4.『案外、近くにいるのかも』
夜が過ぎれば、朝が来る。土地が変わったとしても、日常とはそんな当たり前のことの繰り返しだ。
「ふぁぁ……」
大あくびを手で隠しながら、リーンは宿の扉を開けて、外へと出た。まだ早朝だ。日は昇りきっておらず、まだ夜の名残のように薄闇もあたりに残っていた。朝もやも漂っている。けれどそれらも、あと数分のうちに消え去ってしまうだろう。
思いっきり伸びをすると、まだ温められていない空気が涼やかに肌に触れる。
それが気持ちよくて、少女は両腕をぶんぶんと体操のように振った。まだ結っていない髪が、無秩序に揺れる。普段はこんなことはしないが、やはり旅に来ると気持ちが変わるのだろうか。そういえば、いつもは寝起きが悪いのに、今日はやけに早く目が覚めた。
めずらしいついでに、朝の散歩でもしてやろうか、とリーンが思ったそのとき。朝もやの中、動く人影が見えた。その人影は、リーンの方へと走ってやってくる。
「あれ、リーン、早いね。おはよう」
「ヴァルこそ。こんな朝早くから、鍛錬なの?」
「もう毎日の習慣だから」
そう言って、人影――ヴァルは、持っていたタオルで軽く汗をぬぐう。もうそれなりの距離を走ったのか、額は汗が浮かんでいる。ヴァルは、柔らかそうな運動服を着ていた。
「リーンは、朝の散歩なの?」
「今まさにそうしようと思っていたとこ。ヴァルも一緒にどう?」
「うん、いいよ」
朝は静か。
踏み固められた土を蹴る足音だけが、やけに響く。
吐き出す息も白い――ような気分もするが、さすがにそこまでは寒くない。なんどか息を吐いてみたが、何度やっても白い息は出ないので、リーンは諦めた。その代わり、まだ空気が新鮮なうちに、大きく息を吸い込んで、体の隅々まで良い空気を行き渡らせてやる。
「朝って、気持ちがいいんだね。忘れてた」
「今みたいな季節は、特にそうね。日が昇ってからだと、暑いものね」
ヴァルが相槌を入れた。
リーンは、手の平を翳して、東へと顔を向ける。
「朝日も綺麗だし」
「うーん……そうね、綺麗ね」
「あれ、何か含みがある感じだね」
「鋭いのね、リーンは」ヴァルは苦笑する。「朝日は、綺麗だと思うけれど、好きじゃなかったのよ」
「綺麗だけど好きじゃない……って、なんで? 普通、綺麗だったら好きにならない?」
「なんていうか、綺麗過ぎるのかな。朝日を見ると、自分の心の黒い部分が消えちゃうような気がしたから」
「んーと」少し混乱したように、リーン。「黒い部分が消えるなら、むしろ良いことなんじゃない?」
「うまく言えないけど、その黒い部分も含めて、私だから。黒い部分が消えると、私が私じゃなくなっちゃうような気がしていたの」
「ああ、そういうことならなんとなくわかる。ありのままの自分でいたいってことよね」
「ありのまま……というよりは、こうありたいという自分でいたかったのね、きっと」
ヴァルは、心の中で振り返る。
復讐に焦がれた自分。
憎しみに身を浸すことで、自分を守ろうとした。
自分を復讐者と規定することで、何かを守ろうとした。
自分の拙さを胸中で笑い、そしてヴァルは、顔を東に向ける。
朝陽とかち合った。
――眩しい。
反射的に、ヴァルはその紫がかった黒い瞳を細める。
「でも、今は、朝陽も結構好きよ」
「そっちの方が、健全。しかもわかりやすいよ」
言いながら、リーンは、瞳を細めたままの少女へ手を差し出した。
くすり、とヴァルが笑う。
そしてふたりは、ぱしん、と手をあわせた。
■□■
ヴァルとリーン、ふたりの少女が散歩から戻り、宿の近くまできたとき、馬のいななきがした。
「どうっ、どう!」
興奮しがちな馬を押えるために、ひとりの男がくつわを押えていた。いや、男はひとりだけではない。青年と思しき年齢の、武装した男たちが6人ほど、宿の前にたむろっていた。待ち合わせをしているのだろうか。男たちは、ある者はただ立っていたり、ある者は鎧の留め具をいじっている。
ヴァルは困惑気に眉根を寄せた。宿までは、この男たちの前を通らないとたどりつけない。
それほど柄の悪い男たちではない、とヴァルは思った。着けている鎧も剣も統一されたものだし、よく訓練していることが、ちょっとした動作からでもわかる。そのまま道を通過しても、特に危険は無いと判断できた。
でも、リーンは怖いと感じているかもしれない。ヴァル自身は、戦闘を想定した訓練を積んでいるために平気だが、普通の女の子からしてみれば、自分よりも力が強い男たちの傍を通るのは、あまり気持ちの良いものではない。そう思って、ヴァルはリーンの気持ちを確かめるべく、めくばせをした。
リーンは、すぐにそれに気がつき、頷いた。そして、言った。
「あのひとたち、どうして武装なんかしているのかなぁ。まるで戦場にでも行くみたいだよね。でも、この辺で戦争なんて無いだろうし……、ちょっと聞いてみようか」
