5. 『再会』





「おもい重いおもいぃ。まったくもう、どうしてこんなに重いのよぅ」
 学院の廊下をぺたぺたと歩きながら、文句の声をあげたのは、リーンだった。両手に辞書ほどもある厚さの大判の本を3冊も持っている。これだけあれば、押し花を作るのには苦労しないだろうが、別に彼女は押し花を作るために本を運んでいるのでもない。授業で使った教材を、教室からアッシア教師の控室へ運んでいる途中なのだ。
「仕方が無いだろう、自分で引き受けたんだから。ほら、つべこべ言わずに、さっさと運べよ」
 リーンの後ろから、そう声をかけたのはパットだった。彼も両手に大判の書物を抱え、壁掛け絵地図の筒まで持っている。
「だいたい、なんでパットが教材を運んでくれないのよ」
「運んでるだろ。友達との――まあ野郎だからどうでもいいんだけど――約束の時間をずらして、お前を手伝ってやってるんだから」
 あとで購買でなんかおごれよ、といったパットに、そうじゃなくて、とリーンは言った。
「ちょっとこれひとりで運ぶの無理かなー、って思えるぐらいの教材を、ひょいっと全部持って運んでみせて、『お任せくださいご主人さま』ぐらい言って欲しいなぁって」
「なんでだよ。だいたい、『ご主人さま』ってなんなんだよ。お前、いったい僕のことをなんだと思っている?」
「従兄兼幼馴染兼、ランプの精」リーンの即答。
「……ちょっと待て。いったい何だ、ランプの精って」
「すごい召使い?」
 ポニーテイルを揺らしてリーンが言う。
「両手が塞がってなかったら、そのおかしな頭を矯正してやるところだ」
 半分本気で、愛嬌のある青い目を剣呑に細めて、パットが従妹を睨みつける。
 やぁねぇ冗談よ、とリーンは言って、さっとあさっての方向を向く。実際はどう思っているのだか。
 そんな従妹には慣れているのか、それとも本気で問い詰めてもどうしようも無いことを充分に学習しているのか、パットはそれ以上追及せずに、気分を変えたように言う。
「あー、それにしても、早くこの労働を終わらせて解放感を満喫したいよ。せっかくの試験明けなんだからさ」
「そうよねー。そう言えば私、徹夜明けなんだった。ああ、気がついたらなんだか眠くなってきちゃった」
「頼むから、歩きながら寝るなよ」
「そんなこと、しないって」
「いや、お前ならやりかねない」
 そんなやり取りをしているうちに、アッシア教師の控室までふたりは辿り着いた。いつも通りの特徴の無い扉。
 リーンは荷物を扉にぶつけ、形ばかりのノックをする。続けて荷物を持ったままで器用にドアノブをまわして扉を少しだけ開けると、足を振り上げた。と――。
「おい、足で開けるつもりかよ」後ろで従妹の一連の動作を見ていたパットが指摘する。
「だって、両手が塞がっているんだから、仕方がないでしょう」
「相変わらず行儀が悪いな」
「平気よ。中に、王子様みたいなかっこいい人がいるならともかく。こんな姿見られて困るひとなんて、いないんだから」

 言いつつ、リーンは扉を蹴り開ける。
 ぱん、という軽い音と共に、勢い良く扉が開いた。
 そして、扉を蹴り飛ばした姿勢、リーンは部屋の中にいた人物と目が合う。
 その人物はアッシア教師の椅子に座っていたが、いつもの黒縁眼鏡の教師ではなかった。
 長い銀髪をみつあみにし、少し物憂げな睫毛の長い瞳をリーンへと向けている。
 整った顔の造作。椅子に座ったままだがすらりとした肢体であることがわかる。
 なにより、気品が漂う。
 まるで、どこかの王子様のような……。

