4. 『せめて悼むことができるように』





 少し、空気が生暖かくなってきたとアッシアは思った。空を見上げれば、斑状になって一面に広がっていた雲は、少しずつ厚みを増してきている。ひょっとしたら、一雨来るかもしれない。そんな風に思って、顔をしかめたあと、今日のところは手早く終わらせた方が良さそうだと考えた。
 そうして、黒縁眼鏡の教師は、手で目の前の石造物を指し示した。
「ここが、最近発掘された遺構です」
 その遺構は、土に埋もれていた。入り口にかろうじて人が入れるぐらいの穴があけてあり、簡単な木板で作られた下に降りる為の階段が備えつけられている。
 エマ教師とヴァルは、戸惑うように遺構の入り口を見ている。どうやら、想像していたものと異なっていたようだ。
「ここは……身分あるひとの、お墓なんですか?」
 ヴァルが、おずおずと聞いた。地下に入る印象から、墓だと思ったのだろう。そう言われてみると、古代の王の墓の入り口に似ていた。しかし、アッシアは苦笑いして首を横に振った。
「これは、入ってみるとわかるけれども、ワイン工場だよ。規模が大きすぎて、屋根を覆う土も、中に入り込んだ土もすべて取り除ききれていないけれどね」
 アッシアは説明した。今見える入り口は、実際の4分の1ほどの広さもないこと。残りは、今は土の下になってしまっていること。奥のほうに進むと、それなりに広くなっており、壁画などを見ることができること。
「それでは、入ってみましょうか」
 説明を聞き終わり、果敢にもそう言ったのは、エマ教師だった。場慣れしているということもないのだろうが、逃げ腰なところは一切なく、声は平静だった。
 アッシア教師はひとつ頷くと、小山ほどある調査器具などの荷物をその場に置いた。荷物を背負っていては、そもそも中に入れないからだ。恐らく入り口につかえてしまうだろう。必要になってから調査器具を取りにくれば良いというのが、彼の考えだった。
 アッシア教師は魔術文様を展開する。
「ともしびの珠よ」
 呪文と同時、ぽう、と子供の頭ほどの魔術光源が出現する。その光球をすいと奥に進ませると、白い光に照らし出されて、ゆらりとずっと奥まで続いているらしい空間が浮かび上がった。



「この都市は、ワインが特産品だったと考えられています。昔の時代の書物に、ここで作ったワインが美味しいという記述があり、それが、この工場の発見で裏付けられたと考えることができます」
 アッシアが先頭で進み、そのあとに黒猫、エマ教師、ヴァルの順番で続いていた。内部はアッシア教師が最初に言っていたように広い空間が、土に覆われているものの、広がっている。黒縁眼鏡の教師は、解説を続ける。
「ここに、壁画があるのが、わかりますか?」
 するると光球が動き、壁面を白い光で照らす。そこには、ところどころ剥離した壁画がある。何人かのひとが、棒を持ち、さらにその棒を大きな樽のようなものに突っ込んでいるように見える。
「これは、なんです?」率直に、エマ教師は聞いた。
「葡萄の実と果梗を分ける作業をしている図です。そして、その隣が、絞った果汁に酵母を加えて発酵させる作業をしているところ」
 はあ、なるほどとエマは言った。
「この部屋から、樽や乾燥酵母の残がいが見つかっています。ですから、この壁画通りの作業が行われた可能性が高いと思われています」
 アッシア教師は説明を続けた。
「ワイン製造には、発酵後に、澱引き、熟成、濾過、瓶詰めの作業があります。それらの作業が、これから先の部屋で行われたと考えられています」
 そうですかと頷いて、エマ教師は奥を見る。この工場でワイン完成まで一連のすべての作業が行われていたと仮定するなら、この奥にさらにそれぞれの工程、作業をするための空間が続いているということになる。
「それでは、この遺構は本当に大規模なものなのですね」
 エマ教師の言葉に、アッシアは大きく頷いた。そう、その通りです。
理解してもらえて嬉しかったのだろう。喜び勇んで、アッシア教師が前進する。そのあとを、とてとてと――そんな足音がするわけがないが――黒猫がついていく。

