6. 『長年の疑問』





 父は巨きなひとだった。
 まず、体躯が巨きかった。まるで熊のような体格に貫禄のある腹を突き出してのしのしと屋敷を歩いていた。顔はいかつい髭顔だったが、目はぎょろりと大きく、愛嬌があったように思う。
 やや野卑なところはあったがとても精力的な人物で、リーティア王国の卿の一人として、宮廷で縦横に活躍していたというのは、後になって私が聞いた話だ。
 私から見た父は、とても巨きくて頼りになるひとだった。彼の妻、つまり私の母は私を産んですぐに亡くなり、以来男手で幼い私を育ててくれた。そんな父に、私は随分となついていたように思う。
 子供の頃の私は、他の子とは違う肌の所為で、友達がなかった。私の褐色の肌は、南方諸島の出身だった母譲りのものだ。大陸諸国の中で異文化に寛容なリーティアでは公の差別はなかったし、大人たちは優しくしてくれた。けれど子供というのは差異に敏感だ。近所の子供たちに異者と判断された私は、あっというまに仲間外れになって排除の対象になった。いじめられて帰って、泣く私の頭を、父はその皮手袋のように大きな手で随分と長い間、撫でてくれた。父は仕事でまともに寝ぬ日も多かったのに、とても疲れていたはずなのに、ずっと私の頭を撫でてくれていた。

 私は、自覚こそしていなかったが、間違いなく父が好きだったと思う。

 その父が殺されたと聞いたのは、暑い夏のある日の夕方だった。蝉が五月蝿かった。
 白昼堂々の暗殺だったという。厠に立った父が従者と二人になった短い間に、鋭い刃物のようなもので首を一撃。まさに皮一枚で胴と首が繋がっているという有様で、即死だったという。従者は後ろから魔術によって首が吹っ飛ばされていた。
 仕業の鮮やかさから、レイレン=デインの仕業だろうと噂された。証拠があるわけではなかったが、その見方は時間が経過するにつれて薄まるどころか揺ぎ無いものになっていった。『北の紛争に、南のリーティア王国の介入を嫌ったベルファルト王国の要人が、レイレン=デインを派遣し、リーティア宮中で北辺紛争介入派の首魁だったドルカ=ズボォーチカ ―― 私の父だ ―― を暗殺したのだろう』というのが、当時の新聞の論調だった。
 父の葬儀は当時の家宰によって営まれた。当時の父の身分と役職にしては、盛大な葬式だったという話だ。私はただ泣いていたからよくわからない。葬儀の次にやってきたのは遺産目当ての有象無象の親戚たちだった。老いた家宰は私に遺産を残すために、税処理などにも奔走してくれたのだそうだ。遺産の半分を「信頼できる」人物に信託し、一部を使って私が生活ができていけるように取り計らってくれた。そして幾ばくかの遺産の残りが私の手元に渡ったところで、彼は去って行った。給金が得られなければ生きてはいけないという理屈は、その当時でもわかった。
 その日から、私はたった一人で生きるようになった。初等学校へは通ったが、相変わらず友達はいなかった。
学校から帰って家の扉を開けても、誰も何も言ってくれない。ただねじ巻式の時計の秒針の音だけが響いている。台所に行くと、通いの家政婦が用意してくれた冷めかけの夕食がある。私はそれを黙々と食べる。
 私はその時間が一番嫌いだった。
私以外に誰もいない空間にかちゃかちゃ響く食事の音が、とても嫌だった。微温い野菜スープを啜り、新しくも古くも無いパンを飲み込むとき、私はいつも、無意味に叫び出したいような衝動に駆られた。そしてときに実際にそうした。狂ったように叫び、夕食の皿を押し遣り、叩き割る。そして台所を飛び出して自分の部屋に駆け込み、頭から毛布を被る。
 そして次の日の朝やって来る通いの家政婦は、台所の惨状に驚き、私を薄気味悪そうな目で見る。そんな視線に耐えながら、私は何も言わない。ただ黙って自分の足元をじっと見つめていた。時間が来て、私は学校に行く。そしてまた帰ってくる。
何も変わらない、何も動かない、澱んだ日々。それが9歳からの私の日常だった。
 私はずっと私が嫌いだった。何よりも嫌いだったのは私自身だった。だから考えた。どうしてこうなってしまったのだろうと。きっと父が居てくれれば、私はこうはならなかった。父さえ居てくれれば、今の私は居なかったはずだ。ならば父は何故いなくなった?誰が私から父を奪った?
 こうして私はレイレン=デインを憎むようになった。憎しむことには意味は無いと初等学校の先生だった老婦人は言った。けれど、そのとき憎しみは押えられなかった。愛することを止めることが不可能なように、きっと憎むことを止めることもまた不可能なのだと思った。
 そして、私は復讐を決意した。私の人生すべてを復讐につぎ込むことを決めた。
 いつの間にか憎むことは私の一部になってしまっていた。だから私は復讐を決意した。そして、復讐を決意したとき復讐が私の一部になった。今では、復讐自体が、私になってしまっている。
 私が、好むと好まざるにかかわらず。
 もし復讐することをやめてしまったら、一体、私は何になってしまうのだろう?
 それは私 ―― ヴァルヴァーラ=ズボォーチカの長年の疑問だった。



