5.『白外套の女性』





 朝の食堂に降りてきてみたが、目当ての人物はいなかった。
 窓から差し込む日差しが、段々と強くなってきていた。朝の涼気も少しずつ温まり、これから一日が始まるという活気が出てきている。
 手摺に手をおきながら、ゆっくりと階段を降りてきたパットは、改めて宿の食堂を見渡した。さほど広くない空間に、4人が座れる大きさの机が6つ並べられている。ちらほらと客もいた。
(ヴァルもリーンも、まだ起きてないのかな)
 思いながら、パットは自由に飲めるようになっている果実汁のポットのところへ向かい、その中身をグラスに注ぐ。行儀悪くその場で口をつけながら、空いている席へと歩き、腰を降ろす。ぼんやりと続きを飲んでいると、斜め前に座っている、隣の席の人物が立てて読んでいる新聞の見出しが目に入った。
『怪奇! 嵐の夜のひとさらい』
 どうやらゴシップ新聞らしい。少し読みにくかったが、見出しに興味を引かれたので、パットは新聞の内容をその場から読み取ることにした。新聞を読んでいる女性は、姿が隠れるほどに新聞を広げて立てているため、パットが盗み読みをしていることに気がつかないだろう。新聞を読んでいる人物が女性だとわかったのは、新聞の端から、よく手入れされた爪がついた、わりとほっそりした指がのぞいているからだった。

 さて、記事によれば。
 平和な街道町にしか見えないここザードリック近辺で、誘拐事件が多発しているらしい。だが不思議なことは、誘拐されたときからさほど日をおかずに、嵐が発生しているということだ。これは熱心なある新聞記者の独自調査によってわかった事実で、関連性は未だ不明。だがそれよりも、誘拐事件を沈静化することが急務であり、犯行者と思われる魔術師を捕まえないのは、当局の怠慢だという批判が続いていた。
 そして、批判のあと、申し訳程度に、当局が1000名の大隊で魔術師の逮捕に乗り出す噂があるとの一文が付け加えられていた。
 そのあとは、この前騎士団宿舎近くを通ったら暇そうにしていた騎士や昼間から眠そうにしていた騎士がいたことなど、騎士のささやかな日常と当局を少しずつすり替えながら批判する文章が、つらつらと2段落に渡って続き、『我々の治安を預かる者の、このような態度を許しておいてよいのか。いや、よいはずがないと――そう私は信じている』という熱血的な文句で終わっている。
(昼間から眠そうだった奴って、夜勤明けの非番だったんじゃないの?)
 寝ぼけまなこで果実汁を喉から胃に落としながら、パットはそんな感想を持った。
 批判だけなら誰でもできる。そしてここで、考え方は2種類に分かれる。たとえ誰でもできることだろうと、おおっぴらに批判を投げかけ、世間に問いを示すことに価値があると信じる人間は、批判する側にまわる。そして、ただ批判するだけでは意味が無いと感じる人間は、実際に何かを為す側にまわる。
 だが、批判する者は必然的に無責任であり続け、実行する者は、やがて批判される側に立ち、責められる。どちらが得か、どちらがまともかは、判断するひとの価値観次第なのだろう。

(まあ、どっちも必要なのは間違いないんだろうしさ。それに、こんなこと深く考えたって、僕が得するわけでもないし?)