男たちがたむろする方向へ向かって、すたすたと進んでいく。
「ちょ、ちょっと、リーン」
全然予想と違ったポニーテイルの少女の反応に、逆にヴァルが慌てた。
「危ないわよ。相手は武装しているのよ」
「武装って、別にわたしたちを狙ってるわけがないじゃない」面白い冗談を聞いた、というようにリーン。「それに、あのテのごついひとたちほど、見た目はとっつきにくいけど、話しかけてみると気が良いひとが多いのよ」
そして、リーンは歩みを緩めず、青年のひとりに近づいた。
青年は、剣の柄に手をおき、所在なさそうに辺りを眺めているところだった。
「おはようございます」
「え? ああ、おはよう」
男は、少し驚いたように、リーンを見返した。話しかけられるとは思っていなかったのだろう。黒い髪を短く切った、実直そうな目をした青年だった。
「あの、失礼ですけれど、聞きたいことがあるんです。これから戦争があるんですか? それとも盗賊討伐?」
リーンの物言いが率直だったためだろう、実直そうな青年は僅かに苦笑した。
「まあ、盗賊討伐みたいなものかな。この街の近くに、悪い魔術師がいるから、逮捕に向かうところさ」
「武装して?」
リーンが聞き返す。良く見れば、白色の鎧には、耐魔術の意匠が刻まれている。
そうさ、と青年は頷いた。
「なかなか手ごわい相手だからね。きちんとした準備が必要なんだよ」
「その魔術師、強いんだ?」
「まあね。あまり詳しくは言えないけれど……その魔術師は、ひとを攫うから気をつけた方がいい。お嬢ちゃんみたいに可愛い子は、特にね」
やだぁ、可愛いだなんてー、というリーンにかぶせるようにして、馬のいななき。続けて、その青年の背後から、鋭い声があがった。
「おい! ちょっとお前、この馬を押えるのを手伝ってくれ!」
リーンが話しかけていた青年が、わかったと声をあげる。
「それじゃ、教えてくれて、ありがとうございました」リーンが気をまわし、会話を終わらせるべく頭をさげた。
「あ、ああ。またね」
名残惜しそうに言う青年にまた一度会釈し、リーンは宿へと向けて歩き出した。
その一呼吸あとに、褐色の肌の少女が、小走りでリーンに追いついた。そして、ふたりは並んで立ち去っていく。
ほんの一秒間、立ち去る少女たちの背中を見送って、その青年は身を翻した。
「女の子に話し掛けらちゃいましたよ。出陣前に、なんか縁起がいいな、これは」
青年が、機嫌良さそうに体を揺らして馬のくつわを抑えた。馬は、足元を走り抜けるねずみにでも驚いただけなのか、もう平静を取り戻していた。
青年を呼んだ、もうひとりの男は、もう壮年という感じの年齢だった。その壮年が、おどけた声で注意する。
「そんなことで浮ついていると、戦場ですぐにおっ死んじまうぞ。ただでさえ、お前は準騎士から昇格したばかりで、調子に乗っているんだからな」
「それくらい、わかっていますよ」
騎士になりたてだというこの青年は口をとがらせる。
「でも、『騎士たるもの、常に心に想う姫を持てって』いうじゃないですか」
問いかけられた壮年の騎士は苦笑する。
「ああ、それは『白騎士』の言葉か。白騎士は、お前の憧れだったかな」
ええ、と騎士なりたての青年はちから強くうなづく。
「『白騎士』ラーンスロット――騎士の身でありながら卓越した魔術師、騎士の鑑でありながら7賢者に数えられる偉大な人物。ただし、もう400年以上前の偉人で、故人ですけど」
「ベルファルト王国に住む少年であれば、白騎士ラーンスロットの騎士物語は、寝る前に必ず聞いて育つもんだ。男であれば、騎士であればなおさら、『白騎士』には憧れを抱くもんさ。古いとか古くないとかは関係ない」
理解を得られて嬉しいのだろう。そうですよね、と騎士なりたての青年は満足そうにひとつ頷いて、
「我が君ジュリアス様は、まさに現在の『白騎士』ですよね。それこそ、なんでもできて……」
「……そうだな」
壮年の騎士は、少しの間をおいたのちに、口元のちょび髭を撫でつけながらうなづいた。
その頃には、馬はすっかり落ち着いていた。周囲にいる武装した男たち――彼らも同様に騎士なのだろう――も、ふたりの会話をとがめるわけでもなく、暇つぶしに耳を傾けている様子だった。
魔術師ピエトリーニャ捕縛のために派遣された騎士の一隊。実は彼らは、その隊員だった。昨晩街道町ザードリックに入り、分宿して一夜を明かした。そして、集合時刻を、こうして待っているところだった。
冷たい朝の空気を吸い込みながら、次に口を開いたのは、壮年の騎士だった。
「お前が騎士団に入団したのは、何年前だったかな」
「は?」突然の質問に、青年騎士は一瞬問い返した。「ええと、7年くらい前です」
その答えに、そうか、と壮年の騎士は頷き、そしてためらうように少しの間をおいて、声を落して語りはじめた。
