3. 『その外来者たち』




 セドゥルス魔術学院の、中間試験最終日。

「おーわったぁー!」
 終了の合図が告げられると同時、席についたままの姿勢で細身の少女が大きく伸びをした。夏用の薄手のローブの袖から伸びやかな白い腕をのぞかせて、すっかり凝り固まってしまった背筋を伸ばす。んんん、と歓喜の唸り声をあげながら、あくびをひとつかみ殺す。
 試験を終えた生徒たちががやがやと試験の内容について喋りながら席を離れている。階段状に作られた中規模の教室から、多くの生徒が退出していく。彼らもこれで中間試験が終わったのだろう、晴れ晴れとした顔をしている。
「嬉しそうだな、リーン。手応えがあったか?」
 伸びをしながら解放感を満喫する少女の後ろから、彼女がよく知る声がした。リーンと声をかけられた少女は体を起こして振り向くことはせず、横着をしてぐりん、と伸ばしていた背と首をさらに伸ばし反らせて声の主を見た。ばさ、と彼女のポニーテイルが、後ろの机の前面に触れた。
「そういうパットはどうなのよ?」
 リーンが声をかけた先には、にやにや笑いの赤毛の少年の顔があった。机に頬杖をついて、どこか皮肉げに唇を曲げてリーンを見下ろしている。
「まあこんなもんかな、ってとこさ。この教科は難しいけど、単位認定は意外と甘いらしいから大丈夫だろう」
「私もまあまあってとこかな。一夜漬けの効果はばっちりよ」
 言いながらブイサインを突き出してくるリーンに、
「論文試験に一夜漬けで臨む、お前の勇気は賞賛に値するよ」
 と笑いながらパットが言った。

「でさ、夏休みはどうする? すぐに家に帰る?」
 試験を受けた教室を出ながら、リーンが赤毛の少年に話しかける。試験が終わったことがよほど嬉しいのか、小刻みにステップなど踏んでいる。
「夏休みまで、まだ2週間あるだろ? 試験結果の返却期間がさ」
 片目だけを細め、冷静な態度で指摘するパットだったが、やはり解放感があるのか、制服ローブの襟を大きくくつろげている。右手に教科書を持って、左手はローブのポケットに突っ込み、ぺたぺたと廊下を進む足取りも、なんとなく軽やかだ。
「あー、試験の結果なんて、夏休みの後に返してくれればいいのに。むしろ、ずっと戻ってこなくてもいいわ」
 悲劇を歌う舞台役者のように、すらりと腕を伸ばしてリーン。
「そういうわけにも、いかないだろうなぁ」
 こりこりと、パットは鼻の頭をかく。
「じゃあ、夏休み中に、伝書鳩で試験結果を生徒のところへ送ってくれればいいのよ」
「なんで伝書バト。なんか前時代的だな。郵便の方が、確実だろう?」
「郵便制度が無いところじゃ、まだまだハトは現役よ。それに、1000羽を越える白いハトが、一斉に魔術学院を飛び立って、全国各地へ散っていく姿って、絵になると思わない? きっと観光名所にできるわ」
「学院を観光名所にする必要が無いし」
「でも、おもしろいじゃない」
「それに、ハトはある程度決まったところにしか行けないし、しかもときどき間違えるし。自分の成績が、他人に見られる可能性もあるぜ?」
「それくらいのはずかしさは、リスクとして受け入れたいわ」
「相変わらず、無駄に前向きだな、リーンは」
 なんとでも言って、とリーンは笑う。
「今の私の機嫌は最高潮。なんたって、試験から解放されたんですもの。解放記念日ね」
 スキップでもしそうな勢いで、少女は持っていた専門書を胸に抱く。代わりだとでもいうように、ポニーテイルの尻尾がぴょこぴょこと揺れる。
「上機嫌ね。試験、うまくいったの?」
 突然背後から声がして、従兄妹たちは後ろを振り返る。そこには、艶やかな黒髪を頭頂のところで、簡素なバレッタでまとめた、角眼鏡の女生徒が居た。彼女の年齢が学園では上位にあるためか、それとも生来のものなのか、しっかりとしていて落ち着いた印象だった。
「あ、レクシアさん」
「レクシア女史」
 リーンとパットがそれぞれに彼女の名を呼んだ。
 調子はどう、などと片手を挙げる彼女も試験帰りなのか、専門書を片手にしていた。
「レクシア女史の試験の様子は……聞く必要もないか。どうせ絶好調だろ?」
「そうでもないわ。年々、体術が難しくなるわ。今年の首席は難しそうね」
 パットが向けた水に、レクシア女史は肩を竦める。体術が選択教科だったら良かったのに、と彼女は続けた。
「でもいいなあ、レクシアさんは。成績が良くて」リーンがうらやましそうに口を挟む。
「本当にそう思うのなら、もっと勉強することね。一夜漬けで試験は乗り切れても、身にはならないわよ」
「だってさ、リーン?」パットが口元をにやりとさせる。
「うん、次はそうする……気が向いたら」軽い調子で、リーン。
 ちっとも悪びれようとしないリーンに、皆が笑った。
「ああ、ところで、お願いがあるのよ」レクシア女史が言う。「この前の授業で使った教材を、アッシア先生の控室に戻しておいて欲しいの。お願いできる?」
「いいよ。やっておく」
 ポニーテイルを揺らして、リーンが快諾する。
 それじゃあお願いね、何か用事でもあるのか、レクシアが早足で去っていく。
 その後ろ姿を見送りながらポニーテイルの少女はしばらく手を振っていたが、突然、
「じゃ、パット頼むわね」
「何をだよっ?!」
「やーねー。聞いてなかったの? 教室にある教材を、アッシア先生の控室へ戻しておくっていう話よ」
「引き受けたのはお前だろ?」パットが言う。
「確かに引き受けたのは私で、私がお願いしている相手がパット」
「その流れは、どこかおかしいと自分で思わないのか?」
 その指摘に、ポニーテイルの少女はしばらく考えるそぶりを見せたが、
「パットが相手ならいいかなぁって」
「よくないっ!」
 少年の意見はもっともだったが――それが聞き入れられるかどうかは、また別の次元で決まってしまうようだった。




