6.『ざわめき』






 食材屋の角を折れて裏路地へ。
 白外套の女は、街道町の路地を大股で歩いていた。路地から路地へ早足で抜けていくその姿には、かすかないらだちが見えなくもない。
 縁起でもない――、とフードを目深にかぶった白外套の女は思っていた。思考の半分以上をそのことに費やす。
 それほど悪くはない、一日の始まりだったのだ。宿屋で濃いめに入れた朝のコーヒーを飲んで、わりと面白い赤毛の少年と話をして、煙草を一服して。
 それなのに。
 雇い主に解雇されそうになった、この前の仕事。その仕事のときに邪魔をしてきた奴に、たった今、宿屋で会った。――あの、小憎たらしい、しっぽ娘。
 それも、また偶然に出会ったのだ。
 あの小娘とは、なにか因果があるというのか。
 占いのたぐいは嫌いじゃない。今回の仕事も失敗するんじゃないかという嫌な予感が、女の胸をおそったが、ただの予感で仕事をパスできるほどに、優雅な身分にはない。そういう自覚が白外套の女にはあった。商売は信用第一、小さな仕事でもこつこつと。
 でもいつかは、こんな風に、陽射が強くて日焼けが心配だったりする日や、また雨が降って寒い日には、仕事をお休みできるような王様商売をしてみたい。っていうか、する。王様商売やってやる。
 愚痴が気合いに変わって、仕事に向けて気持ちも乗ってきたところで、彼女はまた細い路地を右に折れる。
 そしてそこで、見たことのある人物に会った。
 人の目を避けるように、日陰で壁にもたれている。
 朝の雰囲気にはどうもそぐわない、いかにも夜行性的な男。
 前髪が長いためによく顔は見えないが、彼の頬にはっきりと残る刀傷は、一度見たら忘れられない。
 女と同業ではないが、競業者だった――要は、仕事を取りあっているのだ。
 どうやらその男も、白外套の女を覚えていたようで、目が合ったところで口元だけかすかに動かして笑ってみせた。
(ちっ、嫌なやつに会ったよ)
 白外套の女は思った。そしてその感想が間違っていないことを、男はすぐに証明してくれた。
 頬に刀傷の男は、嘲笑の類の笑みを、その陰気な顔に貼り付けて、街の裏路地を歩く女に向けて言った。
「なんだ、お前、まだこんなところにいたのか。とっととどこぞに消え去ればいいだろうに」
 無視して立ち過ぎても良かったが、どっこい白外套の女も口が悪い。それが生まれつきなのか、育ちのせいなのかはわからないが。
「お生憎だね。『旦那』から、今回の件の諜報活動の許可はもらってあるんだよ、あんたと同じようにね。どうやら、旦那は諜報をあんただけに任せるのは不安みたいだねぇ。つまり、あんただって、『旦那』にあんまり信用されていないってことさ」
 癪に障ったのだろう、頬に刀傷の男は、長い前髪の陰に隠れている表情を深く歪ませた。女のほうへと顔を寄せて、すごむ。
「魔術もろくに扱えない、盗賊風情が。『あのお方』は、巨大で深遠だ。お前ごときがあのお方の心情に迫れるものか。わかった風な口を効くもんじゃない」
「そういうことを言うってことは、あんたにも、あの旦那のお心がわかっていないってことだね?」
 挑発のしどころはわかっているが、あまり無意味な挑発は賢くない、と白外套の女は思った。
 刀傷の男は、言葉には出してこないが、湧き上がる憤怒をこらえている。いや、殺意を抑えているというのが正確か。
 だが、白外套の女にも、それなりに場数があるのだ。喧嘩をしたら勝ち目はないと思いながらも、少なくとも表面上は平静に、男を見返していた。
 そして、この男に関する情報を思い出す。
 フレッチ――そう、この男は確かそんな名前だった。家名は忘れた。
 こんな陰気な男だが、れっきとした魔術師だ。どこぞの王立魔術学校で優秀な成績を修めながらも、刃傷沙汰を起こして放校処分。そして裏社会に身を投じて、十余年。現在に至るわけだ。絵に描いたような転落人生、といえば言い過ぎだろうか。