「いたよ……」
 他に言うべきことも思いつかず、リーンは両手の荷物をどこかに置くことも忘れ、ただ呟いた。



                                ■□■




 最初に感じたのは、違和感だった。
 見送る背中のエマ教師たちの向かいからやってくる、がっしりとした体格のひとりの男。
 まだ数十歩は離れていて、顔もよく見えない。
 それなのに、アッシアはその男を見とめ、違和感を感じた。
 褐色の肌の生徒が一瞬だけ振り返ったが、そのまま去っていく。
 彼女たちと擦れ違ったその男は、大股で中庭を横切るように歩き、どんどんアッシアの方へと近づいてくる。
 もうあとほんの数歩でたどりつくだろう。
 違和感が、見覚えがあるという認識に変わった。
 そして続けて、その男の名前を思い出し、頭の隅で何年ぶりだろうかとアッシアは考える。10年? いやもっと?
 そもそもが今が聖暦何年だったか、思い出せないうちに思考は跳ぶ。
 人間の認識能力とは不思議なものだと思う。昔の記憶の姿とはまるで変わってしまっているのに、その人物だとわかる。人間とは、不思議な能力を持っているものだ。可塑の記憶を作り変えて、新しい認識を生み出してしまうのだから。
 きっと相手も、同じようなことを思っているに違いなかった。

 ざっ、ざっ、ざっ、ざ。
 足音が止まる。

「……よう」
 アッシアから3歩ほど離れたところで、その男は低い声を出した。
「ひさしぶり、と言うべきなのかな――ダグラス」
 ダグラスと呼びかけた男へと歩み寄るわけでもなく、アッシアはその場で言った。久しぶりという言葉の割には、親しみの無い声だった。
 その呼びかけに、鼻で息を抜くようにして、ダグラスが笑う。どういう感情表現なのか、後ろに流している黒髪を、ぺしぺしと叩くように撫でつけた。
「そのもの言い。相変わらずひねくれた奴だ」
「突然、情熱的な歓迎をするような人間になったら、気持ち悪いだろ?」
 アッシアが言い返す。
 そりゃそうだとダグラスは口端を皮肉げに吊り上げた。
 アッシアは、間を置くように周囲を見渡した。学院の中庭、周囲には誰もいない。ただ、自分とダグラスだけが、微妙な間を置いて向かい合っている。その彼らの脇をアゲハ蝶が飛んでいる。山にいる品種のためか、やけに大きい。
 アッシアは続ける言葉を慎重に選ぼうとしたが、結局は芸の無い言葉が口をついた。いつもの黒縁眼鏡の奥の目には、ためらいの色が浮かんでいる。
「こんなところで……会うとは思わなかったな。偶然か?」
「いや。実は、お前に会いに来た。気は進まなかったが」とダグラス。
「――会いに?」意外そうなアッシアの声。「なぜ?」
「さあなァ」
 肝心なところで、ダグラスは答えなかった。だが、とぼけたというよりは、自分でもわからないという声音だった。実際、彼はそんな言葉を低い声で続ける。
「お前にはいろいろと言いたいことがあってよ。けど、自分でも何が言えばいいかわかんねぇから、そういうことは会ってみて考えようと思った」
 ダグラスはずっと右肩に担いでいた長細い布包みを、柔らかい草に突き刺すように置いた。そして、ゆっくりと布を取り除いていく。その様子を、アッシアは、黒縁眼鏡の奥の目を細めて見ている。
「アッシア。お前に会って、俺が何をしてぇのか、自分でもよくわからなかった。だから、お前の顔を見たときに、一番に思いついたことをすることに決めていた。そう思って、わざわざこんな山奥くんだりまで来た」
 最初に思いついたことってのは、後悔が無くていい。
 ダグラスが呟く。その間にも。
 しゅるり、しゅるりと布がほどけていく。
 そして、布が落ちて、現れたのは、

 戦斧だった。

 ダグラスはその戦斧を取り上げると、両手で軽々と振り上げた。長い柄のついた斧は、大柄の彼によく似合ってもいた。
 その次の動きには、合図すらなかった。あるはずもなかった。

 戦斧をかかげたダグラスは、黒い風のように突進し。
 重量感のある斧が禍々しい弧を描いて振り下ろされる。
 アッシアは、反射的に横に跳んだ。何かを言う暇も、舌打ちする時間すらなかった。
 凶刃は、アッシアがもといた地面を鋭くえぐった。
 緑の芝生に、無残な土色の傷跡が表れる。

