終章

終章-1

「黄緑の城からここへ逃げてくる途中、予言者様とハイディーン兵を見つけたんだ。予言者様は、ハイディーン兵が持っていたディクレス様の剣を、取り返そうとしていて……」
 キゲイは神妙な顔つきで、頭を下げる。
「先王の剣は、アークラントの人々にとっての誇りだ。彼は剣を取り戻し、自分の夢見を自分で完結させた。それを助けたのはキゲイだよ。君がいなきゃ、アニュディはどちらを助けたらいいか分からなかったろう。ハイディーン人とそれ以外の人間の区別は、石人にはつかないから。黄緑の兵士が巻き添えを食って怪我したのは、気の毒だったけど」
 ブレイヤールは答える。キゲイはうつむいたまま、その気遣いをすこし後ろめたい気持ちで聞いた。実際に助けたのはシェドだが、彼は途中でキゲイ達と別れた。彼には彼なりの事情があって、キゲイ達と一緒に白城へ顔を出すわけにはいかなかったらしい。そこでアニュディは大げさなため息をつき、自分が姿を変えて黄緑の兵を蹴散らし、ハイディーン兵を追い払ったことにしくれたのだ。
 当のアニュディは疲れの溜まった顔でキゲイの隣に座り、ビスケットをかじりながら暖かいお茶をふうふう飲んでいる。ビスケットはグルザリオが奮発してくれたものだ。物の少ない白城で、蜂蜜入りの甘いお菓子はかなり貴重品らしい。キゲイ達がいるのは白城の食堂で、ブレイヤールもキゲイ達の向かいの席について、白湯の器を両手に包んでいた。
 キゲイは懐から、金の留め金と、その端にかろうじて残っている短い黄緑色の髪をブレイヤールに差し出す。
「それで、その、ごめんなさい。魔物をやっつけたり、変な幽霊を追い払ったりしてたら、こんなになっちゃって……」
「いいんだよ」
 ブレイヤールは微笑んだ。
「お守りは持ち主を守るためにあるんだから」
 微笑みながらもしかし、どこか虚ろな表情だ。キゲイは内心うろたえる。幸いすぐに、ブレイヤールの視線はウージュに移った。
 ウージュは暖炉のそばに座り、燃える火に黄緑色の宝石を透かし見ていた。小さな虫を封じた琥珀のおはじきだ。
「ねえ、それは君の大事なもの?」
 ブレイヤールの質問にウージュは振り返り、腕を伸ばして石を見せる。彼は黙ったまま、おはじきとウージュを交互に見つめる。アニュディが咳ばらいをした。
「話を戻して恐縮ですが、よろしいかしら、白王様」
「どうぞ」
「私を黄緑の城からさらったのは、本当にレイゼルトという名だとおっしゃるのですか」
 彼女は閉じた瞼を震わせる。ブレイヤールは、そうですと答えた。
「レイゼルトとは古都で別れたとおっしゃいましたが、その後の彼の足取りは誰も掴んでいません。石人達は、あなたの話を聞きたがるでしょう」
「失礼ですけど、私はたいした話はできません。言われるまま、あちこち引っ張り回されただけですもの。確かにあの子の周りでは色々と奇妙なことが起こりました。でも私、何が起こったかなんて見てません。それに――」
 だんだんと腹が立ってきたのか、語気が荒くなり、アニュディは腕を組んで背筋をぴんと伸ばした。
「それを見越して私を選んだのはあいつですからね。本当に周到ですよ」
 そこで彼女はまた肩を落とす。唇をとがらせて、彼女はしばらく口ごもった。白王が優れた魔法の才を持つことは聞いて知っていたが、まさか一目見ただけで見破られるとは思ってもいなかった。彼女は思い切って瞼を開ける。ブレイヤールは少し身を乗り出して、その瞳を覗き込む。瑠璃色の瞳は焦点を結ばず、小刻みに震えていた。
「その右目は、なかなか難しいですね」
「そう……なるのでしょうね。見えているらしいものも、どう解釈していいかさっぱり分かりません。眩しいところと暗いところが何となく」
「一番眩しいところが私の髪の毛に当たる部分かと。白色だから」
「まさか、本当に約束を守ってくれるなんて、思いもしませんでした。私、半分は本気だったけど、半分は無理難題のつもりだったから……」
「魔法がらみの取引は、もっと慎重にするものですよ。それにしても、難しいですね。ものを知覚するという感覚は、どう修練すれば……」
 アニュディはため息をついて、まぶたを閉じる。
「私、あんまり悲観はしていません……と、敢えて言わせていただきますわ。生まれて初めて、もう一つの姿に変身したとき、背中の翼をどう動かせばいいのか、全然分かりませんでした。でも何度か練習するうちに、動かすどころか飛べるようになりました。だからこの感覚もいつかは、自分のものにできるんじゃないかなって、思うんです」
「そうか。そうなのかもしれません。僕も難しかったです。足が六本もあるし、羽もあるし。体が大きすぎるから、下手に動けば、周りに大迷惑がかかるし。目もいっぱいあって何をどう見ていいものやら、頭が爆発しそうになったし。……見た目が気持ち悪いとも散々言われたし。変身するのは一切やめようと思ったときもありますよ」
 ブレイヤールはキゲイに視線を移す。二人の会話をぽかんと聞いていたキゲイは、口を閉じた。
「僕も変身できたらいいのにってうらやましかったけど。なんだか恐ろしく大変みたいだ」
「そう。とんでもなく大変なんだよ」
