8. 『彼の手の平の上で』




「アッシアは……デグラン家に関係する者だったのか」
 黒猫のその言葉を聞いて、エマは、しまった、という表情をした。
 そこはエマの私室だった。さほど広く無い部屋には、この部屋の持ち主に厳選されたのだろう、趣味の良い家具が並んでいる。それぞれが主張しすぎるような大きさでもないし、収納などの使い勝手はかなり考えられているようだった。
 3階にあるこの部屋の窓は申し訳程度に開かれていて、そこからわずかな山の涼が流れ込んでくる。
自分の口が軽いという自覚はなかったが、その認識は改めるべきかもしれないとエマは思った。
 ジュリアス=デグランにもたらされて知った情報を、たった今、黒猫に話したところだった。
アッシア教師とこのレイレンを名乗る黒猫は親しいため、すでに知っている内容だと思ったが、そうでもないらしい。
 そう言えば、アッシア教師のことを良く知らないことにエマは思い至った。古代学を専攻していることは知っていたが、年齢すらもよく知らない。そう言えば、話の中で、アッシア教師がデグラン家を出奔したような話をしていたが、あれはどういうことなのだろうかと今更ながらに疑問を持った。
「君は、驚かないんだな」
 突然――少なくともエマはそう感じた――問い掛けられて、エマが顔をあげると、黒猫が黄金色の瞳でじっと見返してきていた。滑らかに整えられた黒い毛皮を寝台に横たえ、きりりと上半身を立てている。綺麗な黒猫になったものだというどうでもいい感想が、彼女の頭の片隅をかすめた。
「なんのこと?」
「アッシアが、デグラン家の子息と関係があることをだ」
「だって、誰と知り合いでも、そのひとはそのひとのままでしょう」
「そうだな。君は――、『炎戮の女神』エレ=ノアの妹分だったな」
 ふと思い出したというような、レイレンを名乗る黒猫の言葉。
 答えるエマは、らしくなく早口だった。
「ええ、そうよ。けれど、そのことと私の価値は、何の関係もないわ――。そう、もう私は、私でしかないのよ。だれの付属物でもない。エマ=フロックハートという女で、学院の教師。私自身の力を認められて、私はここにいるの」
「エレ=ノアの――姉の呪縛から、君はようやく解き放たれたということか」
「姉さんが――悪いということではないのよ」
「もちろん。それはよく知っている」
 レイレンを名乗る黒猫は、まるで本当の姉妹のように仲のよい二人を、よく覚えていた。けれど姉妹のように振る舞うなかにも、行き違う感情のさざ波があった。当時のさざ波が、今はどのように変化して、そして姉妹ふたりの関係をどのようなものにしているのか、そこまでは知らない。けれど、強いて聞かずとも、いつか知ることがあるだろうと黒猫は静かに思う。
 いつの間にか、エマは立ち上がり、小さな食器棚を開いていた。
「コーヒー、飲む?」
「いや……ミルクにしてくれ。猫だからな」
 その答えを聞いて、エマは吹き出した。
 そしてレイレンを名乗る黒猫へと背中を向ける。
 彼女のその細い肩が、小刻みに震えた。
「笑うな」
 不機嫌な声で、黒猫が言った。
「ごめんなさい。レイレンは、ミルクよね」
 笑いを苦心して押えているのか、エマは涙目だった。
 まさか、元暗殺屋にミルクが似合うようになるようになるとは、預言者だって思うまい。
 黒猫は、それからしばらく、とても不満そうだったが。
 結局、ミルクの入った皿を、おとなしく舐めたという。



                      ■□■



 ――裏があるんだろう?

 それは一応問いかけのかたちをとっていたけれども、間違いないという確信があった。
 胸の中にそんな確信を篭めながら、アッシアは、目の前に立つプラチナブロンドの男をじっと見つめた。歳に似合わず老練なプラチナブロンドの男は、この程度でぼろを出すような人間ではない。けれど、何かいつもと違うところが現れるかもしれない。顔色、声音、瞳の揺らぎ。そんなわずかな変化も見逃さないように、アッシアはしっかりと相手を見据えた。
 けれどそんな努力の甲斐も無く、ジュリアスはいつもと同じく湖面のように平静だった。自慢のプラチナブロンドを揺らしもしない。ただ言ってくる。
「裏があろうがなかろうが、あの老いぼれ賢者を逮捕すれば、奴の研究を調べたいという『紅の魔女』の――エマ女史の目的は達せられるのだろう? そこは心配しなくていい」
「しかし……」
「まあ、そうだな。お前の言いたいことはわからんでもない。不明な部分があれば、気持ちが落ち着かないのは当然だ」
 反論しかけたアッシアを制するように、ジュリアスが物分り良く言った。
 肩透かしでもくらったように、拍子抜けしたアッシアを置いてきぼりにして、そして、ジュリアスは肩をすくめて説明を始めた。
「老いぼれ賢者は、現体制に反感を持つベルファルト王国内の諸侯を集めて、ひとつの勢力をまとめあげようとしている。隣国のアーンバル王国とも繋がっているらしい。大規模な反乱か、それとももっと別の何かなのか、企図ははっきりせんが、このまま放置しておくと厄介なことになると判断した」
「――それで、誘拐の咎で逮捕をかける、ということか」
 ジュリアスは、そうだ、と頷いた。
 頭を奪ってしまえば、反体制勢力は霧散してしまうという計算なのだろう。だが、アッシアにはまだ疑問がある。
「けれど、なんだってピエトリーニャは政治活動なんてしているんだ?」
「7賢者という肩書きはあっても、正統な権力の後ろ盾があの老いぼれには無い。それに、魔術研究をするのならば、資金も必要だ。権力とつながろうとする理由は、いくらでも考えられる」

