3. 『忘れないで』





 6年前の北王戦争で。
 エレ=ノア大佐の陣中にやってきた、レイレン=デインという暗殺者。その暗殺者の役目はしかし、女大佐の暗殺ではなく、休戦交渉を成功させる密使だった。
 エマは、そのときアーンバル軍の士官で、密使としてやってきたレイレンの応対をした。それがふたりの初めての出会い……。
 ヴァルは、エマの話を頭の中で整理した。
 整理してみれば、なんとも簡単な話だった。
 しかし、長年ずっと追ってきた仇が、実は自分の担任教師と知り合いだったとは、なんという巡り合わせだろう。そう思い返してみれば、さざなみ立つように感情が昂ぶる。
「エマ先生は……、ずっと、知っていて私に黙っていたんですか……? 自分がレイレンを知っていることを……」
 ヴァルはかすれ気味の声だ。
 エマ教師は、生徒のその姿を、悲しみすら感じられるような静かな目で見つめていた。ヴァルは、声を出すたび、それが震えて発せられている。それが自分でもわかっているのだろうが、抑えられないようだ。震えた声を出すごとに感情が乱れて累積し、自制がきかなくなっているのが見て取れた。
 問いかけられたエマは、一瞬、首を横に振りかけたが、少時の沈黙の後、諾として首を縦にした。
「そうね。隠していたと言われれば、その通りね。でもそれは、言えば貴女に無用の混乱を与えると思ったからだわ」
 落ち着きのあるエマ教師の言葉。しかし、今のヴァルには、納得できない。
「私が、必死にレイレンの情報をかき集めるのを知っていて――、先生は私を放って――、レイレンを庇おうしていらっしゃるんですね!?」
 ヴァルは、飛び飛びになっている思考のまま、言葉を繋いだ。しかし、エマ教師は、あくまで冷静な言葉を返す。冷たい水こそが、落ちるべきところに染みわたる。
「ヴァルヴァーラ、隠しごとをしていたことは謝るわ。けれど、レイレンの情報を、貴女に喋らなかったのは、その方が貴女のためだと思ったからよ」
「どうして、何が私のためになるだなんてわかるんですか!」
「復讐は、破壊の連鎖を招くだけ。何も産まないわ」
「先生は、身内を誰かに殺されたことがあるんですか? 身内を殺された人間の気持ちがわかるんですか?」
「落ち着いて、ヴァルヴァーラ」
「私は……、冷静ですっ……!」
 言いながら、涙がいつの間にか込み上げてきているのに、ヴァルは気がついた。ヴァルが、自分の掌で目尻を拭うその間に。エマ教師は、諭すようにゆっくりと話し始めた。
「――レイレンは、いかに戦争中と言えども、たくさんの人を殺しているわ。だからきっと、あのひとは、まともな死に方はできないわ。だれかに殺されることもあると思う」
 そしてそれは自分自身にも言えることだとエマは心の中で呟いたが、音声には乗せなかった。
「レイレンが誰かに殺されるとして、でも、彼を殺すその人間が、貴女であって欲しくないの。ヴァルヴァーラ」
 真剣な眼差しを、エマは生徒に向けた。ヴァルは黙って次の言葉を待っている。
「貴女には、時間を大切に使って欲しい。時代がそれを要請していないのに、無理に血なまぐさい世界に身を投じる必要はないわ」
 そう言われて、ヴァルは、目の前の女教師が、今の自分と変わらない年の頃に、北王戦争に参加したことをまた思い出した。エマ教師が17歳の頃に何を感じ、何を思い、そしてそれから何を目指してきたのか、うっすらとわかったような気がした。
 だがヴァルが何かを言う前に、エマ教師は、納得していない顔ね、と苦笑した。
 エマ教師だってわかっているのだ。正論は、正しいけれども、苦しみを和らげてくれはしないのだと。だから、これは今、必要な言葉ではないのかもしれない。だけどそれでも、伝えなければならないことはある。
「けれど、このことは忘れないでおいて」
 自分の唇に人差し指をつけて、エマ教師が囁く。優しげな微笑みを湛えながら。
「私は、貴方に幸せになって欲しい。だから、貴方には幸せになる道を選んでもらいたい――それは、きっと貴方のお友達も同じように思っているはずよ」
 お友達――リーンのことか、とヴァルは思い当たる。
「いいお友達みたいね。貴女、とても雰囲気が柔らかくなったのよ。自分で気が付いているかしら?」
 ヴァルは、おずおずと戸惑うようにしかし、確かに、小さく頷いた。
 エマ教師はそれを確認して、満足そうにひとつ頷いた。そして、この教師は思う。まだ始りなのだと。きっとこの言葉では、伝わっていないだろう。こういう幸せは、多くの場合、失ってみて初めてわかるもの。けれど、失敗してからでは遅いから、せめてこうして、生徒に繰り返して伝えていくしかないのだと。
 エマがそんなもの思いにふけるようにしていたそのとき、ヴァルが、ひとつ訊いても良いですか、と話題を転じた。続けて簡潔に問いかける。
「エマ先生は、レイレン=デインと親しかったんですか?」
 突然。意外。そんな単語を頭に閃かせながら、エマ教師は、すぐに答えられなかった。
 女教師は、戸惑うように自分の樺色の髪へ、白い指を入れた。そうね。
 それだけを呟き、しばらく記憶を辿るようにして、もう一度、

