4. 『今だけはと止められた時間』




 黒猫は、窮屈そうに体をぶるると振った。
 そして、後ろ足を伸ばして首元を何度かひっかいて、そしてまた歩き出す。着け慣れないものを着けると、落ち着かない。声には出さず呟き、憮然と学院の廊下を進む黒猫の首には、赤い首輪がつけられていた。
(雇い主に飼われた経験はあるが、さすがに首輪は初めてだな)
 笑えない冗談を思いながら、息苦しさにレイレンを名乗る黒猫は、ふんと鼻を鳴らす。その拍子に、自分のひげがぴくと揺れた。
 赤い首輪には、ひとつの古ぼけた指輪がつけられている。
 それらは、数日前にエマとアッシアにつけられたものだった。
 今日と同じように、快晴の日に、だ。





 学院の中庭、エマはひとしきり話を終えた。そして強い瞳で、黒猫を見つめる。その視線を跳ね返すのでも、避けるのでもなく、ただ楡の木が風に立ち向かうかのように、レイレンを名乗る黒猫は、樺色の髪を揺らすエマを見返していた。
 レイレンの猫化魔術について、もしくはピエトリーニャの謎を追うための会合は、ひと段落していたが、そこに漂う空気は、辺りの緑の柔らかさとは正反対に、堅いものだった。その空気は、海が空を映すように、樺色の髪の女教師の決意を映していたのかもしれない。
 そこで、そういえば、と声をあげたのは、黒縁眼鏡のアッシアだった。
「猫化の謎はわかりませんけど、ちょっとした進展があったんですよ」
「ほう」
 などという感嘆の声など、この変に落ち着いた黒猫はあげはしない。ただぱたりと尻尾を振って、黒縁眼鏡の教師の言葉に答えた。
「これなんですけどね」
 そう言って、ごそりとアッシアが取り出したのは、ひとつの古ぼけた指輪だった。黄土色のそれは、よく見れば魔術文様らしきものが刻まれている。
「それは、何かの魔術器具ですか?」
 指輪を見たエマが、首を傾げる。樺色の髪が揺れた拍子に、かすかに花の匂いが香った。
 にやけながらアッシアが答える。
「そうです。実はこの指輪が、僕とレイレンさんを繋ぐことになったんです」
 そしてアッシアはくるりと指輪を回してみせる。意外に肉厚で大ぶりのそれはとても仰々しくて、『指環』とでも表現した方が良いのかもしれなかった。
 エマも黒猫も、黒縁眼鏡の教師の言葉を待つ。アッシアもそれ以上はもったいつけずに、話を始めた。
「この指輪は、とある遺跡から出土された、大変珍しいものです。表面に魔術文様が入っているので何かしらの用途に使う魔術器具だということはわかるのですが、それ以上のことはわからない。それで、僕のところに調査の依頼が来ていたのです。これでも一応、専門家ですからね。
 けれど、僕が調べてみても、どうやら古代の失われた魔術文様を使っているようで、何に使うものかわからない。指輪は地金に文様を刻み、さらにそれに厚いめっきをかけて、そのめっきの上に文様を刻むと言った、複層式の技術も取られていて、文様の全容がわからないということもありますし。
 仕方がないので、時代を特定して、関連文献を調べることから始めました。いつでも考えられるように、指輪はいつも持ち歩いて。フィールドワークのときも、持っていました。
 そして、最近、古文書である表記を見つけたんです」
 ふんふん、と女教師と黒猫は頷いた。
「古代の国――まあ、名前を言っても仕方ありませんね――とある小国の王子が、自分のある癖をとても恥じていました。その癖とは、吃音、つまりどもりだったんです。
 どもりを恥じた王子は、わざわざ他国から高名な魔術師を呼び寄せて、こう命じたんです。『自分の吃音を治すものを作れ』と」
 女教師はまた頷き、「それで?」とでも聞きたげな表情をした。黒猫の方は相変わらず表情ひとつ変えずに話を聞いている。
「王子は、その魔術師に薬のようなものを期待していたようなのですがね。出来上がったのは、不恰好な大ぶりの指輪でした。その小国の王家の紋章、つまり斜め十字が刻まれた……」
 少しもったいぶったあとに。
 アッシアがくるりと回して見せたその指輪には、斜め十字の紋章が刻まれていた。
「まあ、じゃあこれがその指輪なんですね?」
 エマ教師の問いかけに、黒縁眼鏡の教師は、ええ、と答えた。
「詳細まではわかりませんが、この指輪の大まかな理屈はわかっています。喋る者の喉から出る余計な音を、打ち消す魔術を永続的に発動し続けているのです。
 人と猫とでは喉や声帯の構造が違うので、本来なら、猫の体では言葉がうまく発することができず、篭もった音になるはずなのです。しかし、この指輪の力が、今のレイレンさんの言葉を明瞭に聞き取りやすくしてくれているのです」
「つまり、その指輪のおかげで、私たちは今こうしてレイレンの言葉がわかるのですね」
「ええ、その通りです。初めてレイレンさんに会ったとき、話が通じたのは、僕が初めてだとおっしゃっていましたよね? それは、初めて会ったときも、この指輪を持っていたからなんです」
 アッシアの呼びかけに、黒猫が頷いた。
「確かに。何人か試したが、きちんと通じたのはアッシア、お前だけだった」
 微笑しながらアッシアは頷き、そして指輪を指先でいとおしそうに弄ぶ。
「古文書はその王子が結局どうなったのか伝えてくれてはいませんでしたが、きっとうまくいったのでしょうね。
何しろ、今の現代になっても、指輪はきちんと役に立っているわけですから」
「そうだな。その指輪のおかげで、我々は出会えたわけか」
「考えてみれば、不思議ですね。その指輪をたまたまアッシア教師が持たなければ、こうして三人、集まることはきっとなかったでしょうから……」
 感慨深げに、エマ教師は呟いた。
 まるで幕間だとでもいうように、一座にちょっとした空白がおりた。鳥も飛ばない静かな空に浮かぶくっきりとした雲が、ゆっくりと流れていく。
「――それで」言い難そうに、アッシアは指輪を差し出す。「エマ教師、よろしければ、この指輪をお持ちになりませんか? その、エマ教師の方が、レイレンさんと話す機会が多そうですし、僕は、必要なときに貸してもらえればそれで……」
 途切れ途切れな言葉は、歯切れが悪いものだった。
 黒縁眼鏡の彼自身にも、迷いがあることがわかる。
 アッシアは、自分よりも黒猫と親しいエマ教師がこの指輪を持ったほうが、便利なのではないかと考えたのだ。それに、エマ教師もそれを望んでいるような気がしていた。
 だが、ぎこちなく差し出された指輪を受け取らずに。
 エマは静かに首を横に振った。
 続けて小首を傾げるように、彼女は微笑む。
 意識せずとも、とても魅力的に。
「――それにはおよびません。私に、とても良い考えがあります」
 そして。エマ教師が自分の懐からするりと取り出したのは、赤い首輪だった。




