7. 『大事な、話があるんです』





 ようやくテントの設営が終わったころには、もうほとんど日は沈んでいた。そこから簡単な夕食を取ったあと、自由行動の時間になった途端に、疲れ果てていた生徒たちは、眠る為だろう、ふらふらとテントへと戻っていった。アッシア教師も同様だった。ただ彼は、少しうとうととしただけで、何故だか寝付くことができなかった。それで、彼はまた、夜の散歩に出ることにした。
 少しじじくさい趣味かも知れないとアッシア自身でも思うが、自然の中を散歩するのは気持ちが良い。それに、ヴィー・ズィーのこともあって、心が少し重くなっていたので、それを少しでも晴らしたかった。
 その晩は、星も月も出ていた。青白い静寂がする世界は、闇自体がまるで命であるかのように、瑞々しく息づいていた。アッシアがテントから出たとき、彼に声をかけるものがあった。クロさんと呼ばれている黒猫だった。
「散歩か?」
「ええ、見回りも兼ねまして。クロさんも、一緒にいかがです?」
 アッシアの問いかけに直接の答えはなかったが、黒猫はしゅるりと立ち上がり移動を始めた。それが肯定だろう。
「猫は眠りが浅い」
 言い訳とも愚痴ともつかず、黒猫はぼやいた。
 月光に照らされて、木々や下草が浮かびあがる。この辺りは遺跡とは呼ばれているが、古代の遺構はほとんど手付かずの状態になっている。たまたま門の部分が掘り起こされて露出しているが、それは過去の不届き者が石材を盗み出すために掘り出したものの残がいに過ぎない。つまりは、ここは遺跡と言っても、ほぼ自然の林と呼んでも良いような場所だった。
 しばらくは、ひとりと一匹の間に会話はなかった。アッシアの下草を踏み分ける音と、黒猫が時折跳ねる音以外は、静かなものだった。その薄い沈黙を先に破ったのは、黒猫の方だった。
「アッシアは戦いが嫌いか?」
 ぽつりと、黒猫が聞いた。その声音は、世間話をするように平坦だった。実際、黒猫としては世間話のつもりかもしれない。けれど、アッシアは苦笑した。当然、先日嘔吐してしまったことを念頭においての質問だと思った。
「もちろん、好きではないですね」
「だから、家を飛び出してきたのか?」
 アッシアはすぐには答えなかった。少しの沈黙があった。だが、夜の森では、代わりに質問に答えてくれるような存在などあるわけがない。観念したかのように、アッシアは口を開いた。
「個人の心情としては、好きか嫌いか、という次元の話ではないのですけれど、ええ、大雑把に言えばそうです」
「そうか。私は、戦いや殺しが、好きか嫌いかを考えたことすらなかった」
「それは」どういう意味ですか、とアッシアが逆に聞いた。
「戦いや殺しが、余りにも日常に近かった」
 黒猫が答えた。そして、いや、と少し言葉を訂正する。
「というよりも、戦いや殺しが日常だった。だから、何も感じていなかった」
 戦いや殺しが、食べることや眠ることといった日常の延長線上に置かれた場合、ひとは何も感じなくなるものだろうか、とアッシアは自問する。すべての人が何も感じないわけでもないだろうが、そういう人が居てもおかしくはないように思えた。繰り返される日常は、人間の感覚を鈍らせる。
「だから、戦いについてそれほどまでに感じられるアッシアが、少し」
 うらやましい、と黒猫は言った。黒猫のその感想は、どこか的が外れているような気がしたが、アッシアはただ、そうですか、と軽く笑った。
「戦えなかったのは、ずっと初めからか?」
 そう黒猫が話題を転じるように問いかけると、アッシアは、いえ、と首を振った。
「戦うと頭痛や吐き気がするようになったのは――6年くらい前の話です。ちょうど」言って、アッシアは右篭手を左手で軽く撫でる。「この火傷を負ってからです」
「レイレンという暗殺者」黒猫が言う。「それにも、右腕に火傷の痕があった」
 レイレンと言えば、大陸で高名な暗殺者の名前だ。アッシアには、黒猫がどうしてそんなことを言い出したのかはわからなかったが、ただ火傷の痕を撫でた。ふうん。そうか。
「稀代の暗殺者と、おそろいか」
 唇の端をあげて、アッシアが言った。
 そして思う。右腕の火傷の痕は、まるで、罪深い者にくだされる徴のようではないかと。



