3. 『眠れない夜は黒猫と散歩を』


 眠れなかった。
 ごろりと、再び寝返りを打つ。
同室の級友は隣のベッドで既に寝息を立てていた。鼻腔を通る空気の音が聞こえ、級友の胸が規則正しく上下している。
 眠れないのは枕がいつもと違うからか。いや、そうじゃない。自分はそんな繊細な人間ではなかったはずだとヴィー・ズィーは思い直す。
 実は、眠れない理由を彼女は自分でわかっていた。わかっていたけれども、あまり考えたくなかったのだ。考えれば眠れなくなるだろうし、何より今の自分が昂奮していて、それでは正確な判断ができないと思うからだ。
 しかし考えずにはいられない。何故なら、それは彼女の人生の目的と関係しているのだから。
 右腕に火傷の跡のある男を、ついに見つけた。
 その男は、今は学院の教師だった。
 何故暗殺者が教師などをやっているのか。多少不自然だが、考えられないことではない。例えば身分を偽る隠れ蓑。普段は学院教師で、指令があったときのみ暗殺に赴く。あるいは、暗殺から足を洗ったか。そんなことを彼女は想像する。
 しかし ―― 観察したところでは、その男は暗殺者になどには見えなかった。
けれどそれはそう振舞っているだけなのかもしれない。そうするだけの理由はあるだろう。暗殺者という素性は、どう考えても普通の日常生活を送るのに相応しいものだとはいえないのだから。
自分の担任教師と話をしている男の右腕に、火傷の傷痕をたまたま見つけたときは本当に驚いた。驚いて、しばらく息をするのも忘れて、その男を、傷跡を見つめた。そして、その男を知る必要があったので、少し直截的過ぎる手段だとは思ったが、担任の教師に紹介してもらった。もしあの男と担任教師が知り合いでなかったりしたら、素性調べの手順はもっと複雑だっただろう。そのことは本当に幸運だった。
 なんにしろ、現時点では情報が足りなかった。あの男が、自分の仇、レイレン=デインであるという確証になるほどの情報はない。右腕の火傷というだけでは、決定的な証拠とは言えまい。現在学院の教師だという補助的な情報は、肯定材料にもなりうるし、またその逆にも使える。つまり、今のところ何の意味も持たない。
 だがしかし、ヴィー・ズィー考えずにはいられない。あの男は、突然降って湧いたように現れた、有力な手掛かりなのだから。あの男がもし本物のレイレンだった場合、ぼやぼやしていては逃してしまう可能性だってある。それでは、せっかくの機会を逃してしまう。復讐の機会を。
 そこまで考えると、ヴィー・ズィーは静かにベッドの上で目を瞑った。
胸の中にある漠然とした憎しみを形あるものにするために意識を集中する。放っておけば、知らぬ間に拡散してしまう憎しみ。その憎しみを消さぬように、しばしば彼女はこうして、意識的に憎む。
 過去に失った、あるいは得るはずだったものを思うとき、彼女の胸をなんとも言えない寂しさが襲う。空虚な、と呼んでしまうにはあまりにも切ない喪失感。彼女はその鋭く胸に差し込む寂しさの原因を求める。どうしてこうなったのか、と。そういったことを彼女は何度も何度も考えて生きてきた。一人で生きることを余儀無くされたその日から。
 思考を辿り、原因に辿り付くたびにヴィー・ズィーの中に漠然としたまるで澱のような不快なものが溜まる。その澱を、ヴィー・ズィーは意識して憎しみという形に凝固させる。そしていつの間にかこの作業は、今では完全にヴィー・ズィーの一部になってしまっていた。そう気が付いたとき、彼女はもう自分が復讐という道から引き返せないところにいると思った。
 憎しみを凝固させる作業が終わると、ヴィー・ズィーはベッドを出て、運動するためのやわらかい服に着替えた。そして、同室の級友たちを起こさぬように、そっと宿の部屋を出た。
 廊下の窓から月が見えた。
 身体でも動かさなければ、今夜は寝つけそうにもなかった。



                         ■□■



「それって、二股ってこと?」
 ひと気が無い食堂に、リーンの声は良く響いた。だけでなく、白い食器に金属のフォークやナイフが当たるかちゃかちゃという音もよく響く。
八人掛けの木製の長方形をしたテーブルと、これまた木製の長ベンチが何組かおいてあるだけの、質素な食堂だった。天井には角材の梁が丸見えになっており、そこにランプがいくつか吊るされて、暖色系の光を投げかけてきている。丸太小屋の家庭的な雰囲気を演出しているようで、それは結構成功しているようだった。