 ブレイヤールは白湯で喉を湿らす。彼はアニュディをどうするか困っていた。本来ならばレイゼルトに関係した者として、神殿へ引き渡さなければならない。しかしそれはアニュディを不利な立場に追い込んでしまうだろう。ブレイヤール自身、禁呪が封じられた銀の鏡に触れてしまったことを、隠している。アニュディだけを神殿につきだすのは筋が通らない。
「白王様、私は城の力に押し出されたんです」
 アニュディはぽつんと呟いた。
「あの晩、黄緑の城は、レイゼルトを打ち倒そうと、自ら力を動かしていたように思うのです。城の力が怖いと言ったら、お叱りになるかもしれません。けど、私はものすごく怖かったんです。それからこの前の晩のことも。あまりに底が知れない大きな力でした」
 空っぽになったお茶の器を手の中で転がし、アニュディは続ける。
「私、当分城では暮らしたくありません。レイゼルトと関わってしまった以上、城の力は私を嫌うかもしれませんもの。それに城から離れて、城の力やそれにまつわる言い伝えを、自分なりに考え直してみたいんです」
「城の力は、我々王族にとっても底が知れません。その力のためにあなたが怖い目にあったのなら、私も城に戻れとは言いづらい」
 ブレイヤールは難しい顔で腕を組む。彼は黄緑の城で気を失ったときのことを思い出した。あのとき自分の意識を奪ったのは、アニュディを恐れさせ、トエトリアの存在を隠した力と、同じものだったのかもしれない。しかし彼自身は城の力を恐れていいような立場になかった。どんなに怖くても、これからはあの力に何度も触れなくてはならない。
「キゲイとあなたは、それぞれの理由があってレイゼルトに選ばれた。僕は少なくともキゲイの件については、彼の人選を支持しています。彼は性格に問題ありですが、目利きは完璧だ。恐らくあなたが選ばれたのも、どこかの部分で正しかったと思うのです。もしかしたら、これからも正しいのかもしれません」
 二人を目の前に、ブレイヤールはテーブルの下でそっと右手を握りしめる。禁呪を触れた手だ。
「私の師が言っていました。王は光を掲げ、魔法使いは闇を見ると。光を掲げる者に、闇を見渡すことはできません。石人と人間との争いと同時に、別の何かがこの石人世界の闇の奥で起こりました。私はその闇を右手で一度掴み、それから身を引いて、明かりを灯す道を選びました。私はもう二度と、闇を見ることはできません。アニュディ、もう一度尋ねます」
 ブレイヤールは顔を上げ、念を押すようにゆっくりと問いかける。
「あなたは黄緑の城で前の生活に戻ってもよいのに、今はそれを拒むのですね」
 アニュディははっきりと頷いた。
「そうです。私、決めたんですから。彼から贈られた代償を抱えたまま、これまであったことをすっぱり忘れるなんてできません。レイゼルトを名乗る者を、紫城や黄城に運んでしまった責も感じています。そこで彼が何をしたか、私は一切知らないし知りたくもないけど、償いはしなきゃいけないと思うんです」
 アニュディはまぶたを閉じ、ウージュを呼ぶ。ウージュは黙って立ち上がり、アニュディの肩にそっと触れた。彼女は相変わらず手の中で小石をもてあそんでいる。それは宝物として大切にしているというより、手のひらでその存在を確かめ、知ろうとしている感じだ。
「できればこの子と一緒に、タバッサ辺りに住む場所を探していただけないでしょうか。あそこなら白城と近いですし、黄緑の城の家族にもすぐ会いに行けます。作る物を人間向きにすれば、調香の仕事も続けられます。何よりウージュの病気を治すには、魔力の薄い土地で暮らし、人としての姿を定着させるのが一番ですわ」
「分かりました。信用できる人をつけて、家を探させます。とにかく僕の目の届くところにいてくださるんなら、こちらとしても安心です」
 快い返事に、アニュディは内心でもほっと胸をなでおろした。これでウージュを石人世界から離せる。
 彼女はすべてをブレイヤールに話してはいなかった。守りの剣を持って姿を消した王衛のことだ。彼はレイゼルトの手紙を持って、大空白平原の町へ一足先に発っている。何か分かれば、彼はすぐウージュの所へ戻ってくるだろう。そのときのためにも、ウージュは平原にいた方がよい。守りの剣を持ち去ったとして神殿騎士に追われる彼には、石人世界へ戻るのは危険すぎた。
 ウージュを守ることと、レイゼルトから渡された手紙の謎を解くことは、トエトリア王女をいつか取り戻すことにつながるかもしれない。あの王衛は剣の意志とやらのひとつで、ウージュを守ることに徹した。大巫女様の力が宿っているとはいえ、金属の塊に従うなど、どうかしている。しかし彼が持つ黄緑の王族への忠誠心は、信じてもいいだろう。
「白王様、あなたが光を掲げながら、なおも闇が気になるとおっしゃるのでしたら、私が闇を見てまいります」
 アニュディはブレイヤールに微笑んだ。ブレイヤールはふっと悲しそうな顔つきになる。返答はその口元にのぼらない。アニュディも、白王の答えを求めることはしなかった。二人とも、それぞれがそれぞれの立場から、レイゼルトやウージュを捕える石人世界の秘密の傍にいることを感じていた。
――秘密が暴かれたら、城は終わるんじゃないだろうか。王族として、それに関わるのは許されないんじゃないだろうか。
 琥珀のおはじきがテーブルを横切って、彼の手元に滑り込んできた。ブレイヤールはおはじきをつまみあげ、黄緑の琥珀に封じられた小さな虫を見つめる。その向こうで、ウージュが大きな空色の瞳をこちらに向けていた。