1. 『夏休みの始まり』






 セドゥルス魔術学院は、夏期休暇に入る。
 夏休みになると、ほとんどの生徒たちは、自分の親元へと帰っていく。それはつまり、それぞれの生国へと帰っていくということだ。北へのぼれば、アーンバル王国、ベルファルト王国、ダーダリン公国。南にくだれば、リーティア王国、ミティア王国。裏返して言えば、私学であるセドゥルス学院は、ただの魔術学校ではなく、異なる文化を混ぜんと受け入れる特殊な器でもあるのだ。
 だが、器がどれほど立派だろうと、入っている中身は、家族を持つ普通の少年少女たちに過ぎない。低学年にとっては待ちかねた、高学年にとっては慣れきってしまった、長期休暇だ。
 わくわくとした空気が漂って、夏の暑さもどこか爽やか。けたたましい蝉の声とて天使の歌声。ちょっとダミ声の天使かもしれないが……。
 ごぉんごぉん、と学院の大鐘が鳴った。空気をかきまぜるように、遠くまで大きく響く。普段は授業の区切りを示す鐘の音だが、今日のものは特別だ。
 それは、授業期間の終わり――つまり、夏休みの始まりを示す音なのだから。
 鐘の音とともに、大荷物を抱えた生徒たちが、どっと学院の校門から流れ出てきた。競い合うようにして走り出すのは、集団心理だろうか。堤防が決壊でもしたかのように、門から出た生徒は、この日のために集めた路線馬車に、次々と飛び乗っていく。生徒たちを詰め込んだ馬車から順次出発していく。
「走らないで! こら、そこ、立ち止まるな!」
 そんな生徒たちの交通整理は、教師たちにとっての一大イベントでもあった。
 しゅるりという短い音の後に、花火が弾け、『混雑注意』の文字が青い空に現れる。教師が放った魔術だ。
 だが、そのあとも花火は続き、『休み最高!』だとか『バイバイ!』だとか『海で会おう』とかの文字が続く。黄金色やら緑色やらのそれは、生徒の誰かのいたずらだ。なかには『くたばれ古代語』とか『愛してる!』みたいな落書きもある。
「誰だ! ふざけていないで、順々に出発しなさい!」
 教師の誰かが叫ぶが、この混雑では誰が魔術を使ったかなど特定することは難しい。
 そうこうしているうちに、どこかで鳴り物が始まった。魔術なのか、実際にラッパを吹き鳴らしているのか。
 加えて、どうやって打ち上げたのか、紙ふぶきまで舞い出した。
 青い空に色とりどりの紙ふぶきが舞い、わっと歓声が大きくなる。
『やめなさい! 速やかに馬車に乗り込みなさい!』
 音声拡張の魔術を使った、教師の怒号が響き渡る。
 例年このように、夏の大出発は、にぎやかな混乱を呈していた。



「ふぅっ!」
 私室のベッドの上に、ローブの襟を緩めながらアッシアは乱暴に腰掛けた。書斎と同じように書籍が林立する室内は、夏のために蒸し暑い。もともと日当たりが良くない部屋なので湿気も篭もる。
「まったくもう、あいつらときたら」
 するすると簡単な文様を描きだし、その声を呪文にしてばんと窓を大きく開ける。しかし、いつも入ってくるはずの涼しい山風は、こんな日に限って流れ込んでこない。風が凪いでいるらしい。
 黒縁眼鏡を外して顔の汗をぬぐい、そしてもう一度大きく息を吐き出した。
 そして時計を見る。
 冷たい飲物が欲しい気分だったが、それは我慢した方が良い時刻だった。アッシアも、早く出発の準備をしなければならない。
「お疲れだな」
 ふいに、アッシアの頭上から声がした。反射のようにアッシアが顔を上に向けると、そこには綺麗な黒猫が一匹、壁に据え付けてある書棚の上で丸まっていた。
