6. 『秘密』
「ねぇ、リーン……こういうことって、あまりよくないんじゃないかなぁ」
困惑顔で囁いたのは、褐色の肌の少女だった。制服ローブの胸元を心配そうに握り締めて、隣の友人の少女を見守っている。隣の少女は、木製の扉にへばりつくようにして耳を当て、部屋の中の様子をうかがっている。
そしてへばりつくようにしたまま、褐色の肌の少女に、薄茶の目を向けると、唇に白い人差し指を一本当ててみせた。
「しっ、静かに、ヴァル。中の声が聞こえないわ」
「そうそう。僕らには、事情を知る権利があるんだからさ」
そう軽口を叩いたのは、パットだった。リーンのそのまた隣に立つ彼は、プリント用紙で筒を作り、それを扉に当てて聞き耳を立てている。
慣れた様子で盗み聞きをする双子を目の前にして、このひとたちは、いつもこんなことをしているのかとヴァルは困惑した。しかしそれでも無理矢理に注意したり、自分だけでも立ち去ろうとしないのは、部屋の中で行われているやりとりに興味があるからだろう。
今、この扉の向こうの応接室では、外来者ふたりとアッシア教師の事情を、エマ教師が尋ねている真っ最中のはずだった。
試験明けたての学院の中庭で、突然に私闘を始めた、がっしりとした体格の外来者――ダグラスと、アッシア教師の関係。
そして、その私闘を軽々と止めてみせた、王子様のような風貌の外来者――ジュリアスとは何者なのか。
ふたりともが、アッシア教師とも旧知の間柄のように見えたが。
気になる、とヴァルは思った。
「でも、結構たいした関係じゃないと思うのよね、わたし」
まるでヴァルの心を読んだかのような時宜で、リーンが呟いた。
「たいした関係じゃなくても、巻き込まれたら事情を知りたくなるもんだよな。ねえ、ヴァルもそう思うだろ?」
どういう意図があるのか、それとも何も無いのか、パットが片目を瞑って見せた。
「それは……そうかも」ヴァルが同意する。
「知らないことがあれば、知りたくなる。わからないことがあれば、調べたくなる。そういう姿勢があるから、こうして僕ら人類は発展することができたんだ。いわば、これは使命みたいなものだよ」
自分で自分の言葉に感じ入ったのか、パットはひとりで深く頷いた。
「よくもまあ、ただの出歯亀根性を、そこまで正当化できるものね」
リーンが半眼で従兄妹を見る。
「まあ、わざわざ下世話な言葉で説明することもないだろ?」
耳はあくまでも扉に向けながら、パットは従妹の言葉に反応して肩をすくめた。器用なことだ。
結局、盗み聞きは悪いことだとヴァルは思ったが、事情を知りたいという誘惑には抗えなかった。少しだけなら構わないだろう、という気持ちもあった。
「あ、ここから中が見える……」
ヴァルは、応接室の鍵穴へと目を近づけた。
■□■
5人ほどを収容できる応接室は、南向きの窓を持っていて日当たりが良く、明るい。それなりの絨毯とおざなりの観葉植物も入っている。
運良くというかなんというか、ちょうど空いていた応接室に、外来者であるジュリアスとダグラスを迎え入れて座らせると、エマ教師は、その向かいに腰をおろした。
アッシア教師とダグラスという男との私闘は、他の人間に目撃されていないようだったが、あまり人目にさらして良い種類の出来事だという判断は、今の状況でもできる。
なにがなんだかわからないときは、情報を集めることが先決だろう。とにかく事情がわからなければ、判断しようもない。不問にするも、『上』に報告するにもだ。報告するとしても、その内容だって決めなければならない。もちろん何も解釈を加えずに、ありのままを報告することもできるが、当事者がいるのであれば、話を聞いてからでも遅くはない。
まして、知り合いの知己であれば、おおごとにならないうちに、穏便に事を収めておきたいというのが、エマ教師の考えだった。
と、そこにアッシア教師が隣の空き椅子に腰掛けようとしたので、エマ教師は、片手で黒縁眼鏡の教師を制すと、もうひとつ空いているソファ――ジュリアスの隣だ――を指し示した。
アッシア教師は気まずそうに、だが素直に移動し、ジュリアスの隣に腰をおろす。
そして、男三人が並び、向かいにエマ教師がひとりで対するという構図ができた。
一見したところは面接試験のようでもあるが、実体は、素行の悪さを咎められる男子と、風紀委員長という構図がもっとも近いかもしれない。
準備万端整ったと見たのか、エマ教師が口を開いた。それでは、話を始めさせてもらいます。
