十八章 黙する物語

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 黄緑の王女の体は消えた。王女の長い髪を掴んでいたウージュの手に、一束の髪が残る。ウージュは幽霊を見上げる。輝く腕が、その髪に向かって伸びるところだ。ウージュは髪を投げた。髪は宙でばらけ、その一筋一筋が透き通る金色の鱗に変わる。幽霊の腕が鱗の一枚に向かって、ぐーんと延びた。その隙にウージュは石壁に突き立った守りの剣へ駆け寄り、柄へと両手を伸ばす。剣は待っていたかのように彼女の手の中に落ち、ほとんど持ち手を引きずるようにして、幽霊の伸びた腕めがけて鋭く飛んだ。
 大巫女の力が宿った剣は、幽霊の輝く腕を真っ二つにした。胴につながった腕はするすると幽霊の白い影の中に引っ込み、鱗を握った手はひらひらと濡れた石畳に落ちる。ウージュは剣を振り上げた勢いで、尻餅をついて倒れる。
 白い幽霊は足元からぶるりと大きく震える。そして井戸の中へと沈み始めた。石畳に残った腕も、吸い込まれるようにして消える。腕が握っていたはずの金の鱗も消えていた。広場は沸き立つ邪妖精が動くだけになった。今夜この城で起こるべきことは全て起こり、力は役目を終えて元の場所へ還っていた。
 ウージュは片手に剣を引きずり、井戸を覗いた。井戸の底は明るく輝いていたが、それは水面に映った小さな丸い月の光だった。彼女は剣を置いて、井戸のふちに腹ばいになる。
「ウージュ、どこ! 誰か、返事して! どうして、こんなに静かになっちゃったの」
 アニュディが石畳で腹這いになったまま叫んだ。ウージュは魚の思考から覚める。顔を上げると、地面に倒れている王衛の姿が目に入る。彼女は剣を手に取って近づく。
 水浸しの石畳に、血が溶けていた。王衛はどこか怪我をしているらしかった。顔をこちらに向け、目も彼女の動きを追っているから、生きてはいるらしい。しかし覚醒した意識は感じられない。ウージュは隣にしゃがんで、肩をゆすってみた。王衛の手が素早く彼女の握る剣に伸び、ウージュは驚いて後ろに飛び退く。王衛は守りの剣を引き寄せ、そっと鞘に納めた。彼はアニュディの方へ首をまわす。
「少女はここにいる」
 アニュディはのろのろと上半身を起こす。濡れた髪から水が滴り、ぽたぽたと石畳に落ちた。
「王女様は。王女様はご無事?」
 その問いに答える者は誰もいなかった。
 シェドは悪夢から冷めやらない気持ちのまま、ウージュを見上げる。ウージュは守りの剣へ真っ白な指を向ける。指さしただけで何も言わない。すぐに背を向けると、井戸へ再び駆け寄る。ウージュが飛び込むのかと、シェドは慌てて腰を浮かせた。しかし彼女は別のものが目的だった。地面から何かを拾い上げて戻ってくる。差し出した指の先に、黄緑色の琥珀が乗っている。王女の部屋でなくなったものだ。なぜそれがここにあるのか。シェドは不審に思ったが、すぐに自分の役目を思い出した。彼は目の前の少女がこれを手にした事実を受け入れる。
「それはあなたが預かっておきなさい。トエトリア様はそれを大事にしている」
 それ以上は何も考えず、彼は深く息を吐きながら、わき腹に刺さった剣の破片を引き抜いた。幽霊に吹き飛ばされたとき、持っていた剣も強い魔法で木端微塵になったのだ。幸い、破片は他の者を傷つけなかったらしい。彼は立ち上がる。
「キゲイ! どこだ!」
 ウージュが指をさす。シェドは示された建物の中に入り、すぐに目をまわしたキゲイを引きずって戻ってきた。ウージュはキゲイの前髪を引っ張った。
「起こさないように。ここであったことは、知らないほうがいいでしょう。人間には関係のないことです」