 この黒猫は、元は世界に名を馳せた暗殺屋のレイレン=デインなのだというが、今のアッシアにとっては、どうでもいいようなことのように思えた。とにかく今は、一服の涼が欲しかった。だからというわけではないが、アッシアは、この黒猫の固有の名であるクロさんという名前を呼んだ。
「毎年のことながら、嫌になりますよ。どうしてただ学院を出発するだけなのに、こう大騒ぎになるのか。すぐに馬車に乗り込まないし、大声はあげるし、いたずらはするし、はしゃぎまわるし」
 文句を言いながら、アッシアはまた魔術文様を描き出していた。威力減殺の文様をつなぎ合わせて3重にしている。文句の対象は、きっと今まで交通整理をしていた生徒たちのことだろう。
 クロさんは、棚の上から笑いを零すような息を吐いた。
「ほんの数日前ぐらいからだと思うが、この学院全体が祭りの前のように浮ついた雰囲気だな。なんというか、楽しそうだ」
 そうですかね、と気のない返事をしながら、アッシアは完成した魔術文様を呪文と共に発動させた。
「竜の吐息よ」
 同時、さほど広くない部屋の中に風が渦巻いた。
 一瞬だけ涼しさを部屋に提供して、あとは風は部屋の中を荒れ狂った。書籍の山を薙ぎ倒し、床に転がった本のページがばさばさと捲れ、埃が舞い立つ。窓際のカーテンは踊り、書き机にあった紙が2、3枚、窓の外へと飛ばされ、青い空と山に向かっていった。
 アッシアは、いつもより一層ぼさぼさになった黒髪を手櫛で直し、暴風の所為でずれてしまった黒縁眼鏡をかけなおす。と同時、据え付けの戸棚から、どさどさと本がベッドの上へと落ちてきた。
「……」
 無言で立ち上がると、アッシアは落ちてきた本を、棚へと戻し始めた。そのとき、風で巻き上げられた埃のために、2回くしゃみをした。
「涼しくなったか?」
 作業をするアッシアに向かって、クロさんが聞いた。
「まあ、一応は」
 少し憮然として、アッシアは手の中にある本を戻し終えた。
「私は、学校というものに縁がなくてな」クロさんが少し遠い目をした。「そのときどきによって、学校とは雰囲気を変えるものだと初めて知ったよ。興味深い」
 黒縁眼鏡の教師は、顔をあげて少し不思議そうに黒猫を見た。この黒猫の幼少時代と言えば、傭兵としてか、暗殺屋としての時間しかないはずだった。
「言われてみれば、そうですね」
 言いながら、そういえば自分にも学校生活というものがないことに、アッシアは思い当たった。自分の場合は、家庭教師に教えられていたのだ。
 この黒猫と意外なところで小さな共通点を見つけて、アッシアは苦笑するようにすると、首の下の汗を拭った。
「ところでアッシア。午後にここを出発すると言っていたが、準備はいいのか?」
「あ」
 そうだった――、とアッシアは時間が無いことを思い出した。
「これからなんですよ――、クロさんも手伝ってください」
「構わんよ。猫の手で良ければ、だが」
 アッシアは軽く噴き出した。クロさんの冗談も少し意外だった。
「ええ、是非。普通の人の手よりも、よっぽど頼りになりますから」



                        ■□■



「いーい……天気だなぁ」
 揺れる窓から、外の風景を眺めながら、赤毛の少年がぼんやりと呟く。晴天の下、少年たちの乗る馬車はやや早足で、街道を北に進んでいた。山岳地帯を走る街道はそれなりに整備されているが曲りくねり、時折り、車輪がくぼみに入って、馬車はがたりとゆれる。
 相変わらず夏の陽射しは強いが、からっとした空気のおかげで不快な暑さは無かった。
「そーよねー。もう、学院を離れてだいぶきちゃったしねぇ」
 赤毛の少年の対面に座る細身の少女が、少年と同じ窓の風景を眺めながら同意する。