「まず、わたし個人の思いとして、今回の件は、なるべく事を荒立てたくないと思っています」
エマ教師は、そのブラウンの双眸で、ジュリアス、次いでダグラスを確認するように見据え、しっかりとした発声で続ける。
「ですが、この学院には私闘を禁ずる規律があり、これを破るものは、セドゥルス魔術学院の自治法によって裁かれることになっています。学院の治安を預かる任にある教師としては、先ほどの私闘を看過するわけにもいきません。
しかし正式な手続きの前に、まずは、事情を聞かせていただきたいと思います。――ご協力をお願いできますね?」
はい――、と頷いたのは、当事者のダグラスではなかった。その隣、男性陣の中央に座る、プラチナブロンドの男性が柔らかな微笑みを浮かべている。上品で優しげな笑みは、並の女性であればそれだけで舞い上がってしまうだろうと思えるほど、魅力的だった。
だが、さすがエマ教師と言うべきか。言い寄られることの多い女性は、魅力的な男性に耐性があるようだった。硬い表情のまま、ブラウンの瞳には厳しさを添えて、ジュリアスを見返している。
けれど、ジュリアスも、もとより誘惑でごまかそうなどと考えているわけではない。自分の両手の長い指をからませると、ゆっくりと話し出した。
「もちろん、事情の説明については協力を惜しみません。我々の、独特な文化が誤解を招いたようで、本当に申し訳なく思っています。これから、先ほどの出来事について、順を追ってご説明したいと思います」
当事者のダグラスとアッシアは、それぞれ無言のままだった。自分たちが話すべきではないと考えているのか、とりあえず様子を見ているのか。
黒縁眼鏡の教師は、さきほどからしきりに額に手をやっている。赤くはれ上がった、たんこぶが気になるようだ。ちなみに、ダグラスのたんこぶは、ちょうど頭頂にできていたが、彼の方は気にした様子も見せず、腫れるにまかせている。たんこぶを頭につけて平静な顔をしている姿は、それはそれで、おかしな風景ではあったが。
たんこぶの当事者ふたりを脇におき、プラチナブロンドの男が、すらすらとした口調で、話を続けた。
「先ほどの、ふたりの戦いは、我が国の一種の儀礼です。そう、あいさつのようなものですね」
「あ……!」
いさつ。
エマ教師の言葉の語尾は消えた。
あまりと言えばあまりの説明だろう。
この人を喰った説明に虚をつかれたのか、それともあきれ果てたのか。エマ教師は続けるべき言葉を失った。
その隙をつくように、ジュリアスが自論を展開する。
「我々の母国であるベルファルト王国は、世間から騎士の国と言われています。尚武の気風が豊かで、心身を鍛え、騎士道と呼ばれる独自の道徳を貫くことを国是としています。
しかし、そうしたことは名目に過ぎません。実際には、ベルファルト王国は、力を領主が持つ領邦国家です。王という存在も、領主たちの代表という意味合いしか持たず、そのために、領主たちが、一年中領土を争っているのが現状です。
そうした現実の中では、自然と武力が重視される。常に真剣を交えるような緊張感が要求される。だから我々は、日頃から腕を磨き、そして油断をせぬように気を引き締め続けるのです」
「それで、あなたの国では、気を緩めないように、あいさつがわりに殺し合いをするということですね?」
エマ教師が刺のある先回りをした。話を先に進めたいというよりは、真面目に話をしないようならば早く終わらせてしまいたいという趣旨の相槌だった。
それに気がついてはいるのだろうが、ジュリアスがにこやかに続ける。
殺し合いという言葉は、正確ではありません。
「もちろん、実際には真剣や斧のような武器を使うことはまれです。ただ、相手の力量をきちんと見切った上で、組み手を仕掛けます。それぞれの力量が高ければ、今回のようなケースもあることでしょう。――事実、貴女のご同僚は、傷ひとつ負っていない」
ジュリアスは、すらりと伸びた指で、品よくアッシアを指してみせる。
確かに、そこに座る黒縁眼鏡の教師は無傷だった。しかし――。
(屁理屈だわ)
エマ教師胸中で嘆息した。
あのまま止めに入らずに戦闘を続けていれば、必ず周囲に被害が出ていた。そう指摘することもできたけれども――エマ教師は、別のことを聞いた。
「では、あなた方は、ベルファルト王国の騎士団の方ということですか?」
「確かに、我々は騎士団に所属しています。――ベルファルト王国のデグラン家。ご存知でしょうか」
確かに所属しているとは、微妙な言い回しだったが、それよりもデグランという家名に、エマ教師は胸を衝かれる思いだった。