 なるほど、とアッシアは思った。
 ジュリアスがピエトリーニャを排除したがる理由は明確だ。
 つまりは、反乱分子を取り除きたいということだ。事態が騒乱のように大きくなる前のまだ芽のうちに、摘んでおこうという考えだ。
 そういう事情ならば、老賢者の捕り物で、エマ教師が悪いように扱われることはないだろう。老賢者の公開されていない研究内容も、間違いなくエマ教師へ渡される。
 安心したところで、アッシアはさらに疑問につきあたる。
 しかし、ピエトリーニャの何のためにひとさらいなどしているのだろうか。営利誘拐? 人身売買? どちらも違う気がする。
 アッシアはしばらく考え、そういえば、歴史上にこんな話があったと思い出した。

 その昔、ある地方に女領主がいた。変わった触れを布告していて、それは、年に一度、領民の若い娘で美しいものを選び、自分の館に奉公に出させるものだった。
 領民たちは、その布告を別に怪しいものだとは思わず、素直に従っていた。だが、数年が経ち、領主の館に行った娘たちは、誰一人として戻って来ることがないことを不思議に思い始めた。新年を祝う休みにも帰ってくることがない。
 だが、領民たちは疑問には思うものの、強いて領主に自分たちが差し出した娘たちのことを尋ねようとはしなかった。女領主は、比較的善政を行っていたし、そんな領主を、領民たちは信頼していた。しかし、そのお触れが続き、ついに15年目に達したとき、娘にどうしても会いたいと願った領民のひとりが、国王に調査を直訴した。国王はこれを受け入れ、調査が女領主の館に入ることになった。
 やがてわかったのは、おぞましい事実だった。
 館の地下室からは、多数の女性の死体が発見された。一部は既に白骨化していたという。女領主は即刻捕えられ、尋問を受けてこれまでの所業を告白した。
 女領主は、館にやってきた若い娘の生き血を抜き、浴槽に注いで、それを浴びていたのだ。定期的に、15年もの間、ずっとだ。女領主は、若い娘の生き血を浴びることで、自らが若返ることができると信じていたのだった。
 女領主は、一糸纏わぬ姿で、浴槽に注がれた生温かい血に身をひたしながら、一体何を思っていたのだろうか。動脈を切り裂かれ、血を抜かれた若い娘の遺体の横で。

 生き血を浴びることで、若返ることなどはない。誰かの命を使うことで、自らが若返ることなどない。それはただの迷信に過ぎない。
 アッシアは心の中で断定する。
 だがピエトリーニャというかの老賢者が150歳を超える老齢であることを思い出して、アッシアは背筋に一瞬だけ寒いものを感じたが、仮にも賢者と呼ばれているものがそんな迷信に踊らされているとも思えない。
 しかしなんにしろ、何故にひとさらいをするのか、それは絶対に確認しなければならないとアッシアは強く思った。



                     ■□■



「――浮かない顔だな、アッシア?」
 ジュリアスに声をかけられて、黒縁眼鏡ははっとしたように顔をあげた。
 しばらく考え込んでしまっていたのだ、と黒縁眼鏡の教師は心中で舌打ちをした。
数歩離れた木陰、葉の影とその隙間の光が混在する斑の世界。さわさわと揺れる木の幹に、いつの間にか銀髪の兄は背中を預けている。
アッシアが、何でもない、と取り繕う前に、銀髪の兄は続けて言葉をかけた。
「エマ女史をひとりで行かせることが心配なのだろう。やはりお前も来るか? 腕の良い魔術師は、多ければ多いほど良い」
 言われて、アッシアは一瞬大きく瞳をみひらいた。
 確かにそう思っているのは事実だ。久しぶりに会った兄たちの意図は明確になったから不安は拭えたが、奇術師ピエトリーニャと対峙するとなれば、下手をすればエマ教師の命にかかわる事態になるかもしれない。
 だが、何かを振り切るように俯くと、ゆっくりと首を振った。
「いや……。行っても意味がない。僕はもう、戦えないんだ」

