十八章 黙する物語
18-1
――臭うな。嫌な臭い。何かがおかしいと最初に気が付いたのは、山の根を縫う風を捉えたアニュディだった。彼女の鋭い鼻は危険のかおりを嗅ぎ付け、本能が淀みない判断を下す。このまま黄緑の城へ降り立ってはいけない。そこで彼女は石人の理性に立ち返った。
――いやいや、待てよ。子ども二人を連れて森に降りるのも危険だ。それに何が起ころうと、城にいる方が安全だもの。
初めて黄緑の城を飛び立った晩の出来事を、彼女は忘れていない。思い出すだけで、全身の毛がぞわぞわと逆立つ。しかし自分一人がどんなに怖い経験をしていようとも、そのために城の安全を疑うのは身勝手だ。あのときは生意気な魔法使いが一緒にいたから、自分もとばっちりを食っただけなのだ。
「アニュディ! 城の麓あたりから、何か黒い煙が昇ってる!」
キゲイが叫んだ。アニュディは自分の鼻で嗅ぎ取った危険が、間違いではなかったと知る。彼女は返事の代わりに唸って喉を鳴らした。そして高度を徐々に下げていく。
「降りるの? それなら、城の中腹辺りがいいと思うんだけど」
――そうそう。下の様子がおかしいんなら、上の方に降りればいいだけよ。
獣の姿で言葉を話せないアニュディは、再び唸って応えた。
キゲイは両手にしっかりと手綱を巻きつけた。次いで目を風から守っていた水晶の目覆いを外す。途端に風が目をついて、涙があふれた。飛行には便利な目覆いも、水晶板の透明度が悪くて視界が不明瞭になり、着地の際には向かない。キゲイは目の乾きに涙をこぼしながら後ろを確認する。すぐそこには、アニュディの首の背に、帯でしっかりと括りつけられたウージュの後ろ頭が見える。長時間自力で手綱を握り続ける体力も力もない彼女には、こうするより仕方なかった。その分キゲイはよほどうまく、アニュディを地面に誘導しなければならない。
古都で別れる前、丸々三日かけて、レイゼルトはこの着陸の方法をキゲイに叩き込んでいた。下手をすれば地面に激突して、アニュディは大怪我をするし、乗り手は振り落とされて死んでしまう。キゲイは空を飛ぶ感覚はさっぱりだったが、着地のタイミングはまだ何とかなった。森育ちの彼は木登りだけは得意だったから、枝からぶら下がって勢いつけて飛び降りるときの感覚が、ちょっとだけ近いと思ったのだ。はたして、この認識はどれだけあっていたのだろうか。
乗り手と飛び手の不安は、的中した。練習のときと同様、今回も彼女は地面に片足をつけそこね、勢い余って土の中へ鼻先を突っ込む。手綱をしっかりと握っていたキゲイは、跳ね飛ばされながらもアニュディの顔の脇にぶら下がるだけですんだ。かわいそうなのは自分で身動きの取れないウージュだ。もっとも彼女は、アニュディがいち早く翼で背中を覆ってくれたおかげで、木の枝に引っかかれることはなかった。もちろんそれは無事だという話にはならないだろうが。
三人が降り立ったのは、黄緑の城の中層に位置する傾斜地だった。背の低い石垣が層状に重なっていて、かつては棚田だったのかもしれない。陰りはじめる日の下、荒れ放題の草地に、もつれ合ったツタをかぶる黒々とした茂みがあちこちで長い影を伸ばしていた。下層辺りから立ち昇る黒煙は、こちらの斜面からは見えなかった。山間の日暮れは早い。辺りが真っ暗になるのはもうすぐだ。
アニュディは人の姿に戻り、帯を緩めてウージュを下に降ろす。ウージュはそのまま地べたにへたり込んだ。
「どうも妙な空気ね。キゲイ、何が見える?」