 強い光がくっきりとした影をつくり、窓からの長閑な風景はさながら一枚絵のようだった。
「雲は、良いよなー」何故か遠い目をして、赤毛の少年。「何にも束縛されずに、自由だもんなー」
「ね。だから旅っていいもんでしょ。のんびりとした気分になって」
 色素の薄い黒髪のポニーテイルを整えるように触り、細身の少女が赤毛の少年に向けて同意を求めるように言った。
「ときにさ、リーン」
「なあに? パット」
 視線は窓の外に向けたまま、赤毛の少年が向かいに座るリーンに問いかけたそのとき、がたんと馬車が揺れた。その所為で少年が体のバランスを崩し、一時会話は中断されたが、すぐに再開された。
「親愛なる従妹どのに、ちょっと尋ねたいことがあるんだけど」
「どうしたのよ、改まっちゃって」
 リーンを従妹どのと呼んだパットの声にそれほど真面目なものがあるわけではなかったが、前髪を軽く払ってそして華奢な膝を揃え、リーンは聞く姿勢を整えた。大きな目を同い年の従兄に向けたままちょこんと首を傾げる姿は、何か猫を連想させた。
 パットとリーンはセドゥルス魔術学院の三号生で、同じ教室に所属している。同姓の二人の関係は従兄妹同士なのだが、同い年でしばしば息のあった行動をとるため、教室内では双子としてセットで扱われてもいる。
「この馬車は、一体どこに向かっているのかなぁ?」
 そう問うパットの目の中には、何故か諦観めいた光が浮かんでいた。
「だからベルファルト王国だってば。さっきもそう言ったじゃない」
 リーンのその答えは予想の範囲内だったようで、赤毛の少年は、うん、と確認するかのように軽く頷いた。
「で、どーして僕らはベルファルト王国になんて向かっているのかなぁ」
「それもさっき話したでしょ。アッシア先生とエマ先生が何故か2人してベルファルトに行くっていうから、興味本位で先回りしているんじゃないの」
 ね、というリーンの嬉しそうな呼びかけにはパットは答えなかった。代わりに、別なことを口にする。
「僕の記憶が正しければ」パットはそこでリーンへと視線を向けた。「そもそも誰かのあとをつけるっていうのは趣味がよくないし、それに学生の身分だから路銀だって無いから、ベルファルト行きは止めようって話になったはずなんだけど」
「気になるのよねー」ひとり考え込むように、リーンは腕を組む。「色恋沙汰には全ッ然みえないんだけど、ヴァルの言う通り、何故かあの二人は一緒に行動する機会が多いみたいなのよね。どうしてなのか、謎は深まる一方よね」
 会話は続いているが、かみ合ってはいない。けれど、パットは言葉を続ける。根気強いのか、それとも端から諦めているのか、わからないが。
「それじゃあ仕方ないなってことで、僕たちは実家のあるリーティア王国に帰ることになったはずなんだよな。それで、実家に帰るその日の早朝――ってほんの数時間前だと思うんだけど――僕は、まとめた荷物を持って寮から出てきた」
「一応、アッシア先生には、それとなく聞いてみたりしているのよね。でも、ああとかううとか、要領を得た答えは返ってこないし、もともとが挙動不審だから、どこが変なのかも良くわからないし。ひょっとしたら、アッシア先生はあたしの質問に答える気がないのかな。もしそうだとしたら、失礼しちゃう話よね」
「そして、それからの記憶がないんだよね。それで気が付いたら、僕はこうして馬車に乗っていたんだ」
 パットはそこで言葉を切って、溜めを作った。
「こんな格好で」
 パットの言うこんな格好、というものが何を示しているのかは、もし彼を一目見ることができたならばすぐに理解することができただろう。
