十六章 白の城

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 翌日は小雨がぱらついていた。境の森には霧が立ち、荒野は雨に色濃く染まっている。この雨は土の下で冬を耐えた草花を目覚めさせる春の呼び手だ。ハイディーンは春の歩みとともにアークラントを抜けて、白城まで駆けてきた。
 彼らは魔法の宝を探しに来たアークラントの人々同様、日の出とともに城の探索を始めている。ディクレス達がそうしたように、彼らもまた未知の種族の文化に一定の敬意を払いながら、しかし容赦なく城のあらゆる扉をこじ開け、城をずいぶん風通しの良い場所にしてしまった。宝を探しているようにも見えれば、城主を挑発しておびき出そうとしているようにも見える。
 ブレイヤールは手窓からそれを知ると、あとは黙々と身支度に取り掛かった。昨晩は武具らしいものを一切身に着けなかったが、今度はグルザリオから手渡された剣を腰に下げる。金糸銀糸の見事な刺繍で飾られた白帯には、銀の短い杖をさす。
「殿下」
 グルザリオがブレイヤールに人差し指を向けようとしたが、隣に立った大臣がその指をばしっと下にはたく。やむなくグルザリオは自分の右頬に指を当てて示して見せる。
「陛下、右頬のあざは魔法で隠してください。左の擦り傷はもうだいぶ良くなりましたが……。正装しても顔がそれじゃ、決まりません」
「分かった」
 ブレイヤールは頷いて言われたとおりにする。
 ルガデルロとグルザリオをはじめ、年老いた昔ながらの家臣達は、ブレイヤールの身支度を不安げに見守っていた。どんなに心配でも、彼らは白王とともに敵の面前へ出ていくことはできない。足手まといになるからと、ブレイヤールがきっぱり断っていたからだ。
「ブレイヤール様、彼らの頭へ天井を落とせば全てが一瞬で終わります。かつてはそれが、城を使った石人の戦い方でございました」
 ルガデルロがぽつりと暗い声でもらした言葉に、ブレイヤールは首を振った。
「人間相手にそんなことはしちゃいけない。それに、ハイディーンはアークラントの敵だが、白城にとってはただの侵入者だ。敵じゃない。皆は大樹の広間で待っていてくれ。必ずそこにハイディーン兵達を連れて行くから」
彼は食べ物が入った小さな包みを受け取り、いつもの食堂から足早に出て行く。
 下層に下りたブレイヤールの目に、石壁に刻まれた見慣れない文字が留まった。摩耗の具合から文字の新旧は分かる。白城に侵入した盗賊達が道しるべとして、あるいは何かの記念として刻んだ落書きだ。それらを横断して描かれた真新しい文字は、まぎれもなくハイディーン兵が道に迷わないようにつけたものだろう。
 ブレイヤールは壁に片手を添えて瞳を閉じる。壁の向こうにある基礎石に意識を飛ばすと、手窓ほどはっきりとした感覚は得られないまでも、付近を探索するハイディーン兵らの気配はよく分かる。
 まもなく、白城下層の都市跡を進む騎兵達は、大通りの向こうから近づいてくる人影を認めた。やや癖のある白い短髪に、白い装束で身を包んだ姿は、この白い古城の主であることを示している。ところが騎兵達には、その石人は生身の王ではなく、この廃墟にかつて栄えた国の、亡霊の王と映った。天にも届く古すぎる建物に挟まれた大通りは、過去の幻影に満ちた水底のようだった。この世のものと思えない美しい遺跡へ、何の前触れもなく現れた高貴な衣装の石人を、そのまま現実と捉えてよいものか、騎兵達は迷っていた。
 ブレイヤールもまた、初めて間近に見るハイディーン兵の姿に感嘆していた。白い小さな円盤をつないだ銀の鎧が、青い影の向こうできらきらと鏡のように輝いている。馬の額にも小さな鏡が飾られ、確かに彼らは天と光の申し子に見えた。騎兵の手に握られた槍や、魔術兵の長い銀杖は、稲妻よりも白い。昨晩見た、戦に疲れきり、傷だらけの黒い革鎧に身を包むアークラント兵とは、何もかも対照的だった。今更のように、ブレイヤールはディクレスがどれほどの敵を相手に国を守り抜いてきたかを知る。彼は騎兵らから距離を置いて立ち止まった。
「七百年前の約束をたがえ、人間達よ、なにゆえ境界石を越えた」
 白王の重々しい問いは、太古の都市に反響する。すぐさま緋色の帯を肩にかけた騎兵が一群の前へと出てくる。
