4. 『遭遇』





 固めの寝台の上、黒猫が、開かれた本の前に座っている。背筋と尻尾を伸ばし、首だけを動かして、猫は文字に目を走らせる。
 ときおり、頬の髭がぴくぴくと動く。
 どうやら見開いている頁の部分は見終わったようで、右前足で器用に頁をめくる。手の平を上に向けて爪を出し、それで頁を抉じ開けて小さな隙間を作り、そこに肉球付きの前足を差し入れる。そして一気に前足を勢いよく払うと、本の頁がぺらりと捲れる。

 そしてまた、黒猫は読書を続ける。

 学院教師は、研究用と居住用の個室を与えられている。教師達は昼間授業がないときは研究用の自室で過ごし、夜になると、睡眠のために居住用の自室へと戻る。アッシアとてその例外ではない。今は黒猫と共に、居住用自室で調べ物を続けているところだった。
 黒猫が頁を破いてしまわないかと最初は不安そうだったアッシアだったが、猫ながら器用に本を扱うので安心したようだった。今では自分の分の調べ物に没頭している。もっともこの教師は何も無くても四六時中調べ物をしているので、その生活ぶりはいつもと変わらないものだったと言える。黒猫の食事に使った、ミルクの余りを飲みながら頁をめくっているのが、いつもと違うところと言えばそうだったかもしれないが。
 両者とも何も喋らないので、たいして広くない部屋に頁を捲る音が明瞭に響く。
 こんな状態が、ずっと続いていた。

「あ、そうか」
 今まで自分の机で顔を伏せていたアッシアが、突然、顔をあげる。
 ベッドの上の黒猫もそれに反応して顔をあげた。
「そうか、なんだ、そうなんだ」
 その言葉の内容を問いただすわけでもなく、黒猫はアッシアの様子をじっと見ていた。そんな視線に気付いたわけでもないようだったが、くるりと椅子を回して、アッシアは黒猫の方を向いた。
「わかりましたよ、正体が」
「何の話だ」
 脈絡無く始まった話を修正しようと、黒猫が質問を入れた。
「幽霊の正体ですよ。さっき中庭で話していた、図書庫の幽霊の正体。目的も、やり方も。考えてみれば、簡単なことでした。誰が、どんな目的で、どうやって本を散らかしたのか」
 黒猫はその先を促すこともなかったが、金色の目をアッシアから逸らすこともなかった。ただ淡々とアッシアの次の言葉を待っていた。
 だが、アッシアは次の言葉を発しなかった。
 彼は軽く握られた右手をすぅともちあげる。