食事の時間はとっくに終わり、深夜と呼ぶ時間に近い時間だったが、宿の主人は遅くに入ってきた客人たちのために遅い夕食を用意してくれた。
「違う。3日違いで、デートの約束があったってだけだよ」
 従妹の問いに答えると、憮然とした面持ちのまま、赤毛の少年が切り分けたチキンをあぐと口に含む。だが、対面に座るリーンが銀色に光るフォークで追及するようにパットを指し示す。
「でもさ、でもさ、そーゆーのって両方に気があって、うまくいったら両方と付き合っちゃおうと思ってたわけでしょ? それって、二股じゃない」
「デートぐらい、誰としたっていいじゃないか」
「うわー、この子、こんなこと言っちゃって」
 芝居じみた動作でリーンは天を仰ぐと、言葉を続けた。
「いい? 状況を整理してみるわよ? ある男の子が二人の女の子と、たった3日を挟んでデートしようとしていました。ところがその二人の女の子は友達同士で、自分たちがデートする相手が同じ人だとわかってしまいました。当然女の子たちは怒り、デートをキャンセルし、そして旅先で偶々会ってしまった男の子――つまりこの馬鹿パットに、怒りの平手打ちを食らわせました」
 と、そこでリーンは一旦言葉を切って、左手に持った銀色のナイフを、斜め向かいに座って食事をとっていたヴェーヌに向けた。
「こうした状況を的確に表現する言葉は何か? 答えなさい」
「ふたまたですねぇ」
 と、ご指名のヴェーヌはさも当然のように答えた。
「正解。それでヴェーヌ選手、その感想は?」
「さいていですねぇ」
 と、やはり当然のように、細かく頷きながらヴェーヌ少女は答える。さすがに、年下の少女の容赦ない指摘に、パットもフォークを咥えたままうっと言葉を詰まらせた。
「ふくすうの女性と同時におつきあいしようなんて、せいじつさに欠けますしー、だいいち相手の女のひとにもしつれいですぅ。もっと言えば、ぜんぜん相手がみつからなくてあまっちゃってる、寂しくて仕方がない上にもうそう若くもない独身の男のかただっていらっしゃるのにー、ふたりどうじだなんて、なんだかとってもぜいたくな感じがしますぅ」
 今度はアッシアがうめく番だった。思わぬ方向から攻撃を受けて、パットと同じ姿勢で固まってしまった。
 リーンがヴェーヌを注意する。
「ダメよヴェーヌちゃん、そんな本人の目の前で本当のこと言っちゃ」
「すいませんー、目の前にいらっしゃったものなので、つい」
 ぺこりと小さな頭を下げる金髪の少女に対して、その対面に座っていた引率の教師は泣き笑いのような曖昧な表情を返した。
「でもアッシア先生、偶然だけど、憧れのエマ先生と話せたんでしょ。よかったじゃないですか」
 ぱりぱりと、サラダを口に運びながら、リーンが隣のアッシアに話しかけて話題を転じた。
「今度はちゃんと話せました? 前にエマ先生に話し掛けているのを見たとき、もうアッシア先生あがっちゃってあがっちゃって、どもるは挙動不審だわですごかったから。あれは直さないと」
「うん、まあ……」
 大丈夫だったと思う。
 そう答えようと思ったと同時に、アッシアの脳内でエマ教師との会話の記憶が寸劇のように再生される。わたわたと自分の体のあちこちを触り、発汗し、腕まくりし。
そして――耳触りの良い表現を使って言っても、たどたどしく会話する自分。
 全然大丈夫ではなかった。
 反芻の後そんな結論に至ったアッシアは、がっくりと肩を落として顔を伏せた。
 しかしそんな反応は予想のうちだったようで、生徒たちはへこんでしまった教師を無視して、元の会話に戻っていく。右手のフォークを振りつつ、リーンが言う。
「でさー、パットはやっぱり振られたの? もう一人の二股の女の子に。ええっと名前は……」
「名前なんてどうだっていいだろ? ああそうさ、わざわざ呼び出されてビンタ付きで振られたよ。ちょうど昨日のことだよ。もちろんデートもキャンセル」
「昨日? 昨日って、パットがフィールドワークにやっぱり参加するって言い出した日よね?」
リーンの言葉に繋げるようにして、両手で包むように顔を支えながら、ヴェーヌが言った。
「でぇとがきゃんせる。そしてふぃーるどわーくに通常参加、になった。なんだか、いんがかんけいを、かんじますぅ」
「うっ」
 椅子から腰を浮かせながら、リーン。