「我らが王は雷神の御子。天統べる雷神の名において、天と等しく地を統べんと参った。石人の世界とて例外ではない。アークラントの残党を追い、この白き城にいざなわれたのは、雷神の導きにほかならぬ」
「境界石を犯した者を罰するは我が役目。速やかに立ち去られるがいい」
 ブレイヤールが答えると、騎兵達は一斉に槍や杖を構えた。緋帯の騎兵が再び声を張り上げる。
「敵をかくまえば、雷神の怒りをかうぞ!」
「この地には、そなた達の神の導きも怒りも届かない。私に傷一つつけることも叶わぬだろう」
 通りに落ちる青い影を裂いて、ブレイヤールの左肩辺りを何かが過ぎ去った。巧みな腕前で放たれた矢だった。矢は石畳に当たって大きく跳ねる。ブレイヤールは身をひるがえしざまに跳ねた矢を宙で受けると、騎兵らに背を向けて大股に歩み出す。
「逃げるか!」
 騎兵の声が追ってくる。ブレイヤールが歩みを止めないとみると、騎兵らもまた馬を進めだした。
――アークラントは国を救うため、力を求めて白城にやって来た。ハイディーンは覇者になる力を得るためにここへ来たということだろうか。どちらも似たようなものだな。
 手にした矢じりを見れば、魔法の文字が押下されている。文字は射手の思い通りの場所に、矢をいざなう力を持っていた。彼に命中しなかったのは、はじめから当てるつもりがなかったからだろう。それでもブレイヤールは肝を冷やした。弓手の姿が見えなかったから、つい油断していたのは確かだった。
 騎兵達は一定の距離を置いて、ブレイヤールの後を追う。彼らは白王の歩みを止めようと矢を放ち、魔法の炎を石畳に走らせる。ところが矢は的に当たる前に矢じりから溶けて燃え、地を這う炎は見えない壁に当たり、虹色の光を放ちながら消える。ブレイヤールが守りとして張った結界のためだった。
 結界を張って歩くだけのブレイヤールの姿に、騎兵達は戦意を削がれ戸惑った。この石人の王は立ち去れと言っただけで、それ以上何をするわけでもない。しかし石人がいかに魔法を得意としていても、これほど敵の数が多ければ、一網打尽とはいかないだろう。加えて騎兵達は、自らの手から放たれる鋭い槍の一突きがどれ程確実で致命的かを知っている。ハイディーン兵達は警戒こそ緩めなかったが、次第にブレイヤールを恐れなくなってきた。この石人の王が歩き疲れた頃に、決着をつけてもいいのだ。
 夕暮れが来ても、ブレイヤールは一定の歩調で歩き続け、騎兵達を城の奥へと導き続ける。騎兵達はつかず離れずの距離を保っていた。彼らは決して油断をしていない印として、時折思い出したように矢や炎を投げつける。そして城内に散らばった仲間に向けて、笛を鳴らした。
 ブレイヤールは立ち止まることができなくなる。体力を温存するために、走ることもできない。背後では、馬の蹄が雨だれのごとく高らかに、休むことなく石畳を打っている。
追従 夜が来ると、騎兵達は邪精除けの護符を槍の先に取り付け、魔法の陣を組む。ブレイヤールのすぐ後には、さらに数を増した騎兵達が囲うようについていた。彼らは声を合わせ、「言の葉」で止まれ止まれと歌い始める。ブレイヤールは持ってきたパンをかじりつつ、じっと黙って先を急いだ。ここで歩調を乱すのは、すでに命取りに等しい行為になっている。さすがの彼でも、あれだけの騎兵が束になって突撃してくれば、ひとたまりもない。最初に拾った矢はまだ持っていた。最後の最後で、文字通り一矢報いるつもりだった。
 杖の先に明かりを灯し、淡い輝きに包まれて進むハイディーン軍と、その明かりを背に城の暗闇に向かってとぼとぼ先を行く石人の王の姿は、まったくもって奇妙だった。王は城の力でいつでもハイディーン軍を殲滅できた。ハイディーン軍もすばやく突撃すれば、王を槍で串刺しにすることができた。互いに相手の出方を恐れながら、時を待っているのだった。
 追う者も追われる者も、疲れを表に出してはいない。城内は再び穏やかな光に闇を薄め、冷たい風が柱廊を駆け抜けた。夜が明けた。そして時も来た。
「滅びた城の王よ。そろそろ休まれるがよい」
 朗々とした声が背にかけられる。ブレイヤールは振り返らなかったが、その声がハイディーン王のものだと知った。真の王は、他の者とは明らかに異なる響きの声色を持っているものだ。