                              ■□■




 はふぅ、とその受付の女性は大あくびをした。
 それまで読むでもなく眺めていた雑誌を閉じてずずっと脇に退けると、遠くを見るように脱力する。口が半開きになっていた。
「ヒマねぇ……」
 20歳になってすぐにセドゥルス魔術学院の受付窓口業務について、もう5年。すっかり仕事は覚えた。自分がやるべきことも、期待されていることも、そして業務内で起こりうることもすべて経験して、なにもかもが彼女の掌の上にあった。
 といっても、実際にはなにがどう、というわけでもない。過保護な親が多い主要都市の学校ならばともかく、こんな辺鄙な山の中に好んで訪問する人間などそうはいない。出入りの業者が来る日だってだいたい決まっている。つまり、仕事と呼べるようなことなどほとんどない。けれど、外来者が来たときに、受付がいないわけにもいかない。そういった見栄と実用の境界部分の要請で、彼女は学院の受付として存在している。
 座っているだけでお金がもらえる、それはそれで結構なことではないか、と人は言うし、彼女もそう思う。だが、ひがな1日中、来る当てもない人間を待ち続けるのはつらい――はっきり言えば、退屈極まる。
(他人と会話が無いのが、良くないのよね)
 そう彼女は思う。実際、仕事のうえで、彼女が他人と言葉を交わす機会はほとんどないし。加えて、遠く街から離れた山の中にぽつんとある学院に務め、彼女自身も寮住まいという環境下では、プライベートでも友人はなかなかできない。教師の友人も居ないでもないが、状況が違うためか、いまいち話は噛みあわないし、事務員仲間では年齢があわずに肩が凝る。当然、出会いも無く彼氏なし。ときおり、このまま相手が見つからず、結婚できなかったらどうしようか、という不安が時折り頭をよぎる。
 ヒマだと、ろくなことを考えない――。彼女にもそういう自覚はあるのだが、想像はとりとめもなく続く。こうなったら、適当な男子生徒でも誘惑してしまおうかと妄想がふくらみかけた、そのときだった。
 正面玄関に、ふたつの人影が見えた。逆光のため顔は見えないが、背格好からして出入りの業者ではない。学院の建物に不案内のためか、人影は周囲を確認するようにして進んでいる。
 客だ。
 外来者だ。
 ちょっと心を弾ませながら、すっかり冷めてしまった飲みかけのコーヒーと雑誌を、見えないところへ隠す。そして襟元を直し、背筋を伸ばしたところで、ちょうど人影と目が合った。そして彼女は人影の顔を確認し、営業スマイルのレベルを『中』から『最上級』へと引き上げた。
 目が合ったのは、すらりとした肢体の男性だった。長い銀髪をみつあみにして胸元にたらし、女性的とも思える整った顔立ちだが、背は高い。わずかな振る舞いに気品があり、優雅さすら感じさせる。
 その後ろには、がっしりとした体格の男がいた。片手に細長めの布包みを持ち、やや不機嫌そうに眉をしかめている。短く切った黒髪は後ろに流し、探るように建物の内部を見回している。横顔には野性味があるが、野蛮な感じはしない。剣の達人がいつでもどこでも戦えるようにその場所の地理を頭に叩き込んでおくものだ、と月間雑誌の片隅に書いてあったことを彼女は連想した。
 どちらでもいい、恋人になってもらえないかなと彼女は夢想する。ふたりともタイプは異なるが、レベル的には花丸満点、おまけした120点をつけたいぐらいだ。