「え? ちょっと待って。もしデートのキャンセルが通常参加の原因だとしたら、授業の調整がつかないって言ったのは、嘘だったってこと? 本当はデートのためにサボろうとしてたの?」
「うっ」
パットはうめきながら、それでも僅かばかりの抵抗を試みる。
必殺の話題逸らし。
「あっ、先生。右腕、火傷の痕がありますね。どうしたんです、それ」
「あ、本当ね」あっさりと従妹のリーンがそれに乗った。「そういえば先生、夏場でも長袖着ているよね。ひょっとして、その傷を隠したいからなの?」
「え?」呼びかけられたのに初めて気がついたというように、アッシアが顔をあげた。「あ、ああ、ちょっと……いろいろと事情があってね。まあ、いいじゃないか、そんなことは」
 素早くそう答えると、アッシアは袖まくりしていたシャツを元に戻した。右腕の火傷が、再び服の下に隠れた。生徒たちも、それ以上追及しようともしなかった。興味が無かったからだろう。
「まあ、それはそれとして。そんな風に話を逸らそうとしてもダメよパット。アンタが不純な動機でサボろうとしていたのはもう明白なんだから。観念なさい」
 腰に両手を沿えて胸を張って、リーンが宣告する。そして悪事の現場を押えられた悪徳商人のように、パットがその場に崩れ落ちた。
そんな会話が繰り広げられる4人のすぐ横で、黒猫が黙々とおすそ分けのチキンを食んでいた。



                    ■□■



 顔に当たる夜気はひんやりとしていて気持ちがよかった。月はもう満月を過ぎてやや欠け始めているが、道を歩くのに充分な明かりを提供してくれる。夜の散歩は、魔術で灯りを作ってまでしたいと思うものではなかった。特に、とても疲れたこんな日などは。
 夕食を終えたアッシアは、黒猫のクロさんとともに、のたのたと宿の周りの庭を歩いていた。街灯や通行人もある街道を避けたのは、気分というよりも、クロさんがいる事が理由だった。
クロさんは元人間で、人間の言葉を解するし、話すこともできるすごい猫なのだが、その言葉は、古代の指輪を持つアッシアにしかわからない。他の人にはクロさんの言葉は猫の鳴き声にしか聞えないのだ。
猫と会話するところを見られるのは、会話の相手をする人間にとって、あまり都合の良いことではない。アッシアは、自分の生徒にその光景を見られて寂しい大人だという烙印を押されて以来、クロさんとの会話には随分と気を使うことにしていた。
 宿の庭は観賞のために作られたものではなく、ただ隣の建物との間に距離があり、その開いた空間を便宜的に庭、と呼ぶならそうだろう、という場所だった。そこかしこに雑草が繁り、隅にある手作りらしき花壇は客に見せるためのもの、というよりも明らかに従業員の誰かの趣味で作ったもののようだった。ひょっとしたら、宿のオーナーの家族が宿に住んでいて、その家族が作ったものかもしれない。
 そんな宿の庭には、当然ながら宿泊客はいないし、従業員もこの時間には見当たらなかった。雑草を踏み分けながら、アッシアとクロさんは、無人の庭を歩いていた。
「しかし今日は疲れましたよ本当に。荷物の背負い帯がずっと当たっていた肩の部分は、皮がずるむけちゃっていました。魔術で癒しましたけどね。……クロさんは、どうでした?」
「いや、私にしても、この姿では旅は辛いな」
 片目だけでアッシアを見ながら、黒猫は続けた。人の歩幅に合わせているため、歩むリズムは早い。
「鍛えてはいるが、所詮猫の体だ。強度は人間には劣る」
「クロさんは、たしか人間の頃は傭兵だったって言ってましたね。やっぱりその頃は強行軍なんて日常茶飯事だったんですか?」
「うむ、まあ……な」
 そして少しの間。
クロさんの人間の頃へと話題を向けるたび、この黒猫が言い澱むことにアッシアは気付きつつあった。ひょっとしたら、この猫は人間の頃の記憶を失いつつあるのか、それとも人間の頃の話にいくつか嘘が混じっているのか。
そんなことをアッシアが考えているうちに、クロさんが言葉を継ぎ足した。
「伝令の真似事をしていたときは、2日間寝ないで山越えをしたこともあった。……それより、アッシアは思ったよりも強健な体をしているようだな。現在も学者だし北王戦争の時も文官だというし、文人肌の人間だとばかり思っていたが」
「幼いころにね。ちょっと鍛えられたんですよ。そういう、家系でしたから」