「口を慎まれよ。ここは私の城であり、すべてにおいて命じるのは私だ」
 ブレイヤールは前を見据えたまま、背後の相手に答える。
「我らは七百年に渡り城を守り続けてきた。この城はそれだけの価値を持つ。あなたがたもとくとご覧になられただろう。私は城のもっとも美しく残る場所を歩き、案内さしあげたつもりだ」
 自分の声がどれほど精彩にかけていたかは、疲労のためだけではないだろう。ブレイヤールは唇を噛む。行く先はますます金色の光が強くなる。
 はるか昔に崩れたドーム天井から、陽光が降り注いでいる。天窓を飾っていた翼を持つ幻獣の彫刻は、残された半身を日に染めていた。かつて広間の床一面に敷かれていた大理石は、天へ向かって伸びる老木の根に裂かれ、草陰に散らばっている。老木の枝は広間の天井いっぱいに広がり、崩れたドームの代わりとなっている。風が長い年月をかけて城を崩し、土を運んで作った庭だった。
 ブレイヤールは庭の中央で、ようやく足を止める。両足は鉛のように重く痺れ、体の向きを変えるのさえやっとだった。騎兵達も広間の入り口で追跡を終える。ひときわ立派な装備に身を包んだ壮年の男が、馬上から降りて彼らの先頭に立った。その隣には、白い外套で体を覆う魔法使いの姿がある。フードを深くかぶり顔は見えなかったが、鮮やかな青緑の髪が覗いていた。さらにその後ろには、思いがけず知った顔がある。緑の髪の石人、ニッガナームだ。ブレイヤールは内心総毛立つほどの怒りを覚える。
「同胞に裏切られたとお思いか」
 ブレイヤールのわずかな表情の変化を、ハイディーン王は鋭くとらえた。
「新しきものが古きものを席巻するのは、世の習いだ。アークラントは滅びた。この城はすでに滅びている。なにゆえ石人はこの魔物溢れる忌まわしい世界を頑なに守り、人間を拒む。我々は七百年前に分断された二つの世界を、天と同じく一つにする。亡国の王よ、その若さで城とともに朽ちるおつもりか」
「ここはあなた方が暮らす世とは異なる理によって存在している。そのただ中にいながら、お分かりにならないのか。それともお分かりだからこそ、多くの剣と護符をお持ちになられたのか。どちらも役には立たぬどころか、あなた方の身に災いを呼ぶぞ」
 言葉を言い終えないうち、ブレイヤールの足元に矢が当たって跳ねる。矢じりは一瞬にして赤く燃えて粉々となり、石の床を転々と焦がす。ハイディーン王を守ろうと、騎兵達が王を背に隠し、二本目の矢を弓につがえていた。
 ブレイヤールは居並ぶ騎兵の隙間を狙い、フードの魔術師めがけ、ずっと握りしめていた矢を投げつけた。切羽詰まった悲鳴が上がり、フードの魔術師がよろめく。矢じりが銀の蜘蛛に変わり、細く長い八本の足で頭にがっちりと張りついていた。しかし魔術師の姿は、すぐに騎兵の後ろに見えなくなる。
「門を閉ざせ!」
 ブレイヤールが叫ぶと同時に、広間へ続く通路が砂となって崩れる。同時に、崩れ残った天井の幻獣もまた、砂と溶けて広間に降り注ぐ。逃げ口をふさがれた騎兵達は、ブレイヤールめがけて馬を駆ろうと手綱をまわす。
 踵を返した騎兵達の後ろから、一羽の小鳥が飛び立った。ブレイヤールはすっと息を吸う。
「その鳥を逃がすな!」
 ところがそう叫んだのは、ブレイヤールではなくハイディーン王だった。彼は逃げ出す石人が、自分達を裏切ったと思ったのだ。ブレイヤールに向けられていたすべての弓が一斉に向きを変え、最初の一矢が見事に小鳥を射抜く。
 ブレイヤールはすぐさま視線を戻した。ニッガナームの姿がない。代わりに小さな青緑のトンボが飛び立つ。同時に広間の壁が砂と崩れ、騎兵達を頭から飲み込んだ。馬も人も地面に倒れ、砂の中でもがく。あわや砂に押しつぶされようというとき、ブレイヤールは杖を掲げた。砂は水に変わり、広間に流れる。砂のように重く固い水は、騎兵達の足元を右に左にともてあそぶ。
 ハイディーン王は徐々に水位を上げる水の中に立ちつくし、目の前の光景を見守るしかなかった。水はついに肩まで達し、剣を引き抜くことも弓を射ることも叶わない。
 慣れた動作で大木を登り始めた白王の姿が流れ落ちる砂の向こうに薄れ、広間に影が落ちる。空を覆わんばかりに巨大な純白の翼が、船の帆のように広がっていく。広間の上階に姿を現した白城の石人達が、誇らしげな歓声を上げた。