「そうね」

 とだけ言った。
 ヴァルは、だったら、と何かを迷うように言葉を継ぐ。
「だったら、私がレイレン=デインを殺したら……エマ先生は、私に復讐しますか?」
 また、しばらくの間があった。
 そして、エマ教師はゆっくりと首を横に振った。
「わからない」

 それは、どういうことなのか――。

 どういう意味なのか、ヴァルが考える前に、二人を呼ぶ声がした。
 声のした方を見ると、黒縁眼鏡の教師が手を振っていた。そういえば、遺跡に向かう途中だったのだ。
 慌てたようにして、エマ教師は、
「いけない、話し込んじゃった――走るわよ、ヴァルヴァーラ」
 話はそこで打ち切られた。
 そして華麗な外見とは裏腹な、意外に身軽な動きでエマ教師が駆け出す。
 女教師のその後を、ヴァルは焦って追いかけたのだった。



                                ■□■



 動物は、人間よりも感覚が鋭いという。だから、犬が何も無いところへ向かってやたらと吠え立てたり、猫が何も無いところをじっと見詰めていたりするときも、犬や猫は、なんらかの気配を感じているのかもしれない。
 レクシアは、そんなことを思い出しながら、前を歩くエキア=ファレンスを眺めていた。エキアは、先ほどからちらちらと左手側にある木立ちの方を見続けている。一体何が気になるというのだろう。
 疑問に思ったレクシアは、直接エキアに聞いてみることにした。
「ねえ、エキア。さっきから左側の木立ちを見ているけれど、何か気になることでもあるの?」
 私が気になるんだけど、と付け加えたかったが、苛立ちが現れるようなのでやめておいた。
「気配が……」
「けはい? それってあの子の?」
 喜びを交えながら、レクシアが聞いた。そして次に、だったら何でもっと早く言わないのか、と文句を思いついたが、それも言わない。言っても仕方が無いし、とレクシアは思う。
「いや、違う」
「どうしてそう思うの?」
「こちらを気にしつつ、一定の距離を置こうとしている」
「それって……、けっきょく何?」
「おそらく、野犬か狐、そのあたりだろう。いや、それとも……」
「それとも? 何?」
「いや、なんでもない」
 相変わらず無口ね、とレクシアはもどかしく思った。このエキアを、周囲の女生徒たちはクールと騒ぐ。確かにクールと言われればそうかもしれないが、無口だろうがクールだろうが、レクシアにはどっちでも良かった。それよりも、こんな状況だと、情報を簡便に伝えてくれる方が助かるというのが本音だ。