「――すまない、面会の取次ぎを頼みたいのだが」
 そう声を発したのは、銀髪の男だった。受付の女性は脳の半分を使って妄想を続けながら、カウンターをはさんで努めて優しい声を出す。
「生徒への面会ですか? それとも教師の方への面会でしょうか?」
「教師です」
 それはそうだと受付の女性は思う。どう見ても、生徒の親のような年齢ではない。ふたりの訪問者は、彼女と同じくらいか、それよりも少し上ぐらいの年齢に見えた。
「失礼ですが、面会を希望する相手のお名前など教えていただけますか?」
「アッシア。アッシア……ウィーズ」
少し記憶を辿るようにして、銀髪の男性は言った。そして、彼は続けて名乗る。
「私は、ジュリアス=デグランと申します」
(ジュリアスさんっていうのかぁ)
 受付の女性は、いろいろな意味を篭めてその名前を心の中で復唱しながら、面会希望用紙に面会者と面会希望者の名前、そして日付を記入する。その一方で、備え付けになっている脇の棚から教師名簿台帳を引っ張り出す。アルファベット順になっている台帳を手早くめくり、目的の名前を見つけ出した。
「アッシア=ウィーズ教師の研究用私室は、教師棟2階になります。今の時間ならば、在室されていると思います」
 これが地図です、と続けて受付の女性は、教師棟までの学院内の絵図を差し出した。そして、椅子から半分腰を浮かせ、
「あの、よろしければご案内致しましょうか?」
 アッシアなる教師の部屋まで案内すれば、歩いていく途中でいろいろと話ができる。そうすれば、何かの――はっきりといえば恋の――きっかけになるかもしれない。そう女性は思ったのだが。
「いえ、それにはおよびません。――ご親切にありがとう」
 銀髪の男は、地図をひらと振って軽く頭をさげ、女性の申し出を丁寧に断った。そして身を翻し、歩き始めてしまう。体格のがっしりした黒髪の男もそれに続く。
 ふたりの姿が折れた廊下の角に見えなくなった。受付の女性は、逃したふたりの男性の姿をもう一度脳内に思い浮かべて、どっかりと椅子に座り直すと、
「ま、そんなもんよね……儚い夢だったわ」
 そして読み止しの雑誌を取り出し、ページを捲った。



 セドゥルス魔術学院の廊下を、二人の外来者が機敏に歩いていた。
 銀髪の男と、がっしりとした体格の男。
 とくに早足というわけではないのだが、ふたりとも整然と早く歩く。なんらかの訓練を受けているとわかる物腰だった。そう、たとえば、軍人のような。
「なァ長兄。本当に、会うのか?」
 黒髪で体格のがっしりした男が、銀髪の男性――ジュリアスに聞いた。誰に、とは言わなかったが、相手は了解したようだった。
「当たり前だ。それともお前は、学院しかないこんな山奥まで、観光に来たつもりだったか?」
 後ろを歩くがっしりとした男を振り返りもせずに、ジュリアスは言った。表情はうかがえないが、声音は普段と変わらない。つまり、軽い冗談を交えた、穏やかな声。こういう当たりの柔らかさはなかなか真似ができないものだと、体格のがっしりとした男は思う。
「そういうつもりじゃ、ねぇけどよ」
 体格のがっしりとした男は、所在なさげに左手で頬を掻く。細長い包みを肩に担いでいるので、利き手の右手は塞がっている。
 と、そこで、がっしりした男が止まる。先を行くジュリアスが、いつの間にか廊下に立ち止まって振り向いていたからだ。
「なんだ。怖気づいたのか、ダグラス?」
 ジュリアスは相変わらず穏やかで、冗談めかした声だった。
 分厚い壁の割にはしっかりと採光されている学院の廊下。空間に充満する外光を背にして、その銀髪の男は微笑っていた。光に透き通る銀髪は、まるで光に溶けているようでもあった。
 ダグラスと呼ばれた体格のがっしりした男は、兄の安い挑発に苦笑し、首を振った。
「別に、怖気づいてなんていねぇよ。ただ、俺はあいつを――アッシアを、信用しきれてないだけさ。誘う価値が無ぇと思っている。なにせ、仲間を裏切った男だ」
「そのことについては、出発前に充分に話し合っただろう? もうあのときから、充分な時間が経っている」
「それでも、俺は反対だって何度も言ったはずだぜ――その考えが、今も変わってねぇってだけさ」
「反対ならば、どうしてここまでついてきた?」
 ジュリアスの質問に、ダグラスは答えに窮したように一瞬黙したが、空いている左拳を胸の前でぎゅっと握り締めた。決まっている。
「アッシアを、ぶん殴ってやるために来たのさ」
「では、殴るためには、まずはアッシアに会わなきゃならんぞ」
 微笑を浮かべて、ジュリアス。
「へっ……。勢い余って、殺しちまうかも」
 ダグラスは肩をすくめる。
「殺すためにも、まずは会わなければならん」
 物騒な会話の割には、ジュリアスの笑顔は相変わらずで、むしろ透き通るほどだった。
 そして、ジュリアスはみつあみにした銀髪を翻して、また廊下を進みはじめる。もう会話が終わりだということなのだろう。
 ダグラスは肩の荷物を背負い直し、そのあとに従って歩き始めた。

 太陽は、まだ南中をやや過ぎた辺りでまだまだ高い。これからが一番暑い時間帯だが、山の風は学院の建物にそれなりの涼を吹き込んでくれている。どこかの生徒のはしゃいだ笑い声が、その風に乗って、廊下に響いていた。