2. 『レイレン=デインという男』
レイレン=デインとは、大陸西部では高名な暗殺者の名前だった。
暗殺者という職業の常で、その姿形や特徴、経歴などは一切が闇に包まれている。仕事の結果すら、これはレイレン=デインの仕業ではないか、と噂で言われる程度で、確証というものはない。だが、裏の社会というものはあるもので、そこでの噂が、破れ鍋の底から滴り漏れるように表の社会に伝わり、そのかすかな噂で、レイレン=デインという人間の存在が伝えられている。
噂はさまざまを伝える。
いわく、レイレンは長身の男なのだ。
レイレンは東方からやってきて、誰も知らない魔術を身に付けているのだ。
各国の要人を暗殺し、その数は千人にのぼるのだとか。
右腕に火傷の跡があるのだと。
だけでなく、頬にはっきりとした刀傷があるのだ。
そんなわけはない、腕の立つ暗殺者が手傷など負うわけないだろう。
レイレンはベルファルト王国に雇われているのだと。
いやいや、レイレンは一匹狼で誰にも雇われず、仕事のあとは雇い主すら殺すのだと。
しかし、噂は噂でしかなく、真実を伝えることはない。空気のように膨らんだ噂は、やはりただ空気のように広がって、実際からは、かけはなれている。
つまり、レイレン=デインという存在は、多くのひとが知っているのに、誰も実像を知らないという、本当に空気のような存在だったのだ。
だから、昨晩に満天の星空のもとで、実は自分がレイレン=デインだという、黒猫の告白を初めて聞いたとき、アッシアはそれを素直に信じることができなかった。
――冗談でしょう?
アッシアの第一声はそれだった。
しかし、黒猫は黙って首を横に振った。
そうして、黒猫は、アッシアに向かって、レイレン=デインの半生を語ってみせたのだ。
それは、本人にしか語り得ない半生だった。話の結びとして、黒猫は、7賢者のひとりでもある『奇術師』ピエトリーニャの暗殺に失敗し、猫の体にされたことを話した。
黒猫の話に、矛盾はなかった。だが、突拍子がないことも事実だった。それゆえに、アッシアは、黒猫の話を、正直なところ信じかねていた。
いくら歴史の中で魔術が発展しているといっても、生物組成を作り出すような魔術技術は未だ発明されていない。だから、人間が猫に姿を変えたなどと言われても素直に飲み込めるものではない。しかも、姿を変えられた人間が、世間にまで知られている暗殺者であり、変えたという人間もほぼ伝説上の魔術師なのだから、眉唾ものの話とするしかない。
それでも――黒縁眼鏡の教師が、それを嘘だと断定できないのは、黒猫の態度があまりにも穏やかで、真実を語る者のそれでしかないからだった。
だが、もし、この黒猫が稀代の暗殺者だったとして、それからどうしたらいいのかも、アッシアには判断がつきかねるところだった。
暗殺はただの人殺しだ。だから、その行為を称賛するつもりはまったくないのだが、古代学を学ぶアッシアは、暗殺にも一定の価値があると認めてはいた。歴史上の大事件には、必ず誰かの死が伴う。それは、大事件だから死が発生するのだというよりも、旧い時代の終わりの象徴として、あるいは歴史の区切りとして、不可視の巨大な何かによって、誰かの死が要請とされているのだと彼は考える。善悪ではない。ただ歴史を振り返ったとき、そう感じるだけなのだ。
時代の大きな転換点には、新しい権力者や思潮の発生とともに、旧い権力者の死がある。創造とともに、破壊がある。その破壊の一表現として、暗殺がある。
それを実行した人間を、即、悪として処断できるのか。アッシアには判断がつきかねた。だが、少なくともそれは、アッシアの手で為されるべきではないということだけは、感じていた。
結局のところ、アッシアは、レイレン=デインを名乗る黒猫に対して、なんらの結論もくだせていなかったのだ。だから、黒猫から答えを迫られたとき、まるで借金取りに負われる文無しのように、動揺した。
「聞かせてくれ。お前は、昨日の私の話を、どう思った」
レイレンを名乗る黒猫が、アッシアに問いかけた。
「昨日の話。どうって――」
問いかけられた黒縁眼鏡の教師は、初め動揺し、次に逡巡し、最後に諦めたように溜め息をついた。確認するように後方を見遣ると、少し離れたところで、女教師とその生徒はまだ話し込んでいる。そして改めて、アッシアは自分の肩に乗るクロさんへと視線を向けた。