 早起きをすると腹が減る。正常な要求をしはじめた胃のあたりをくるりと撫でまわして、パットは今日の朝食はなんだろうと思ったそのとき。向かいの女性も読み終わったのか、がさりと新聞を折りたたんだ。
 顔が見えて、おっ、とパットは意識を集中する。
 まなじりが深い、切れ長の目。白い肌に高い鼻梁。紅い唇。髪は、もとは黒髪なのだろうが、一部茶色に染められていた。
 美人だ、とパットは思う。
 向かいの美人は、新聞で隠れていたティカップを持ち上げ、口に運んだ。その様子を見るとはなしに、パットは横目で観察を続ける。
 女性は、少し変わった服装をしていた。フード付きの長い白外套を羽織っている。おそらく、フードをかぶれば、全身が白いマントに隠れてしまうだろう。季節は夏、半袖の軽装でしかないパットから見て、少し、というよりもかなり、奇妙な格好だった。そして年の頃は、少なくともパットよりもひとまわり上に見えた。
(しかし、まったく問題なし)
 年上好みは、パットの周りの友人たちの中では少数派だが、個人の好みが多数決で決まるわけもない。彼はあくまでも自分の趣味と本能に忠実だった。
「おはようございます」
 目があったほんの一瞬、パットは声をかけた。
「あ、ああ……おはよう」
 低血圧でまだ意識がはっきりしていないのか、何か考え事をしていたのかわからないが、まるで急に現実に引き戻されたかのように、女性は挨拶を返した。少し低い声だ。
「いい朝ですね。この街へは、旅行ですか?」
 パットの問いに、女性は半分口ごもって、
「旅行……とは少し違うけれど、まあそんなようなものだね」
「旅行みたいなもの! 奇遇ですね、僕もそんな感じなんですよ。というのは、半分は確かに観光なんですけど、もう半分は、ここだけの話ですけどね。非道な妹に、無理矢理さらわれて来たんですよ」
 話を簡単にするために、パットは、リーンを妹とすることにした。
 どうせそんなに変わらない。
「無理矢理さらわれた……って、おおげさだねぇ。腕ずくってわけでもないだろうにさ」
「それが、腕ずくなんですよ。最近、そういう荒事が得意な友達が、非道な妹にできたんです。その友達と妹が結託して、僕を気絶させたうえに荒縄でぐるぐる巻きにして、馬車に放り込んだんです。そのうえで、ふたりの旅行についてくるよう脅してきたんですよ。
 僕としては、馬車に乗っているから旅行はほぼ既成事実になっているから、要求を飲むしかない状況に陥ってしまったんです。信じられます? 信じられない。まあ、そうでしょうね。でも、本当の話なんですよ、これ。恐ろしいことに」
「ふーん」
 女性はまったく信じた様子はなかったが、パットのことを面白い少年と認識したようだった。興味のこもった視線を投げかける。
「お姉さまはどうしてここへ? 半分は旅行ということは、もう半分は何か用で? 仕事とか? それとも、誰かに会うとか」
「仕事、か。そんなところだね」
「なんのお仕事です?」
「説明が難しいから、詳しくは言えないけどね。でも、くだらない仕事だよ。そうさね、今は名誉挽回のための、まだ仕込みの段階ってとこさ」
「仕込み。仕込みは大事ですよね。やっぱり下準備ってのがしっかりしていないと、思わぬところで失敗してしまいますからね」
「まったくその通りだよ。ケチってのは、思わぬところからついてくるもんなんだよねぇ。恥ずかしい話だけど、少し前に、どこの誰とも知らない奴に邪魔されて、ヘマやっちまってねぇ。危うく、雇い主に契約破棄されるところだったんだ。頼みこんでなんとか白紙撤回は免れたけど、減点は大きいからねぇ。無報酬でも、ちょっと恩を売って、アタシたちが使えるってことをアピールしとかないと」
 染められた髪をかきあげるようにして、女性は艶やかな唇をへの字に曲げた。
「アタシたち……ってことは、他にも仕事仲間がいるわけですか?」
「ああ。出来の悪い部下がふたりね。でも、今回は連れてきてない。アイツらには、向かない仕事だから」
 そこで、女性は煙草の箱を取り出して、「いい?」とでも言うように、箱を振ってみせた。
 どうぞ、とパットが促すと、女性はマッチを擦って紙巻煙草に火をつけた。
 苦く甘い香りがあたりに漂う。
