。
 彼は姿を戻した。紙気球はあえなく破れて風に散る。
「目覚めよ!」
 レイゼルトはその言葉を魔法の風にのせて北へ飛ばす。
 風が彼の命じた指先を離れた刹那、赤王は彼の存在に気がついた。彼は再び火に転じながら、懐から銀の鏡を取り出した。炎の中で銀の鏡は銀のしずくとなり、火花を散らしながら赤王の立つ林の丘に注ぐ。