 睨み合う視線を緩めることはなかったが、白外套の女は、胸中で溜め息をついた。行きずりで喧嘩を起こしても仕方がない。
「……ここは、取り敢えずお互い退こうじゃないかい。それで、お互いがそれぞれ自分の仕事をこなす。いまここで潰しあっても得はないし、それに――『駒が、駒として役割を果たさない』ってのは、旦那がもっとも嫌うことだろ?」
「いいだろう」少し間をおいたあとに、フレッチは頷いた。しかし、女に向けた粘りつくような殺意を、放ち続けることはやめなかった。「しかし、いつまでも自分の身が安泰だなどと、思わないことだ。お前のような女盗賊ひとり、いつでも消せる」
 フレッチの脅し文句を、白外套の女は背中で聞いた。
 高くも安くもない。標準的な値段の捨て台詞だと思った。
 そして彼女は、自分の仕事をこなすために、ヒールで地面を蹴りつつ、またザードリックの細路地を進んだ。
 女が立ち去ったのち、フレッチだけがその場に残る。
「諜報活動だけ、だと? 俺は――もっと『あのお方』の役に立てる実力がある。それを、わからせてやるよ」
 フレッチは刀傷が残る頬を歪めて、酷薄な笑みを浮かべた。



                         ■□■



 その麗人は、颯爽と馬にまたがった。
 すっと自然にまっすぐ伸ばした背筋。景色を映す落ち着いたブラウンの瞳。
 真っ青な空の背景と、足のしまった栗毛の馬。
 彼女は、いつもはただ流している樺色の髪を今日は頭頂でまとめ、独自の軍服に身を包み、慣れた手つきで手綱を握っている。そんな彼女の凛とした雰囲気を感じているのか、馬も従順に、しかし駆け出す準備は万全だというように、時折りひづめで土をひっかく。
「どう、どう。そう、良い子ね」
 エマ=フロックハートは、鞍の上から馬をなだめ、手綱を微かに操った。のぼり始めた太陽の光が、彼女の髪を透かす。まるで燃えているかのような緋色。その鮮やかな緋色は、彼女を彼女たらしめていたし、周囲の視線をまとめて釘付けにしていた。
「お上手ですね」
 あながちお世辞とはいえない賛辞を述べたのは、同じく既に騎上のひととなっていたジュリアスだった。銀髪に白銀の鎧、そして白馬を駆り、まるで物語に出てくるような将のいでたちだった。

 緋色の佳人の魔術師と、銀色の白馬の将。

 このふたりが、晴れた空と付き従う騎士たちを背景に、会話を交わす姿は、まるで物語の一枚絵のようであり、画家がひとり居れば、この場に居合わせたことが一生の幸運だと確信できるような、美しく物語的な場面だった。
 ただ、そんな場面に入り込める役者というのは限られる。よほど良い役者でなければ、この完成された場を壊さずに立ち回ることは難しい。だから、まるで間抜けな道化のような役回りになってしまった彼を、一概に責めることは酷なのだろうが。
「馬に乗るなんて、久しぶりだな」
 いつもの黒縁眼鏡、いつもの黒髪。黒のローブと皮の胸当て。
 意外と、と言っては失礼かもしれないが、上手に馬を乗りこなすアッシアだったが、先のふたりと較べると、どうしても見劣りしてしまう。手綱さばきの話ではない。純粋に、見てくれの話だ。地味な黒一色に、安っぽい皮の胸当てがついた格好。右腕の袖から覗く借り物の銀色の腕輪だけは鮮やかだったが、逆にそれが浮いていて、まるで、貧乏な傭兵風情――この風情という言葉がとても似合う――のように見えてしまっていた。
 そして極めつけは、アッシアの乗る馬の鞍には、金色の目の黒猫がちょこんとまたがっていることだった。賢くてとても役に立つ猫だから連れて行きたいと、アッシアが指揮官であるジュリアスへ説明し、エマが懇願した結果だった。
 頼みを受けた銀髪のジュリアスは、この奇妙な依頼にかなり困惑したようだったが、黒猫が自ら馬の鞍へとよじ登り、自分の体に落下防止の紐を自分でまきつけるのを見ると、
「連れて行くのは構わんが、あとは自己責任でな」
 という言葉だけを残して、それ以上は追及しなかった。明敏な銀髪の将は、どうやら黒猫については深く関わらない方が良いと直感したらしかった。大勢に影響がなければ、面倒事にはかかわらないほうが得策と判断したのだろう。
 そんなわけで、アッシアは貧乏くさい格好で、しかも黒猫と一緒に、馬にまたがっている。それでいて、役回り上で仕方がないにしろ、佳人の魔術師や白馬の将と並ぶものだから、珍妙さはさらに倍。周囲の騎士たちが、そんな黒縁眼鏡のお手伝い魔術師の姿を目にして、こみあげる笑いをこらえるのにひと苦労するのも、無理からぬことだった。