 斧を振り下ろした姿勢のまま、ぎろりという音が聞こえてきそうな視線で、戦斧の男はアッシアを睨んだ。簡素な平服から、鍛えぬかれた筋肉が透けるように盛り上がっている。
「ダグラ――!」
 アッシアは、少し足をもつれさせながら、事情の説明を求めるべく、呼びかけようとした。だが、その呼びかけを遮って、獣が肉を引きちぎるような鋭さでダグラスは言葉を差し込む。
「垂れ目のケルヴィンは死んだぞ」
 アッシアは、突然の斬撃よりも、その一言に胸をつかれ、息を飲み込んだ。ダグラスは、その反応を見ているのかいないのか、構わずに続ける。
「他の奴等も死んだ。なのにどうして――お前だけが、裏切り者のお前だけが、のうのうとただ生きている?」
 首めがけて振り上げられた斧を、アッシアは身を沈めることでかわした。
そして、2歩、続けて後ろに飛んで、距離を開ける。薄手の長袖のローブの裾をなびかせて、しかし素早く移動した。
 その黒縁眼鏡の魔術師の移動を、ダグラスは目で追いつづける。頭上で旋回させた戦斧がぶぅんと音を立てる。一回転させた得物をぴたりと構え直すと、再び鋭い視線を飛ばし、
「あいつ等の死はすべて――お前のせいだ」
「ち、ちがう」



 そう否定しながら。
 過去が、逆巻く河のように、アッシアの脳裡に押し寄せてくる。
 ひとつの過去が、多くの過去を呼び寄せて引き連れてくる。
 記憶たちが、まるで閃光のようにアッシアを通過していく。

 ――ここが戦場だ、アッシア。ここが、お前の居場所になる場所だ。
 初陣のとき、父が戦場を指し示した。
 血が。屍が。主知らずの手が。剣が。
 見開かれたまま、閉じられることないの目が。
 動かぬすべてが僕を見る。


 あの国で、稀有な魔術の才能を持つ自分は、ずっと特別だった。
 魔術という力で兄たちを超えて、得意の絶頂だった。
 魔術が自分という存在を保証し、魔術が自分に周囲の尊敬を集めてくれるはずだった。
 けれど、あのとき、その珍重される魔術の正体を知った。
 魔術とは、より多くの敵を、肉体を、生命を、破壊するためだけのものだった。
 そんなものを振り回して、ひけらかして、得意になっていたことを、16歳になってようやく知った。
 こんなはずじゃなかった。
 こんな血なまぐさいことをするために、これほど多くの命を奪うために、
 魔術を修めたはずじゃなかった。
 
 ――だから、初陣のあのとき。僕は戦場から逃げ出したんだ。



「違わないさ」
 ダグラスは戦斧を手元に引き戻していた。吸い付きでもするように、滑らかにもとの構えに戻る。そしてダグラスの鋭い視線がアッシアを貫く。
「お前は、裏切っただろう? あいつ等を」
「裏切ってなんて――そんなつもりは、なかった」
「だがそれが事実だ」
 ぎち、と戦斧の男は持っている柄を強く握りしめた。それは、議論を打ち切りにする意志表示だったし、攻撃の時宜をはかり始めた合図でもあった。対する黒縁眼鏡の魔術師は、自然体のまま半身に構え、右腕をだらりと垂らした。
 摺り足で移動する戦斧の男。その動きに合わせて、呼吸をはかるように黒縁眼鏡の魔術師も移動する。互いにじりじりと動き、そのたびに周囲の空気が緊張を増す。

 両者とも何も言わない。
 言っても仕方がないと思ったのか、それともどちらかが片方の主張を受け入れたのか。
 どちらにしろ、この場で戦闘を行おうという無言の提案だけは了解されたようだった。
 そのことは、互いの間に流れる空気が物語ってくれている。
 魔術が使えるような間合いではない。この距離で魔術を使おうとしても、魔術文様を描いた途端に、その文様は崩されてしまう。魔術を使うには、もっと距離をおかなければならないが、向かい合う男たちの間隔は、わずか2歩ほど。距離を置こうとすれば、その隙をつかれてしまうだろう。
 だから、戦況は、単純に戦斧という得物を持っているダグラスの方が、有利だった。いやその判定にもひいき目が入っている。実際は、斧の一撃を受ければ致命傷なので、無手でかたびらもつけていないアッシアは、絶体絶命の窮地。