「僕らのうんと頭の上に、大きな橋が突きだしてる。あれ、崩れたりしない? 橋の先っぽに壁のない柱だけの小さな建物がある。えっと、ここは城の南東側で、僕らは石垣でできた段々の草地にいる」
「段々の足場に降りるから、着地に失敗するんじゃない……。手首、思いきりくじいたわ。で、上に見えるのは、多分物見台ね。分かった。斜面の上の方に、小さな建物がたくさん見えない?」
「見える。だけど真っ暗だし、なんだか遺跡みたいに寂しい感じだよ」
「遺跡とは失礼な。町跡よ。どこかに、城内に通じる道があると思う。物見台から誰かが私達のこと見てるはずだから、役人を寄越してくれるはずよ。私達、許可なしで着陸したからね。さ、行こう。ウージュ、自分で歩けるよね。私の背中は、当分こりごりでしょ」
アニュディはウージュの手を取って立たせる。ウージュは文句も言わずに従った。レイゼルトが飲ませた魔物の水が効いたのか、古都にいた数日の間に、彼女はずいぶん様子がよくなってきていた。足腰はしっかりと強くなっていて、人の話す言葉にも興味を持って耳を傾けるようになっている。そのおかげで、非常事態というものも理解してくれるようになった。無理矢理立たされたウージュは不機嫌そうだったが、少なくとも素直にいうことを聞いてくれたのだ。
キゲイはアニュディから帯を受け取り、それを自分の腰紐に括り付ける。帯の端っこはアニュディが握った。足場の悪い荒れ果てた斜面は、直接腕を組んで歩くとかえって危ない。キゲイは彼女を誘導しながら、斜面を登りだした。ウージュはその二人の後を追う。
太陽は山の峰の向こうへ沈んだ。空だけが黄昏の名残で薄紅色に輝き、黄緑の城は一足先に夜の闇に包まれている。
――上の方、上の方。戻らなきゃ。
トエトリアは宵闇の中にいた。道の窪みやでっぱりに何度も足を取られそうになりながら、しんとした街角の坂道を足早に上り続ける。
火の手が上がる城内都市から春待ちの牧草地に出て、半刻経っている。彼女は城外の廃街を進んでいた。風が建物の隙間を駆け抜けびゅうびゅう鳴っている。彼女の足を包んでいた室内用の靴は、とうの昔に脱ぎ捨てられていた。長年人の手が入らない石畳は、作りのまずかった部分で石が緩んだり、割れたりしている。柔らかい靴はあっという間に破れてしまったのだ。
でこぼこの石畳を登りきったトエトリアは、小さな広場へ出た。広場の中央には、大きくて四角い石の蓋が置いてある。恐らく井戸の穴を塞いだのだろう。井戸の向こうには、さらに町の上へと続く二つの狭い路地が伸びている。
――どっちに行ったらいいのかな。
トエトリアは広場の入り口に立ったまま、疲れた表情で路地を見上げる。乱れた呼吸を整えようと息を飲んだとき、彼女は石畳を鳴らす靴音を聞いた気がした。すばやく辺りを見回し、手近の建物の中に身を隠す。扉のなくなった戸口の陰から広場をうかがい、耳をそばだてた。近くの通りのどこかから、石畳の上で砂が滑る音、小石が転がる音が聞こえてくる。家々が空っぽなせいもあるだろう。音が反響してよく響く。
魔法を使って、ちゃんと音を拾ったほうがいいかもしれない。トエトリアは戸口から頭を引っ込めると、意識を集中した。ところが彼女の集中は音でなく別のものを先に捉える。石畳のずっと下に、大きな魔法の気配があった。それは城の上から下へ、葉脈のように細かな支流を生み出しながら、すさまじい勢いで流れている。魔力の奔流に意識を攫われそうになって、彼女は思わず集中を解いた。
――誰かが城の力を操ってる! 誰かしら。きっともうじき何かが起こる。人間達、やっつけられちゃうわ!
