2. 『ホント、わからないことだらけ』




 窓から入ってくる日の光に、黒縁眼鏡の奥の目を細めながら、アッシア=ウィーズ学院教師はぺたぺたと廊下を歩いていた。連れ合いはいない。いつもは一緒の黒猫すらも今はいない。完全にひとりだ。
 まさか学院内を散歩のつもりで歩いているわけでもないのだが、試験期間の学院は妙に静かで、黒縁眼鏡の教師にとって、とても落ち着ける環境だった。近頃色々なことが立て続けに起こって少し疲れ気味のアッシアだったが、わずかな平和を堪能していた。考えて見れば、この試験期間を乗り切ってしまいさえすれば、夏休みなのだ。
(休みになれば、遅れ気味の研究も進められるなあ)
 そんなことを思った矢先、アッシア教師は後ろからがしりと首をつかまれた。相手の腕がぐるりとアッシアの首を取り巻き、そして体重を伝えてくる。
「よう、アッシア。相変わらずぼーっとしてんなぁ」
 がっちりとひとの首を固定しておきながら、やたら爽やかに挨拶をする男。よっと敬礼のように手を額の前に掲げ、なんのサービスか片目までつぶってみせた。
「……なんだ、カルノか」
 別に感動もなくアッシアが言う。首をつかまれた拍子にずれた黒縁眼鏡は、斜めになったままだった。
 この爽やかそうな男の身元は、服装を見ればすぐに知ることができた。彼は黒いローブを纏っていた。学院教師用のもので、学院の紋章が銀糸で刺繍されている。そして、夏用の薄手の仕様。そして加えて、活発な彼に相応しく、動きやすいように独自の工夫が入っているらしかった。カルノ教師とアッシアは同期拝命の教師で、カルノ教師がやたらとアッシアにちょっかいを出していて、アッシアもそれを迷惑と思っている風でもない。つまり、ふたりはそんな間柄だった。
 同僚のカルノ教師は、アッシアの首から肩へと腕をまわし、話しかけてきた。
「おい。聞いたぞ、アッシア。お前、最近うまくやったらしいな」
「なんのことだ?」
 本気で意味がわからずアッシアは聞き返したのだが、とぼけるなよ、とカルノは言った。
「エマ教師の件さ。お前、教室で飼っている黒猫をダシに使って、彼女と仲良くなったんだろ?」
 フィールドワークから戻ってきてから、アッシアとエマ教師、そしてレイレンを名乗る黒猫と、何度か集まって話し合いをしたことがある。きっとそのことだろうとアッシアは思い至る。アッシアとしては、3人で集まっている感覚なのだが、事情を知らない外側から見れば、アッシアとエマ教師が、猫を挟んでふたりきりで会っているように見えるかもしれない。
 そんな風にアッシアが考えている間に、カルノ教師は宣言した。
「そこで、俺も猫を飼おうと思っている。やはり、黒猫がいいのか? 彼女、品種にこだわりとかないのかな?」
「えーと……」
 適当な答えが見つからず、アッシアはうめいた。それはそうだ。エマ教師は猫好きだからあの黒猫と会っているわけではなく、あの黒猫がレイレンを名乗っているからこそ会っているのだ。
「まあ、猫好きは、猫ならなんでもいいのか。考えてみれば、品種によって分け隔てがあるなんて、エマ教師の素晴らしい人格を考えればあることじゃないな。うん」
 アッシアが答える前にカルノ教師は勝手に納得して、ひとり頷いた。そして、アッシアを解放すると、じゃあな、と手をあげ、先に行ってしまう。
 廊下に取り残されたかたちになったアッシアは、
「なんだったんだ、一体」
 呟いて、そこでようやく右方向に傾いていた黒縁眼鏡をかけ直した。
 アッシアは窓の外を見遣る。そこには初夏の青々とした草が生える中庭があった。そして、彼はその中庭で行った、エマ教師と黒猫との会合を思い出していた。