 突然の戦闘。平和だった空気が抗議の間もなく張り詰める。

 硬直しかけていた場を破ったのは、優勢なダグラスだった。刃を振り子のように下から上へと振り上げ、アッシアに切りかかる。
 アッシアは身をひねってそれをかわすと、返す刀ならぬ斧で襲ってきた袈裟切りも、後ろに跳んでかわす。そして、アッシアはさらにもう一歩跳んで、魔術文様を描画しはじめた。
 しかし、その動きは、ダグラスに読まれていた。戦斧を旋回させつつ、ダグラスがより早く魔術文様を広げる。
アッシアは、ダグラスの攻撃魔術の規模と種類を読み取った。周囲に被害が出ても構わないという規模の、熱衝撃波。
(ここが学院の中庭だということを忘れているのか!)
 苛立たしく思いながら、アッシアは自分が描画していた魔術文様を瞬時にするすると伸ばし、ダグラスの文様に干渉させ、中断させた。文様が止まれば魔術も止まる。
魔術を妨げられたダグラスは、舌打ちすると、アッシアが干渉のために伸ばした文様を、腕を伸ばし、薄く魔力を篭めた手で握りつぶした。
 そして互いの文様が霧散する。
 魔術文様は、魔力で描画されているので、互いの魔力で割合簡単に妨害することができる。ギヤマンのようにもろい、それが魔術文様だった。魔力を帯びた体や武器ならば、魔術文様を崩すことは容易いし、文様の操作に長けているのであれば、ちょうど今アッシアがして見せたように、自分の文様で相手の描いた魔術文様を妨害することも可能だ。一度文様が崩されたり乱されたりすれば、魔術の発動は難しくなり、結局は魔術をキャンセルしなければならない。

 そうした場合は、隙ができる。このときも、例外ではなかった。



「茨よ!」
 突然の女性の声。それは呪文だった。
 紅色の魔術の鎖が、うねるような動きで、ダグラスへ向かって飛んできた。その鎖を、ダグラスは斧を旋回させて容易く叩き落とす。地面で丸まり、消えてしまった紅色の鎖も見ずに、ダグラスは次に備えるべく周囲を確認する。
 だが、自分を取り巻く状況に気がついて、ダグラスは動きを止めた。そこには感情的な舌打ちもなにもなく、ただ合理的な判断だけがある。武器を捨てたわけではないが、ゆっくりとした動きで構えを崩し、もう戦う意志は無いことを示してみせた。

「――動かないでください。動けば魔術で攻撃します」

 ダグラスへ向けて、そう警告したのは、褐色の肌をした少女だった。柳眉を険しくして、魔術文様をまとわせた腕を突き出し、威嚇している。
 戦斧の男は、そこでようやく手に持っていた斧を手放した。ぱさりと間抜けな音を立てて、戦斧が緑の芝生に横たわる。斧を捨てたダグラスは、悪戯を指摘された少年のようにそっぽを向いた。
「よくよく、厄介ごとに巻き込まれる方ですね、アッシア教師は」
 溜め息混じりに言いながら、褐色の肌の少女の後ろに立つのは、樺色の髪の女性教師だった。先ほどの魔術の鎖は、この教師が放ったものだろう。
「エマ教師……」
 アッシアはようやくそこで、構えを崩した。