(まあ、私がその指輪を持てばいいというのは、確かに合理的だがな)
 誰もいない学院の廊下を、黒猫は不機嫌そうに歩いていた。大ぶりの指輪の環に赤い首輪の端を通し、そしてその首輪はそのまま黒猫の首に巻きつけられている。
 この指輪を黒猫が持てば、誰とでも話ができるのだ。おそらく、古代の小国の王子がそうであったように。
 だがしかし、突然首の辺りが重くなって、黒猫は違和感を覚えている。そのうち慣れるだろうと楽観しながらも、なんだか据わりが悪い気持ちだった。
(まったく……エマのやつ)
 わずかな苦々しさとともに、黒猫は心の中で呟く。どうにもならない小さな不満を押し潰すかのように、わざと早足で歩いている。人間ならば長靴のかかとがなるのだろうが、猫なので衝撃は肉球に吸収される。
 自分が嫌がるのを知っていて、エマは首輪をつけさせたのだと、黒猫は思っていた。彼女にしてみれば、ちょっとしたいたずら気分なのだろう。昔は、もっと素直な少女だったような気がするが、ひょっとしたらあれが彼女の地なのかもしれない。
 けれど、真実を判断できるほど、黒猫は、エマと長い時間を過ごしているわけでもなかった。ともにいたのは、鮮烈だが、短い時間。そんな単純な事実に気がついて。
 少しの間、黒猫は自分を笑うかわりに目を閉じた。

