燕教会の歴史は、資料に乏しいため詳細は不明のところが多いが、幸い「燕教会60周年記念誌」があるので、その記述に従う。
1930年(昭和5年)中横丁に木造洋館風二階建てが出現した。
古老の話によると、当時は横丁を流れていた農業用水路の右岸は、遥かに燕小学校の校舎が見えるほかは、ほとんど草原で弥彦線の線路の土手と、時たま走る蒸気機関車に牽かれた列車が見られたという。そこに建てられたしゃれた洋館は町中の目を引き付けたことであろう。久保田重松(通称、花松と呼ぶ金物問屋)が、共働きで子供の世話が出来ない人々の助けになろうと、志して始めた保育事業のためのものであった。
一階を私立喜久保育園として使用し,二階を礼拝堂とする予定である。かねてから親交のあった本間俊平の進言もあったと聞くが、土地を求め、建物を建て、更にその運営をして行く費用。それは決して一個人の容易になすところではない。しかし, 彼は誰にも頼らず独力でなしとげた。なにがその大事業をなさしめたもうたか。
1900年(明治33年)キリスト教同信会の浅田又三郎により洗礼を授けられていたキリスト者であったが、1921年(大正10年)愛息、喜久松の夭折も大きな要因となったか知れない。園の名前を「喜久松」から取り「喜久保育園」と名づけ、後に教会経営に移管してもその名に固執したほどである。
保育園のためにホーリネスの伝道者塚本米治を招き,夫人フクを保母として、久保田重松の念願の保育園はここに開花し、誕生した。
そして翌年、1931年、新潟教会の支教会(伝道所)として、燕の地に「キリスト・イエス」の名による教会が献堂されたのである。
ここで燕における福音史を振り返ってみよう。燕に最初にキリスト教が伝えられたのは、1875年 明治8年 イギリスのエディンバラから新潟に派遣された、医療宣教師T・A・パームは8年余りの伝道中、燕にも足をのばした。明治16年の報告の手紙に次のように書かれている。「わたしは毎月1,2回燕に行く事にしました。そこの集会は医者がおもに集まります。町の有力者が幾人かそこにやって来て、キリスト教についての質問をしました。云々」
1884年 明治17年 小高村の村長,土田橘十郎、キリスト教に改宗する。(*1)
1888年 明治21年 [イギリスのプリマス・プレズレン運動の中から、自給伝道者として、H・G・ブラント来日。]
1892年 明治25年 ブランドの群れ、橡谷喜三郎、三条で伝道。
1894年 明治27年 土田家の奇正館にブランドの群れ、乗松雅休が住み,伝道。
1895年 明治28年 ブランド夫妻と浅田洋次郎,來燕伝道。
1896年 明治29年 ブランドの群れ、丹森太郎、小高に滞在し伝道。
1898年 明治31年 ブランドの群れ、越後訪問伝道、燕で路傍伝道。
1900年 明治33年 ブランドの群れ、浅田又三郎、長岡教会牧師の紹介で、久保田重松を訪ねた.再度訪問の2月中旬、久保田重松受洗。土田家の三男州彦、安田繁松も受洗。
1907年 明治40年 浅田又三郎、越後伝道。三条の石黒林作、土田某女、土田昆彦、(土田家次男)柳原坂六、土田五平太、広田広吉、稲葉某、江口さと、らの名が上げられている。
1914年 大正3年 八月、新潟教会第11代牧師、長田時行就任。後に燕の伝道にかかわる。
1918年 大正7年 新潟教会、副牧師として宮森武冶郎を招く。後に燕の伝道にかかわる。
1922年 大正11年 三月、新潟教会副牧師として、池田湖太郎を招く。後に燕の伝道にかかわる。
8月27日、新潟教会にて久保田重雄,神田熊市、柄沢長吉,酒井末二郎、若林勝治、久保田キミ,上野市松、牧師長田時行より受洗。
1930年 昭和5年 5月8日、新潟教会第14代牧師として杉浦義人、就任。
11月、私立喜久保育園の園舎及び礼拝堂が完成して,保育園が開園した。
保育園の人事は、塚本米冶を伝道補助者とし、夫人フクを保母としての運営であった。
1931年 昭6年2月 新潟教会の支教会として燕教会が献堂された。
某月 本間俊平の特別伝道集会が開かれる。
10月 燕支教会伝道師として今泉隼雄就任、時の新潟教会牧師は杉浦義人である。
1932年 昭7年5月 加藤与一郎、上野マツ、久保田キイ、組合教会関東部会長の和田信治朗牧師より受洗。
1935年 昭和10年 今泉隼雄辞任。