 手近にあった灰皿を取って、パットは女性の前へと差し出す。
 ふぅっと煙を吐き出しながら、女性はにやりと笑った。
「気が利くね。あいつらも、坊やぐらいに気が利いたらいいんだけどねぇ」
「僕で良ければ、お手伝いしましょうか? お姉さまの仕事」
 赤毛の少年の言葉をもちろん冗談と受け取ったのだろう。女性は短く笑った。
 そしてパットも笑った、そのとき。
 からん、と鈴が鳴る音がして、宿の入り口の扉が開いた。
 音のしたほうを肩越しにちらりと見て、パットはちろりと舌を出す。
「非道な妹のご帰還だ」

「あれぇ? 起きてたんだパット。自分から早起きなんて、めっずらしー」
 とかとかとか、と木造の床に無邪気な足音を響かせて、非道な妹リーンは、パットたちのほうへと真っ直ぐ歩いていった。
「早起きが珍しいのは、お互いさまだろ」
 卓に肘をつきながら、赤毛の少年が軽く毒付く。このくらいのやりとりは、いつものことだ。
 その赤毛の少年の言葉に言い返す直前、少し息を吸ったところで、リーンは、パットの奥に座る女性に気がついた。
 薄手の白外套をまとった、紫煙の中の女性。煙草を片手に椅子に腰掛けるその女性もまた、リーンを見ていた。
 リーンは何かがひっかかって、首を傾げた。まだ結っていない黒髪が、彼女の肩の後ろでゆらと揺れた。
「……あれ。失礼ですけど、どこかでお会いしたことがありませんでしたっけ?」
「んー、確かにそんな気も……」
 白外套の女性は言いかけて、しかし突然、強く首をぶんぶんと振った。
「いやいやいや! ひと違い! アタシの勘違いだったよ」
「え、でも……」
 納得しかねているリーンをさし置いて、女性は吸いさしの煙草を灰皿に押し付けると、白外套をひらとはためかせて立ち上がった。
「それじゃ! アタシは仕事があるからさ、ホント!」
 早足なのに足音も立てずに、女性はさほど広くない宿の食堂を横切って、ちょうど一足違いで宿に戻ってきたばかりの褐色の肌の少女――ヴァルだ――と擦れ違って、宿の入り口から外へ出て行く。
 閉じられてしまった宿の扉を眺めて、パットは、あーあとため息をつく。
「名前ぐらいは聞けそうだったのになぁ」
「あんたねー。旅先に来てまで女の人に声をかけるの、やめなさいよ。恥ずかしい思いをするのは、身内なのよ」
 呆れたリーンの声。
「旅先だからこそ、声をかけるんだろ。恋の嵐はいつも突然に、だ」
「はいはい」
 拳を掲げ、ちから強く主張するパット。しかしリーンはまともに取り合わずに、ただ肩をすくめた。



                         ■□■



 大きな窓を背にして、ジュリアス=デグランは立っていた。
 朝陽に銀髪を透かせて立つこの優男は、名家デグラン家の長男であり、7賢者のひとりであるピエトリーニャ逮捕の実動部隊の指揮官であり、名将との評価も受ける才気の持ち主でもある。
 部屋の中央に置かれた大きな卓の上に引かれた一枚の地図。それに鉛筆で手早くいくつかの文字を書き込んでいく。そして、みっつめの文を書き終えたのちに、彼は顔をあげた。
「――来たか」
 彼はかけていた縁なしの眼鏡を外し、客分を迎えるために微笑んでみせる。だがさすがに指揮官の顔は隠せず、すぐに厳しい表情に戻る。
 おはようございます、とエマは普通に挨拶をした。
 非常時だからといって、別に特別な挨拶があるわけもない。
 そんなくだらないことを思って、彼女は心の中で少し笑った。
「僕らに用事だと聞いたが、ジュリアス?」
 そう言ったのは、エマの隣に立つ黒縁眼鏡の教師だった。彼は黒いローブを纏い、その上に簡易的な耐魔術加工がなされた皮製の胸当てをつけている。右腕の裾から、拳を覆う仕様の銀色が覗いている。先ほど借りた、腕輪型の魔術器具だ。
「直前の作戦会議だと思ったけれど、どうやら違うみたいだね?」
 黒縁眼鏡のアッシアは、そう言って周囲を見渡す。広い部屋には、ジュリアス以外の士官はいなかった。作戦会議であれば、小隊長級の人間が何人かいるはずだった。しかし。
「いや、その認識で間違っていない」淡々と、ジュリアス。「ただ、会議するほど複雑な戦況にないのでな。ただこちらの作戦を伝えて終わろうと思う」