 そして、彼は真っ直ぐにベッドに座る黒猫を指差した。



                           ■□■



 レクシア=ペルーナデは、小柄な新入生の手を引きながら暗闇の図書庫を歩いていた。
 石畳の床を踏みしめながら、手燭の灯りに照らされて浮かび上がるよくわからない陳列物を眺める。レクシアには、それらの価値はわからない。たまに文字が読めるものもあるが、面倒なのでいちいち意味を取ったりはしない。
 それよりも、レクシアが気になったのは図書庫にある陳列物すべてがうっすらと埃をかぶっていることだった。
 ――ここは、本当に、倉庫ってことなのね。
 胸中でごちて、レクシアは独り頷く。本当に何か保管しようと思ったら、少なくともこのような酷い環境ではまずいだろうことは、レクシアのような素人にも容易に想像がつく。ここは、捨てられもしないが不要なものが置かれている倉庫なのだ。
 学院が奇妙な現象を調査しない理由も、この広い図書庫に管理人をたった一人しか置かない理由も、今ならレクシアは納得できる。――ここは、どうでもいい場所なのだ。
「何も、ありませんねぇ」
 レクシアのやや後ろを歩くヴェーヌが言った。そうね、と言葉を返してレクシアは小柄な新入生を見る。
 ヴェーヌの頭は、高く見積もってもせいぜいレクシアの胸ほどの高さしかなかった。レクシアは女性にしては背が高いのだが、それを考えてもヴェーヌの身長は低い。そんな身長差があると、手を繋いで歩いているうちに自分が保護者のように思えてくるから不思議だとレクシアは思った。
 そして、陶器のような、という比喩がぴったりの白い肌。円らで大きい青い目。背中を覆う長くて柔らかそうな金髪に、つい突付きたくなるようなふっくらとした頬。
 一言も喋らず動きもしなければ、高級な人形と言っても通るかもしれなかった。
 そしてレクシアはヴェーヌの鼻にかかった甘い声と、彼女の天使を思わせる笑みを思い出す。皆から愛される存在。
 ―― 小さな天使。
 そんな感想を抱いて、レクシアは軽く頭を振る。改めて認識するまでもないことだった。
 手を繋いだ先の小さな天使が、また口を開いた。
「くらくて、よく見えませんねぇ」
「闇は、隠すから」レクシアは短く言った。
「おもしろい言い方ですねぇ、それって」
「闇は隠して、光が暴くの。だから、闇と光は自然と人間によく置き換えられるわね。古きより人間は、暗黒たる自然を拓いて、光の及ぶ領土を広めてきたって」
 ふぅん、と小柄な少女が口の中で呟いた。
「どうしてなんでしょうねぇ」
「何が?」
「どうして、光は、人は、闇がせっかく隠しているものをあばくんでしょうか」
「そりゃぁ――」
 言葉を捜して、レクシアの声が間延びする。
「本能、じゃないかしら。」
「ほんのう」単語を、金髪の少女が反復する。
「闇は――怖いじゃない」
 こわいですかぁ、と少女が言う。
 そう。闇は怖い。レクシアはそう思う。
 闇は、隠しているからだ。そのわけがわからないものが怖い。
 その闇の中には。蛇が出るのか? 刃が出るのか? それとも?
 わからないから、人は闇を恐れた。だから、闇を悪魔と親和させた。夜を嫌って、太陽昇る昼を好んだ。そして闇を、未知を、徹底的に弾圧した。闇に飛び込むものを勇敢と称し、闇を照らしたものを英雄や天才と呼んだ。それが人の歴史ではないか。そうレクシアは思う。
「でもわたしなら――隠すものは、怖いというより気になりますぅ」
「気になる。ああ、好奇心、ってことね」
「わたしは、どっちかというとそっちですぅ。ゆうれいも、闇も。何か隠しているから、気になるんですぅ」
 そうね、とレクシアは認める。
 そう、好奇心も、闇を広げる原動力となっていることを認めなければいけないだろう。
 つまり、恐怖と好奇心。これらが相まって、人は進歩してきたということか。
「でも、隠したままにしておくことと、知らないままにしておくことはいっしょですよね」
「それは……そうでしょうね」
 レクシアは頷く。ヴェーヌが何を言いたいのかはよくわからないままに。
「それじゃあ、隠したままにしておいたほうが、いいこともあるんでしょうか」
「ううん?」
 レクシアには、それはわからなかった。