 ザードリックの街に分宿していた騎士たちは、郊外の荒地へと集結していた。
 100名を越える人馬の集合となればそれなりに時間がかかるが、さすがは訓練されている騎士たち、予定時刻よりも早く集結を終えた。ジュリアスが率いる騎士一個中隊は、これから街を出て、ピエトリーニャの隠れ家がある山地へと向かう。
 行動予定は既に各隊員へ徹底されているので、騎士たちは指示を待つまでもなく、騎行のための2列縦隊、その前段階として、方陣を作り始めていた。指揮官のジュリアスは中央に位置し、全体を把握する。その指揮官に、アッシアとエマの客分魔術師が従って、助言や魔術行動を行う予定だった。
 まるで団体がひとつの意志でも持っているかのように、整然と隊列を整える騎士たちの中にあって、エマは緊張にうっすらと汗ばむ手で、手綱を握り直した。
 これから始まる危険がどの程度のものか、はっきりとつかむことはできない。けれども、やり遂げなくてはならないと彼女は思う。
(うまくいけば、奇術師ピエトリーニャに直接会うこともできる)
 斜め前、黒縁眼鏡の教師が乗る馬には、黒猫が一緒に乗っている。
 旧知のレイレンを名乗る黒猫が。
 ちらりと見えたその黒い小さな後ろ姿を、エマは瞼の裏に残像のように残したまま、静かに馬上で体を揺らす。

 黒猫を人間に戻すためには、情報が圧倒的に足りない。
 どうやって彼を黒猫に変えたのか。
 どんな原理の魔術を使ったのか。
 また、なぜそんなことをしたのか。
 糸口すら、つかめていない。ただある手がかりは、『奇術師ピエトリーニャ』の名前だけ。

 その奇術師に関わる情報を手に入れるために、ほとんど勢いだけで、エマは、彼女にとって外国になるベルファルト王国にまで来た。
 ジュリアス=デグランが学院を訪れたのは、運命かと思えるほどの、とてつもない偶然だった。ピエトリーニャの情報を得ることすら困難だと思っていたのに、今、こうして伝説の奇術師を捕縛に向かう一隊のなかにいる。
 自分は――過去にとらわれ過ぎではないだろうか。
 ふと、そんなことをエマは思った。
 過去とは、「かつて」だ。かつてあった出来事、体験したこと、状態。もはや過ぎたはずのことなのに、まだこだわっている。自分の場合は――レイレンのことか。
 でも、過ぎたことだとしても、すぐに色あせることもない。むしろ、過ぎてしまったからこそ、現在のことよりも一層まばゆく色鮮やかに輝くものだってある。
 どこまでこだわるか、という問題なのだろう。現在と過去とを秤にかけて、まだ過去の方が価値があると思うから、こだわり続けている。こうして多くの時間を割いて、自分の身を危険にさらしてまで。そうまでする価値があると自分は信じているけれど、でも、冷静な客観的な視点から見て、そういう風にこだわる自分は、バランスを保っていると言えるだろうか?
 自分自身に問いかけ、そして思わずくすりと笑う。
 バランスが良いなんて決して言えない。けれど、それを選択したのは自分自身――。
 熱望するようにして、レイレンを助けることを選択したのだ。
 みっともないほど過去に執着していることを、彼女は静かに自覚した。けれどしかし、どこか快い気持ちで。