 しかしそれにしても、と黒猫は思いを切り替える。
 アッシアとはいったい何者なのだろうか。
 一見頼りないようだが、ときおり鋭く、知識は深い。常人ではなさそうな身のこなしをしているのに、戦いとなれば気の病からか倒れてしまう。少し興味を持って観察してみれば、なんとも不思議な存在だった。
 今は一介の学院教師をしているが、その前はいったい何をしていたのだろうか。過去へと話を向けても、黒縁眼鏡の教師は、抽象的な言葉を選んで、核心は隠してしまう。あるいは、押し黙ってしまう。
 黒猫がもっと話術に長けていれば、アッシアからいろいろと聞き出せるのかもしれないが、生来というか職業柄というか、この黒猫も話が上手い方ではない。

 結局のところ、謎なのだ。
 彼が戦えない理由も。
 夏でも長袖を着て隠している、右腕の火傷も、
 彼の過去も。
 アッシアが、何者なのかも。

 けれど、黒猫には焦るような気持ちはなかった。むしろ、鷹揚とゆったりとした気分だった。謎は、いずれ明かされる。何かの法典に定められているかのように。謎を持っているものが生者である限り、それが絶対の法則だと黒猫は思っていた。
 まるで小休止だというように、時間が止まったかのような学院の一角。
 今だけはと止められた時間を乱さぬよう、黒猫は廊下を歩き、去っていった。



                             ■□■



 その扉は、無表情にそこにあった。
 もちろん、扉に表情などあるわけがない。だが、そんな風に感じるのは、これから会う男と自分との間に、隔たりを感じているからだろう。
 空いている左手で短くしている黒髪を意味無く撫で付け、右肩の包みを肩に負い直しながら、ダグラスは思う。いや、彼には、長兄と違って詩文を嗜むような趣味はない。だから、今思ったようなことを、ただ無自覚に感じたに過ぎない。だから、発する言葉は、もっと短く、直感的になる。
「味気ねぇ場所だな」
 ダグラスが呟くと、すぐ隣にいた銀髪の男は、苦笑するようにして同意した。
その扉の横にある名札に、ダグラスは目をやる。『アッシア=ウィーズ教師』。そう黒字で白い名札には書かれている。別段変わったところもない。わざわざ色インクで名前が書いてあるわけでもなく、名札に縁飾りを施しているわけでもない。逆に言えば、そういうことをしている教師の名札が他にあるということだが――。とにかく、アッシア教師は名札を自分なりに飾ったりはしていない。そこにアッシア教師の人格を見出すこともできるかもしれないが、さほど有益な情報でもない。
 そんなことをダグラスが思い浮かべている間に、銀髪の男――ジュリアスが、無造作に腕を振り上げる。
 そして、アッシア教師の控室の扉を、軽くノックした。
 中の部屋から返事はない。
 もういちど、ジュリアスはノックする。
 やはり、返事は無かった。
「留守のようだな」
 呟きながらジュリアスはドアノブに手をかけると、軽くまわった。そしてそのまま押すと、ぎぎと軋んだ音を立てて扉が開く。
「鍵もかけずに、無用心なことだ」ジュリアスが言う。
「こんな山奥じゃ、盗みをする人間もわざわざやってこねぇんだろ」ダグラスが吐き捨てるように言った。
 言いながら、ふたりは部屋へと入る。扉は、何かがひっかかってすべて開ききらなかったが、人間ひとりが入室するには充分なほどには開いた。
 部屋は薄暗い。カーテンは半分降りていたし、窓からわずかに入ってきている光は、林立する書籍の山でほとんどが遮られていた。体を縦横に動かしながら本の隙間の小道を進むと、書斎机と見られる場所に辿り着けるようになっていた。
「お世辞にも、居心地が良いとは言えない場所だな」
 軽く肩を竦め、それでもジュリアスはするすると中へ入っていく。器用に魔術の灯火を作成して天井付近に浮かべてやると、部屋の中がさっと明るくなった。そして銀髪の彼は書斎の椅子に腰をおろし、窮屈そうに長い足を組む。
「ここでしばらく、待たせてもらおう。そのうち部屋に戻ってくるだろう」
 そして、ジュリアスが長い指で窓の留め金を外し、押し開けると、爽やかな初夏の風が埃臭い部屋へ流れ込んでくる。
 ダグラスは、部屋の奥へと進もうと試みてすらいない。書物が引っかかって開ききらない戸口の前に立ったままだ。そしてその場所で口を開く。
「長兄。俺は、その辺を回ってくるぜ。こんな辛気臭い場所は嫌いなものでね」
 呼びかけられたジュリアスは、手近な本を掴み、ぱらぱらとページを眺めながら言う。勝手にしろ。
「ところでダグラス、それを持ったままで行く気か?」
 それ、とはずっとダグラスが右肩に担いでいる長細い布包みのことだろう。呼びかけられたダグラスは、ちらりと包みへと目をやり、
「馴染みのものが手近にないと、落ち着かないんでね」
 扉が閉められ、ジュリアスはひとりアッシアの控室に残る。そして、ダグラスはひとり学院内を歩き出した。