トエトリアはまぶたを開く。真っ暗闇だ。彼女は瞬きをして、自分がちゃんと目を開けていることを確かめる。
「しっ! しっ!」
囁いて手を払うと、影が蜘蛛の子を散らして家の奥の暗がりへ姿を消す。窓から差し込む宵の光が、床を照らし出した。トエトリアは目をこする。最後のひとかけらの影が彼女の頬をつたい降りて、柱の裏に溶け消えた。
トエトリアは意を決して、戸口から外に飛び出す。城の力がすぐそこにあるなら、靴音の主が何者だろうと、恐れる必要はないだろう。城が守ってくれる。
家の外へ走り出て、トエトリアはあっと声を上げた。ついさっきまで誰もいなかったはずの広場に、白肌の痩せた女の子が佇んでいたのだ。トエトリアは井戸を挟んで相手と向かい合う。先ほどの靴音の主は、この女の子だったのだろうか。
「あなた誰? ここで何をしているの?」
トエトリアは女の子に話しかける。女の子は彼女と同じくらい真っ白な肌をしていた。細く短い産毛のような髪がまるい頭を覆って、空色の大きな瞳がこちらをじっと見つめ返している。無表情な顔が、少し気味悪い。女の子が固まったまま動かないので、トエトリアは首をかしげた。
――あ、そうか。あの子にしてみれば、私も突然広場に現れた、あやしい子なんだわ。
トエトリアがそう気づいた直後、城が低いうなり声をあげた。周りの建物が微かな砂埃を立てる。石畳の上の小石が、ころころと小さく震える。うなりはやがて微かな地響きの軋みに変わり、消える。しかし静寂は戻らなかった。耳には聞こえない騒がしさが、城の唸りと入れ替わるように満ちてきている。
先ほどの影の妖精といい、城の力はすでに何かを引き起こし始めているようだ。トエトリアは目を閉じ、広場のずっと地下を流れる城の力を、もう一度確かめようとする。彼女は城の力よりもずっと浅いところで、何かが勢いよく流れ込んでくるのに気がついた。
「危ない! 下がって!」
トエトリアは女の子に叫ぶ。轟音と共に石の蓋が跳ね飛んで、井戸から勢いよく水が噴き出した。吹き上がる水の中で、たくさんの邪妖精達が渦を巻いている。水は建物の屋根まで届き、その天辺から水しぶきと一緒に次々と邪妖精達をまき散らす。まるで邪妖精の噴水だ。彼らは水の粒と一緒にしばし宙を漂い、宵の空を背景に影絵のように浮き上がる。生まれたばかりでお腹を空かせた彼らは、格好の獲物、人間達の気配を感じ取り、風に乗って城の下層へと流れていく。
「ウージュ! どこなの」
アニュディが手探りで石畳の道を確かめつつ、水浸しの小さな広場にたどり着いた。その後ろから数匹の邪妖精にたかられて、木の枝を振り回すキゲイが走り出てくる。トエトリアは飛び上がって驚いた。
「キゲイ! いったいここで何をしているの! こっちのお姉さんも、誰!」
トエトリアはキゲイに駆け寄って、短い魔法の言葉で邪妖精を霧に還す。
「王女様もここで何してたの! 城に何があったの。僕、早く白城に帰らなきゃいけないんだ」
「私も早く上の城に戻らなきゃいけないところなの。戻ったら誰かに頼んであげる。あ、お姉さん、邪精が右目にくっついてるよ!」
アニュディは目をしばたいた。薄青い影が彼女の右のまつ毛にぶら下がっている。アニュディはそれをつまんで脇に放る。再び目をしばたかせたが、彼女は突然頭から体のバランスを失って、水浸しの地面に肩をついて倒れた。トエトリアは傍へ駆け寄る。キゲイは水しぶきの向こうに立ちすくむウージュを見つけ、そちらへ走った。
「お姉さん、その邪精は瞳の光を食べるの。本を読むときは明るくして読まないと、これが来るって侍従長が言ってた」
「私には無縁の邪精だと思ってたけど。あの、今キゲイがお嬢ちゃんを王女様って……」
アニュディはしきりに右目をこすりながら、顔を上げる。トエトリアはお互いの顔がよく見えるよう、手のひらに魔法の光を浮かべる。ところがアニュディは小さく悲鳴を上げて、両手で顔を覆った。トエトリアはすぐに光を引っ込める。
「ごめんなさい。邪精に目をやられたのね。私、トエトリアよ。お姉さんはこの国の人?」
「……はい」
キゲイはウージュの所へ走り寄り、手を引っ張った。ウージュは水越しにトエトリアの背中を見つめたまま、そこから動こうとしない。またしても強情になったウージュに、キゲイは焦る。あちこちに溢れる邪妖精といい、黄緑の城は彼が予想していた以上にとんでもない事態に陥っている。安全な場所を知っているらしいトエトリアと一緒に、すぐにでもここから離れなければならないというのに。