 自分の教室へと帰る途中だったエマ教師とヴァルが、異変に気がついて、アッシアのところへと戻ってきたのだった。学院の中庭で武器と魔術を用いた戦闘が行われているとあれば、止めなければならないだろう。
 この魔術学院では、生徒同士の私闘――特に私闘での魔術の使用――を禁じているし、それは教師同士でも同じだった。外来者が相手ならば良いという例外事項も、当然無い。
「いったい、何があったんです?」
 エマ教師が、問いかける。アッシアへと問いかけたのだろう。数歩の空間を隔てて、両者は会話する。
「エマ教師……、ええ、説明しづらいんですが、事実だけを言えば、古い知り合いに攻撃されたんです」
「知り合い、ね」
 どうやらその言葉を聞きとがめたらしく、厭味を篭めて言ったのは、ダグラスだった。だが、相変わらずそっぽを向いたままだ。
 困惑したように、エマ教師は形の良い眉根を寄せる。
「事情がよく見えません。どこか空いている部屋で、お話を聞かせてもらってもよろしいですか?」

「――まあ、まずは、それが妥当な処置ですね」

 それは、完全な第三者の声だった。
 いつの間にか、エマ教師のすぐ後ろにプラチナブロンドの長い髪をみつあみにした男が立っていた。すらりとした肢体を柔らかそうな服に身を包み、貴公子然とした整った顔に微笑を浮かべている。
「失礼ですが、貴方は――」
「ああ、私はジュリアスと申します。そこの図体ばかりでかい馬鹿の連れです」
 エマ教師の言葉を遮って答えると、プラチナブロンドの男は、斧を捨てたばかりのダグラス、視線で示して見せた。
 突然の闖入者に、エマ教師は困惑をますます深めたようだった。さきほどまで暴れていた男は、容易く斧を捨てて、しかも抵抗する様子もないようだが、事情を説明する気もないらしい。アッシア教師も、この銀髪の男の、突然の出現に驚いているのか、何も語らない。
 やれやれ、という気持ちになったのかはわからないが、とりあえずエマ教師は自己紹介には自己紹介で応えることにしたようだった。
「……エマ=フロックハートです。この学院の教師をやっています」
「エマ=フロックハート。貴女が」聞き覚えがある、というようにジュリアス。「また後ほど落ち着ける場所で、改めてゆっくりとお話をしたいものですね。しかし、済ませなければならない用事を先に片付けてしまいましょう。……彼女たちを急かしてここまで案内してもらった手前もありますし」
 言って、ジュリアスはちらりと後ろを振り返って見せた。そこには、ふたりの男女の生徒がいた。――ふたりともアッシア教師が受け持つ生徒で、リーンとパットだ。ジュリアスという銀髪の男性が言う『彼女たち』とは、このふたりのことなのだろう。

 そして突然、ジュリアスは、連れだというダグラスへ向かって、すたすたと歩き出した。
 本来は止めるべきだったのだが、その仕草があまりにも自然なので、エマ教師も制止することを忘れてしまった。
 いったい何をする気なのだろうか。その場にいる誰もが思った、そのときだった。
 ジュリアスは、ダグラスの前までたどりつくと、何かを言うよりも先に、慣れた動作で拳を振り上げて一閃した。ごつりと鈍い音がする。
「……って!!」
 ぶたれた頭を抱え、ダグラスが屈みこむが、それを確認することもしない。ジュリアスは、今度はアッシアの方へと向かって歩いていく。
 1秒ほどでたどりつくと、黒縁眼鏡の教師と、プラチナブロンドの男は少しの間、黙って目を合わせた。奇妙な穏やかさと戸惑いがそこにはあった。
「ジュ……」
 黒縁眼鏡は何かを言いかけたが、プラチナブロンドの方は、先ほどと同じ手順で、拳をコンパクトに振り上げると、無造作に一撃した。
「……った!!」
 また鈍い音がして、ぶたれた額を押さえてアッシアが屈みこむ。
 目の前で起こっていることが理解できず、エマ教師も、他の生徒――ヴァルとリーンとパットも、ただ起こっている出来事を眺めているだけだった。その日の学院の中庭は、とても奇妙な空気が漂っていた。

 具体的に言えば――。
 わけがわからない、という空気。
 そんな空気に気がついているのかいないのか、プラチナブロンドのジュリアスは、エマ教師たちがいる方向へと振り向くと、苦笑し、肩を竦めて見せた。
「やはり――、喧嘩は両成敗ですからね?」
「……はぁ」
 もはやあっけにとられて何も言えず、エマ教師は、場を代表して、彼女らしからぬ間抜けな音を口から漏らすだけだった。