終章

終章-2

 翌日、ブレイヤールは黄緑の城へと発った。新しい黄緑王の即位式が終わり、改めて招かれたのだ。新しい王の誕生とはいえ、城は喜びに湧きたってはいない。トエトリア王女の消息はいまだ分からず、長きにわたって神殿を治めていた大巫女の代替わりとで、城民は心から祝う気持ちになれないでいる。王城で開かれた晩餐の席は、暖かな喜びと穏やかな悲しみ、そして不安の苦みが混ざり合っていた。
 黄緑の王となったルイクームが王座からトエトリアを探索し、城内に見出すことができなかったことで、城民達のブレイヤールへの疑いは晴れていた。ルイクームは自ら広間の隅っこでぼんやりしていたブレイヤールのもとへ足を運び、改めてそれを告げる。ブレイヤールは彼女が立ち去るのを見届けると、再び席に腰を下ろした。彼は再び視線を床に落とす。白城と同じくらいに馴染み深かったこの城も、ずいぶん居心地が悪くなってしまった。
 黄緑王の即位で、トエトリアは貴族の地位となっていた。新たな住居となる館も決められ、そこには責任を取って辞職した王室長官や騎士長、左大臣達がトエトリアの召使いとして、彼女の帰りを待っているらしい。守りの剣を持って姿を消した王衛は、神殿騎士に追われる身となっていた。しかし、守りの剣がトエトリアを見つけ出してくれるかもしれないという淡い期待が、王女の安否を気遣う人々の中にあるのも事実だ。
 耳に、輝く水面を思わせる、静かな竪琴の音色が戻ってきた。バルコニーで神官達が奏でている。石人音楽の根幹をなすその旋律は、城の中を立ち昇る水を表現しているという。時々聞こえるポワンポワンという優しい太鼓の音は、城内の泉に沸き立つ水の波紋だ。
「ブレイヤール様。紫城の話は、すでにお聞きですか」
 灰城の大使がブレイヤールの姿を見つけて会釈する。ブレイヤールは慌てて立ち上がった。
「今晩、簡単にですが、話を聞いたところです。知らせを受けて古都の館から紫の末裔が、調べに出たとか」
「これまでにない大規模な崩壊があったそうですね。いずれ十一国の城民らに周知するにしても、あまりにショックな出来事でしょう。不滅と思われていた城の中枢が沈んだのですから」
「そのようなお話……」
 神経質になっているブレイヤールは、周りを見回した。他の石人達は近くにいない。
「今夜は誰も聞きたくないでしょう。私も、城を蘇えらせたばかりです」
「灰王は、白の王族の代表として、あなた様もご覧になるべきとお考えです」
 大使は微笑む。相手の物言いに違和感を覚え、ブレイヤールは少し考えた。
「あの、もしかして他の十国の王達は見に行くことになってるんですか。僕、仲間外れにされてます?」
「やはりお聞きになっておられませんでしたか。あなた様には、今の白城を空けるべきではないという考えもあるのです。承知いたしました。後日、白城に正式に使いを送らせていただきます」
 大使は再び会釈をして、黄緑の王のもとへ去る。
 ブレイヤールは一人眉をひそめた。紫城はかつてレイゼルトに滅ぼされたが、その城がもう一度滅びたとはどういうことか。紫城の崩壊とともに失われるものは何なのだろうか。逆にそこから得られるものもあるのだろうか。不意に胸が熱くなり、ブレイヤールはぷいと踵を返してひとけのない廊下へ出た。
 複雑に入り組んだ廊下でも迷うことはない。魔法の勉強のため、先代の黄緑王に招かれて、小さい頃からずっと黄緑の城で暮らしていたのだ。要所要所に立つ明かりを持った城の案内役も、ブレイヤールをわざわざ呼び止めたりしない。
 広間を離れるにつれて、城の静寂は濃くなる。自分の足音だけが響く暗い回廊が続き、星明りの注ぐ渡り廊下へ出る。彼は一人にはなれなかった。囁くような竪琴の音が、柱の向こうから漏れ聞こえてくる。