(きっと、成功する)
 予感と期待を相半ばさせて、エマは自分に言い聞かせる。あぶみに力を入れて、背筋を伸ばす。そして目の前に広がる荒野の地平を見つめた。百余騎が立てる土埃で、視界は悪くなりつつあった。走り出せば、土埃はもっとひどくなるだろう。
 知らず不安な気持ちになっていたのか、エマは、自分でも気がつかないうちに、腰の帯にはさんだ得物へと手を伸ばしていた。節くれだった柄のワンド。魔術拡張の文様を描くことができる魔術器具だ。ジュリアス=デグランの好意で借り受けたものだが、これが、これから先、エマの身を護る武器になる。
 手触りを確認しその存在を確かめていたそのとき、風が一瞬だけ強く吹き、地面の土埃を舞い上げた。
 エマは埃が入らないように目を細め、腕で顔を覆う。巻き上げられた細かい土粒が、頬にぶつかってくるのを感じた。
 すぐ前方で手綱を取るアッシア教師も、隣に並ぶ銀髪の指揮官との会話を中断して、右腕で顔を覆うようにしていた。土風に吹かれる後姿、魔術器具の銀色の腕輪が、ローブの袖からのぞいている。その腕輪も、ジュリアス=デグランから借りたものだった。
 そういえば、アッシア教師は変わった選択をしていたのだと、その腕輪を見てエマは思い出した。今朝、宿を出発する前に、数ある武器の中から好きに選んで良いと言われてアッシア教師が選んだのは、あの銀の腕輪。「魔術発動の文様」を描くことができる、腕輪だった。
 通常、魔術の発動は、呪文による。
 文様で作り上げた魔術の効果を、発現させる起爆薬となるのが呪文だ。呪文を唱えるのは簡単だ。言霊を――つまりは気持ちをこめて、言葉を叫べばそれで済む。
 だがしかし、呪文の代わりをさせることができる、特殊な魔術文様がある。
 それが、魔術発動の文様だ。
 魔術発動の文様は、多層式でとても煩雑なものになる。にもかかわらず、呪文の代わりの効果しかないので、学者の研究対象になることはあっても、実戦で使われることはほとんどない。何かしらの、声が出せない状況が想定されるのならば、別であるが……。
 声が出せない状態というのは、たとえば、海戦や、大河での戦闘のときに、水没した場合が考えられる。また、隠密行動するときも当てはまりそうな気がするが、実は魔術師は隠密行動に向かないため、そういう役割に割り当てられることは少ない。なぜなら、そもそも魔術は効果が派手で目立つし、さらに魔術文様自体が発光するため、暗闇ではとても目立つ。だから、隠密行動をさせるのならば、普通に密偵や暗殺屋を使う。
 声が出せない状況でしか役に立たない、用途がとても限られた文様。それが、魔術発動の文様なのだ。
 その限られた用途でしかない――はっきり言えば使えないと思われる――文様効果の武器を、何故わざわざ選んだのか。
 アッシア教師に尋ねようと思っていて、忘れていたままになっていたと、エマは今更ながら思い出した。
 聞こうと思えば聞けないこともなかったけれど――。
(わざわざ今、聞くようなことでもないわね)
 苦笑して、エマは軽く手綱を引く。乗っている栗毛の馬が、興奮にその場で足掻くように足踏みをした。きっと、その場の緊張を敏感に感じ取っているのだろう。

 騎士たちの整列はまもなく終わる。
 痛いくらいに空気は張り詰めている。
 金属同士が触れ合うざわめき。
 栗毛の馬は、蹄鉄で乾いた荒地をしきりにひっかく。
 張り詰めた時もゆったりとした時も、時計の針は変わらぬ速度で進んでいく。
 出発の時刻は、もう間も無くだった。