「家族は、やはり皆軍人なのか?」
「ええ。そうですね、教師なんてやっている僕だけが異端です」
「家族は、何も言わないのか?」
「僕の家族とは、もう何年も連絡をとっていません。不肖の息子でしたから」
 夜の闇は、少し人を正直にする。アッシアはそう思った。少し自分の口が軽くなっているのを自覚する。
「実は、僕は家出をしているんです。初めは家庭教師だった恩人で古代学の恩師でもあるひとのところへ身を寄せていたんですけれども、その方が病で亡くなられたあと、食うに困ってスイマール公家の文官になって輜重を担当していました。ちょうど戦時雇用がある時代でしたから。それで戦争が終わったあと、セドゥルス学院が教師を募集していると聞いて、やって来たんです」
「そうか。それからずっと連絡をとっていないのか」
「ええ。母はもう僕が幼い頃になくなっていますし、父や兄たちは厳格な軍人ですから、僕が今更連絡をとっても、忌むことはあっても喜ぶことはないでしょう」
「そういうものか。だが、少しうらやましくもある」
「え?」アッシアは聞き返す。
「私は孤児だったからな。生まれたときから、親兄弟の顔は知らない。気がつけば傭兵隊の一員で、ただ生きるのに必死だったよ」
「……そうでしたか」
 答えて、アッシアは少し想像する。傭兵隊と一口に言っても、よほど素性の正しい傭兵隊でなければ、平時には盗賊となる集団だ。生まれたときからそのような世界にいるというのは、どんな気持ちだろうか。
「ただその日を生きるために、たくさんを殺したよ。――食い扶持を稼ぐために、暗殺をやったこともある」
「暗殺、ですか」
「そう。だからこんな猫の姿になったのも――天罰でないかと思ったこともあるよ。お前は、暗殺者という存在をどう思う? アッシア」
「一般的には、あまり好まれる存在ではないと思います。なにしろ、自分が暗殺されるかもと思えば、気分の良いものじゃありませんから」
 なるほどな、と黒猫は言う。
「ただ、僕からは何も言えません」
 そう言って、アッシアは呼吸を止めた。猫は歩を進めながらも顔をあげ、アッシアを見上げる。教師の表情は固かった。
「僕も、生きるために戦場で人を殺していますから。――たくさん」
 同罪ですから、何も言えません。
 アッシアはそう言って口を閉じ、傷口の痛みを抑えるかのように自分の右腕を撫でた。
 だが、黒猫はアッシアの告白に対して、そうか、と言っただけだった。
 そのまま沈黙が降りる。一人と一匹は、夜の薄闇の中をそぞろ歩く。
「ところで」咳払いをして、突然、黒猫が言った。「その……先程お前が話していたあの娘」
「むすめ? エマ教師のことですか?」
「ああ、そのエマは、いつからセドゥルスで教師を?」
「え?」黒猫からエマの話題が出るなど意外だと感じながら、アッシアは答えた。「彼女が教師になったのは、僕のほんの三ヶ月前からと聞いています。ですから、約六年前ですね。ちょうど北王戦争が終わるか終わらないか、という頃です」
「そうか……」
「なんだか、クロさんはエマ教師と知り合いみたいですね。まさか」
 不吉な予想に、さっ、とアッシアの顔色が変わる。指先が細かく震え、言葉が口先にひっかかった。
「ひょっとして、彼女の、こ、ここ」
「こここ?」黒猫は首を傾げる。闇夜だから猫の目は光る。
ようやく、アッシアはひっかかっていた言葉を吐き出した。
「こ、恋人だったりしたんですかっ?」
「恋人……。いや、違うな」
「そうですか、いやまあ、そうですよね」
 黒猫は軽く否定し、教師はそりゃそうだと再び言って大きな安堵の息を吐いた。
そのまましばらく歩くと、クロさんが急に立ち止まった。ぴんと耳を立てて、小刻みに動かす。
「……この先、どうやら先客がいるらしいな。人の気配がする」
「そうなんですか? まあ、特に支障があるわけでもなし、とにかく行ってみましょうよ。ぐるっと宿を一周して帰るというのが当初の予定ですから」
 気楽にアッシアは言った。
 四階建ての木造の宿は、敷地面積もそれなりに大きい。今まで歩いてきたのは宿の側面にある庭だったが、この先からは建物の裏手になる。大声で独り言を言っていたと思われないようにクロさんとの会話を控えながら、アッシアたちは進んだ。

 そして建物の裏手に回ってみると、月光照らすくさ原の中央、先刻エマ教師から紹介されたばかりの、褐色の肌の少女が立っていた。