 赤毛の少年は、半袖の襟のついた紺色のシャツに明るい色のスラックスという私服姿だったが、何故か、その両手両足を荒縄で縛られていた。
 手も足も、荒縄でぐるぐる巻きにされている。少年を拘束する縄は、いかにも適当に巻かれたようで、樽の腹のように不恰好に丸く膨らんでいた。
 パットの指摘に、リーンはそこで表情と言葉を止めた。軽く首を傾げ、目を逸らすように上方を見遣る。合わせて、頭頂の尻尾も少し傾く。そんな同い年の妹を赤毛の少年は半眼でじっと見ている。
 馬車の中に、僅かな時間、沈黙が落ちた。
「だってぇ、パットったらどうしても帰りたいっていうんだもん」
「だってぇ、じゃない!」
 叫んで同い年の従妹を指さそうとしたのか、パットは縛られた手をもぞと動かしたが、それは当然ながら叶わなかったようで、結局代わりに身を乗り出した。
「普通、帰りたいと言っている人間を気絶させてその隙に馬車に運び込んで、そのうえ荒縄で縛ったりするのか? 荒縄ってちくちくする上に肉に食い込んで痛いんだぞ畜生! 殴られた首もまだちょっと痛いし!」
「首のことなら大丈夫よ。ヴァルはきちんと手加減したみたいだし。手刀を首筋に一撃、凄く鮮やかだったわよ。ああいうのって、私みたいな下手な素人がやると逆に危険なのよね。それに、きちんと馬車に乗せてから縛ったから、縛ったところは誰にも見られてないわよ?」
「そういう問題じゃないっ!」
「そんなに怒んないでよ。いいじゃない、身内なんだから」
「よくない、絶対によくないっ!」
「あの、リーン……やっぱり、気絶させて無理矢理連れてくるって方法は、強引過ぎたんじゃないかしら……」
 そうおずおずと言葉を挟んできたのは、リーンの隣に座る褐色の肌の少女――ヴァルだった。心配そうに歪めた柳眉の下で、黒く輝く瞳が困惑を示している。後ろめたさを感じているのか、両手を胸元に当てていた。
 ヴァル――本名ヴァルヴァーラ――は、フロックハート教室の4号生である。何の因果かリーンの友達をやっている。リーンと友達になってから随分と明るくなったと言われているが、影響というのは、良いものばかりとは限らないということなのだろう。
 きっ、とパットはリーンに向けていた視線を、隣に座る褐色の肌の少女に向けた。
「ヴァル、君もっ! 悪いと思っているなら、最初から口車に乗らない!」
「ご、ごめんなさい……」
 叱られた子供さながらに、しゅんと肩を落としてヴァルがパットに頭を下げる。
「殴って気絶させるとか荒縄で縛るとかそーいうんじゃなくて、せめて! せめて色仕掛けぐらいにして欲しかったっ!」
「そーゆう問題なの……?」疑わしげに半眼で、リーンがパットに告げる。
「もちろんだっ! 色香に迷ったってその一瞬は納得してるんだから、自分でも気持ちに収まりがつくじゃないか! でも、暴力とかそーゆーのは、絶対に間違ってる!」
 正論なのかなんなのか、とにかく青少年の主張を撒き散らしながら、パットはもぞもぞと馬車の椅子の上で跳ねた。
「まーでもいいじゃない。ベルファルト王国に行くっていったって、どうせ国境近くの街まで行くだけなんだしさ。観光と思えば」
 反省なんて言葉は私の辞書には載っていません、とでも言い出しかねないぐらいの軽さで、リーンは続ける。
「それに、パットだって、女の子ふたりだけの旅だと不安だと思うでしょ? 護衛役ぐらい買ってでないと」
「護衛役を拉致する雇い主が、どの世界にいるっていうんだよっ!」
 赤毛の少年が、そんな悲鳴めいた文句を垂れているあいだも――。
 街路樹の陰の色濃い夏の街道を、馬車は平和に進み。騎士の王国への旅は、とても順調だった。