1936年 昭和11年 新潟教会第15代牧師中井佐一郎就任、燕教会を兼牧する。
1941年 昭16年1月、本間正男、中井牧師より受洗。
1944年 昭19年2月、峰島栄子、中井牧師より受洗。
5月、備前竹子、燕教会の担任となる。
【60周年誌より、聖十字教会の項目の年表】
1946年 昭和21年4月 小高の土田橘十郎の孫にあたる土田照彦が、休止中の燕の会堂を借りて、郷里開拓伝道を始める。同月土田照彦の師、桑田秀延学長の特別講演会がおこなわれた。
1947年 昭和22年 4月20日 東中通教会の向井芳男牧師の司式により受洗。平沢堅司郎、江口智恵、大野隆雄,竹田さよ、荒沢ひめ、本多美佐子、小林美智子、池田喜栄、高井健吾、斉藤典子。
1947年 7月6日 燕教会での最後の礼拝。翌週より塚本氏夫妻宅を伝道所として聖十字教会として発足する。
1947年 昭和22年11月、東小学校にて賀川豊彦師を招き,特別伝道集会.広い体育館が聴衆で埋まる盛況であった。
12月15日 堀越吉一郎、笠原金吾、向井牧師より受洗。
1950年 昭和25年 4月、ボナール服装学院の中央通ニ丁目移転に伴い、同所で礼拝を続ける。
4月27日、長谷川久一、向井牧師より受洗。
12月10日 山崎登阿、目崎一枝,金子美智子、荒沢康子、松山恭子、向井牧師より受洗。
1951年 昭和26年 11月高野日出子向井牧師より受洗。
1953年 昭和28年 5月12日、土田照彦師、東京に移住される事になり、聖十字教会の22名を東中通教会に転入することになり、転入会式が行なわれた。
私が教会に初めて行ったのは、一九四七年、戦後間もないころで、まだ混乱の続いていた状況下で、精神的にも不安定の状態であった。ある日、ふと目についた一枚のポスターに惹かれて、思い切って教会の門をくぐった。二階の会堂はほぼ満員で熱気に溢れていた。見ると同級生の顔も結構見られて、少しは安心した。礼拝と言うものは初めての経験で、案内係の人が言われるままに立ったり座ったり、賛美歌を始めて歌ったりと、わけの分からぬままに、集会は終わったが、初めての印象は「とても暖かい雰囲気に、体がほんわりと包まれている感じだった。」 来週は塚本さんのお宅というので、行くとがらりと人数が少なくなっている。後で聞いたのだが小高の土田照彦先生が燕教会の会堂を借りて郷里伝道をされていて、その最後の日に行き合わせたという事なのだ。その中には近所のHさんもいたし、笠原金吾さんも居た。彼は献身を志して神学校受験の準備中だった。そのグループは聖十字教会として活動を続けた。(長谷川の追憶)
1951年 昭和26年 10月26日、北海道より佐藤茂見牧師着任される。しかし会堂は支障があって住めず、向町に借家住まいだった。
12月23日 会田発枝、新潟教会中井牧師より受洗。
1952年 昭和27年 2月12日 三宅輝幸、宮路のぶ、佐藤牧師より受洗。
10月28日 黒川政夫、片桐憲吾、長谷川八重子、12月25日 原さい子、佐藤牧師より受洗。
1953年 昭和28年 6月22日 総会決議により、財団法人日本組合教会維持財団に保管をお願いしてある土地、建物、墓地を、燕教会も法人格を得たので、その返還に関して申請書を発送。上記の件、11月5日、所有移転登記完了。
六十周年誌を改めて読み返してみると、多くの人が用いられてそれぞれの御用に携わっておられることが分かります。ここに、戦後の混乱と貧窮の生活の中で、結核患者の救済に力を尽くされた、上野市松さんを思い出します。上野さんは大原座(上町にあった芝居小屋)で行われたキリスト教の伝道集会で救われて後に入信されたのですが、戦時中から戦後にかけての食糧不足も要因となって、肺結核の患者が多くおられました。死病と恐れられ、家に居ても半ば隔離されて、苦悩と偏見の中で苦しみにあえぐ結核患者に、救いの手を差し伸べられたのです。公的には当時何も施策がなかった役所に掛け合い、寺泊にあった国立療養所などにも訴え予防のための協力を実現させるなどの働きを、それこそ寸暇を惜しんでの奉仕をされました。そして体の癒しと共に心の平安を、主に祈り続けた愛の人でした。その働きにより信仰の道を歩んだ方々は決して少なくはありません。
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