「わかりません。判断するための根拠が足りていないと思います。……クロさんの言うことを信じないわけではありませんが、まだ判断は保留にさせてください」
首を振りながら、けれど、アッシアは昨晩の黒猫の話を、思い出していた。
それは、レイレン=デインという人間の半生を語ったものだった。
彼――レイレン=デインは、生まれたときから傭兵だったという。
母も父も知らなかった。恐らく孤児だったのを流れの傭兵隊に拾われたのだろうとレイレンを名乗ったその黒猫は語った。
働き口である戦争がなければ、性質の悪い傭兵隊は、その武力を生かしてたちまち野盗盗賊の類いに転身する。レイレンがいた傭兵隊はそう言った手合いだらしい。野卑、という一言で言い尽くすことのできる男達の中で育ったレイレンは、自分の出自など知ろうとも思わなかった。興味がなかった。それに、周りにいる人間は、どいつもこいつも似たり寄ったりの境遇だった。
「俺は今こうして生きている。それだけでよかった」
そう黒猫は言ったのだ。
15歳になって、レイレンは傭兵から暗殺屋へと商売を変えた。理由は単純だった。
おまえには人を殺す才能があると、そう傭兵隊長に判じられたからだ。
傭兵か、暗殺屋か。どちらも大差は無いと、レイレンは考えたらしい。そうして、稀代の暗殺者は、駆け出しの暗殺屋として、その第一歩を踏み出したのだ。そして、レイレンは、暗殺屋として真面目にこつこつと――というとおかしいかもしれないが――働いた。働けば働くほど、腕を認められて、依頼が増えた。そして、今から10年前のある日、ベルファルト王国のヨゼフ=スイマール大公に雇われて、レイレン=デインという暗殺者は、その高名を不動のものにした。
――自分にできることをやっていたら、立派な暗殺者になってしまっていたというわけだ。
レイレンを名乗る黒猫が自嘲気味に吐き棄てた言葉が、アッシアの印象に残った。
暗殺以外の任務もあった。それが、6年前の北王戦争の時、ベルファルト王国と敵対したアーンバル王国の第二師団長、『炎戮』エレ=ノアとの、一時休戦の秘密交渉任務だった。大公ヨゼフの全権を委任されてのレイレンの交渉は、成功した。そしてこの一時休戦が、北王戦争の終結へと繋がった。
だがこのとき、レイレンは右腕に一生残る火傷を負ったのだそうだ。
そして北王戦争後、レイレン=デインは、暗殺業を休業し、各地を放浪した。
その理由について、黒猫は詳しく語ろうとはしなかった。思うところがあって、とだけぼそぼそと言った。
「自分が薄汚れた暗殺屋であったことを、初めて後悔した」
黒猫はそう語った。
後悔には、悔やむべき過去が必要だ。それと同様に、そうあって欲しかったという理想の過去が必要になる。人は、過去だけを後悔するのでなく、あるべき理想とそうではなかった過去の相違をこそ悔やむのだ。であれば、レイレンはこのとき、あるべき理想を見出したのかも知れない。それが何だったのか、アッシアは知りたかったが。――レイレンを名乗る黒猫は、そこまでは語らなかった。
そして3年前のある日、レイレンは、『奇術師』と呼ばれる魔術師ピエトリーニャの暗殺に失敗し、姿を猫に変えられてしまったのだという。
不意打ちで神経毒を盛られ、意識を失った彼は、ピエトリーニャの姿すら見ていない。加えて、目を覚ましたとき、レイレンは既に黒猫に姿を変えられていた。だから、どうやって黒猫になったのかも、わからないのだという。
この話だけでは、黒猫の話が真実だという確証は得られない。けれど、まるきり嘘とするには、妙に現実感がありすぎた。
だから、アッシアは判断を保留することにしたのだ。
証言も物証もないのに、本人の証言だけで判断をくだすことは合理的でない。その態度は、アッシアの古代学へのそれとも同じものだ。
つまりは、レイレン=デインについて、物証どころか証言すらも、アッシアは持っていないのだ。
◆◇◆
「レイレン=デインについて語る前に、まずは知らなければならないことがあるわ。それが、6年前の北王戦争。そしてこの出来事で、有名になった名前が、3つあるわ」
そう言って、エマ教師は風に広がる樺色の髪を押さえた。風に流されるままに、ふわりと緑の自然を背景に広がった髪は、まるで緋色のスカーフのようでもあった。