                         ■□■



 教師の居住用の自室で、黒縁眼鏡の部屋の主は、ベッドに座る黒猫を真っ直ぐに指差していた。椅子に腰掛けたまま指差す教師と、指された猫の探るような視線が交差した。
「幽霊の正体は……あなたですよ、レンさん」
「ほう」
 黒猫は肯定するでもなく否定するでもなく、ただ興味を示した。
「何故、そう思う」
「あなたははっきりと言っていたじゃないですか。ついさっき、初めて会ったときに。『この学院で、調べ物をしている』と。
だけど、猫の姿では、昼間堂々と本を読むことは憚られる。だから、夜間こっそり本を読んだ。そして、猫の体では、本を出すことはできてもしまうことはできなかったんだ。
 本を出すときは、おそらく後ろ足で本棚から蹴り出したのでしょう。けれど猫の体の構造では、二足歩行もできなければ、本を持ち上げることもできないはずです。自分の体重よりも重い本を本棚に戻すことなど不可能。だからあなたは、調べものをするために本を出すだけ出して、あとはそのままにしておいたんだ。」
「そしてそのまま出しておいた本が朝に見つかって、幽霊騒ぎになったか。ふむ、筋は通っているな。」
 でしょう、と言ってアッシアは満足げに笑みを浮かべて椅子の背もたれにもたれた。
「だが、推理は外れだ」
「えっ?」驚きの声をあげる教師は、海老のように、背をもたれさせた姿勢から前かがみの姿勢になった。
「私は調べ物をしていたのは3階にある図書室でだ。地下図書庫には行ったことが無い。」
「そ、そうなんですか?」
「それに、私は出した本はきちんと棚に戻している。……目立つことは避けたかったからな。」
「ほ、本当ですか? でも、どうやって?」
「なに、ちょっとした裏技を使った芸だ。やって見せよう。」
 言うと、黒猫はベッドの上に開いていた表紙のしたに毛むくじゃらの手を差し入れ、続いてのそのそと頭をねじこんだ。ちょうど猫が本の下敷きになった格好だった。その状態で体を跳ね起こすと、開いていた本がばたんと閉じた。ここからが少し難しいんだが……と猫がぶつぶついいながら、まるで射手が狙いを定めるかのように立ち位置を決めた。
 そして、淡く光る文字が本を包んだ。
「……我、大地の戒めを解く」
 そう黒猫が呪文を唱えた次の瞬間、まるでその重さを無くしたように、ふわりと重い本が持ち上がった。浮かび上がった本を前足で微調整すると、黒猫は飛び上がり、浮いている本を後ろ足で思いっきり蹴った。本はアッシアの部屋を横切り、ごとん、と飛んだ本の背表紙が本棚の奥壁にぶつかる。白い頁の束を見せて、本は棚に収まった。
「まあこんな感じだ。さすがに背表紙をこちらに向けられないのが難点だが」
「はあー……」
 猫の本収納芸を見ていたアッシアは、呆けたように口を開けてしばらくぼんやりしていた。
と、我に戻る。
「って、今の技も凄いですけど、今使ったの、重力中和の魔術ですよね? 猫の姿なのに、魔術を使えるんですか?」
「ああ。規模も威力も小さいものしか使えないがな」
「そうだったんですか……いや、驚きですよ、実に色々な意味で」
「おかげで助かっている。猫の身といっても、魔術のおかげで随分と行動半径が広げられるからな」
 そう言った黒猫は、微笑したように見えた。猫なので、正確な表情がつかめないのだが。アッシアが人懐こい表情で話題を振った。
「けれど、あなたが正体でないとしたら幽霊の正体はなんなんでしょうね。僕はもうすっかりあなたが犯人だという考えに夢中だったので、他のアイディアを持っていないんですよ。あ、犯人てのは失礼ですね。すいません」
律儀に頭をペコリと下げるアッシアは気にもとめず、ふうむ、と一考するように下を向いてから、黒猫は顔をあげた。
「この世に幽霊は存在しない。ならば、犯人は人間に違いない。これがまず前提」
 猫は講義でもするようにベッドの上を教壇にして、歩きながら話を続ける。
「ならばそれはどんな人間か?それはその人間の行動から推測できる。図書庫の本を、夜間に、ばらばらに落としていく。このことが意味するものは何か?おそらく、何かを探しているのだと思う」
「何かを……探している」
 アッシアが思考しながら呟く。
「そう。たとえば、本の頁のどこかに探し物が挟まっているのかもしれんし、なにかの本自体を探しているのかもしれん」
「セドゥルス学院の図書庫で探し物……古物専門の泥棒だろうか……それとも、他に何かあるのか……」
「どちらにしろ、夜間にこそこそ、しかも暴露を恐れず、何日も続けてやっている。このことから予想できる人物像は、やましいことをしている自覚があり、なのに自滅的で、かつ粘着質」
 黒猫が導いた犯人像を、アッシアは胸中で反芻する。
「危険そうな……犯人像ですね。追い詰められたら、何をするかわからなそうな」
「おそらく」
 黒猫は、短くしか答えなかった。アッシアは、がばと椅子から立ち上がった。
「……図書庫に、行ってきます。杞憂かもしれないけど、生徒たちが心配です」
「……」
 何も言わず、黒猫はすとんとベッドから降りた。すたすたと部屋を横切り、出口へと向かう。途中アッシアに向けて、尻尾をしゅるん、と振った。
「私も行こう。煽ったからな」



                             ■□■



「レクシアさん、見てくださいー。このへん、変ですぅ」
 そうヴェーヌに手を引かれ、レクシアは小柄な少女が指差した床を見る。
「……本当ね」
 確かに、そこの床は明らかに変だった。
 図書庫の床にはうっすらと埃が積もっている。それもならされているかのように均一にまっ平らで、乱れが殆どない。しかし、その床は違った。埃が散らばって薄くなり、ところどころ埃玉ができている。
「これ、何かが落ちた痕……なのかしら」
 ヴェーヌは繋いでいた手をほどくと、とてとてと本棚に近寄る。そして、その中の一冊の背表紙の角を掴んで、三分の一ほど本棚から引き出す。ヴェーヌの胴ほどはあろうかという巨大な本だ。昔は紙が高価で印刷技術も拙かったため、紙と版木の節約のために本が大きくなっていたとレクシアは聞いたことがあった。
「本のほこりが、ところどころ薄くなって……きっと、ここにあった本が落ちたってことですぅ」
 レクシアは手燭を掲げて、光を通路の奥へと投げる。埃の乱れは、ずっと奥まで続いていた。
「じゃあ少なくとも、本棚から本が落ちた、って話はこれで実証されたみたいね」
「本を調べてみましょぉ。二つの手形がのこっているはずですぅ――ひとつが、この本をもどすときについた手形ですぅ」
「そして、もう一つが幽霊の正体の手形ってわけね――」
 そうですぅ、とヴェーヌが頷く。
 レクシアはさっそく、埃を落とさないように本を棚から引き出そうとして――止まった。
「これ……すっごく重いんだけど。抱えないと持てなさそう。片手の力だけじゃ、とても持てないわ」
 抱えてしまっては、本についた埃が落ちてしまうことは明白だった。それでは埃に残った手の跡など調べようが無い。
「もうちょっと、先に進んでみませんかー。そうしたら、もっと軽い、調査のたいしょうになるものが出てくるかもしれませんから」
「そうね」
 少し情けない気分で、レクシア女史は半分引っ張り出した本を元に戻した。