                          ■□■



「ヴァルヴァーラが、体調を崩して宿に独り残った?」
「そうらしいです。私も、ついさっき聞いたところです」
 細い溜息を吐いて、エマ教師は白い額に指をつけた。そして、リーザ、と目の前に座る生徒に呼びかける。がたん、と彼女たちの乗っていた小型の馬車が揺れた。
「私は、貴方達生徒は子供じゃないと考えるから、いちいち点呼なんて取ったりはしなかったのだけれど」
「先生のおっしゃる通りだと思います。連絡の不備は謝ります。けれど、ひとつ言い訳をさせていただければ、ヴィー・ズィーは普段からあまり、そのなんというか私たちにあまり……」
「……馴染んでいなかった?」
「そうまでは言いませんが、少なくとも心を開いていないように私には思えます。勿論、私たち ―― 上の学年の生徒がそれで彼女を嫌っているということはありません。下級生にも、彼女は慕われていると思います。けれど、同学年の生徒たちについては ―― 」
 そこでリーザと呼びかけられた年嵩の生徒は言葉を切った。エマ教師が途切れた言葉を補う。
「つまり、彼女――ヴァルヴァーラが同世代の生徒と親密さを欠くせいで私への報告が遅れたと?」
「申し訳ありません。クラスリーダである私の責任です。くだらないミスです」
 またぺこりと頭を下げて、リーザは言った。そして彼女が薄桃色の下唇をぐっと噛むのをエマは見た。このさほど自分と年が変わらない生徒は、とても自尊心が強い性格であるとともに、責任感も強いことをこの女教師は知っていた。
 馬車は4人乗りのものだったが、この馬車にはエマ教師とリーザしか乗っていなかった。エマ教室の生徒たちは、幾台かの馬車に分乗している。柔らかいクッション材を使ったビロード張りの座席のためにやや値が張る小型の馬車は、比較的疲れにくいために長い乗車に適いていた。
 エマはヴィー・ズィーと呼ばれる自分の生徒のことを脳裡に浮かべた。彼女について印象に残っているのは、大陸には珍しい褐色の肌と、初めて教室に入ってきたときの自己紹介の言葉。初めて教室に入ったそのときからもう、彼女は教室の集団から少し離れているように見えた。
「それで ――彼女、ヴァルヴァーラの容態はどうだったの? 昨夜は、体調が悪い様子は見えなかったけど」軽く首を傾げながら、エマが聞いた。
「本人は、よくあることだから少し休めば治ると言ったようです」
その質問は予想されていたもののようで、すらすらとリーザは答えた。しかし、その解答に教師は眉を顰めて視線を落とした。
「あの子は、忍耐強い子だわ」
「………」
 エマ教師の一言が、どういうことを意味するかはリーザにはすぐさま知れたようだった。リーザはまたさらに強く唇を噛み、エマ教師は視線を落として髪を軽くかきあげた。室内に飛び込んでくる陽光に、女教師の髪は緋色に透けて、そして白い指から落ちた髪は深い樺色に輝いた。
「リーザ。貴方、ミティア王都の道はわかるわよね?」
「ええ。私は、ミティアの出身ですから」
「それじゃあ貴方が王立凡学校に皆を連れて行って。大丈夫、今から私が紹介状を書くから、それをサリバン教師に渡せばいいわ。あとは先方が取り計らってくれると思う」
 エマ先生は―― と言いかけた生徒の言葉を、樺色の髪の教師はてきぱきとした言葉で継いだ。
「私は次の宿場でこの馬車を降りて、馬を借りて宿に戻るわ。それからヴィー・ズィーの容態を看て、なんとも無いようならば1日ほどの遅れで合流できると思う。それまで、皆の仕切りを貴方にお願いするわ」
 女教師の言葉に、リーザは頷いた。真っ直ぐな視線で、エマ教師を見る。
「……ヴィー・ズィーの容態が、それほど悪くなければ良いのですが」
「ええ」樺色の髪の教師は頷く。「私もそう思うわ」