 戦えば頭痛と吐き気がすると変な持病のことを、銀髪の兄に告げ。
 そして、黒縁眼鏡の教師は、自分の右腕にある火傷の跡にそっと触れた。
 夏の暑い午後のことだった。
 青い空はどこまでも高く、漂う雲は縁取りされたようにくっきりと真白い。
 そんな季節とは裏腹な、黒縁眼鏡の教師の静かな告白だったが。
「それは妙だな。あのダグラスを素手で相手にして、互角以上に戦っているように見えたが」
 兄にそう指摘をされて、アッシアは、自分のことながら意外なことを聞いたというように戸惑った。そう言えば、あのときは頭痛も吐き気もなかった。けれど、その理由は、アッシア自身にも良くわからなかった。
 うまく説明もできないので、アッシアは、自分自身にも理由はわからないことを正直に答えた。
「ダグラスの場合は――きっと特別なんだ」戸惑いがちに、アッシア。
「どう特別なんだ?」ジュリアスは遠慮なく問いかける。
「それは――わからない。ただ、戦えない理由は、精神的なものなんだ。ひょっとしたら、兄弟喧嘩だからかも」
「それはつまり、すべてはお前次第ということか?」
「そうとも言えるけれど。ダグラスのときはたまたま大丈夫だったんだよ。身内としか戦えない人間は役に立たないだろう? ――それに、ダグラスは、まだ僕を許していないみたいだし」
 学院の中庭の一件を思い出して、アッシアは自嘲気味だった。
 同じことを思い出しているのか、ジュリアスは、かすかに微笑んだ。
「ダグラスは、潔癖なところがある。だが、罪を負ったものを永遠に許さないような奴でもないだろう」
「――僕の罪は、許されるものなのかな」
「償おうとすればな」

 アッシアは、自問する。
 自分の愚かな過去を。犯した罪を。償う方法を。償う相手を。
 それぞれの要素を思考の天秤に載せて、その傾きを計ろうとする。
 けれど、天秤はゆらゆら揺れて、何も示してくれない。
 少なくとも、安易な救いは示さない。
 アッシアが思う『ふたつの罪』を――果たして償うことができるのか。
 それ自体が問いだった。


「だが、さてさてさても」
 考え込むアッシアを前にして、ジュリアスは、閉幕を告げる道化師のように、おどけてみせた。何かを導くのように、芝居じみた動きで右腕を広げる。
「騎士として、ご婦人をひとり敵地に向かわせるのは、いかがなものだろうな?」
「僕は、騎士じゃないよ――」どこか自嘲めいて、アッシア。
「では、男としてはどうだ?」
 黒縁眼鏡の弟が答える前に、ジュリアスは問いを素早く滑りこませた。まるで、お前の答えなぞ、お見通しだとでも言うように。
 そしてさらに畳み掛ける。
「アッシア。お前は、危険な場所に向かわせて平気なのか? 意中の女性を」
 意中の、というところをジュリアスは強調した。
「なっ、なんで」
 それを知っているんだ――。
 明らかに動揺して一歩下がったアッシアを見て、ジュリアスは拳を口に当てるようにして軽く笑った。やはりそうだったか。
「久しぶりに会ったが、我が弟殿がわかりやすいのは、相変わらずなようだ」
「じ、事前に調べたのか?」
「まさか。お前の交友関係など、事前に把握しなければならないほどのものじゃないさ」
「かまをかけたのか?」
「だから、見ればわかることだ」
 やれやれと首をふり、ジュリアスは苦笑した。まあ、この件はこれくらいにするとしてだ。
「どんなことがあっても――過去は消えることはないぞ。それなのにお前は、ずっと逃げ続けるつもりなのか?」
 アッシアに向けられた銀髪の兄の眼差しは、真剣なものだった。
 だから、これは真剣に答えなければならないのだと黒縁眼鏡の弟は思う。
「いつまでも逃げられるとは思っていないよ。いつかは、いつかは――立ち向かわなきゃならないと思っている」
「そのいつかは、いつになるんだ? 10年後か? それとも100年後か?」
「それは……」
 何かを言おうとしたアッシアを、ジュリアスは片手を振って止めた。
いい加減な答えは、聞きたくないとでもいうように。
「それで――どうする? 我々に、ちからを貸すのか貸さないのか」
 アッシアは、答えに窮して、押し黙った。そして、正しい答えを弾くために思考する。
 その様子を、ジュリアスはただ見つめている。

 獲物を追い詰めた猛禽は、鋭い嘴で、対象を確実に仕留める。
 そんな愚にもつかないことを、ジュリアスは頭の片隅で思った。
 アッシアの答えは、もはやわかりきっている。
 ただ、本人の意志で言わせる必要があった。
 アッシアは、人心掌握に練達した銀髪の兄の、手の平の上だった。完全に。
 今から数秒後に、黒縁眼鏡の弟が答えを出す。
 息をほどいて言葉にするのか、それともただ首肯するのか。
 今は神にしかわからないが、神に教えてもらう必要も無い。
 ほんの数秒待てば、すべてアッシアが示す。
 それまでの待ち時間は、夏の世界がずっと支配し続けていた。