 棚と棚の間の細い通路を進むと、閲覧用の机が置いてある空間に出た。足の短い、天板に角度のついた長細い机に、やはり長細い木の椅子が備え付けられている。どうやら不規則に閲覧場が設けてあるようで、まるで迷路の中の休憩室のようでもあった。
 この図書庫にある本棚の上背はかなり高い。上の方にある本を取るのに、どんなに背の高い人間でも段が必要なほどだった。そうした本棚に挟まれた狭い通路を歩くには、圧迫感がつきまとう。レクシアは開けた空間に出て、一息ついた思いだった。
 そしてそれはヴェーヌにしても同じことだったようで、レクシアの休憩しようという提案に、素直に賛成した。
 埃を払うと、二人は手燭を椅子に置き、そして向かい合って腰掛けた。
 ふう、と息を吐いてレクシアは手燭の蝋燭を見遣る。蝋燭は、随分と短くなっていた。そこから少しの距離、視線を外してレクシアは口を開いた。
「ヴェーヌ。さっきの、話の続きだけど」
 閲覧机をはさんでふたりは対面しているため、少し声が大きい。
「さっきの?」
「ほら……隠したままのほうがいいこともある、とかなんとか」
「ああー」
 思い出した、という印にヴェーヌは大きく首を縦に振った。あわせて、蝋燭の炎が作り出している影が動いた。
「こういう考え方で説明できないかしら。闇は、恐れられるばかりではなくて、畏れられてもいたの。つまり、闇は畏怖、畏敬されていた。わかりやすい言葉でいえば、闇は人々に恐れられる一方で、敬われていた」
 じじ、と手燭の蝋燭が鳴った。レクシアは続ける。
「さっきは闇は暴かれるべきものだ、って話したけど、実はそれは必ずしもそうとばかりは言えないの。神様は見てはいけないもので、だから神様は闇の間に移動するんだって考える人たちだっているわ。そういう人たちは、闇に神聖なものを感じているってわけね」
 ふんふん、とヴェーヌは頷く。
「だから、闇に光を当てて暴くってことは、その神聖さを損なわせるってことなのよ。……そういう考え方を無意識のうちに取り込んだから、隠したままのほうがいいこともあるって貴方は思うんじゃないかしら。闇の中の事実を知ることが、暴くことで失われてしまう神聖さに優っているとは限らないと思うし」
 金髪の小柄な少女は、思案顔のまま黙ってしまった。座ったままのレクシアからは、閲覧机の山の向こうに、ヴェーヌの肩から上だけが見える。
「きょうみ深い内容でしたけど――まだ何かちがうような気がしますぅ」
「ところで気になってはいたんだけど、この疑問、誰かに吹き込まれたの?」
 こくり、とヴェーヌが頷いた。
「シアルせんせいが、言っていたんですけどー」ほの赤い薄闇の中で、ヴェーヌが可愛らしく首を傾げる。「なんだか、深い意味があるような気がして、気になっているんですぅ」
「元々はなんて言ってたの? シアル教師は」
「えーと、『知らないままのほうが楽しいこともある』、ですぅ」
「そんな言葉に深い意味なんてあるの?」
「ないでしょぉか」
「私は無いと思うけど」
 やっぱり考えすぎかも、とヴェーヌが溜息をつく。
 その可愛らしい姿を見て、レクシアは微笑もうとして――息を呑んだ。

 自分の表情が、驚きに凍りついてしまっているのがわかる。
 叫ぼうとして、レクシアは口をぱくぱくと動かす。
 しかし、声は出ない。まるで水からあげられた魚の気分だった。
「どうしたんですかぁ?」
 小柄な少女の少し幼い声が無垢に響く。
 レクシアは見ている。
 その少女の背後に、
 蝋燭の灯りが僅かに届く薄闇に、
 青白い男が立っているのを。
 男は痩せているようだが、がっちりしている。
 目の光は鈍いのに、白目は充血しきっている。
 蓬髪の前髪が、顔を覆っている。
 ひょろりとした蓬髪の男。
 まるで幽鬼のような。
 いや、これが幽霊なのか――。
 その幽霊が、
 少女の背に向けて刃を振り上げるのを、
 レクシアは見た。


 そして、彼女は悲鳴をあげた。