「かつて、このデグラン家に、『白騎士の再来』と呼ばれた人間が居たんだ。ジュリアス様とダグラス様の弟君でな。騎士としての素質だけでなく、ベルファルト王国には珍しく魔術の素養も飛びぬけていた。若くして将来を嘱望されていたが――」
「いたが?」ふんふんと、青年騎士は続きを促す。
「10年ほど前に、初陣のときに失踪してそれきりだ。生死不明と言われているが、もうどこかで死んでいるのかもしれん」
「そんな話、初めて聞きましたよ」
意外だという表情で、青年騎士がいう。壮年の騎士は、そうだな、と相槌を打ち、解説してやる。
「武門の誉れ高いデグラン家の者が、戦場で行方不明になるというのは、家にとって不名誉なことだからな。皆も強いて触れない話題だった。知らないのも無理はない」
なるほど、と納得した表情で青年騎士は頷く。そして、
「でも、『白騎士の再来』とまで呼ばれたひとがいるのなら、会ってみたいですね。ジュリアス様よりすごいひとなんて、なんだか想像がつきませんけど」
「まあな。でも、案外、近くにいるのかもしれんぞ」
そう壮年の騎士が冗談を言うと、青年騎士は声をあげて笑った。
■□■
「はっ……くしゅっ! ……失礼、なんだか鼻がむずむずして」
くしゃみした口を押えて、黒縁眼鏡の教師は言った。そして、残ったほうの自由な手で、どうぞ、と話を先へと促した。
「それでは、説明を続けます」
説明役の騎士は、一瞬だけ中断させられた説明を再開する。宿にある一室。会議にも使えるようなそこそこ広い部屋で、黒縁眼鏡の教師と、樺色の髪の女性が、説明役の騎士から話を聞いている。淡々とした説明で、騎士にも取り立てて特徴はない。
その特徴がないのが特徴の騎士は、台の上にある様々な器具を手で示した。
「勝手とは思いましたが、こちらで武器をご用意させていただきました。使えそうな魔術器具をいくつか見繕っておきましたので、ご自由にお使いください。使うものを選ばれましたら、階下の大部屋までお越しください。ジュリアス様が、出発前に打ち合わせをしたいとの言伝です」
黒縁眼鏡の教師と、その隣に立っていた樺色の髪の女性とがそれぞれ頷いた。意図が伝わったらしいことに満足したのか、ただの愛想なのか、特徴なき説明役の騎士は微笑すると、それではと一礼して部屋を出て行った。
閉じられた扉と、残された静寂。部屋の空気は静かな堅さ。
窓からは、朝の光が差し込んでいる。
「では、お言葉に甘えて、選ばせてもらいましょうか」
そう言って自然に微笑んだエマ教師に、アッシアは頷く。
紫の布の上に並べられた魔術器具を物色するために身をひるがえした彼女を、追うように自らも台へと向かいながら、アッシアは、エマの後ろ姿を眺める。
昨晩、同じ宿に宿泊したのだが、結局、アッシアはエマと会うこともなく一晩を過ごした。今朝になってようやく、案内の騎士に導かれて、アッシアは彼女と合流した。だから、ふたりの間には、今のところ打ち合わせも情報交換も何もない。
エマは、これからの戦闘を想定しているのだろう、いつもの教師用のローブではなく、動きやすそうな軍服のような服を着ていた。いかにもおろしたてという、糊の効いた薄紅色の上着には、よく見れば耐魔術の刺繍もされている。髪も、いつもの肩に流す髪型ではなく、動きの邪魔にならないようにひとつに束ねられている。束ねられた髪は後ろ頭のところで花弁のように広がって、わずかに揺れていた。
凛とした彼女の立ち姿が素晴らしく決まっていたので、アッシアは何か誉める言葉を探したが、気の利いた言葉は見つからず。
そして、ほんの数歩の距離と時間を消費してしまって、器具が並べられている台に辿り着いた。
結局、何もエマに伝えることができないまま、アッシアは台の上の魔術器具を物色し始めた。
魔術器具は形状も大きさも色形も、すべて様々に作ることができる。杖の形状をしたもの、衣服の形状をしたもの、指輪などの装身具の形状をしたもの。その形状と効果の種類の豊かさからか、魔術器具の蒐集家もこの世界には存在する。もちろん、この手の器具は基本的に高額であるため、一部の金満家しか、そういうことはできないのだが。
たまたま手に取ったつやつやとした魔術器具に、昨晩出会った懐かしい顔が幻として映る。
几帳面な泣きぼくろの騎士、ジーク。彼のことを思い出しながら、アッシアは次の魔術器具と手に取る。そして器具を見るともなしに、ぼんやりと考える。やはり自分は、あの騎士に恨まれているのだろうか。それはもちろんそうだろう。いやしかし、過去についてはもう恨んではいないようなことを、ジークは言っていた。だが、どうしたらいいのかわからない、とも言っていた――。
どうしていいかわからないのは、アッシアの方としても同じだった。
(また、会う機会があるかな……でも、そのときはどうしたらいい?)