 これは光源がひとつでは足りないと思ったエマ教師が、自前の光源を作ろうと紅い魔術文様を白い右手に纏わせた、そのときだった。ヴァルが、エマ教師へと話しかけた。
「エマ先生。ひとつ、どうしても確認したいことがあるんです。アッシア先生……、いえ、レイレンのことで」
 エマ教師は何も言わず、ただ頷いた。手には文様を纏わせたままだ。
「エマ先生が会ったとき、レイレンには、右腕に火傷の痕は、ありましたか」
「会ったそのときは、なかったわ」
「会ったそのときは?」含みのある返答だとヴァルは思った。
「そう。レイレンに初めて会ったときに、姉さんが火傷を負わせたの」
「エマ教師のお姉さん……エレ=ノアさんですか」
 そうよ、とエマ教師は短く頷いた。
「あの、どんな火傷の痕なのか、聞いても良いですか」
 ヴァルの言葉に、エマ教師は観念したとでも言うように、小さく溜め息をついた。とても特徴のある火傷よ。
「そうね、まるで右腕に縄を巻きつけたような、作為的な火傷よ。ひと目でそれとわかるわ」
「縄を、巻きつけたような火傷……」
 呟くように、ヴァル。ええ、とエマは頷くと、その言葉を呪文にして光源を出現させた。さっと部屋が明るくなる。
「あ、あの、もうひとつよろしいですか」
 どうぞ、とエマは言った。
「アッシア教師も右腕に火傷の痕をもっていらっしゃいますけれど、そのことについても何かご存知ですか。アッシア教師の火傷の痕は、まるで」
 まるで――。ヴァルは少し言い澱んだ。
「人間の手のようなかたちをしているんです」
 言われて、エマ教師は小首を傾げた。思い当たるところが無いようだった。
「残念だけど、ヴァルヴァーラ。アッシア教師の火傷については、私は何も知らないわ。それどころか、火傷の痕があるというのも、初めて知ったぐらいよ。実は、アッシア教師とは、これまであまり親しいお付き合いをさせてもらっていないの。これだけお話ししたのも、初めてなのよ」
 そうなんですか、と言って、ヴァルはほっと胸を撫で下ろした。そして、違和感に心の中で首を捻る。
 何故、自分がほっとしなければならないのだろう?



                                 ■□■



 その慰霊碑は、少女の背丈の2倍以上の高さがあった。
 すり鉢状に掘られた赤土の底に、まるで天に向かって歯向かっているかのように都市慰霊碑は立っていた。もしくは、天空から落ちてきた長大な石がそのまま地面に突き刺さっているかのようでもあった。
 慰霊碑を見上げる少女――リーンは、その慰霊碑の天辺をしばらく見詰めていた。手には花を持ち、傍目にはその異形に胸うたれているかのようであった。そして、彼女は見上げるのをやめ、後ろの二人を振り返った。
「首が痛くなっちゃった」
 実も蓋もない言葉に苦笑しながら、二人のうちのひとり、レクシア女史は角眼鏡をついとあげた。
「じゃあ、早めに作業を終わらせちゃいましょう。雲行きも怪しくなって来ているから」
 そして、女史の横に居たエキアが、ああ、と同意した。男なのに髪がさらと揺れた。