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「や……っと、着いたぁ」
「休むな、パット。一度休んだら立てんぞ。すぐ水場に移動して、テント設営だ」
 疲労感をめいっぱいに漂わせて、のそのそと移動していく男性陣と黒猫と荷物を横目に見送りながら、声をあげたのは、大きな帽子をかぶった小柄な少女だった。
「これが、遺跡ですかぁー」
「そうよぉ。少なくても1000年以上も前のものなのよ、これ。すごいでしょう」
 そう言って胸を張るリーンの言葉に、そのすぐ後ろにいた褐色の少女も伏せていた顔をあげた。ほっそりとした白い手を伸ばして乳色の石を指し示しながら、リーンが微笑う。
「3世紀頃、すごく昔に作られた、都市の門の跡なんだって。掘り起こされた時代も古いから、なんか傷んでいるけど」
 鬱蒼と繁る木々の中、2本の石柱が横たわっていた。1000年を越える時を経たという石材は、何があったのかところどころが破壊され、蒼い苔をまとって静かに佇んでいる。翳る陽光に露が反射し、きらきらと輝いている。鮮やかな青い羽根をした小鳥が、闖入者に驚いたのかさっと飛び立って、3人の視界から消えた。
「ヴィー・ズィー ――君も来てくれ!君の持っている荷物の中に、設営道具が入っているんだぁ!」
 のそのそと門の遺構から離れながら、アッシア教師が遺跡を眺めていた褐色の肌の少女を呼んだ。はい、と短い返事をしてヴィー・ズィーは彼らのほうへと足を向けようとしたそのとき、リーンが歩き始めた彼女に言葉を向けた。
「ヴィー・ズィーってすごく力持ちなのねー。男連中とそんなに変わらない量の荷物で同じ距離を歩いてきたのに、まだまだ余裕がある感じだもの」
「……鍛えているから」
 そう短な返答を返して、ヴィー・ズィーはすたすたと歩いて去っていく。華奢にも見える背中に背負われた大きな荷物が、リーンの網膜に映った。カバンを片手に、薄青色のリュックを背負う褐色の少女の後ろ姿が、いっとき止まる。そして小さく左に迂回して、ヴィー・ズィーの背中は遠くなった。その背中を見送りながら、リーンはぽつりと呟く。
「ヴィー・ズィーってさ、あんまり喋んないよね。どうしてかなぁ」
「もともと無口なかたなんじゃないでしょうかー。しゃべるのが嫌いなかたって、けっこういらっしゃいますしー」リーンの独り言ともとれる言葉を捉えて、ヴェーヌが言葉を返した。
「そうかもしれないんだけどさぁ」
「なにか気になるんですかー?」
 つぶらな青い眼に見入られながら、リーンはうーんと眉根を寄せた。
「なにか思いつめているように見えるのよね、ヴィー・ズィーって」
「たしかにー、思慮ぶかいかたではあるようですけれどぉ」
「なんだか、とっても辛そうにも見える。気の所為かもしれないけど」
「リーンさんは、どうして、そう思うんですかー?」
「だから、なんとなくなんだけどさ」リーンはもごもごと口の中で言った。「それに、嫌いだな。ヴィー・ズィーって呼び方。なんだか人の名前っぽくないじゃない」
「でもぉ、それはヴィー・ズィーさんが自分でそうよぶようにっておっしゃられたわけですしー」
「でも、私、好きじゃない」
 僅かに強くなったリーンの口調に、ヴェーヌは帽子をかぶり直した。水掛け論になりそうな会話を打ち切ろうという意志表示のようだった。そして、わたしたちもいきましょぉ、と、くるりと反転して体のサイズにあった大きさの荷物を負った背をリーンに向けた。見下ろせてしまえるその小さな背を追うように、リーンも体の方向を変える。
 そして彼女は、先程ヴィー・ズィーが踏まないようにと避けた、白い花を見た。白い花弁が震えるように幽かに揺れた。

「だって、記号みたいじゃない」