頭の片隅でそんなことを考えていても、結論は出そうにもなかった。そういえば目の前のことにも集中しなければならないな、などと自戒半分に思いながら、アッシアは溜め息混じりに言った。戦場で集中を欠くものは死ぬ。
「――良いものばかりですね」
「ええ。ここにある魔術器具は、一級品ばかりです」
驚きを含んだ声で応えたのはエマだった。手の中のワンドを顔の近くに持ち上げて、丹念に観察している。魔術器具に彫り込まれている文様を読み取っているのだろう。
魔術器具とは、その名の通り、魔術に関わる道具の総称だ。正確には、魔術補助器具と言われる。
魔術補助器具は、人間が自分で文様を描画するのと違って、たった一種類の文様しか描けない。しかし、意識して文様を描こうとしなくても、とにかく器具に魔力を注げば文様が現れる。それが大きな利点だった。
まず、魔力を注げばいいだけだから、文様の生成が早い。そして、技量が足りない者でも、補助器具で補うことで高度な魔術が使える。さらに、とっさの場合や、集中力に欠ける事態になっても、補助器具を使えば、素早くかつ正確に文様が描ける。訓練と違って、正常な状態でいることばかりが想定されるわけではない戦場では、魔術補助器具は、命綱にも等しくなる。
だから、魔術師は、魔術器具を武器として持ち、戦場に出る。魔術師ひとりひとりに得意な魔術があり、戦い方がある。そして必ず、それぞれの戦い方に最も合った魔術器具を選ぶ。
ほんのわずかな魔術威力の差が、まばたきほどの魔術生成時間の差が、戦場では死に繋がる。自分の生存率を少しでも高めるために、どんな効果の魔術器具を選ぶのかは、とても重要なことだった。
「私は、これにすることにします」
エマ教師は、いくつかある魔術器具のうちから、白色の短いワンドを拾い上げた。女性の肘先から指先までほどの長さで、柄は節くれだった形状に加工されており、杖先に青色をした拳大の玉がついている。
「射程拡張の補助器具――ですね」
アッシアが指摘すると、エマは頷いた。
彼女は手に馴染ませるかのように何度も柄を握り直し、感触を確かめる。そして、すっと腕を伸ばして、白い光が飛び込んできている窓へ、ワンドを向けた。
エマ教師がワンドに魔力を注いだその瞬間、杖先に紅色の魔術文様がさっと現れる。
魔術をより遠く、またはより広く届けるための射程拡張の文様だ。
これを、何かの魔術――たとえば、熱衝撃波の魔術――などと組み合わせて使うのだろう。
何度か魔術を注ぎ文様を描画して、器具に不具合がないことを確かめて、エマはそのワンドを片手にしたまま腕をおろした。そして、アッシア教師へと何かを待つような視線を投げる。「貴方はどうします?」といったように。
アッシア教師は、台の中央に置かれた、細かな模様細工がついた、銀色の腕輪を手に取った。
「僕は――これにします」
右手に持たれた腕輪が、ちらりと朝陽を反射する。
実を言えば、アッシアの心の中では、使う武器はもう決まっていた。
彼が望む魔術文様を描画できる魔術器具は、用意された中ではこれしかなかったためだ。
「それ……ですか」
黒縁眼鏡の教師の選択を見て。
エマは困惑したように、形の良い眉を寄せた。
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