「デグラン家……、あの大公家の騎士団に、関わる方なのですか」
驚きを押し隠して、エマ教師が言った。
デグラン大公家と言えば、ベルファルト王国でも王家に並ぶ名家だ。
北王戦争時、神出鬼没の騎士団を率いて活躍した実力者でもある。
炎戮の女神エレ=ノア、スイマール大公家と同様に、デグラン家の盛名は、あの戦争を経て一層高くなった。
そして彼女は緊張に身を固くする。
この問題の処理を誤れば、ひょっとしたら外交問題に発展するのではないかと。
■□■
応接室とは、そもそもが来客用にあつらえてある部屋だ。
鍵穴から覗くことができるその部屋は、他の教室や会議室よりも豪華な造りだとヴァルは思った。
採光は多いし、天井が高く、解放感がある。
白塗りの天井からは、ふたつの魔術灯が吊るされている。その白い曇りギヤマンの球は揺れることなく静かにたたずんでいる。
解放感をひとに感じさせながら、けれど区切られた空間。
試験という制度に少し似ている、と彼女は思う。
今、目の前の試験が終わって解放感を味わっているけれど、既に次の試験へのカウントダウンは始まっている。解放感を持たせながら、その実、期限は既に区切られている。この一見広がりを持つ部屋が、結局、壁と天井で囲まれているように。
広大な有限を、無限と勘違いするようなものだ。
微分は無限に見えて、必ず限りがある。
漸近していれば、必ず交わる。
追いつかれる。
必ずやって来るという種類のものは、生きていくなかで、数多くある。
改めて、濃い茶色のテーブルを挟んで話を続ける応接室の教師たちへと、ヴァルは意識を向ける。
会話は、エマ教師と貴公子のようなプラチナブロンドの男との間で続いていた。アッシア教師を殺そうとした当事者の、黒髪のがっしりとした男――ダグラスと言ったか――は、腕を組んで、ずっと天井付近の壁を睨んだままだ。
(どうして、本人が話をしないのかしら)
苛立ちをこめてヴァルは思うが、あまり他人のことを言える身分ではないので、文句は胸の中にしまっておくことにした。
「確かに、我々は騎士団に所属しています。――ベルファルト王国のデグラン家。ご存知でしょうか」
部屋の中から、プラチナブロンドの男――ジュリアスの声がした。
聞き覚えのある名詞に、ヴァルの意識が反応する。
デグラン。それはあの、ルドルフ=デグランの、デグランだろうか。
遺跡でエマ教師から教えてもらった、北王戦争のときに有名になった3つの名前のうちのひとつだ。
エマ教師から教えてもらったあと、ヴァルは6年前の北王戦争のことについて調べた。
彼女にとっては、あの戦争は、自分の父親が暗殺されるきっかけとなった、忌まわしいだけのものだった。けれど、時間が経ったせいなのか、それとも自分が変質したのか、新聞のバックナンバをめくるヴァルの胸中は、意外と冷静だった。
調べてみると、デグラン家は新聞にも頻繁に出てくる家名でもあった。ベルファルト王国は、王家と2大公家によって、国家の意志が決められているが、その2大公家のうちのひとつが、デグラン家だ。時代によっては、王家を凌ぐ権勢を誇ることもあるというし、今もそうだ。
その家の騎士団の所属だとしたら、実は結構な身分の人間かもしれない、とヴァルは思う。そう思ってふたりの男を見ると、気品があると思えるから不思議だ。相変わらず、プラチナブロンドの男が話をして、がっしりとした体格の男は壁を見つめている。
ソファの端に座るアッシア教師は、たんこぶのできた額を押さえたまま、依然として沈黙している。ヴァルは、渋い顔をして座っている教師を、鍵穴越しに眺めて想像する。
ひょっとしたら――。
(アッシア先生は、デグラン家の騎士団員だったのかしら)
ヴァルはその可能性を考える。ソファに渋面で座っている黒縁眼鏡の教師が、馬に乗って剣を振りまわす姿があまり上手く思い浮かばなかったけれど。
右腕の火傷も、騎士団時代のものなのかもしれない、とヴァルは想像を続ける。人の手のかたちをした、火傷の痕。ずいぶんと気に病んでいるようだったから、本人には聞くことができてはいないけれど、その不思議な火傷の痕の由来が、ヴァルはずっと気になっていた。
いつかきっと聞いてみよう、とヴァルは心の中で静かに、けれど強く思ったそのとき。
「なんだかんだで、ヴァルも結構ノリノリで覗いてるね」
と、左側からリーンの声。
「まったくだ。実は、隠されているだけで、普段からそういう願望があるのかもしれないな」