突然始まった講義に、生徒役のヴァルは真剣な目を向けてただ頷いた。いや、実際、彼女たちは教師と生徒の関係であるのだが。
綺麗な青色の小鳥は、すでに梢から飛び立っていた。ただ、彼女たちがまだ立ち止まっているのは、一羽の鳥に興味をひかれ足を止めたその場所で、ヴァルがエマにあることを尋ねたからだった。
――レイレン=デインとは、どういう人間なのですか。
突然と言えば突然の質問だったが、ヴァルという褐色の少女にして見れば、ずっと訊く機会をうかがっていた質問なのだろう。何故なら少女は復讐者で、レイレンという名前はその仇なのだから。黒い瞳に真剣なものを宿らせて、ヴァルは樺色の髪の教師を見詰める。
樺色の髪の教師は、生徒のその瞳に真剣さよりも悲壮さを感じてわずかに、目を逸らした。だが、質問をはぐらかす気は無く、言葉を発した。それが、先ほどの講義のような言葉だ。
北王戦争が、大陸西部の北にある2国、アーンバル王国とベルファルト王国との1年戦争であったことは知っているわよね、とエマ教師は前置きし、話を始めた。
「有名になった3つの名前――ひとつは、ベルファルト王国の大公の一人、ヨゼフ=スイマールという名前」
エマは、言葉を続ける。
彼は、その智謀でもって要所要所で勝利を収めると共に、味方のベルファルト王を説得――恫喝し、終戦に合意させ、北王戦争を終結に導いた。結果として、戦争後に政治的影響力を飛躍的に高めた。
「もうひとつが、二人いるベルファルト王国の大公の残りの一人、ルドルフ=デグラン」
ルドルフは自家の精鋭騎士団を自ら率いて神出鬼没の奇襲を繰り返し、たびたび大勝利を収め、アーンバル王国軍を恐れさせた。
「そして最後の名前が、アーンバル王国軍のエレ=ノア」
戦争が始まるまではまったく無名だったエレ=ノアだが、開戦とほぼ同時期にその頭角をあらわした。異能ともいえる絶大な魔力によって放たれる一撃は、防御不可能威力で、瞬く間に一軍を焼け野原に変えた。その異能さは、七賢者と比肩すると言われている。炎熱魔術を特に得意とした彼女を、味方は称え『炎の女神』と呼び、敵は慄き『炎戮の悪魔』と呼んだ。
そこまで言って、エマは、褐色の肌の生徒に微笑みかけた。
「この話がレイレン=デインと何の関係があるのか。そういう顔ね」
ヴァルは、瞳を大きくして、頬を擦り、否定するように慌てて小さく首を振ったが、その行動こそが、エマの指摘が図星であることを表していた。エマは余裕を持った笑みで、また言った。
「魔術を使えた私は、北王戦争に、姉さんと一緒に参加したの。もちろん、私の母国であるアーンバル王国側でね。ううん、厳密には、姉ではないわね。血が繋がっているわけではないから。だけど、私達は姉妹のようにして育ったから、ずっとあのひとを、私は姉と呼んでいるの。――その姉というのが、実は、エレ=ノア」
エレ=ノア。それは、先ほど出てきた名前だと、ヴァルは気がつく。
「姉さんは、その絶対的な魔力を使った魔術で、次々と軍功をあげた。劣勢だった戦況を一気に覆した。そして、医療班の一員だった身分から、戦時中に大佐まで累進したわ。姉さんといつも一緒に行動していた私は、それに合わせて少尉まで昇った」
ヴァルは、相変わらず笑顔を浮かべているエマ教師を見た。そしてその笑顔に、どこか寂しげな影があるのに気付く。6年前と言えば、エマ教師は当時まだ17歳。今の自分とさほど変わらない年齢であることを思った。
「累進した姉さんは、一軍を率いて北の要塞に篭もり、攻撃軍であるベルファルト王国軍の主力と対峙した。その主力軍を率いていたのが、ヨゼフ=スイマール大公」
ヨゼフ=スイマール大公。それも先ほど出てきた名前だとヴァルは思う。
「その大公が、姉さんのところへ休戦の密使を送ってきた。密使が姉さんに面会したそのとき、私は、姉さん付きの士官として、その場にいたの」
ゆっくりと、エマは言った。
ヴァルは想像する。ちらちらと粉雪の舞う城外、対峙するふたつの影。その一方に寄り添うようにして立つ、樺色の髪の士官。暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる薄暗い部屋。
「そして、そのときの密使の名が、レイレン=デイン」
一語一語を区切るように、はっきりとエマ教師が言った。
ようやく話が繋がった、とヴァルは思った。
|
|