「わかりました」
 素直にエマは頷く。アッシアも特に異論はなさそうだった。
「まず、こちらの戦力は一個中隊、102名。全員が戦闘員だ。マルナナサンマル――0730にザードリックを出発し、東へ馬で移動する」
 そこで、ジュリアスは長い指を地図のうえにとん、と置いた。その指を真っ直ぐに山地へと動かす。
「移動距離はおよそ300,000ヘート。途中から山岳地帯に入るため、行軍速度は落ち、また敵による妨害が予想される。目的地到着予測時刻は、1030。そのまま捕縛活動に入り、目標確保予定時刻は1200。敵の戦力は不明。ここまでで何か質問は?」
「敵の戦力が不明、というのはどういうことです?」
 間髪いれずのエマの質問に、もっともだとジュリアスは頷く。アッシアに対していたときとは口調を変えて、説明する。
「ピエトリーニャには、支援者が多い。個人的な出資はともかく、地方領主や国家にもつながりが見られます。その資金を使えば、戦闘力を購うことは容易いことです。たとえば、傭兵を雇うとか、その辺の盗賊を雇って手足にするとか。
 ひょっとしたら、国家そのものから、人員の支援を受けていることも考えられます」
「そのあたりの情報は、無いのですか?」
 落ち着いたエマの声。非難するのではない、ニュートラルな響きだ。ジュリアスもまた、まるで他人事かと思えるほどに落ち着いて説明する。
「いずれも裏の繋がりだから、確報といえるほどのものはありません。ひとつの国家とても一枚岩ではなく、ある党派はピエトリーニャを嫌い、また逆に肩入れしたりもする。関係図はとても複雑で、ひとつの事実を確認するのも容易じゃない」
 しかし、とジュリアスは素早く言葉を継ぐ。
「たいした人数を集めていないことだけはわかります。大きな人数を動かせばそれだけで目立つし、新規に集めようとすれば時間もカネもかかる。恐らく、ピエトリーニャは魔術師の精鋭を揃えてこちらを迎え撃つつもりでしょう」
「何故、ピエトリーニャが揃えている戦力が、魔術師の精鋭だと?」重ねて、エマ。
「それが一番合理的だからです。魔術師は、少人数でも大きな破壊力を出せる。うまい戦術をとれば、1部隊を壊滅させることもできる。目立たぬようにかつ手早く戦力を集めようと思えば、魔術師の精鋭を集めるのが一番てっとり早い。
 それに、これが一番大きな理由ですが――ピエトリーニャ自身、魔術師に対してコネクションが効く。優れた魔術師は、魔術師の世界で特に高名になる」
 肩をすくめ、ジュリアスは苦笑した。説明を続ける。
「ところで、明朝昼過ぎに、愚弟のダグラスが兵1000名を率いて、この街に入ることになっています」
「第二陣にしては数が多いですね。そちらが本隊になるのですか?」
 エマが首を傾げて聞いた。
 すると、ジュリアスは何かを含むように微笑した。
「きっと、ピエトリーニャもそう思うでしょうね。――そして、明日到着するダグラスの軍に対して、備えをしているはずです。我々など、ただの先遣隊だとしかみないでしょう」
 にこやかな微笑みの影に、人の悪そうな匂いがちらつく。銀髪の指揮官の筋が通らない言葉に、今まで質問をしていたエマは、困惑したように、かすかに表情を曇らせる。後発の1000名の部隊が本命ならば、たった今説明された、これから行う作戦は無駄ということなのか。この困惑を解消するために、指揮官の言葉の意味を考えるべく、エマは頭の回転速度をあげる。ほんのもう少し手を伸ばせれば、答えにたどりつけそうだったが、しかし。
「そうか、陽動か……」
 わかった、というように呟いたのはアッシアだった。彼の方が、一瞬早く答えにたどりついた。自分の中に出た答えを確認するように、彼は呟きを続ける。
「ダグラスはおとりか。僕らの部隊が、本命なんだな」
「その通り」
 銀髪の指揮官は、満足げに頷いた。
「人の目は、数が多い方に向くものだ。敵がダグラスの部隊に気を取られているその隙をつき、我々が急襲をかける、という脚本だよ。――さて、作戦は以上だが、他に質問はあるか?」
 ゆったりとした動きで、ジュリアスが腕を組む。得意げにも見える銀髪の男の背に当たる朝日は、ますます輝きを強めていた。