 会合をしたその日も快晴だった。
 のんびりと雲は流れ、植え込みには花が咲いている。中庭にもゆったりとした風が吹き、伸びをしてみれば心地よい空気が肺に染み込んでくる。黒猫はなめらかな毛皮を見せつけるように緑の芝生の上に体を横たえ、その隣にはかすかな微笑みを浮かべながらエマ=フロックハート教師がかすかに微笑んでいる。彼女の赤みがかった茶色――樺色の髪が柔らかに揺れた。
 そして、彼女の向かいにアッシアが座った。光景だけ見れば、のどかなピクニックのようにも見えたが、話をしている内容は、そうそうのどかなものでもなかった。

「まず、状況を整理してみましょう」
 そう口火を切ったのはエマ教師だった。
教師用のローブには、独自のものなのか、赤糸の刺繍がほどこされている。耳と腕には控え目な銀飾りが光り、彼女を彩る。
 ちらちらと光るそれらよりも強く照り返す緑の芝生にブラウンの双眸をかすかに細めて、まるで授業のような口調で彼女は続けた。

「3年前、レイレン=デインは魔術師ピエトリーニャ暗殺に失敗し、黒猫に姿を変えた。状況から、ピエトリーニャの魔術によって猫の姿に変えられたものと思われる。
そして、黒猫になったレイレンは、今年になってこの魔術学院に来て、偶然出会ったアッシア教師に事情を話し、助けを求めた。その後、私――エマが、アッシア教師から教えられて、かつての知り合いのレイレンが猫になったことを知った」
 ぱた、と黒猫が尻尾を振った。その行動は相槌なのか、それとも何の意味もないのか。樺色の髪の教師は、猫の動きは気にせずに授業を続ける。彼女の講義はいつもこんな感じなのだろうか。
「けれど、さきほどの筋立てでは説明できない出来事があった。私たちはミティア北の遺跡地下で、レイレンとしか思えない外貌の男性と出会った。だが、男性は自分がレイレンであることを否定。では何者なのかというこちらの問いかけに対し、その男性は『レイレンであって、レイレンでない』と説明した。こちらからその真意をただすも回答はなく、現時点ではレイレンとの関係も不明。正体も当然不明。しかし、彼は『旦那』と呼ばれ、盗賊団を雇って何かを画策していることはわかっている……」

 エマ教師が説明した内容で、大まかな状況は捉えられているアッシアは思った。だが、アッシアがずっと疑問としていたところが、エマ教師の説明では省かれていたので、アッシアは少し婉曲に確認を入れる。
「エマ教師から見ても、クロさんがレイレン=デインであることは間違いないのですね?」
 アッシアからすれば、黒猫――クロさんが、レイレンであるという確証がない。黒猫がレイレンであると思っているような言葉をあえて選んで質問したが、そこが一番疑わしい部分だと思っていた。
 しかし、エマ教師は事もなげに頷き、肯定した。
「この黒猫さんとは、ふたりきりでも話をしました。黒猫さんは、私とレイレンが出会ったときのことを、はっきりと覚えていて語ってくれました。だから、黒猫さんがレイレンであることは間違いない。そう考えて良いと思います」
 はっきりとしたエマ教師の言葉に、そうか、とアッシアは今更ながら、思い至る。その人物が本物かどうかを確認するのには、その人物と共通の過去を持つ人間が確認するのが一番確実だ。過去にレイレンと接点のないアッシアにはその確認はできないが、過去に接点を持つエマ教師であれば、本人かどうか容易く確認ができる。

 ――話を先に進めてもよろしいでしょうか?
 小首を傾げるようにして、エマ教師がアッシアに聞いた。そのとき、さらりと流れた彼女の髪が陽光に透けて緋色に映る。
 アッシアは、顔がにやけるのをなんとか押さえて、どうぞ、と促す。
 エマ教師は、手首の銀鎖の腕輪を2秒ほど弄って、説明を再開する。