 ウージュは手を放した。シェドはキゲイを背中に引き上げる。その隙にウージュは懐を探り、くしゃくしゃの紙切れをシェドの腹に突き付ける。彼が空いた手にそれを掴むと、彼女はひと足先にアニュディの所へ走って行った。
 水をはね散らして駆け寄る軽い足音と、落ち着いた重い足音を聞きつけ、アニュディは顔を上げる。
「どちら様?」
「この国の兵士です。あなたは? この少女と人間の少年を連れてきたのは、あなたですか」
「私、人さらいじゃない。ただの調香士です。でも、いろいろ事情があって。その、私、捕まるんですか……」
「黄緑の王族に対する忠誠は?」
「突然なんなんです」
「この子が持ってきた書留です。あなたにも読めるように書かれている」
 シェドはウージュから渡された紙をアニュディに手渡す。アニュディは広げた紙の上に、指を走らせた。魔術の輝線が指に触り、彼女はすぐ、誰が書いたものかを知る。小さな紙切れに、たった三行だけの、「言の葉」文字で綴られた短い手紙だ。
――この者が剣の共を得ることを願う。決して孤独な旅にならぬよう。
 最後の行には紫城の古めかしい呼び名と、彼女の知らない固有名詞らしき言葉がある。
「書かれている内容も、なぜ『言の葉』文字で書いてあるのかも、私には分かりません」
「複数の者が見ることを想定して書かれている、ということでしょう。少なくとも私はその一人らしい。この子が私に渡してくれましたから」
「あなた、この手紙を書いた人と会ったことあるんですか」
「誰が書いたかなど、私は知りません。しかし、共とするにふさわしい剣を持っているのです。ウージュと呼ばれる彼女がこの剣を扱えた以上、私は剣に従わなければならない。そういうお役目にありますので。そして黄緑の王族に忠誠を誓っているのです」
 アニュディは答えず、眉間に力を込める。今夜ここで、トエトリア王女の身に大変なことが起こったらしい。城は王女を守らなかったということか。何一つ状況の分からない自分がもどかしかった。ごく普通の石人として、これまで彼女が信じていたはずの城の力は、彼女をことごとく裏切った。
 うつむいたアニュディにシェドは続ける。
「あなたに何があったのかは存じませんが、私はこの剣をウージュのものにするため、すぐにここを発たねばなりません。人間の少年のこともあるから、まずは白城へ立ち寄ります。それから私は、そこに書かれている平原の町へ、ウージュと手紙のつながりを確かめに行くつもりです。王女を取り戻す手掛かりになるかもしれない」
「……あの、ついて行っていいですか? せめて白城まででも。とにかくここから離れられるなら」
 アニュディは固い表情のまま尋ねる。何が起こって何が終わったのかは、分からないままだ。ただ、恐ろしい力の出現を感じ、それが去った後でも、いまだ体の震えが止まらないことだけがはっきりしている。理解できなくても認めなくてはならない何かが、この場所で起こったのだろう。魔法使いの少年によって無理矢理この城から旅立たされて以来、そういうことは何度もあった。
「あなた自身が望むなら、構いません」
 兵士の返事は、あっけないほどに簡潔だった。時間が惜しかったのかもしれないし、アニュディが今夜あったことを他の石人に話してしまうのを恐れたのかもしれない。
 アニュディはぐっと口を引き結ぶんだ。しわくちゃのハンカチをポケットから引っ張り出し、目隠しに巻く。彼女の右目に宿った新しい感覚が、新しい決意を後押ししていた。最初にこの城を飛び立つとき、生意気な魔法使いの少年と交わした取引は、最悪のタイミングで果たされていた。平日はひとり香を練り、休日は家族や友人達と楽しく過ごす。そんなのんびりした生活は、もはや当分戻って来そうにない。