                           ■□■



 その男は、廊下の柱の陰に潜んでいた。
 水色の従者服を着ているが、従者にしてはなにかがおかしい。動きはしなやかだが、どこか場にそぐわないように見える。隙が無さすぎるのだ。そして、顔を覆う長い黒髪。垂れさがる髪のせいで、彼女の位置からは顔が見えなかった。
 しかし傍からみれば、その男はまったく自然に宮廷に溶け込んでいた。主人に何か些細な用事を言いつけられた従者が、少しの休憩をとっているだけのようにも見えただろう。
 柱の奥の方から、二人の男が歩いて来る。巨体の卿と、痩せ型の従者がせかせかと歩を進めていた。急いでいるように見えるのは、おそらく彼らが政務を少しの間抜け出してきたためだろう。
 大柄の卿の僅か後ろにつき従うように従者。まるで熊が歩く枯木を従えているようだった。熊と枯木は赤い絨毯が引かれた宮廷の廊下を踏み進み続ける。他に人はいない。警備兵すら、立っていない。ちょうど交代の時間だった。
 せわしい足音が。熊と枯木は、男の潜む柱へと段々と近づいてくる。
 そして熊と枯木は、男の潜む柱がある一点を通過した。
 その瞬間は、何も起きなかった。
 だが、枯木が柱を背後にしたその瞬間、その男が動いた。
 音も無く背後につき、枯木のような首に手を伸ばす。
 男が何かを呟いた瞬間、ぱしゃりと音がした。
 水風船が落ちて割れたような音に、熊のような巨漢が振り返る。
 卿が表情を驚きに変える前に、男は懐にしていた拳で巨漢の首を撫でた。
 ぱっと鮮血が散った。ひゅうひゅうと、気管が無意味な音を立てる。
 巨漢の卿の太い首は蝶番でもついたようにぱくりと曲がった。
 熊は子供の戯画のように目を見開いて、ぱくぱくと口を動かしている。
水色の服の男は青鈍色に光る片刃の短刀を拳に握っていた。肉厚の鋼で作られた、頑丈そうな刃。先程は気が付かなかったが、男は黒い皮手袋をしている。
 どさりと、卿の ―― 父の体が倒れた。既に息絶えていた。
 ざら、と短刀を持つ男の長い黒髪が揺れて、顔が覗いた。
 そしてその顔は ―― アッシア=ウィーズのものだった。


 はっとして、ヴィー・ズィーは目を覚ました。
 ようやくうとうととしたほんの少しの間に、夢を見たようだった。じっとりとした気持ちの悪い種類の汗が、彼女の体を覆っていた。毛布から手を出して額を拭い、指先で首筋を触ると、不快な感触が指についた。
 静かな夜だった。
 分厚いテントの布地の向こうに、星明りが透けて見える。同じ布地に、鬱蒼と繁る木陰が映る。少し離れた小川から、さらさらと幽かなせせらぎがまるで子守唄のように聞こえてくる。
(……夢か)
 胸の中で呟きながら、ヴィー・ズィーは静かに溜息を吐く。
(アッシア=ウィーズ。レイレン=デインかもしれない男)
 何度思ったかわからない事実を、声には出さず唇だけで呟く。
 仮病まで使って教室の用事を抜けて、遺跡があるという森の中にまで追ってきてみたはいいが、アッシア教師と父の仇とを結びつける有力な手掛かりは、得られていなかった。相変わらず、レイレン=デインの特徴と一致する右腕にある火傷の痕だけが、ヴィー・ズィーの持つ証拠だった。
 だが、不審な点はいろいろある。アッシア教師は戦うことができないというが、その割には格闘技術が高すぎる気がする。そして、移動中に幾度かそれとなく尋ねてみたが、アッシア教師は話を巧みに逸らして過去のことを話そうとしない。戦闘行為を行うと激しい頭痛と吐き気に恐れ割れるため、戦うことが出来ないというのも不思議な話だとは思うが。
 もし、アッシア教師がレイレン=デインだとしたら、という仮説を立ててみる。
 そうだとすると、格闘技術を持っているということに説明がつけられるし、過去を話そうとしないという疑問にも答えることができる。そしてさらに、暗殺者レイレン=デインは何かがあって戦えなくなり、学院教師になった、と考えると、仮説は矛盾も破綻も無く機能する。
 だから、足りないのは証拠だ。右腕の古傷だけでは、どうにも決め手に欠ける気がする。
 では、何があれば確実な証拠たりえるのか。彼女は考える。いくつかを考え、いくつかを打ち消す。ぐるぐるとくるくると思考がまわる。だが世界は相変わらず幽かな沈黙を続けている。
 そして、彼女は、考えることも眠ることも諦めた。むくりと起き上がると毛布を体から引き剥がした。体でも動かして、頭をすっきりさせることにした。
同じテントに眠るリーンたちを起こさないように注意しながら、ヴィー・ズィーは半袖のティシャツの上から柔らかいスウェットをかぶり、靴を履いてテントを出る。出た途端、森の露を含んだ冷たい夜気がじっとりとした汗に湿る顔にあたった。肌に突き刺すような冷たさだった。
 とりあえず顔を洗おうと、ヴィー・ズィーはまだぼんやりとする頭でテント近くの小川へ向かう。夜露で湿り気のある草を踏み分けながら進んでいると、小川の向こうに指先ほどの、鋭い鬼火が見えた。
 警戒感に眉を顰めながらも、彼女は鬼火へと近づく。そして、鬼火の正体は暗闇に光る猫の目だと知れた。二つの鬼火は、小川へと近づく少女をじっと見返している。そしてその猫の鬼火の傍ら、暗闇の中にぼんやりと動いたひとつの人影を、ヴィー・ズィーは見た。