                          ■□■



 本当にすまなそうな顔をして、褐色の肌の生徒が、すみませんでしたと頭をさげた。いやいや、もういいんだよ、と頭を下げられた黒縁眼鏡の教師が言う。
 学院の中庭には暑いくらいの日差しが照り付けて。中庭はそれなりに広く、一部の日差しは煉瓦の建物に遮られて濃い影を作っているけれども、ほとんどの光は、気まぐれで湖に投げ込まれた石のような気軽さで、中庭に飛び込んできている。
 いつももさほど賑わってはいない中庭だったが、その日午後は特に閑散としていた。具体的に言えば、黒縁眼鏡の教師たち以外は誰もいない。試験明けの生徒たちは寮の私室それぞれ眠りをむさぼったりはしゃいだりしているのだろうし、教師たちはその試験の採点で多忙を極めているはずだった。何しろ採点に費やせる期間は2週間しかないのだ。
「過ぎてしまったことだから。そんなに気にしなくてもいいんだよ」
「でも、どうしても、きちんと謝っておきたくて」
 黒縁眼鏡の教師の言葉に、かたくなな――頑迷な、と言っても良いかもしれない――言葉を返したのは、ヴァルだった。右手で自分を抱くようにして、柳眉をさげている。
 フィールドワークでの出来事について、褐色の肌の少女はひたすらにアッシア教師に謝っていた。人違いで殺しかけたこと。そしてまた命を助けられたこと。生真面目なヴァルにとってみれば、いくら言葉をつくして謝っても気が済まないという気持ちだった。
 朝、顔を洗っているとき。昼、ご飯を食べているとき。夜、ベッドに潜り込んだとき。アッシア教師への後悔と申し訳なさの念が混じりあって、まるで湖面のさざなみのように、ヴァルの心を揺らしているのだという。
「ヴァルヴァーラ。気持ちはわかるけれど、そんなに頭ばかりさげても、アッシア教師だってきっとご迷惑よ」
 たしなめるようにそう言葉を挟んだのは、エマ教師だった。落ち着いた声音は優しく、自分の生徒へのいたわりが感じられた。
 言われたヴァルは、あ、という表情をし、
「ご、ごめんなさい、わたし、こういうことに慣れていないんです。どうしたら良いか、よくわからなくて」
「ほら、また謝っている」
 アッシアのその指摘に、一同が笑った。
 そして、エマ教師が樺色の髪を揺らして言う。
「ヴァルヴァーラ。まだあなたの気が済まないというのであれば、また別の方法で恩返しをすれば良いのよ」
「別の方法……」言われて、ヴァルは小首を傾げる。「例えば、どのような?」
 簡単なことよ、とエマ教師は微笑む。
「アッシア教師が困っているときに、あなたができることを、お手伝いしてあげれば良いのよ」
「困っているとき……」繰り返し呟いて、ヴァルはアッシアを見た。
 アッシアは苦笑して、
「今はすぐには思いつかないな。じゃあ、助けが欲しいときには、お願いさせてもらうよ。……この前みたいな、荷物持ちとかになっちゃうかもしれないけど」
 全然構いません、とヴァルは言った。
「困ったことがあったら、是非言ってください。……わたしじゃ、頼りないかもしれませんけど、頑張りますから」
「それじゃ、そのときはよろしく頼むよ」
 黒縁眼鏡の教師は、笑顔で言った。