 生徒たちがこれからおこなう作業と言えば、どうということもない。都市慰霊碑に刻まれている文字を、それぞれ帳面に移す作業である。ただし碑文は古代の言葉であるため、すぐに解読するのは難しい。それゆえに、今は帳面に文字を写して、あとで古代文字辞典を引きながら解読作業を行う。
「レクシアさん、木炭貸して」
「はい」
 ありがとう、とレクシア女史から木炭を受け取ると、リーンは石碑の上に紙を重ね、上から木炭で軽く擦る。こうすることで、慰霊碑に刻まれている絵も写し取れる。世の中には画像を銀板に転写する魔術器具も出回っているが、高価な上にかさばり、それでいて画像の精度もさほどでもない。アッシア教師はこの遺跡に持ってきているようだが、生徒たちはその器具を持っていなかった。
「でもさあ、どうしてかなぁ」
 作業を半時間ほど進めた頃、ポニーテイルを揺らしながら、リーンが呟いた。
「どうして、みんなこの町に戻ってこようとしなかったのかな」
 お墓を立てるぐらい未練があるのに、とポニーテイルの少女は呟く。
 20年以上降り続いた火山灰にすっかり埋もれてしまった都市。でもそれは、20年後には、火山灰は降り止んだということだ。そうであれば、降り積もった火山灰を取り除くか、それともいっそ火山灰層の上に、新しく都市を築き直しても良かったのではないか。リーンはそのことを指摘した。
「他に住める場所があるのに、わざわざ、悪い条件でやり直そうとはなかなか思わないでしょ」
 碑文を写す手は休めず、レクシア女史が言った。眼は手元の帳面の上を走るペンを追い続けている。
「でも、自分たちが今まで住んでいた場所じゃない。その場所を棄てるって、寂しいことじゃないかなぁ」
「寂しいとは思うわよ。でも、再興させるには、あまりにも時間と労力がかかり過ぎるでしょうね」
「どれだけ時間と労力がかかったって、なんとかすべきだわ」
 そこで強くリーンは言った。
 レクシア女史はふと手を止めて、土の中から掘り起こされた都市慰霊碑を見詰めるリーンを見た。この子はとても純粋だ、とレクシアは思う。御伽噺に出てくる王様を裸だと指摘した子供は、きっとこんな風だったろう。
「リーンみたいに、なんとかしなきゃって思っていたひとはいたのよ」諭すように柔らかく、レクシア女史は言った。角眼鏡の奥のセピアの瞳を、そっと細める。「再興のための費用を捻出しようとしていた記録は残っているし、実際にこの都市をなんとか復活させようとした動きがあったこともわかる」
 でもね、とレクシア女史は言葉を続ける。
「あまりにも長い時間が経ってしまって、当時のひとから代が変わって子供になり孫になり、そのうちこの町への執着も忘れられてしまったのよ」
「やっぱり、そういう執着って、忘れられちゃうものなのかなあ」
 リーンの呟きに、レクシア女史は、そうね、と答える。
「孫の世代の人たちになってしまえば、この都市に活気があった時代を知らないわけだから、都市への思い入れも無いだろうし、それとは別に、その時代を自分たちなりに生活していかなければならないだろうし。かつてのことを振り返り続ける、そんなに余裕があるひとばかりじゃないでしょう」
そして、レクシアは、自分の言葉に聞き入りながら思う。当事者はいつまでも生きてはいない。多くのものは風に還っていく宿命にあるのだと。都市ですらその例外ではない、ただそれだけのことだとも思う。
「でも、なんだかそれって、無責任な気もする……よくわからないけれど」
 釈然としないという表情で、リーンが呟いた。そして慰霊碑を眺める。都市慰霊碑は黙って高くそびえている。慰霊碑の先に見える空は雲が多くなり、青色を消してしまっていた。
「無責任かもしれない、そう思う気持ちがあるからこそ、当時のひとたちは、この都市慰霊碑を建てたんじゃないかしら。再興することができない代わりに、せめて、かつての都市を悼むことができるように」
 レクシア女史がとりなすように言って、リーンを見た。ポニーテイルの少女は、唇を突き出してなんだか不満そうに黙り続けている。女史は、吹き出すように苦笑した。
「納得いかない、って顔ね。リーンらしいわ」
 その言葉に、リーンが反応して、女史の方へと顔を向けた。
「うーん、あたしらしいって言われてもなぁ。ただなんとなく納得できないってだけだし」
ああ、あたしらしさってなんだろう、とリーンが呟いたそのとき。
「――静かに」
 そう鋭く制したのは、エキアだった。
 女史とポニーテイルの少女は、何事かと不思議そうにエキアへと視線を向けた。
 だが、その視線には答えず、エキアは都市慰霊碑を背にし、すり鉢状になっている穴の縁のあたりを凝視している。そして、低いがよく通る声で誰何した。
「誰だ。そこで何をしている」

 え? 誰かいるの?
 そんなリーンの疑問の呟きに反応したわけではないだろうが――。
 穴の縁から、ふたりの男が、ゆっくりと姿を現した。