「今の状況で、わからないことがいくつもあります。
 ひとつ。ピエトリーニャは、何故レイレンを黒猫にしたのか。
 ふたつ、どうやって、どんな魔術でレイレンを黒猫にしたのか。
 みっつ、レイレンを元の姿に戻すことができるのか。できるとして、その方法。
 よっつ、遺跡で会ったレイレンとしか思えない外貌の男性は何者なのか。
 いつつ、その男性の目的は何か。
 むっつ、その男性とレイレンの関係は何か。どうして、黒猫がレイレンだと知っていたのか――」

「わからないことだらけですね」溜め息でも吐くように、アッシア。
「その通りです」エマ教師は苦笑したが、その微笑の影には何故か寂しさが張り付いているようにも見えた。「ですが、この疑問のなかで、みっつめの疑問は絶対に解きたいと私は考えています」
 樺色髪の彼女の真っ直ぐな視線が、アッシアをとらえた。愛嬌のあるブラウンの双眸からは、今は威圧すら感じられて。思わず目を伏せそうになったが、こらえるようにしてアッシアはその視線を受け止めた。
 そして、たたみかけるように、エマ教師が続ける。
「レイレンを、元に戻す方法を、なんとしてでも探したいのです」
 直感的に、それは困難な道のりになるとアッシアは感じた。だが、ここまで乗りかかって降りられるような船でもない。もともと降りる気もなかった。アッシアは、半ば観念でもしたような気分で口を開く。
「レイレンさんを元に戻す方法を探るといっても、今はほとんど手がかりがありません。レイレンさんとしか思えない姿の男性が一番の手がかりなのですが、それも逃してしまいました」
 不甲斐無くも――とは口には出さなかったが、アッシアは軽く肩をすくめ、言葉を続ける。
「ですが、調べようがまったく無いというわけではありません。人を猫に変えるというのは、通常の魔術理論から言えば不可能です。ですから、レイレンさんを黒猫に変えたという魔術は、『7賢者のひとり』で『奇術師』と呼ばれるピエトリーニャ独自の魔術であると考えて間違いないと思います。
だから、ピエトリーニャの研究内容を調べれば、猫化魔術について、何かがわかるかもしれません」
 みっつめの疑問と、ふたつめの疑問はつながっているということです。
 そう言って、アッシアは膝の上に拳を置いた。
 エマ教師は、そうか、という表情で口元に白い手をやる。彼女はせわしなく思考を巡らせているようだった。
「一番効率の良い方法は、かつてレイレンが訪れたという、ピエトリーニャの住処をに行ってみることですね。必ず、なんらかの手がかりが得られるはずです」
 そうですね、とアッシアは頷き、
「しかし、レイレンさんの話を聞く限り、ピエトリーニャの住処はひとつではなく、しかもそれぞれが人里離れたところにあると聞きます。このセドゥルスの山奥から出向くなら、なおさら移動が不便です。住処の調査は必要ですが、そのための時間を取るのはなかなか難しいことです」
 エマ教師は、眉根を寄せながらも、樺色の髪を揺らしてアッシアの言葉に同意した。彼女たちは教師であり、普段は仕事があるのだ。ならば、できることからするしかない。
「ここセドゥルス魔術学院の図書庫にも、ピエトリーニャに関する文献があるはずです。それに、私の母国であるアーンバル王国の研究機関にも問い合わせをしてみます。確証はありませんが、捜してみればなにか見つかるはずです」
「そうですね。僕も、他に心当たりがないか捜しておきますよ」アッシアが同意する。
「――すまない。ふたりとも」
 そこへ来て、ようやくレイレンを名乗る黒猫が発言した。いつの間にか、黒猫は寝そべっていた姿勢から起き上がっていた。
「ここまで知ってしまったら、引き返せませんからね。付き合いますよ」
 そうおどけるように言って、アッシアは黒縁眼鏡を押し上げた。
 エマ教師も微笑してみせたが、しかし、瞳は真剣だった。発した声の柔らかさを補うかのように、金色をしたアーモンド形の黒猫の瞳を強く見つめている。
「レイレン。私は貴方を人間に戻してみせるわ。絶対に、どんなことがあっても」