 やあ、こんばんは。
 闇の中の人影は、そう声をかけてきた。その声には聞き覚えがあった。アッシア=ウィーズ教師の声だ。ヴィー・ズィーは小さな声で夜の挨拶を返しながら、どうすべきかを一瞬迷う。
 このまま近寄るべきか。それとも立ち去るべきなのか。
 近づくべきだ、という判断をすぐさま彼女は下した。立ち去る理由は特に見当たらなかったからだ。ヴィー・ズィーは森の闇に埋もれてしまって見えない人影に向けて歩きだした。
そして、進める一歩ごとに、ヴィー・ズィーはある決意を胸中で固めていった。
 今、アッシア教師を父の仇と疑う材料は充分に揃っている。あと足りないのは確定するための証拠だけだ。だから、ヴィー・ズィーはアッシアに直接尋ねることにした。彼がレイレンなのか、そうでないのかを。
 問い詰めるにしても、そのための持ち駒はほとんどない。アッシア教師が『はずれ』ならばそれはそれで良いが、もし『当たり』だった場合、言い逃げられてしまえばそれで終わりだ。以後は警戒されてしまうだろうし、悪ければ、この場で始末されてしまう可能性もある。本物のレイレン=デインならば、それくらいやってのけるだろう。
「君も、夜の散歩かいヴィー・ズィー?」
 アッシア教師に問われた褐色の少女はそれには答えずに、歩く速度のそのままに、ただ前進した。とん、と、とん、と飛び石を軽く蹴って小川を跳び渡る。
 だがそもそもが玉砕ものの復讐なのだとヴィー・ズィーは思う。証拠固めをして彼がレイレンだと確信しても、大陸随一の暗殺者と言われたレイレンを殺せるかどうかはまた別の話だ。そして彼女はそれだけの実力が自分にあるとは疑わしいと思っていた。
 それに、とヴィー・ズィーは付け加える。目的は、きっと復讐それ自体であって、復讐を遂げることではないのだ。他人が聞いたら、きっとおかしな話だと思うのだろうが。
 私は生きるために復讐をしている。生きることが止まってしまえば、復讐する必要も無くなる。
 そこまで考えて、ヴィー・ズィーは心の中で自分を嘲り笑った。
 ――なんだ、それじゃあ自殺志願者と変わらないじゃない。
 思いながらも、ヴィー・ズィーはアッシア教師へと歩を進めていく。ようやく相手の表情がわかるくらいの位置まで来た。教師は顔を空へと向けて、草の上に腰を降ろしていた。彼の視線の先には、満天の星。
「変な話だとは思うんだけど、自分の住んでいるところで見る星の光と、旅先で見る星の光というのは違うと思うんだ。同じ光のはずなのに、何故か旅先の星は綺麗に見える」
「アッシア先生」喉から飛び出した声は、ヴィー・ズィー自身が予想したよりも強いものだった。「大事な、話があるんです」