そうこうするうちに、井戸の噴水は勢いを弱めていった。水が井戸の底に落ち着くと、邪妖精達は自力で井戸のふちまで這い上がり、路地を駆けたり跳ねたりして一目散に下って行く。
「城の力が収まってきたみたい」
トエトリアは空を見上げた。真っ暗な空はすでに満天の星で飾られている。幾重にも重なる峰の向こうには、巨大な月が頭の天辺を覗かせていた。トエトリアは網をたぐる仕草で、月の光を小さな広場に呼び込む。薄明るくなった広場は、水浸しの地面からなおも沸き立つ、邪妖精の黒い小さな影が揺らぐ。
「キゲイ、こっちのお姉さんをお願い。その女の子は私が手を引く。私があげたお守り、持ってるよね。手に持ってた方がいいよ」
言われるまま、キゲイは足元の邪妖精を蹴散らせながらアニュディの傍に戻った。こうも邪妖精が多いと、トエトリアの髪でできたお守りは懐から出しておかないと役に立たないようだ。石人のアニュディでさえ、ハエを追い払うみたいにまとわりつく邪妖精を手ではたいている。
トエトリアは入れ違いに女の子の傍へ行く。近くで見ると、女の子の目鼻立ちが何となく自分に似ている。こんなそっくりさんが城にいたかしらと内心首をひねりつつ、トエトリアは女の子に手を差し出した。
「私と一緒なら、何にも怖くないよ。さ、行こ」
女の子はようやく素直に、おずおずと片手を伸ばした。女の子の指先に触れた瞬間、トエトリアは意識がどこかに遠くへ連れ去られる感覚を覚える。戸惑いよろめいて視線を下げた先、水面に一本の白い光が後ろから伸びてくる。
トエトリアの背後でアニュディが悲鳴を上げた。
「力が! トエト! 私達をお助けください!」
石畳の上で踊っていた邪妖精達の姿が、白い光を浴びてひとつ残らず砕け散る。名を呼ばれたトエトリアは、すんでのところで自分を取り戻した。振り返れば、井戸からゆらゆらとたぎる白い炎が噴き出している。その揺らめく炎の中から、細い腕のようなものが伸び出る。
「こいつだ! あのときの幽霊だ!」
キゲイは震えながら、手にしたお守りを握りしめた。地面にうずくまってトエトリアに助けを求めるアニュディは、何の役にも立ちそうにない。キゲイは幽霊の近くに走り寄る。キゲイは金の留め金の付け根に指をかけた。お守りはずいぶん短くなっていた。もう全てほどいてしまうしかない。キゲイは祈りを込め、力いっぱい指を引く。まばゆい光が編みこみから漏れ、白い幽霊を飲み込んだ。
幽霊はびくともしなかった。伸ばした腕をそのままトエトリアの肩に引っ掛ける。トエトリアはぽかんと口を開けたまま、幽霊を見上げていた。キゲイも愕然となる。最初に追いかけられたとき、幽霊はこのお守りをひどく恐れたはずなのだ。
突如、風を裂く音とともに白い光が閃く。それはキゲイの脇を通り過ぎ、白い幽霊をつらぬいた。幽霊は長い胴体を曲げる。白くたぎる炎の中に、一瞬、腰をおった人の輪郭が浮かび上がる。幽霊を貫いた先には、建物の石壁に一振りの剣が突き刺さっていた。
「退け!」
厳しい男の声が響き、路地を抜けて剣を手にした石人の兵士が駆け込んでくる。王衛のシェドだった。彼は手にした剣の柄を壁に突き立った守りの剣に向け、輝く魔法を放つ。それは守りの剣の刀身に跳ね返り、幽霊の胴を再び貫いた。白い影が乱れ、今度こそ幽霊は苦しむそぶりを見せる。それでもなおトエトリアの肩を捉えた腕は伸びたまま、さらにもう一本の腕を伸ばし、王衛に向ける。
何かがはじける音がして、王衛は近くの石壁に叩きつけられる。運の悪いことに、音はキゲイも襲った。キゲイはぽっかり置いた戸口から屋内まで否応なく吹き飛ばされ、暗闇の中で気を失う。
邪魔者を追い払った幽霊は、小刻みに震えながらトエトリアの頭上に体を折り曲げた。トエトリアは白くたぎる炎の中から、二つの目がこちらを見ていることに気付く。幽霊につかまれた肩は、感覚がなくなっていた。幽霊はもう片方の腕を彼女の鼻先へ上げる。その腕の先っぽから、何かがことんと彼女の足元に落っこちた。
――そうか。このお方だったんだ。
トエトリアは悟る。基礎石の中を泳げたのは、この美しい幽霊が自分を呼んだからだ。呼ばれたなら、ついて行かなくてはならない。あきらめに似た静かな気持ちの一方で、心の底でもう一人の自分が嫌だ嫌だと絶叫している。全身の感覚が自分の意識から遠ざかっていく中、誰かが彼女の髪を引っ張っている感覚だけが残った。多分、後ろに立っている白い女の子だ。もっと強く引っ張って、自分を引き留めてくれたらいいのに。その思考を最後に、トエトリアは眠るように意識を失う。