(どんなことがあっても、か……)

 エマ教師の言葉を、アッシアは脳裡に浮かべ、再確認する。
 窓から飛び込む光と、光が当たらない影とがコントラストを織りなす廊下。そのツートーンの廊下を、相変わらず考え事をしながら、ぺたぺたとアッシア教師が進む。
(なんか、急に置いてきぼりになったような気分だな)
 エマ教師は、レイレンを元に戻すことにとても意欲的で、その点だけでもアッシアは負けている気がした。別に勝ち負けの問題でも無いのだが、妙な疎外感を感じていることは否めない。
 そんな気持ちを敏感に感じ取っているのか、アッシアの教室で飼うことになっていたクロさんだったが、自分がレイレンであると告白したあの日から、アッシアのところに姿を見せる回数が減った。代わりに、黒猫はエマ教師のところへ行っているようだった。
 だからといって、アッシアが黒猫に協力しなくなったということでもない。相変わらず猫化魔術については暇を見て調べてはいるし、ピエトリーニャに関する情報も集めてはいる。

 だが、あまり進展はない。

 7賢者のひとりで、『奇術師』と言われるほどに多くの魔術を発明したと言われるピエトリーニャ。その彼が残した研究は、大変多い。ただでさえ多い研究を、後輩の学者がさらに研究をしたものだから、関連する書物の量は膨大なものになる。彼の研究の成果をまとめるだけでも、何本も論文が書けてしまうではないかというほどの量だ。
 しかし、それでいてピエトリーニャというのは謎の人物でもある。彼本人のひととなりなどに迫る文献は極めて少ない。皆無と言っても良い。
 だから、アッシアは、ピエトリーニャの論文を追うことから始めた。
 いつの頃からかどこかの山奥に隠棲してしまったピエトリーニャは、論文だけを魔術学会に送って寄越すようになっていた。そして、数年に1度、彼の論文が投げ入れられるたびに、石を入れられた古池に起こるさざなみのように、学会が騒ぐのだ。
 もっとも新しい彼の論文は、20年前のものだった。つまり、ここ20年間、ピエトリーニャの論文は更新されていない。
 彼――ピエトリーニャが既に死亡しているという巷間の説は、このあたりから来ているものだった。
 そして、それでなくてもピエトリーニャは高齢だ。彼の最も古い論文をたどってみたところ、140年前のものに行き当たった。当時15歳の俊英だったピエトリーニャが初めて上梓したものらしい。
 驚異の天才、ピエトリーニャ=ノヴゴロド君の輝くばかりの将来に期待する――。当時の学会長の色褪せた賛辞が、最古の論文に、あとがきのようにくっついていた。

 ――大層なご長寿だな。
 感嘆の溜め息とともに、アッシアは思う。現在本当にピエトリーニャが生きているのならば、155歳だ。本当の話とは素直に思いがたいが、しかし、どこかの部族のおばあさんは200歳まで生きたという話も聞くから、油断はできない。7賢者のひとりともなれば、長命の秘奥義のひとつやふたつ、隠し芸程度に持っていてもおかしくはないかもしれない。
 それとも、ひょっとしたら、とアッシアは思う。ピエトリーニャという名前だけが、代々血族に受け継がれていて、何人ものピエトリーニャが居るのかも知れない。
けれど、仮説を裏付けるものも今は何も無い。

「ホント、わからないことだらけだよ」

 誰も居ないコントラストの廊下に声を放って、黒縁眼鏡の教師は、ぼさぼさの黒髪をいらだたしげにかいた。