と、右側からパットの声。
従兄妹たちはそれぞれ応接室の扉で聞き耳を立てたまま、鍵穴を覗くヴァルを見下ろしている。
「そ、そんなつもりじゃ、なかったんだけど……」
梯子を外されてひとり二階に取り残されたような気分で、ヴァルは顔を赤らめた。
■□■
「納得していない。――そういう顔ですね」
「は?」
ジュリアスの言葉の意味を取りかねて、エマ教師が聞き返した。それはどういうことですか、とエマ教師が聞き返す前に、ジュリアスは素早く言葉を重ねた。
「先ほどの、私の説明のことです。しかし、このふたりは昔から仲が悪くて、あの程度の喧嘩ならば、本当に挨拶だと、身内から見るとそう思えるのですよ」
砕けた調子で、ジュリアスが話す。
斧を振り回しても喧嘩ですか、と言いたくなるのをぐっとこらえて、しかし、エマ教師は、これ以上の追及は諦めた。
確かに私闘をしていたのは事実だが、幸いにして怪我人も周囲への被害も出ていない。
このことを深く掘り下げて問い詰めていっても、良い結果は得られないだろう。規則を意固地に押し付けて、互いの態度を硬化させて、大きな問題になり、外交問題ともなれば、それこそエマ教師ひとりで責任を取りきれるような問題でもない。
――ここは退いておくのが大人の判断だ。
エマ教師は、胸の中で静かにそう認めた。けれど、アッシア教師とふたりの外来者――、ジュリアスとダグラスとがどういう関係か、それは確認しておかなければならない。
「そういえば――自己紹介がまだでしたね」
まるでエマ教師の思考を読み取ったかのような、ゆったりとしたジュリアスの口調だった。優雅で、ほどよく抑制された貴族的な発音。
そして、ジュリアスはダンスの誘いでも受けるように、あるいは神の御前にでも出るかのように、恭しく自分の胸に手を当てた。
「私は、ジュリアス=デグラン。ベルファルト現大公ルドルフ=デグランの長子です」
デグラン家の――長子。
エマ教師はその名前に息を飲む。
デグラン家の長子であれば、次期大公ということだろう。目の前のソファに座るこの人物は、将来のベルファルト王国の意志を左右する人物だということになる。
よりによって、とエマ教師は思う。
今、目の前にいる人物が、国賓級の貴人だというのだ。
衝撃。驚き。緊張。そして今の今まで正体を隠すその人の悪さに、舌打ちをしたくなったが、エマ教師は、なんとか表面に出さず自制することに成功した。
けれど、ジュリアスの隠し玉はそれだけではなかった。続ける。
「隣に座るのが、弟のダグラス=デグラン」
尊大にソファに深く腰掛けている、体格のがっしりした男を、ジュリアスは優雅に指し、改めて紹介した。紹介された当のダグラスは、あいさつをするでもなく、頭にたんこぶを作ったままそっぽを向いて、窓の外へと視線を投げ続けている。
対するエマ教師は何も言わない。何か皮肉が言えればよかったのかもしれないが、そんな余裕もなかった。
二人目の貴人の公開に、なんとか保っている微笑みが硬くなっているのを自覚していたが、どうしようも無い。彼女は心の中で、体勢を立て直すことを熱望した。
せめて深呼吸できる場があればとも思った。
お茶かコーヒーを一口くちに含むのでもいいい。
けれど、あいにくと今は、どちらも不可能そうな状況だった。
「そして――」
さらに続けて、ジュリアスが何かを言いかけた。だが。
「――もういいでしょう、ジュリアス卿」
そう強い声で遮ったのは、アッシア教師だった。
エマ教師は、ようやく声を発した黒縁眼鏡の教師へと視線を遣った。彼は、すぐ隣――つまりエマの向かい――に座るジュリアスを制するように、鋭く見つめている。いつもの黒縁眼鏡の奥にある薄茶の目に、常にない真剣さがあった。
どうしたというのだろう?
エマ教師は、胸中で首をひねったが、表には出さない。
彼女にしてみれば、ようやく、驚きが過ぎて、気持ちの整理がついてきたところだった。
長子ジュリアスは、目端でアッシア教師を見返した。
そしてややあって、その端正な瞳を閉じて、軽く溜め息を吐いた。
仕方が無い――。
言葉には出さなかったが、その長子の風情は、そのようなものだった。
「それで、このアッシアは――、同じ騎士団に所属していた、仲間なのです。騎士団の成員というのは、強い絆で結ばれます。
そう、ちょうど――兄弟、のようにね」
その部分だけ。
ジュリアスは、やけに淡々と説明した。
夏の部屋に響く冷たい声音。
急に、そこだけ、気温が下がってしまったかのようだった。
|
|