 回廊の床に長い影が伸びている。夜風に身を任せながら水の旋律を奏でるのは、一人の老神官だ。悲しげな旋律に心を打たれ、彼は静かに神官の下へ近づいた。老神官は白王に向いて、軽く会釈をする。
「新しい大巫女様と、黄緑王の誕生、なにより白城の復活は喜ばしいことです。しかしトエトリア様はいまだ見つからず、人間との戦闘で命を落とした者も少なからずおります」
 老神官は再び弔いの旋律へ戻る。ブレイヤールはその隣に立ち、音色に耳を傾けた。広間で聞いた旋律より、さらに単調な調べだ。目を閉じると、自身の意識が旋律とともに石壁に染み、基礎石を透過して中枢に延々とこだまするかのようなイメージがよぎる。
「この旋律は、初代大巫女様によって初めて奏でられたと伝えられます」
 竪琴をかき鳴らしながら、老神官は呟いた。ブレイヤールはまぶたを開く。
「その由来は初めて耳にします。水の旋律は、城の中枢で聞こえる音の現れだと」
「音楽にはあまりお詳しくないようだ。いずれにしても、石人の歴史は古くなってしまいました。城を建てた最初の王達の記憶ですら、城においては薄れ、いまや神殿の奥深くにしか残されておりません。最も古い旋律をお聞かせしましょう。石人達が自らの名を求め、この地を放浪していた頃、ともにあった音を」
 曲調はさらに単調なものへ変わっていく。一音の長短に過ぎない旋律は、旋律と言えるのだろうか。中枢にこだまする音色のイメージは、水が水に溶けるように消え失せた。ブレイヤールは太古の大地に思いを馳せる。ふと脳裏に訪れたのは、いつか見た夢の光景だった。予言者が見た平原はすでに人影ひとつなく、光の霧が漂っている。それは石人世界の大気だ。魔力と交われば命を持った幻影が生まれる。幻影の胎内で血液の代わりに流れるのは霧。幻影が死ねば、霧は露を結んで大地に還る。形は違えど、この地に満ちる生命の、営みの音(ね)は変わらない。
 旋律が失せても、ブレイヤールはすぐには気が付かなかった。それくらい音色は微かで、世界に溶け込んでいた。老神官は微笑む。神殿では決して許されない表情がある。
「あなたはもしかして」
 ブレイヤールは息を殺して尋ねる。
「九竜神官のお一人ではございませんか」
 老神官は弦を弾く。白王の問いかけは弾き返された。
「あなたが王となられる日を、お待ち申し上げます。あなたの城には、光を求め闇に向かって進む者達と、闇の中、光に助けられた者達が同居している。彼らを送り出すための、あるいは導くための時間は、すでに動きはじめております。時を無駄にされないよう」
 神官は背を向けて、楽の音に集中する。ブレイヤールは数歩後ずさり、静かにその場を離れた。
「神殿とは、まこと侵しがたいもの」
 大分歩いた後に、彼は暗闇の廊下で呟いた。神殿は石人達を治めるだけでなく、初代大巫女から続く気の遠くなるような時間と、その中で生まれた多くの秘密もまた、含み抱える存在なのかもしれない。書物に記されることなく忘れ去られた記憶すら、神殿を満たす空気や慣習や旋律として、人知れず遺されている。うわさされる大巫女と九竜神官の確執や城を建てた初代十二王と神殿の争いなど、その存在に飲まれてしまえば些細な記憶の一つ二つだ。白王として即位すれば、彼もまたその中に飲まれてしまうのだろう。
 ブレイヤールはきつく拳を握る。瞬間、胸を絞る畏敬と焦燥が駆け抜け、後には冷たい決意だけが残った。神殿を離れ城を建てると決めた十二王達も、似たような思いに駆られていたのかもしれない。王であると同時に魔法使いでもある者は、神殿が沈む古き時代の深みから飛翔し、今一度、この世界の姿と石人達の営みの様式を、見極め直さねばならないのかもしれない。