 実は、いつの間にか、リーンがはぐれてしまっていた。姿が見当たらない。

 この遺跡は何度か来ているところだし、このあたりには大型の獣もいないということで、リーンの身の危険は心配していないのだが、そうはいっても、やはり気になってしまうのがレクシアだった。
 キャンプをしているところから都市慰霊碑まではほぼ一本道だし、都市慰霊碑の周辺は、木々のない、開けた草原になっているので、ゆっくりと目的地へ進んでいれば、向こうから合流してくるとレクシアたちは考えているのだが。
 レクシアは苛立たしげに、歩きながら自分の親指の爪を噛む。
 どうせ、リーンは何か珍しい生き物にでも気をとられたんだろうけど、でも、どこか木の根にでもつまづいて、怪我でもしていたらどうしようか……。
「それほど気を揉んでいるなら、捜した方がいいんじゃないか」
 声がしたのでレクシアが顔をあげると、前を歩くエキアが振り返って彼女の方を見ていた。もちろん、捜すというのはリーンのことだろう。
「別に。捜さなくても大丈夫でしょ。この辺りは木もまばらだから視界を聞くし、こんなところで迷子になるなんて、あの子だってそこまで馬鹿じゃないわよ」
 冷静なふりでそう言い放ちつつも、レクシアは想像する。例えば、悪意のある人間がこの近辺に潜んでいて、そうした人間にリーンが襲われていたとしたらどうだろう。現に、学院の地下にも素性の知れない狂人が潜んでいたではないか。この遺跡でもそうしたことが、無いとは言えない。
「とても大丈夫だと思っているようには見えないが」エキアが続けて指摘する。
 う、とレクシアは内心唸る。悪い想像をしたとき、それが表情に出てしまったのか。エキアは無口な癖に、それなりに観察をしているらしいとレクシアは思った。いや、無口と観察とは関係ないかとも思い直す。この無口なエキアは、体術となると、かなりの技量を持っている。学年を無視して学院全体で計っても、上位にランクインする。となれば、相手を観察することにも長けているということなのだろう。体を動かすことに関しては凡人の域を出ない自分とは感覚が違うのかもしれない。
 やっぱり、知っているのと、実際に体を動かすのは違うんだなあ、とレクシアは軽く溜め息をついた。
「どうかしたのか?」
 溜め息を不審に思ったのだろう、エキアがついに立ち止まった。
「あ、いえ、なんでもないわよ。ちょっと……そうね、リーンがやっぱり心配だから、少し捜しましょうよ。もと来たみちを戻ってみましょう」
 そう言って、自分の挙動不審ぶりに内心舌打ちしながら、レクシアが身を翻しかけた、そのときだった。
「あー、やっと見つけたー」
 聞きなれた声がして、レクシアは後ろを振り向いた。
 だが、後ろの一本道には誰もいなかった。
 いや、よく見ると、黒い影が、緑の草の上を滑らかに移動している。
 レクシアは、すべてを理解して空を見上げた。上空には、黒髪をポニーテイルにした細身の少女が、見えない坂でも滑り降りるように、なめらかに移動していた。
 細身の少女は、身に纏うように展開していた魔術文様の一部を組替える。
「木々鳴る地との絆」
 魔術が発動し、ぐん、とリーンが滑空する高度が下がった。そして、みるみる地面との距離が縮まったかと思うと、するりと草地に着地し、そして、慣性のために5ヘートを小走りに進んだ。
 細身の少女には、少なくとも目立った外傷はないようだった。リーンを見つけ、レクシアはほっと心のなかで胸を撫で下ろしながら、つんと角眼鏡をかけなおした。そして、声をかけようとリーンに近づいたそのとき、着地したばかりのリーンがくるりと振り返り、
「もー、ふたりとも捜したよお。はぐれちゃ駄目じゃない」
 レクシアは一瞬絶句した。
 完全に想定外の言葉だった。そもそもはぐれたのはリーンの方だというのに。いや、確かに視点を変えれば、レクシアたちふたりの方がはぐれたという見方もできなくはない。だが、通常こういうとき、人数が多い方をはぐれたことにするものだろうか……などと色々と異論は心の中に浮かんだが、結局、レクシアは、まあ無事に合流できたことで良しとすることにした。なので、別のことを口にした。
「リーン、あなた、こんなに木が多い場所なんだから、跳躍魔術を使ったら危ないじゃない。いくら得意だと言っても過信は禁物よ」
「だって、高い場所から捜した方が便利だったんだもん」
 少し拗ねるように、リーンが言った。
 跳躍魔術は滑空魔術とも呼ばれる。名前は大層だが、内実は、重力中和の魔術と風を受ける魔術とを組み合わせて微調整するだけの魔術だ。魔術で体重を軽くして跳躍し、高く遠くまで跳ぶ、それだけである。それほど遠くまではいけない。空中にある間は風の影響を受けるので、帆船が帆で風を受けるように、風受けの魔術で風を受けたり抜いたりする。
 と、言うのは簡単だが、実際は細かい微調整が繰り返し必要になるし、魔術効果が切れるころを狙って、魔術を重ねがけしなければならない。当然だが、重力中和の魔術の重ねがけのタイミングを間違えれば、地面にまっさかさまだ。使える条件も限られるので、使い勝手はどちらかというと悪い。不器用な術者が使えば、あっという間にそのへんの木や地面に激突してしまう。
「で、寄り道して何をしていたのよ」
 レクシアが聞くと、リーンは右手に持っていた包みを示した。包み、とは言ってもきちんと紙で包まれているようなものではなく、ひとの顔ほどもある大きな葉でくるりと巻いてあるだけだった。そしてリーンは、それをほどいた。
「花……?」
 呟いたのは、一歩離れたところで成り行きを見守っていたエキアだった。
 緑の葉の下から出てきたのは、八枚の花弁を持つ白い花。凛とした綺麗な花だった。
「だって、都市のお墓に行くんでしょ。だから、お花がいるなあと思っていたら、綺麗に咲いていたから、もらってきたの」
「都市慰霊碑は、まあ、お墓という解釈で間違いはないと思うけれど」
 微苦笑を浮かべながら、レクシアはリーンが摘んで来た花を見た。白い花弁は瑞々しく、命に溢れていた。
 この瑞々しい花を摘んで来た当人を見ると、得意げな顔で胸を張っている。こういう素直な発想をするリーンが、微笑ましいとレクシアは思った。さきほどまでの苛々は、いつの間にかどこかへ消えていた。
「都市の墓に捧げる花か。確かに、必要かもしれんな」
「でっしょー?」
 エキアの呟きに、リーンが頭の尻尾をぴょこぴょこ揺らして反応した。
 確かに、学術目的であれなんであれ、墓に対する人間には、悼む気持ちが必要だろう。悼み無く墓の前に立つのであれば、その墓は墓である意味を失う。そして、対する人間は盗掘者とさほど変わらない。悼む気持ちの表れが、花なのだ。
 自分は気がつかなかったな、とレクシアは思った。
「確かにお花は必要ね。偉いわ、リーン」
「そんなに直球な誉め言葉だと、さすがに照れちゃうな」
 てへへと笑みをこぼすリーンを眺めながら、レクシアは改めて宣言する。
「それじゃ、都市慰霊碑に行きましょう。ここからなら、もうすぐだから」