 少し離れたところで手を振って見送るアッシア教師に向かって、もう一度頭をさげると、ヴァルはエマ教師と並んで中庭を歩き出した。宿舎へと戻る方向だ。
「でも、アッシア先生が善い方で本当によかったです」
 ヴァルの言葉に、エマ教師も、そうねと同意する。
 アッシア教師を攻撃したことについて、かねてより正式な謝罪をしたいと考えていたヴァルは、試験最終日となるこの日、エマ教師と共に中庭でくつろぐアッシア教師の元を訪れたのだった。
 そして、予想通りというかなんというか、アッシア教師は、ヴァルを責めるようなことはまったく言わず、むしろ彼女を慰めるような気遣いすら見せた。その気遣いが、逆にヴァルにとっては心苦しくもあったわけだが。
「想像すると、怖いんです」ヴァルは言う。「アッシア先生を攻撃したあの夜、もしエマ先生が駆けつけてくれなかったら、いったいどうなっていたんだろうって」
 精神的なものが原因らしいが、アッシア教師は戦闘的な行為をすると、激しい頭痛と吐き気でまともに動けなくなってしまう。そのアッシア教師に、ヴァルは人違いで攻撃を仕掛けてしまったのだ。しかも、魔術を使って。
 ――人違いをしたまま、殺してしまっていてもおかしくなかった。
 背筋を凍らせるような想像に、ヴァルは自分で自分を抱きしめるような仕草をした。
「でも、アッシア教師もいろいろあるみたいだけれど、結局のところ、貴女の攻撃に対して無傷だったでしょう? だから、それほど気に病むことはないわ」
 エマ教師の指摘に、ヴァルは静かに頷く。確かに、拳を交えたあの夜、アッシア教師の体調は悪そうだったが、手傷を負わせることもできなかったのだ。つまりそれは、ヴァルの戦闘能力がまだまだ未熟だということだが。
「暗闘時代じゃあるまいし、今の魔術師が戦闘に長けていても良いことはなくてよ、ヴァルヴァーラ」
「でも、強くないと、私は私の目標を達成できませんから」
「戦闘技術が高いことが、強いという意味じゃないのよ。自分の過去に向かいあうということも、強さだわ」
「どういうことです?」
 ヴァルは、エマ教師に尋ねる。教師は軽みのある艶やかな髪を揺らして、さあ、ととぼけてみせた。
「ヴァルヴァーラも、まだまだ勉強しなければいけないことがあるってことかしら」
 何かを言い返そうとして口を開きかけたその瞬間。

 向かいからやってくる男性に、ヴァルは目を引かれた。
 男性は大柄で、長細い布包みを肩に担ぎ、大またに歩いてくる。
 野性味を感じさせながら、適度に洗練された、あまり見かけないたぐいの雰囲気。
 学院の人間ではない。
 外来者だろうか。
 男とヴァルは、互いに向かい合って進んでいるため、訝る時間もない。
 ほんの数歩分の時間など、あっという間に過ぎる。

 ざっ、ざっ、ざっ、
 ざ。

 声をかけるでもなく、ヴァルは男と擦れ違う。
 擦れ違いざま、肌を割くような錯覚。
 ヴァルは、思わず後ろを振り向き、擦れ違った男性の、遠ざかる広い背中を目で追う。

「ヴァルヴァーラ?」

 どうしたの、とエマ教師が聞いた。
 なんでもありません、とヴァルは取り繕いながら自分の腕を撫でる。
 肌に感じた、男性の静かで鋭い威圧。
 褐色の彼女は、ようやく男性に目を引かれた理由に思い至る。
 あれは、押し隠された殺気だった。